ふたりのひとときⅢ
- 400 JPY
サイズ:A6・文庫本(自家製本) 価格:400円(通販価格) 収録:短編10話(1話 約2~3000字程度) 著書:壱木ひのき vol.7 海老原僚・染野航・市川巧一 vol.9 園枝厩時・美濃部綾人・真宮寺誠・吉岡 vol.11 丹羽芳樹・小早川拓馬・榊原良一
【ふたりのひとときⅢ】
●海老原僚 振り上げられた手が僕の頬を強く叩いた。同時に乾いて響いた破裂音、突き刺すような痛み、眼鏡がずれて歪んだ視界、停止する思考。他人事のように痛みから引き出される記憶は研究室でも同じように叩かれた懐かしいあの日。 (いや、あの時よりも痛い気がする) じりじりと夏の日差しに似た痛みを持つ頬に触れてみる。明らかに熱を持っているその場所は次第に腫れてくるだろう事が予測された ●染野航 「こ、これ、君にもらって欲しいんだ」 染野さんから渡されたのは銀色に輝く鍵。それが何を意味するか、私にはすぐにわかってしまった。 染野さんが小さな一軒家を買ったのは一ヶ月前の事。しばらく引っ越しの準備で忙しそうにしていて、毎度ながらのお家デートも出来ない状態にあった。しかしようやく片付けが終わったらしい。 私は手のひらに乗せられた生温い温度を持つ鍵を握り締めて視線を上げる。染野さんは恥ずかしそうにはにかみながら、少しだけ目を泳がせていた。 「僕の家の、合い鍵なんだけどね、き、君さえよければ、来て欲しいんだ」 ●市川巧一 ぐわんぐわんと視界が揺れているのは眼鏡の度が合っていないからではない。大学の関係者複数名で十九時から延々飲み歩いていたせいだ。終電は二時間前になくなっていて、僕は千鳥足でなんとかタクシーを呼び止めてシートに倒れ込む。運転手の力を借りて腰掛け後、呂律の危うい状態で自宅の住所を告げた。 どれほど時間が経ったのか。わずかに目を閉じている隙に僕の意識は飛んでいた。運転手に揺さぶられて起き、覚束ない手付きで会計を済ませる。 何度かお礼と謝罪をしてからタクシーから降りて数歩進み、いったんその場に座り込んだ。タクシーが遠のくエンジン音を聞きながら目の前に見えているマンションのエントランスを睨み付ける。 (ああくそ、せめて、せめて部屋まで辿り着けば) ●園枝厩時 「ッェホ、ゲホッ・・・・」 無理に押さえられた浅く荒い呼吸。喉から零れるのは痰が絡んで湿った咳。顔色はどこか青白いのに、額には薄らと汗を滲ませている。上下に揺れる胸元はひどく苦しそうだ。 窓からの光だけが明かりになっている薄暗い部屋。私はベッドで寝込んでいるプリンセスに寄り添うようにベッドサイドに腰掛けた。 「調子はどうかね?」 「昨日よりは、だいぶ楽になってます」 ●美濃部綾人 最近、小さな楽しみが増えた。 お祖母様が残した広い庭の一角で私とプリンセスは向かい合っていた。ベンチに置かれた音楽プレーヤーからはスピーカー最大限の音量でワルツのメロディが流れている。 私が片手を差し出せばプリンセスの手が乗せられて重なる。軽く手を引き寄せれば遠慮がちの小さな一歩でこちらに歩み寄ってくる。 「次は私の肩に手を置いて」 ●真宮寺誠 それなりの広さがあるキッチンの調味料が置いてある棚を開けた。一番手前に置かれているインスタントコーヒーの瓶を引き下ろす。少し固く閉じられた蓋を捻って開けると、途端ふわりと嗅ぎ慣れた香りが鼻を掠めた。 マグカップにスプーン二杯分の粉末を落とす。コンロで火にかけられているポットは沸くのにもう少し時間が掛かりそうだ。 (一度食べてみたかったの、すっかり忘れてたな) ●吉岡 ※お嬢さんが吉岡さんに対して敬語なし 「ああ、お嬢様。こちらにおられましたか」 薔薇の蔓が絡みついているガゼボの檻の中。設置されているテーブルとベンチを頼って読書をしていた私は掛けられた声に顔を上げた。 花園の間を縫うレンガ道を辿って吉岡が近付いてくる。腕時計を見れば時計の針は三時半を過ぎていた。ランチは終えているし、ディナーにはだいぶ早い。ガゼボまで来た吉岡は一礼すると私の手元を見て微笑む。 「熱心にお勉強されている中、大変恐縮なのですが・・・・そろそろ一息つかれた方がよろしいかと思いまして」 ●丹羽芳樹 文字通り浴びるようにお酒を飲んでいた。テーブルの上にはビールやらカクテルやらの空き缶、中途半端に中身を減らしたワインボトルと日本酒の一升瓶。グラスは使い回しているせいで飲む味はもうめちゃくちゃだ。もしかすると私の舌自体が馬鹿になっているのかもしれないけれど。 椅子に座っていると言うのにぐらぐらと体が揺れる。液体ばかりが流し込まれた苦しい胃はアルコールの水槽と化している。 失いそうな意識を握り締め、私は空っぽのグラスを満たすためにワインを掴んだ。 「おいおい。いったいいつまで飲み続けるつもりだね」 ●小早川拓馬 お嬢さんと別れた二ヶ月前、携帯のカレンダーにメモを打ち付けた。何気なくスケジュールを書き留めていた一ヶ月前、手に馴染んだスケジュール帳に印を付けた。事が一転するカウントダウンが始まる当月、今か今かと指折り数えて待っていた。 そして今日、私は携帯に連絡が入ると同時にしばらく世話になったマンスリーアパートから飛び出した。 手荷物はボックス型のリュックサックを一つ。ジャケットの胸ポケットには大事な航空券を二枚。発車ベルを鳴らす最終電車に飛び乗って、この身は愛しい恋人の元へと急ぐ。 (バスはもうないか。着いたらタクシーを拾うとしよう) ●榊原良一 嫌な予感と言うものはどうしてこうも当たるのだろう。私はバスタオル一枚だけ巻いた姿で濡れた髪をかき上げる。 私の第六感は一ヶ月ほど前に一度だけ短い悲鳴を上げていた。何やらいつもと違う気がする体の調子。そのわずかな異変に私は確かに気付いていたのだ。そう、確かに気付いていたはずなのに。 一歩後ずさって、数秒立ち止まって、また一歩前へ、数秒立ち止まって。 無機質な電子音は、やはり私にとって残酷な現実をそこに表示した。 「ふ・・・・増えてる・・・・」