婚約破棄の帰り道
- Digital300 JPY

婚約破棄を宣言されたその日、彼女はただ静かに頷いた。 拍手の中を背筋を伸ばして歩き、令嬢としての役目をひとつ終える。 やがて醜聞にまみれ、「傷物」「行き遅れ」と囁かれながらも、 薔薇と風だけを相手に庭でお茶を飲む日々。 気品だけを残して、心はゆっくりと枯れていく。 ――そんな彼女の前に現れたのは、 かつて身分違いで諦めた幼馴染、隣国の若き王だった。 「迎えに来た」 静かな破滅の先に訪れる、軍を率いた一途な求婚。 これは、声を荒げずにすべてを覆す、上品な逆転劇。 【一部抜粋サンプル】 婚約破棄を叫ぶ婚約者に視線を合わせるように、鼻の位置に目線を置く。 彼の鼻穴が少し膨らんでいて、いつもより興奮しているように見えた。 「……その……数々の――」 声が大きい。周囲がざわついている。 誰かが息を呑む音が聞こえた気がした。 「よって、ここに婚約を――」 ちょうど破棄理由を言うクライマックスに合わせて、下を向く。 ヒールに薄く残った指の跡が少し気になった。午後の光が当たるとそこだけ曇って見える。 あの新人侍女ね。 拭けばいいだけだと分かっているのに、今は動けない。 「――破棄する!」 拍手が起きた。誰かが小さく歓声を上げている。 顔を上げる。息を小さく吐く。 鼻穴が何か言っているが、意味は入ってこない。 「はい、承知致しました」 いつもより少し大きな声で、 明日は少し遅く起きられるといいな、と思いながら返事をした。 少し間をおいて、 お菓子を食べ過ぎた事を思い出しながらゆったりと足を進める。 扉の前に立つまで、誰も何も言わなかった。 拍手はいつの間にか止んでいて、空気だけが少し硬い。 扉脇に立っていた警備の騎士が、一拍遅れて進路を空ける。 兜の縁がわずかに傾いた。 それだけで十分だった。 廊下に出る。 光が違う。部屋の中よりやんわりと少し白い。 空気もたぶん綺麗。 前を見て、背筋を伸ばして歩き出す。 靴音が一定になるまで少し時間がかかった。 私はこの日、貴族令嬢としての役割を一つ果たした。
