Antique Love
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投稿サイト《エブリスタ》などで公開中の作品です。サイトで全文読めます。 『Antique Love』 恋愛小説 / 第一巻的な一冊 A6文庫サイズ 本文108ページ マットPP表紙
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古書とアイスコーヒーと鈴の音 1 大学の夏休みが始まってまだ数日。 僕は毎日課題の論文も書かず、坂の上にある古書店へ自転車を走らせる。 前までは白髪のじいさんがいた古書店は、最近彼の孫娘が後を継いだとかで……。 気が付けばその店は、古書を楽しみながらゆっくりお茶を飲める、そんな何だかお洒落なカフェ風に様変わりしていた。 「いらっしゃいませ」 重いドアを押せば、聞こえる鈴の様な声。乱れる息を必死に殺しながら、僕は平然とした顔でたった一言。 「アイスコーヒーを」 はい、と笑顔の返事がかえってくる。 ああ、顔が熱い……。これは、全力で自転車をこぎ、坂を上ってきたからじゃない。 僕は適当な本を一冊手に取り、隅の席に座った。 こっそり深呼吸して、整える呼吸。 古めかしいつくりの店に、座席は数える程だけ。手にした本も一応売り物らしく、裏表紙には小さな値札シールがあった。 毎日通っているが、客はいつも僕ひとり。静かな店では、アイスコーヒー一杯を飲む時間が、妙に長く感じられる。 置かれたコーヒーと、古書にしか興味がないといったそぶりで、僕はこの短くも長い時間を彼女と過ごしていた。 とは言え、会話はもちろんのこと無い。一方的に僕が、チラチラと本の奥から古書を整理する彼女を覗き見るだけ……。 ふいに、短い髪が揺れた。 大きな黒い瞳が、突然僕を見る。 「本、好きなんですね」 「えっ……」 「ここのところ、毎日来てくれるから」 嬉しいな、と笑顔がストレートな言葉を紡ぐものだから……。 動揺した僕の腕はテーブルをはじく。 カラン、とアイスコーヒーの氷が音をたてた。 「あの……おかわり、いかがですか?」 鈴が誘う。 僕は本を閉じると、彼女にはじめて笑いかけた。 「うん。いただくよ」 夏休み五日目。 その店でアイスコーヒーをおかわりしたのは、それが最初だった。 2 待ち合わせをしている訳でもないのに、急いで自転車を走らせる。 今日は寝坊をしてしまい、いつもより家を出る時間が遅くなってしまった。言いようのない焦りが、僕の背中をぐいぐいと押す。 緩やかな長い坂道では、平地を進むより、やはり速度は落ちた。乗っていても降りていても、きっと速さは変わらない。だけど、漕いでいるよりは早い気がして、僕は自転車を降り歩いた。 額から頬へ流れた汗が、アスファルトに落ち小さな水玉を作っていく。朝シャワーを浴びたのに、これじゃあ意味がなかったな……と苦笑。 坂を登りきると見慣れた店が視界に入る。ここでやっと腕で汗を拭った。 「いらっしゃいませ。……どうしたんですか? すごい汗」 店に入ると、驚いた様な声が僕を出迎える。いつも冷静を装っているのだが、焦って来たせいかすっかりそうする事を忘れてしまっていた。息も上がったままだ。 「あぁ……。自転車で坂を登りきれるか、試してみたくなって……」 「えーっ! 子供みたい」 君に一分でも早く逢いたくて、急いで来たんだ。 ……そんな事言える訳がない。しかも、これではまるで気障な男の口説き文句みたいじゃないか。ごまかす以外、道はない。 僕の嘘を疑う事なく、彼女――賀川 麻衣は屈託なく笑った。注文は聞かず奥のカウンターへ入っていく。こちらの求めるものは、麻衣にはもう分かっているのだ。 「それで、結果はどうでした?」 いつもの席へ座ると、すぐにアイスコーヒーが出てきた。麻衣が大きな瞳をキラキラさせて尋ねてくる。ちょこんと小首を傾げる仕草が愛らしく、思わず口許が緩んでしまった。 「撃沈。歳を感じたよ……」 「でも二宮さん、私とひとつしか変わらないじゃないですか」 クスクスと笑う麻衣。僕も笑った。 じゃあ……ごゆっくり。そう言い残し席を離れる彼女を、僕はまだ引き止められない。 おかわりのアイスコーヒー一杯分、僕らの距離は縮まったが、店主と常連客という関係性は変わる事はない。 勇気を出せない僕は、やっぱり古書の奥から彼女を見つめるしか出来なかった。 少しだけ縮まった距離が教えてくれたのは、彼女の名前、僕よりひとつ下の歳、自他ともに認めるお祖父ちゃん子だという事だけ。 それでも、何も知らず栗色の髪が揺れるのを見ている時から考えれば、進歩だ。進歩だと言い聞かせるしかない。 自分の名前を覚えてくれたのも、喜ぶべき事実なんだ……。 古書が並ぶ棚から、本を一冊手にする。大学の図書館にはない品揃えに、以前店主だったじいさんの趣味が窺えた。 手荒に扱えば崩れそうな程古い洋書。棚やテーブルに置かれた、年代物のランプ。 古書店というより骨董屋ではないかと思う位に雰囲気ある店内は、居るだけで落ち着く不思議な空間だ。 僕は、古きよき時代の良さは分からないし詳しくもなかったけど、この店の静かな空気は好きだった。 違和感なくその空気に溶け込む彼女は、幼い頃から此処へ出入りしていたのだろうか? その可能性は否めない。古書を扱う手つきも慣れているし、沢山の本を整理するのも実に手際が良い。 麻衣のそんな姿からは知性が滲み出ていて、僕は初めて会った時よりも更に彼女に心惹かれていくのを感じた。 「ああっ!」 「え?」 突然、叫び声を出す麻衣に驚き、見ていた本から顔を上げた。 麻衣は店の一点に視線を向けている。そこには、大きな振時計があった。これもまた年代物らしい。本体の木はどれだけの時間を過ごしたのか……暗いトーンに変色しつつも、それがより重厚さを醸し出し、店内では圧倒的な存在感で佇んでいる。 彼女が叫んだ理由はすぐに分かった。振り子が見えるガラスは曇っていたが、中は窺える。左右に揺れているはずのそれは、真ん中でピッタリと止まっていた。