短編小説集。 私が比奈沢悠月という名義で書いたものです。 ■文庫判（A6）、82ページ、約24000字 ――海辺、波が砂浜へと押しては返し、薄い鏡面となって空を写していた。強い風が磯の匂いを陸へ運んでいる。死んだ生き物の匂い。母なる海は死の溜まり場でもあった。彼は歩いた。波の引いた鏡面の上を裸足で歩いた。温（ぬる）い。体温とそう変わらない地面は、自分との境目を不安定にした。 【あらすじ】 虹のような光の東、頭痛、沈黙の中に木霊する追憶、意味のない言葉、死の海、赤い錠剤、買ったまま放置された玉ねぎーー忘れたはずの気配が、男の日常に微かに触れてゆく。静かな波濤が、何かを攫っていく。 現実と記憶が混じり合い、人称までもが曖昧に揺れ動いた果てに、男はひとつの約束をたどり、海へと向かう。 書き下ろし一篇に加え、「時給５００円」「逢瀬」の二篇を再録。