おてくさんと木佐野【蝶毒 しばゆり】
- Ships within 7 days1 left in stockShips by Anshin-BOOTH-PackPhysical (direct)300 JPY
About Gift


2013年10月14日発行。32頁。 斯波さんと百合子さんが浅草にオペラを観に行く話。当時の実在の女優が登場するので、苦手な方はお気を付けください。
本文サンプル
大正七年、十二月八日。 年の瀬が近づいてきた。今年の冬はめっぽう寒い。主とその奥方を相次いで、しかものっぴきならない状況で失った野宮家の屋敷内は外気に負けぬぐらい、寒々しいはず……だった。斯波という男がいなければ。 名門華族ではあるが、実態は借金まみれで破産寸前の野宮家の長女・百合子と貿易商の斯波純一が正式に婚約してから、斯波のおかげで野宮家の借財は全て片付いた。百合子はいらないというのに、連日、野宮家には贈り物が届き、家に華やぎまでも与えている。もはや家財道具を処分して、細々と食いつないでいたころが嘘のようである。 斯波は婚約してからますます調子に乗り、何かと時間を作っては、足しげく百合子に会いに来る。今日はそんな斯波と、一日ランデヴーをする日である。 百合子は朝早くから、斯波からもらった、なんとも派手な紅入り総模様の振袖を着て、婚約者の訪れを今か今かと待っていた。斯波と婚約する前は、着物を仕立てる金などままならず、いつも同じ着物を着ていたが、今では婚約者からひっきりなしに送られてくる着物の中から気に入ったものを選んで着る毎日である。 「こんなに着物があっても、着る日は限られているのに……」 そう百合子は独り言ちながらも、ごそごそと何枚もあるたとう紙をめくっていく。振袖など、結婚したら着る事はないのに、斯波は未婚の娘しか着られないような派手な着物ばかり送ってくる。 「姫様。斯波様も、今の姫様にしか着られない、今一番似合う着物を着ていただきたいのでしょう。この紅入りの振袖も、未婚の今だからこそ着られるものです。今度のランデヴーに着られたらよろしいのでは」 送られてきた数々の着物の中でも、一番派手な紅入り総模様の振袖を見て、家令の藤田から助言をもらった事がある。藤田の助言どおり、今日はこの振袖を着ていこう。そう決心した百合子は着物に袖を通した。 身支度を整え、一階へ下る階段を降りようとした時、外からエンジン音が聞こえた。斯波が来たのだ。 ・ ・ ・ 「私、浅草に行きたいわ」 百合子の口から発せられた予想外の地名に斯波は目を見開く。 「浅草?えらく物騒な…いや、えらく庶民的な所を選ぶんだな。十二階にでも登りたいのか?」 斯波が百合子の発言に驚くのも無理はない。浅草は芝居小屋や活動写真屋など、一般大衆の娯楽施設が存在する一方、寄合や娼館など、いかがわしい店が多く存在し、すりやかっぱらいが日常茶飯に横行する場所でもあった。 「斯波さんが心配する理由は分かります。私だって、そこまで世間に疎くはないのよ。でも私、どうしても浅草に行きたいの。ほら、今、浅草では『カフェーの夜』というオペラが盛況というじゃない。私、それが観たいの」

