『コミュニカシオン』創刊号 / 特集:笑い
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目次 ・巻頭言 p.3 ・目次 p.6 ユーモア、微笑 ・短歌「そうかな」仲井澪 p.10 解題 伊藤にしん p.12 ・小説「寒時雑念」遅桜 p.14 解題 即興芸の趣 宮崎水鏡 p.22 ・ブックレビュー「駱駝と獅子の笑い」(カミュ「シーシュポスの神話」) actus p.24 笑いと抵抗 ・論考「笑いという架橋によって飢えは交通できるのか――黒田喜夫「ハンガリヤの笑い」における笑いの表象について――」藤木(瞼) p.28 解題 宮崎水鏡 p.40 ・論考「範例的芸術としての自己批判的ジョーク ホミ・K・バーバの理念的な共同体論から」ヤマグチ p.42 解題 マイノリティ共同体の「ジョーク」は成功するのか かんざき p.62 ・論考「釈迢空の「寅吉もの」について――断絶と嘲笑の暴力をめぐって――」宮崎水鏡 p.64 解題 actus p.76 ・ブックレビュー「火山と犬達の咆哮」(大江健三郎「奇妙な仕事」) actus p.78 創造する笑い ・論考「歓喜とともに話しはじめる──エーコ、ボルヘス、私たちの笑い」kado p.82 解題 乾将崇 p.98 ・論考「ボードレールにおける笑いとイロニー──二重化、道化、サディズム」前川卓 p.106 ・解題 芸術家のニヒリスティックな笑い kado p.118 ・ブックレビュー「絶句と顔、その歴史」(遠藤知巳『情念・感情・顔―「コミュニケーション」のメタヒストリー』) actus p.120 笑いと狂気 ・詩「ひのいり」kado p.124 解題 仲井澪 p.126 ・論考「地下室の狂気への哀愍――「病的笑い」と「笑う」フーコー」actus p.130 解題 内的言語について、あるいはぬいぐるみとしゃべること 宮崎水鏡 p.206 ・討議「表象・道化・もどきを廻って」前川卓・宮崎水鏡・actus・kado p.208 ・ブックレビュー「猥雑な笑いの行方」(新井恒易『恍惚と笑いの芸術〔猿楽〕』) 宮崎水鏡 p.226 自由寄稿 ・詩「水平線の向こう」宮崎水鏡 p.230 解題 井笠 p.238 ・小説「朝、自転車の神・新宿は琥珀色」伊藤にしん p.240 解題 actus p.248 ・小説「便器の春」乾将崇 p.250 解題 actus p.260 ・論考「「一切」の示す時間的性質──時間的存在としての菩薩把握のための基礎として──」乾将崇 p.262 解題 actus p.266 ・論考「祈り、そして信じるものの繋がり」乾将崇 p.268 解題 ヤマグチ p.276 ・執筆者紹介 p.278 ・編集後記 p.280
「そうかな」仲井澪
創刊号本編冒頭を飾る、仲井澪さんの短歌連作7首です。笑いを一つの軸に日常の光景を優しくてどこか切ないタッチで描いています。
「寒時雑念」遅桜
「今から滑稽な、時代錯誤も程々にせいと言はせんばかりの私小説を書きませう」上海で育った「僕」の幼時から青春時代までを巧みな文体で描く軽妙洒脱な「私小説」。
「笑いという架橋によって飢えは交通できるのか――黒田喜夫「ハンガリヤの笑い」における笑いの表象について――」藤木(瞼)
日本で胃袋の満たされている者が、ハンガリヤの飢えた民衆と「交通」することはできるのか。詩によってそれは可能なのか。そのときあらわれる、「笑い」とは。ハンガリー事件に対する黒田善夫の詩「ハンガリヤの笑い」を論じる。
「範例的芸術としての自己批判的ジョーク ホミ・K・バーバの理念的な共同体論から」ヤマグチ
笑いの共同的側面・非理性的側面に着目し、ホミ・K・バーバのテクストを通して、芸術とジョーク、とりわけマイノリティ共同体の自己批判的ジョークを論じる。マイノリティと笑いについて考える上でとても刺激的な論考。
