【予約受付中】木村夏彦『螺旋と沈黙』
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【内容紹介】 アンナ・カヴァン、マルセル・シュオッブ、アナイス・ニン、高貝弘也、雪舟えま……。幻想文学と詩歌を中心に、無数の書物を媒介にした二十代前半の思索の結晶。未生と発生の境界、ことばが生まれ出づる瞬間を見定めるための随想/読書録。巻末に偏愛の書のブックリストを付す。 「本には、読んだことがある本とない本がある。さらに言えば、読んだのに覚えていない本や読んでいないのに知っている本もある。それらの本のいずれにも切り口があり、ときに宝石のように、目のように、星のように、輝きを反す。 「ものごころついてから知ったのだが、奇跡はもうそのころ世界のどんな市場にも売っていなかった」と回想する著者が、失われた奇跡を求めて逍遥した青年期の軌跡が、ここに刻まれた。書物の内なる輝きを辿る旅を、ふたたび。」 佐藤弓生(歌人) 自己と書物とのあいだに「数学的な明瞭な関係」(М・ユルスナール)が結ばれていると揺らぐことなく信じていた時期の文章を集成した小さな本です。千人の読者のためにではなく、いま現在牢獄のなかにいるひとりの誰かに宛てた私信として刊行します。 仕様:1000円税込(B6、108ページ) 装画、表紙デザイン:香取亜美 ※試し読みをこのページ下部に公開しています。 【試し読み】 --- 〈「究極の詩集」〉 「究極」ということばを、いろんな角度からながめてみる。「究極の物語」には、まだ出会わない。もっともうつくしい物語だとか、もっとも格好いい物語ならば、思いさだめている。だけど、「究極」というニュアンスには合致しない。 「究極の詩集」ならば、知っている。きょう出会った。 嵐のように猛り狂った激しいことばを目で追っていく。加速度的に、スピードを上げていく。脳のなかの既知の語彙が、消失していく。銃弾のように、次から次へと新たな文字が襲来する。世界が、風景が、叫び声とともに変貌していく。意識が、早送りで生まれ変わっていく。後記に突入したときに、まだ作品がつづいているのだと思って、そのまま心の冒険をやめなかった。それほどまでに、空前絶後の散文だった。速度と熱が限界すれすれに近づき、言葉の眩しさにもはや耐えられそうになりつつ、やっとの思いでページをめくる。そこには空白、虚無がひろがっていた。勢いあまってなにかを飛びこえてしまったのだ。 帷子耀(かたびらあき)、ただ一冊の詩集、『スタジアムのために』(書肆山田、1973)。忘れない。きっと忘れない。 --- 〈夢の入口夢の出口〉 夜明けの草地を散策していて発見した、ひそやかな露。触れると濡れて、ひんやりとする。奇妙な清涼感。あるいはこれは、何か孤独な生き物が落とした涙ではないのか。 コッパードの作品が、そんな情景を生成する。 彼の物語は水分、色彩、光量、音量、あらゆる要素がすべて微妙に保たれている。それらが混然となって、幽玄の雰囲気をつくることに成功している。『郵便局と蛇』(国書刊行会、西崎憲編訳、1996)という唯一の邦訳本は、まさに「魔法の本棚」という叢書名にふさわしい。 アンソロジー収録作、雑誌掲載作は十数作あり、ほぼチェックしているが、ひとつ選ぶなら、「アダムとイヴ」を推す。読み返さない。その必要はない。主人公が誕生していない子供を幻視した、その幻視の残像が、まだ脳裏に焼きついているからだ。 --- 〈さすらう書物〉 読み終わった本はどこに行くのでしょうか。カタチとしての本ならば、「そこ」にあります。大事に本棚に並べてもいいし、よければ古本屋に売ってしまってもかまいません。しかし本の中身、情報、あるいは物語はどうでしょう。愚問でしょうか。頭に残るのです。 ときおり、読み終わった本と読み終わった本が頭のなかでこんにちはをします。トランプの神経衰弱のように、一対の本が記憶のなかで見えない糸でもってつながるのです。Aの本の向こう側から、顔つきも体つきもちがう、Aとは関係のなさそうなBの本がやってきます。本たちが出会う瞬間、思わず本体の人間の口から声が出てしまいます。「あっ!」 わたしのなかで、今日も、小松左京「戦争はなかった」(新潮文庫、1974、同名書収録)と中村葉子『夜、ながい電車に乗って』(ポプラ社、2006)が出会って、握手をして、友達になりました。ふたつの作品とも、ある種のひとびとにとって強烈な起爆剤となることで共通しています。 『高貝弘也詩集』(思潮社、2002)が発見したのは、ポール・ディ・フィリポ「系統発生」(河出文庫・中村融、山岸真編『20世紀SF 冬のマーケット』中原尚哉訳、2001)です。いずれも「凪ぎ」の感触と新しい生命を誕生させる意志がみとめられます。「系統発生」はそれを長編に引き伸ばしたものがあれば、比類なき傑作となっていただろうと思います。 口から、魂のよう するする解けてい るものが、傾いでいる。緩く、うねり。 裂かれている、根の空いたところ。浮 遊する、しろい散子よ。影が 分かれ。 死につかされている、動くもの。円錐 状の谺。無形のものが 有形になり。 又 無形へと溶けるものが。そのはか なさ、壊れやすさ。言葉を、養うもの。 形を繫ぎ留める働きがあり。立ち腐れ ていく、繊い筋がある。骨の口より流 れがあり。還って行く、うねりがある (高貝弘也「生の谺」『高貝弘也詩集』思潮社、2002) --- 〈読む前が面白い本と読んでからが面白い本〉 読んでいないのに面白い本がある。 