運命論でも確率論でもなく
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A5、166p(目次・奥付含む) 全年齢丑寅小説(オールキャラ、捏造子供あり)
運命論でも確率論でもなく
*冒頭一章(序章)を公開中 ~*~ おわりのはじまり ~*~ 吹きさらしの屋上から見渡せるのは、清潔感は与えても無機質さは感じさせない未来志向を体現したような明るめのグレイの壁、そしてそれらに取り囲まれた青々とした芝生。だが、頭上には重怠げな雲が浸食しつつあり、それはこの事態の行く先を暗示しているかのようで、思わず目を逸らす。 「――おねがい、もううごかないで! どうしよう、ちが、とまらない……!」 階下に繋がる扉に鍵を掛け、安堵したようにへたり込んだ体に縋りつく。その体からはみるみるうちに体温が失われていくのが手に取るようにわかり、考えたくはないのに、その先を思うと怖くて怖くて震えが止まらない。 「ああ、もう……。おいで」 涙さえ止まってしまった自分を安心させるように頬に添えられた手はもう、どうしようもないことがわかるほど冷たい。だというのに――こんなときだというのに、自分を見つめるどこか困ったようなその表情は、子供心に心底美しいと思った。 「……大丈夫。あいつが来て、くれるから」 「もうしゃべらないで……!」 そんなことを言うが、あちらだって本当に無事だろうか。 ――と、敏い耳が扉の向こうの足音を拾う。だが、その足音は待ちわびた者のそれではない。これには自分同様、やはりその人も気づいたらしい。 「いいかい。よく聞いて。あんたはあれを伝って、下に……」 指差す先には、排水管だろうか、建物の壁沿いに管が巡らされている。 「やだよ、ひとりじゃやだ! おかあさんといる!」 「いいや! あんたは行くんだ、ひとりでも!」 そうこうするうち、屋上扉のノブに手が掛かる音がする。だが、鍵は掛けてあるからすぐには入れまい――と思いきや、初めからそんなものなどなかったかのように、それはあっさりと開いてしまった。 「――ああ、やはりこちらでしたね」 母を刺した方ではない。黒づくめの、得体の知れない初老の男。「血痕がこちらまで続いておりましたので……」 男はそんなことを抜かしたが、その言葉には先程まで抱いていたはずの恐怖は霧散し、これまでに感じたことのない、体中の血が沸き立つ心地が――それこそ、これが怒りというものかと思うほどの感情が込み上げてくる。 ――が、その感情を鎮めたのはひやりとした感触。我に返る冷たさに振り向けば、自分の肩を支えに、ほとんど虫の息のはずの母がふらふらと立ち上がっていた。 「だめだよ!」 引き留めようとするが、その手を強く握り返される。 「どこのどいつか知らないけどさぁ、こんなとこまでしつこいったらありゃしない。アレ、あんたの子飼いだろ? 人に刃物突きつけてご挨拶なんて、ずいぶんと躾がなってないじゃないか」 それからちらりとこちらへ視線を遣ると、(――行け)とばかりに背中を押される。ためらいなのか不安なのか、それでも動けないでいれば「さあ!」とどこから出しているのか戸惑うほどの圧で迫られた。その気迫に弾かれたように駆け出し、言われた通り手すりによじ登って振り向けば、それで良い、とでもいうように母は笑っていた。 「お待ち下さい。そのようなことをされては困ります。まだ話の途中なのですから」 母子のやりとりを見守ることをやめた男が、こちらへと向かって来る。しかし、もはや母には男を止めるほどの力は残されておらず、自分もまた、今立つ場所の高さに足が竦み身動きが取れなかった。そしてまた、『こないで』と叫ぼうにも、声が喉に張り付いてしまったかのようになにも出て来てはくれない。この絶望的な状況に、(ぼくはなんにもできないの……?)と不甲斐なさで視界が滲んできたときだった。 「――待ちたまえ!」 割って入った声に、さあっと視界が開ける。 「おとうさん!」 「話なら、私が聞く」 だがその瞬間、母の体が傾ぐ。あ、と思ったときには反射的に瞼を閉じていた。しかし、足場の不安定な場所でいつまでも視界を遮断しているわけにもいかず、恐る恐る瞼を開いてみれば、幸いなことに、母の体はコンクリートに叩きつけられることなく父の腕の中に収まっていた。しかし、その体を抱き留めた父はといえば瞬時にこの事態を悟ったようで、その表情はいっそう厳しいものに変わっている。 荒天迫る屋上に、緊張が走った。 「――なんと、追いつかれてしまいましたか。