皇帝陛下と深い森
- 900 JPY
146P 異世界トリップファンタジー第7弾 カツカツカツカツ 美しい天然石で造られた廊下は、あちこち泥で汚れていても豪奢さは失っていない。足早な靴底とぶつかり、硬質な音を立てている。 カツカツカツカツ エチゴは歴史ある大国で、王宮もまた他国に比べ目を瞠る規模だ。平和な時代は華やかなパーティーが毎夜のように開かれていたと言う。だが今の王宮には、そんな空気は皆無だった。 カツカツカツカツ 「直江様」 背後に気配が付いたのはとうに気付いていたが、足音のペースが落ちる事は無い。背後の影もそれは承知で、そのまま背中に向かって慇懃に告げた。 「陛下がお呼びです」 「……」 その言葉に直江、と呼ばれたまだ少年の面影を残す男は顔だけで振り返る。 「今か」 「は」 「……分かった」 一見声に感情は見当たらないが、長年このまだ年若い主人を見てきた侍従には直江が不機嫌なのが分かった。だが、だからと言って何か言う事も無い。既に再び前を向き歩き出している主人の背中に一礼し、静かに下がるだけだ。 カツカツカツカツ 響く靴音。 音は冷たい。 人気の無い長い廊下、誰も見る事の無い横顔は一瞬、疲れた色を浮かべる。だが直ぐに消えたそれに、直江本人さえ気付かなかった。 そのまま歩き続け、直江は東塔にある執務室の前で止まった。扉の前の衛兵が直江を見付けると、直ぐに一礼し小さくノックする。 「陛下、直江様がおいでになりました」 躯に似合った低く太い声だ。 「入れ」 中からの声に、衛兵は両手でゆっくりと扉を開いた。頭は下げられたままだ。そんな衛兵に一瞥もくれずに、直江は執務室に足を踏み入れる。 「サガミが国境に迫っている」 前置きは一切無い。 「お前には前線で指揮をとってもらう」 「……」 直江の目の前にいるのは、エチゴ皇帝でもあり父王でもある。皇子と言えど、臣下の一人だ。だが礼をとらない息子に対し皇帝は何も言わなかった。直江の方も、黙って聞いている。 普段皇帝は殆どこの執務室にいる事は無い。華美に飾り立てた自室に家臣を呼び、そこで指令を出している。冷酷で人を信じない王は、他人の声に耳を貸さない。だが口先だけで 諂う(へつら)無能者を重用する事も無かった。 はっきりとした実力主義の皇帝にとってそれは、息子達もまた例外じゃあなかった。 王には皇子が3人いる。第一皇子と第二皇子は年近いが、第三皇子は10以上年が離れている。30になる第一皇子は、厳しい面もあるが利己的ではなく善良だった。優秀な故多少強引な所もあるが、その整った容姿も含め人々に慕われている。第二皇子は穏やかで優しく、何時も柔らかい笑みを浮かべているような男だ。それは表面上だけのものではなく、誰にでも分け隔てなく慈悲深かった。 王族に生まれ周りからちやほやされて生きてきた者に多い、人を人とも思わない、そんな部分を持ってない皇子が1人でもいれば幸いな事なのに、エチゴ皇帝には2人もいる。これは奇跡的な幸運だと臣下達は思っていた。 だが、 「……」 無言で出て行った第三皇子を見送った王の眸は、狡猾な光が浮かんでいる。 そう、王はこんなにも王として文句のつけようの無い皇子2人を差し置いて、まだ15になったばかりの第三皇子を後継者として、次期皇帝として決めたのだ。 大臣達、名立たる貴族の者達は皆驚いた。驚いたが反対の声は少なかった。 上2人の皇子は優秀だった、だが―――第三皇子、直江はずば抜けていたのだ。 幼い頃からその片鱗は見せていた。1を教えれば次の瞬間10や20を知るのと同時に原型を変形させ、それを更に再編成させてしまう。 教育係の八海は直ぐに直江の資質を見抜いた。親子愛など意味も分からない父王もまた、三番目の皇子の能力に目を付けていたのだ。 成長するにつれ、直江の能力は周りの誰もが知る事となる。そんな背景故にまだ少年の三番目の皇子を次期皇帝にする、と決めた王の言葉に渋い顔をしながらも、頷かざる得なかった。 当の直江はその決定事項に、何も言わなかった。喜びも憤りも無い。 余りに有能な人間故に、感情が育たなかった、と周りが言っているのを知っていた。それにも何も感じない。 直江は感情が無い訳ではない、感情を動かすだけの価値を見出せないものに対し、動かす必要が無い、と判断しているだけだ。無論一々そんな事を説明する気など無い。 カツカツカツカツ 再び直江は回廊を歩く。通り過ぎた衛兵に、八海を呼べ、と一言残して。 扉は開かれたままだった。 小さな部屋は、内装もシンプルと言うよりも無機質で。窓も小さく机が一つと大きな棚だけが、唯一部屋の装飾品だ。その机と棚も、かなり古いものだった。 「直江様」 開かれた部屋にノックは無用だと知っている教育係は、既に主人の命を読んでいる。 「前線へ行く」 「……は」 分かっていたとは言え、キレ者と評判の家臣は複雑だ。前線とは……多大な危険が伴う。 「直ぐに準備を」 「は」 だが動揺も皆無な主人を前に、八海は静かに礼をとる。 「御意」 第三皇子である直江が後継者と皇帝の口からはっきり出てから、まだ1年経っていない。 第一皇子、第二皇子でも十分に施政者の才能はあった。だが直江の抜きん出た能力と、今現在エチゴにおかれている背景が皇帝にその判断をさせてのだと八海にもよく分かっている。 