ティル・ナ・ノーグ
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エンディング「それでも諦めないで」のその後を描いた短編小説。 A5・36P・挿絵あり ※DL版はPDFにしています。 PDFを開けない方は、Adobe Reader(無償)等を導入してください。 ***It is Japanese only***
ティルナノーグ
うたた寝をしていたようで、バスの揺れと共に目が覚めた。いや、より正確に言えば、抱きかかえたものが腕からすり抜けていく“ひやっとした感覚”のおかげで、急激に現実に引き戻されたのだ。 ごろりと鈍い音がして、私の足元に長いフランスパンが転がった。なんだ結局落としてしまったのかと、がっくりした気持ちになって拾おうとした時、小さな混乱に飲み込まれる。……私の腕にはしっかりとパン入りの紙袋が収まっていたのだ。 「いやー悪いね、それ私のなんだ」 横からひょいと腕が伸びて、キャスケットを被った若者が拾い上げる。縦にやたらと長いフランスパンは、当然紙袋に収まりきらず、上半分が飛び出す形となる。若者は埃を払うかのように、パンの表面をさっさと拭った。衛生的な面で見たらまったく意味のない行為だが、そんなことは誰もが分かっているだろう。気休めみたいなものだ。 「君のも、三区のパン屋か? あのやたらと並ぶ有名店!」 若者は私の懐を指さして、軽快に笑った。少年か青年かと思っていたが、中性的な雰囲気の女性だった。見知らぬ人と楽しげに会話を繰り広げられるような社交性がいまいち足りない私は、困惑気味に「ええ」とだけ返した。 「あんなとこ、よく並ぶ気になるぜ。いや、人のこと言えないけどさ。同居人が誕生日だっていうから、仕方なくね。そっちも記念日か何か?」 対する相手は、社交性に満ち溢れているらしい。 「ええ、まあ、そんなものです」 「どんな記念日?」 「彼女と出会った記念日……ですかね」 「うへえ、ロマンチック」 自分から聞いてきた癖に、辟易したような表情を見せる。それから彼女はシニカルに笑って、「爆発しろよ」と言った。……爆発とは何だ、爆発とは。初対面の人間にあんまりじゃないか? 「――って、日本では言うらしいぜ。末永く仲良くしてください、って意味でリア充爆発しろ」 「…………へえ」 「信じてないな、その目は! 帰ったらネットで検索かけてみろって!」 帰宅早々、記念日そっちのけでネット検索をかけている自分を想像して、かなり微妙な気持ちになった。苦笑して、「覚えていたら」と返す。 その返答で満足したのか、あるいは端から本気ではなかったのか、彼女は朗らかに笑って「じゃあ、次で降りるんで。良い一日になることを祈ってるよ」と席を立った。 嵐のような人だったなあと思いつつも、悪い気分ではなかった。人付き合いが苦手な自分にとって、ああいう手合いは普段なら疲れるだけなのだが……。むしろ、もう少し話せていたら、とすら思う。 不思議なことも、あるものだ。 街の中心地から、少し離れた駅で降りた。十二月の厳しい風が容赦なく吹き付けてきて、思わず身震いをする。まだ夕刻のはずだが、辺りはずいぶんと暗くなっていた。 「あ……」 頬に冷たさを感じて見上げてみると、雪がちらほらと降り始めていた。どうりで寒いはずだ。パンが濡れてしまわないよう、帰路を急ぐことにする。 家を買う余裕はないので、マンションの一室を借りている。いつか空気の綺麗な片田舎にでも引っ越して、彼女のためにもゆっくりと暮らせれば良いと思うのだが、まだ先は長いだろう。 やがて自宅が見えてくる。急いで四階に上がって、扉を開く。その途端、暖かな空気と胃袋を刺激するようなシチューの香りに包まれて、顔が綻んだ。私の帰宅を察したのか、玄関には飼い猫が蹲っていた。「ただいま」と言うと、尻尾だけをぱたんぱたんと揺らす。 「おかえりなさい!」 キッチンの方から、小走りにやってくる足音がした。そんなに慌てなくていいのに。と、思いつつも、やはり嬉しい気持ちになってしまう。 「外、寒かったですよね? 外を見たら雪が降ってて、本当にびっくりしてしまいました。早く温まってください、風邪を引いてしまいます!」 普段は大人しく、強い発言をすることのない彼女だが、他人の心配をする時は別のようだ。まるで大雪に降られたかのような態度を取るものだから、つい笑ってしまう。 小柄な彼女が、私を見上げる。その赤い瞳は、不安でいっぱいだった。 「――大丈夫です、ジゼル。まだ降り始めなんですから」 ◇◇◇ (以下本文にて)