『彼』はよく鍛えておいたつもりでしたが、それを振り切るとは想定外。いやはや、さすがでございます」 そういって乾いた拍手を送る男に、父は未だかつて見たことのない、鬼の形相を見せた。 「私の家族に手を出すとは、覚悟があってのことだろうね」 これに対し男は、さも残念だというように首を振って見せた。 「信じてくれとは申し上げませんが、これは不幸な事故なのでございます。それもこれも、『彼』の物事の解釈が私(わたくし)共の理解を超えていた、これに尽きましょう。とは言いましても、これも『殺すな』と具体的指示を出さなかった私の責任。結果的に『彼』が貴方様の大切な方を傷つけてしまったことは、この通り、深くお詫び申し上げます」 そう言って脱いだ帽子を胸に当て深々と礼を取るが、その姿はまるで弔意を表しているようでもあり不快感に襲われる。そしてそれは、父も同じだったらしい。 「どうやら我々がわかり合えることはないようだね」 「それはいかがでしょう。そのお方を助ける方法はまだあるのですから。――ですが時間がありません」 言うなり男は自分へと視線を向け直すと、既に確信があるかのような足取りで距離を詰めてくる。 「――あなたの答え一つで未来が変わるのです。いかがでしょう、私と取引をしませんか」 「待ちたまえ!」 父の声が風に交じり、千々に裂かれる。 「さて、このままではあなたの母君は死を待つのみ。ですがそれも、元を辿れば私の責任でもあります。ですからお詫びも兼ね、この不幸な結末をやり直すチャンスをあなたに贈りたいのです。ああ、あなたへのお誘いはこの状況が白紙に戻ってからに致しましょう。これならばフェア、そうではありませんか?」 「耳を貸してはいけない!」 母を腕に抱いたまま、自分を引き留める父の声が響く。その声は間違いなく届いている。ただ、届きはしても触れられる距離にはない。いくら父がこちらへ駆けつけたくとも、きっともう、その場を離れられないほど母には時間が残されていないのだろう。 (ぼくのせいだ) そんな思いに囚われ、それは言葉になる。 「……ほんとうに、やりなおせるの?」 どんな感情も読み取れない笑顔を湛えた男にそう訊ねれば、「もちろんでございます」と彼は頷いた。 「だめだ、耳を貸してはいけない! 私たちはそんなことを望んではいない!」 だが、男はそんな父の言葉をやんわりと否定する。 「ええ、きっとそうでしょう。父君の仰ることは正しい。ですがその正しさで母君の願いが叶うことはあれど、その命は救われるのでしょうか? ――当然、あなたは心からそれを受け入れようなどとは思っていないでしょうし、今この瞬間も別の道を探しておられる。違いますか?」 それは真実だった。そして既に、その男の誘いに対する期待は、彼への疑いを上回っている。 「どうしたらやりなおせるの?」 「願うのです、強く。私があなたの願いを叶えて差し上げます」 男はもう、目の前に立っている。 「さあ」 音もなく、救いかどうかもわからない手が差し出される。 「やめたまえ!」 果たしてそれは、どちらへ向けたのか。その声から滲むのは、これから起こるであろう喪失への恐れ。けれどもそれは、自分がなにをするかによって悔恨にも変わってしまうのかもしれない。 自分だってこんなことが起こるなんて信じたくはないけれど、なにかを――どちらかを選ばなければならないときが今だったとして、父は母の選択を尊重し、その意志を継ぐことを選んだのだと思っている。 (――でも、それでいいわけない) わかってる、わかってる。だけどそんなの、知ったことか。 「まってて。ぼくがちゃんと、もとどおりにするから」 すると決めて、する。 ここに至るまでのすべて、要(かなめ)は自分だ。だから、男に向かって手を伸ばす。意志を持って。 男は笑った。 「素晴らしい!」 そしてその意を酌み、この手を取る――はずだった。 とん、 軽く胸元を触れられる、たったそれだけの感触だった。 だというのに、たったそれだけだというのに、伸ばした手は空(くう)を掴む。そして均衡を失った小さな体は、掛けられた力の向きに従い、当然のように手すりの外側へと押し出される。 「『――』!」 父の声がした。 反転する景色、濃淡のある鼠色の空からは今にも雨粒が落ちてきそうだった。 たとえそれが父の苦悶に満ちた顔であっても、そして母の血の気を失くした顔であっても、それが最期に見た光景であればまだ救いがあったのかもしれない。 けれども瞳に映るのは、やっぱり、どんな感情さえも読み取れない笑みを湛え、こちらを見下ろす男の顔だった。