「釈迢空の「寅吉もの」について――断絶と嘲笑の暴力をめぐって――」宮崎水鏡
幼少時に近所にいた太棹芸者寅吉について書かれた釈迢空の「寅吉」「家へ来る女 小説にあらず」「茶栗柿譜」を題材に、寅吉と周囲の「素人」との間の断絶と交流、そこにおける言葉と笑いの問題を論じる。 また、自由寄稿枠では【宮崎水鏡「水平線の向こう」】の題で詩二編を掲載しております。
「歓喜とともに話しはじめる──エーコ、ボルヘス、私たちの笑い」kado
人を思考へと導いてしまう笑いにはどんな可能性と危うさが秘められているのか──ウンベルト・エーコとホルヘ・ルイス・ボルヘスのテクスト読解を通して笑う「私たち」自身を問題化する。 また、kadoさんには【詩「ひのいり」】も寄稿していただいております。こちらも必読です。
「ボードレールにおける笑いとイロニー──二重化、道化、サディズム」前川卓
「悪魔的な笑い」あるいは「グロテスク」といった観点から注目されることの多かった、ボードレール「笑いの本質について、および一般に造形芸術における滑稽について」というテクストに対して、敢えて「道化」という形象に注目する姿勢を取ってみることから、著者の思索は始まる。そこで得られた確かな観点から「パリの憂鬱」や「惡の華」という代表作を見直すことで、著者の緻密な議論は、ボードレールに見られるサディズム的内容が、意識の「二重化」の運動によってこそ引き起こされるのではないかという読解へと繋げていく。
「地下室の狂気への哀愍――「病的笑い」と「笑う」フーコー」actus
フィクションの限界を問う時、地下室人とドストエフスキーは一体となり、声なき叫びをあげる。これに耳を澄ませば、フーコーのけたたましい笑い声も聴こえてくることだろう。補論「オープンダイアローグ、リフレクティング・チーム」を含めて6万5千字に及ぶ、壮大な思考の旅。
「表象・道化・もどきを廻って」前川卓・宮崎水鏡・actus・kado
討議を通して、四者の寄稿自体の解像度が上がることに加えて、その接点も浮かび上がった。各々の「笑い」についての問題意識が交差するのは、「表象」「道化」「もどき」の三点である。 対談形式をとっているため、比較的読み易いとも思います。
「朝、自転車の神・新宿は琥珀色」伊藤にしん
子どもの頃、故郷にいた自転車に乗った「神」。そいつは時を経て、東京に現れた。危機と隣り合わせの日常を問いなおすような作品。
「便器の春」乾将崇
「共産主義者は便器に流されたのだ。血便である。」 「最も人生で多くの便器をみた春」、「私」は便器党の街宣車に遭遇する。大衆にとって便器はもはや聖物と化した。 「私」すらもトイレなのか?便器とトイレをめぐる、ユーモアに満ちた思「便」的小説。
「「一切」の示す時間的性質──時間的存在としての菩薩把握のための基礎として──」乾将崇
菩薩は菩提心を持つ者であり、菩提心は衆生救済への責任感であるとすると、菩薩を理解する上で衆生を理解することが不可欠となる。では「一切衆生」とは何か。「一切」とは何か。本論考では、時空間的性質を持つ「一切」の、主に時間的性質が取り上げられている。
「祈り、そして信じるものの繋がり」乾将崇
言葉を、個人と共同体という二つの視点から考察した上で、祈りというものを考える。祈りとは何か。人類共通の祈りは可能なのか。世界への真摯さが際立つ論考、あるいは祈り。
ブックレビュー
創刊号にはコラム的に四本のブックレビューを掲載。カミュ『シーシュポスの神話』、大江健三郎「奇妙な仕事」、遠藤知巳『情念・感情・顔』 、新井恒易『恍惚と笑いの芸術〔猿楽〕』を「笑い」という視点から読み解きます。
解題
本誌の特徴の一つですが、テーマ寄稿、自由寄稿問わず、全作品に他の同人による作品への「解題」を掲載しております。多様な読みをお楽しみください。