戦況は良いとは言えない。 大陸全体を巻き込む戦乱期に入ってから、既に10年経っている。 初めの頃は、2、3の国境での小競り合い程度だった。だが火種は消えるどころか、大陸中、数多くの国を巻き込む争いへと発展してしまった。大国エチゴはその、中心になってしまっている。 豊かで広大な国土は、欲しいと思っていてもエチゴの軍事力の前にただぶら下っているだけの状態で。だが時勢が荒れ、あちこちで戦闘になっている状態なら話は別だ。この機会にエチゴを、と近隣の国ならどこもがそう熱望するのが自然だろう。 「……」 次期皇帝、第三皇子は小さな窓から庭を眺めた。 幼い頃は、木々は綺麗に葉を整えられ、鮮やかな花々が咲き乱れていた。誰の目にも美しく映る庭園は今、その影も無い。 勅命が出たのだ、直江は明日早々に国境に発つつもりだ。戦争だと言うのにこうして王宮に閉じ篭もっている事自体、直江にとっては時間の無駄だった。 15歳の直江は既に、戦闘を何度か体験している。死ぬ意味、生きる意味を知らない少年はだから、死に対する恐怖も知らない。2人の兄皇子達が別の戦場で司令官として簡易的に作られた建物の中で指示を出している時に、直江はタチバナに乗り先頭で刀を振り下ろしていた。 貴族の子息達も同じく、危険の少ない位置で戦闘に関わっている。そんな中、皇子が死の危険性の高い行動をするなど、兵士達は信じられなかった。無論司令官や隊の責任者は必死になって止めた。 万が一皇子が命を落としてしまったら、その責任は誰が……そこが問題だったからだ。だが直江にとっては下らない、の一言で片付けられるもので。 そんな状況を全体の指揮を執っている王宮の皇帝に注進しても、取り合わないどころか酷薄な嗤みを浮かべるだけだった。 実際直江の戦い振りは凄まじかった。15とは思えないがっしりとした体躯から振り下ろされる刀は、数え切れない敵の血を吸った。常に鎧が血塗れになっていたが、その殆どが返り血で。恐怖など存在しないかのように敵に向かっていく直江の姿は、疲れた兵士達に勝利を見せた。 直江が率いた隊は、無敵だった。その内周りの目も変わってくる。 兵士達は奥に引っ込んだまま的外れな指示を出す司令官や、王宮の中で安穏としながら口だけ挟んでくる貴族達に嫌気が差していた。そんな中現れた、誰よりも高貴な立場の一人の少年。 直江はあっという間にそのカリスマ性で、兵士達を纏め上げていった。尤も直江が兵士達に何かした、と言う事は皆無なのだが。 直江の働きで一時的にだが安定した戦場に、王宮から一通の知らせが届いた。至急戻って来るよう、との皇帝直々の勅命だ。そんな書状に直江は何も言わず、数名の兵士を連れて王都へ戻る。再び別の前線へ、との命を受けたのはその僅か2日後だった。 「直江様」 「何だ」 気が付けば、戻ってきた八海が部屋の入り口に立っている。 「明日明朝でしょうか」 何が、とは訊かない。 「ああ」 「畏まりました、では準備に取り掛かります」 確認にやって来た八海は、無駄話を一切せずに退室する。溜息を吐きながら廊下を歩く、そろそろ老人に差し掛かる大臣の心は思かった。 一体陛下は何をお考えなのか…… 直江が次期皇帝に選ばれたのは、驚いたが納得出来た。この混乱した時勢では、有能だが穏やかなだけの施政者では国政は立ち行かない、国は乗っ取られてしまう。兵を民を強引にでも率いる、時にはやり過ぎな位の強引さがなければいけないのだ。 「……」 幼い頃の直江を脳裏に思い浮かべ、八海の溜息は深くなった。 幼い頃から聡明、と言うには賢過ぎる子供だった。冷静な薄紫の眸は、淡々と周りを分析していたのを思い出す。直江の根本は今も、何も変わっていないのだろう。 直江の軍人としての才覚はよく分かっている。劣勢をいとも簡単に覆す知性と行動力。疲労した兵士達が噂に聞い第三皇子の指揮を待ち望んでいる事も。 だが、直江は次期皇帝、決して〟死んではいけない立場〝を持っている。そんな直江を死の危険性の高い前線に送り込む父王の考えが八海には分からなかった。 背後で指揮を執るだけでも十分ではないか、兄皇子達と同じように。 もしも戦死してしまったら…… 「……」 不吉な考えにふと足が止まり、八海は軽く頭を振る。 「全く……」 何についての溜息なのかは、大臣自身も分からない。だが、八海の生徒だった小さかった皇子の安否が、心配でならなかった。 死を恐れない事は決して、死が遠ざかる事ではない。それを八海はよく知っている。 長い回廊には、精巧な彫刻を施した窓が無数に並んでいた。そこから眺める庭園の荒れ様に、自然と痛い表情になる。 「……」 だが、温和だと言われている大臣も、国政については時には鬼にもなる必要がある。それは後に宰相になっても同じ事で。 皇帝の命は絶対だ、議題でもなく決定事項なのだから。そもそも現皇帝は、独裁色が強い。だがそこに反論など上がらないのは皇帝が有能だからなのか……恐怖故なのかは八海には分からない。恐らく両方だろう。 とにかく、今は長く続く戦乱を終結しなければ。それにはやはり、若き皇子が必要なのだ。 「さて」 本当は、支度や準備などあって無きが如く。直江は2、3人の兵士を連れ必要最低限の荷物を持って、何の報告もせずに早朝王宮を発つだろう。それを見守る事しか、八海には出来ないのだ。