と、書くとぎょっとするかもしれないが、つまり読んでいないけどタイトルが魅力的な本のこと。あれこれ内容を想像してみるのも楽しみのひとつで、じっさいインターネットでそういう遊びをしているひともいる。今、ちょっとやってみよう。 ラフィク・シャミ「神様がまだ祖母だった時」はふしぎなふしぎな創世伝説、 石川喬司『世界から言葉を引けば』は筒井康隆『残像に口紅を』みたいな言葉が世界から消失する物凄い作品、 川上弘美『どこから行っても遠い町』はカフカばりの不条理譚、 ジョヴァンニ・パピーニ『逃げてゆく鏡』は文字通り鏡が逃げていくぶっとび奇想小説だ! とか。なかにはいざ読んでみて失望するものもある。無残にも物語の中身がタイトルの喚起力に敗北を喫したのだ。 反対に、読んでいる途中は理解にとおく及ばなかったり印象が薄かったりするのに、ページをめくり終えて閉じた瞬間から、記憶に占める領域が増大していく本が存在する。風船が少しずつ少しずつ膨らんでいくように。 その風船は、けっして弾けることがない。 --- マルグリット・ユルスナール『東方綺譚』(白水uブックス、多田智満子訳、1984)。典雅、という、知ってはいてもいつ使えばいいのかわからないことばを、冬の夜にひとりそっとつぶやく。地中海からはるかな東方を夢みながらも、作者の想像力は甘きに流れない。残酷なるものを静かに、ありのままに見すえる塩の結晶のような知性。シュウォッブと翻訳家がかさなってみえたあのときのように、今回も多田さんがうつくしく舞っている。 --- J・G・バラードのコンデンスト・ノベルに、頭を殴られたことがある。人間という動物から本気のストレートパンチをくらった最後の記憶が思いだせないが、小説から渾身の一打を浴びたのである。その後雑誌やアンソロジーで何篇か同じスタイルのものを読んだのだが、初読ほどのショックは受けなかった。ひょんなことから、今日、『残虐行為展覧会』(工作舎、法水金太郎訳、1980)の巻頭の一篇を読みはじめた。 いい、と思う。これほどよかったか、と思う。理性より先に本能が働く。連想されたのはスラデックでもバーセルミでもジャリでもバロウズでもエリスンでも残雪でもなく、ジョイス・マンスールだった。常識的に考えれば、ふたりの作家の資質はあまり似たものではないはずだ。シュールレアリスムという媒介物によって接続されうるとしても。 「そのあとのふたりの性交はアパートメントの角度がなす諸次元の性急な聖餐となった」(12ページ)といった文章から安易に類似を感じているにすぎないのかもしれない。崇高で残酷で形而上学的なポルノグラフィ。ここで「考えよう」と意志すれば多くのことを考えられなくはないかもしれない。しかし伊藤剛がよしながふみについて述べた秀逸なことばを唐突に借りるならば、「分析的に読めば読めるのだけれど、いまはまだ、そういう読みを駆動したくな」いという気持ちをわたしはいま抱えこんでいるのだ。 いまはただ、この「小説」の味あわせてくれる快楽と絶望に、身を委ねきりたい。 --- 『Air / 雨に唄えば(仮)』 わたしは青いボールペンでこの物語を書き始める。インクの水たまりから涙が空に向かって蒸発し、同時に時間が逆行していく。雨なんて降っていないのに折れたビニール傘をさして、鳥の詩【うた】を口ずさみながらゆっくりと街を歩いていく。きんいろのー、そうーげんー、ちーらしてー……。たぶん、歌詞はまちがえていると思う。鳥の詩なんてこの世には存在しない、自分が作った歌だもの。唇の痕跡なんて存在しない、ここにはそれを読むひとはだれもいないもの。わたしを包む世界を、もうひとりのわたしが包んでいる。マルチプレックスという日本語が嫌いで、魂をひらく母国語を、故郷【home】をさがし求めている。意識がすこしさめてみると、からだが冒頭部分にもどっていることに気づく。雨のふる街にもういちど出て、持ってきたはずの傘をどこかに忘れたまま道ばたに座りこんで、ノートに小説を書き始める。まだあの詩【うた】は唄い続けたままだ。流跡の流跡が紙の表面を流れていき、裏面にも少しずつ滲みはじめている。「それでも語ってしまう」ことの「しまう」というどうしようもなさに、わずかな希望を見出すことはできないか。できないかもしれない。しかしここでふりだしには戻らない。何も言わなくなったNにひどく弱々しくこの物語を掲げる。 スーパーマーケットのかごに始まる。そのなかに、わたしは安らぎとともにおさまっている。あれはヨーグルト、あれもヨーグルト、あれは牛乳。色とりどりの紙パックという一見とるにたらないものたちが、個人的な「原遠景」をかたちづくっていく。いま、母がわたしを運んでいるのだろう。宙空をすべるようにして、なめらかに移動していく。ある見方からすると、かごの描いていくカーブの軌跡はぴかぴかの床との平行移動であり、その重なり合いはきれいだと思う。ホタルの光のような白熱のライトによってお店はたしかにまぶしいのだが、ここにはまだ音や声は存在しない。だから、とてもしずかだ。そして自分の身体(からだ)も、実感としてはまだ不確かなままである。この記憶は現在のわたしにとって音の情報のない記録媒体【record】(たとえばビデオカメラのような)のようなもので、それを何度そのままのかたちで再生しようとしても、そこにはある見えない遠さが横たわっている。その距離のはてしなさに、わたしは膝をかかえこむ。(続) ※実際の書籍には日付および一部箇所にルビが付されていますが、省略しました。

