『リフレイン』Vol.3「特集: 『女』へのまなざし」
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文学フリマ東京40(2025年5月11日)で頒布した『リフレイン』Vol.3 特集:「女」へのまなざし です。以下巻頭言です。
91年生まれ大反省会をしたい。わたしは91年生まれで今年30になる。若者と括られてきたけど、明らかに今の世代と全く育ってきた景色が違うことを感じる。政治家と言えば小泉首相、まだ日本は経済的にすごいと習ったし、嫌韓本が本屋に並び、ネットは2chにニコニコ、メディアは「オネエ」を笑っていた。 当時K-POPを色んな人が恐れていたのを覚えている。学問といえば受験勉強、フェミニズムはヒステリー、社会運動は危険、資本主義は疑えないもの。数え切れないイメージが潜在的に内面化されているはず。ここをしっかり毒出しして反省しないと、これからの世代を抑圧してしまう。ここが分水嶺だと思う。 「もうおばさん / おじさんだから」と自虐するのではない仕方で、しっかりとこれからの世代にどうあるべきかを考えなければならない。窮屈な世の中だとしたり顔で冷笑してしまわないために。でもひとりでは不安。だからみんなでやりたいよ。 (とかいいつつ、大学卒業してから91年生まれのひとにいまだ1人しか出会ったことがない。みんな、どこにいるの、、、?) — 永井玲衣『世界の適切な保存』(講談社) (@nagainagainagai) 2021年7月5日 一九九五年以降、パソコンの普及や「エヴァンゲリオン」を契機に、内面に焦点を当てた「モノローグ的」な文化がオタク系カルチャーにおいて花開いた。その延長線上にある美少女ゲームやライトノベル、あるいは「セカイ系」と呼ばれるジャンルは基本的に「男向け」のものだった。 だが、二〇一〇年代後半頃からのMeToo・フェミニズムムーブメント以後を生きる私たちにとっては、オタク系カルチャーに限らないゼロ年代までのカルチャーの多くが「異性愛男性」のまなざしに応えるかたちで隆盛してきたということを、半ば自明のこととして認識することができる。そのぐらいに私たちの認識枠組は変化したのだ。 ゼロ年代にとって「女」とはなんだったのか。 これは、現代においてまさに問われるべき問いとなった。 その意味で、冒頭の永井の引用は、現代の私たちが必然的に持つに至った「反省」のまなざしを象徴している。 しかし、反省だけでいいのだろうか。 「ジェンダー視点」を持てるようになったことが自動的に視野の広がりを意味するわけではない。後知恵的な認識的優位を振りかざせば、下手をすれば「過去が間違っていて現代が正しい」というような、素朴な発展史観に陥りかねない。 たしかに反省は重要だ。 反省とともに、あとは、なにが必要なのか。 *** ゼロ年代研究会は一九九五年頃から二〇一一年頃までを「長いゼロ年代」と規定し、その時代の社会・文化について掘り下げることを通じて、現代社会を批判的に捉え返していく活動をしている。それはこの批評誌『リフレイン』の目的でもある。そして、第3号にあたる今回の特集テーマは「『女』へのまなざし」である。 ここにはもちろん、冒頭に引用した永井が述べたようなリベラルな立場からの「反省」、すなわち、ゼロ年代における異性愛男性のまなざしが、女性を戯画化したり不可視化したりするという、「権力」の機制を批判的に捉え返していこうという意図が込められている。 たとえばオタク系カルチャーに限って言っても、女性が従順でエロティックな存在として偏って表象されがちであり、そのことが女性を画一的な役割に押し込めかねないことが「反省」されてきた。 しかし、ここで重要なことは「反省」が単なる「規制」のみに短絡しないことである。オタク系カルチャー内部においても、偏った女性表象を「引き算」するだけでなく、オルタナティブな女性表象を「足し算」していくことが重要な試みであるということはまず言えるだろう。そもそも、このような「表象の暴力」をオタク系カルチャーの内部でのみ改善しようということがそもそも視野狭窄ではないだろうか。 これについては「ゼロ年代批評」——東浩紀を中心に展開されてきた批評群——において、オタク系カルチャーに親和的な対象しか視野に入ってこなかったせいで、書き手も読者もオタク系の「男」ばかりに限定され続けたということがパラレルな問題であると私たちは考えている。私たちゼロ年代研究会としてはむしろ、「ゼロ年代」という、本来広く接続していけるはずの結節点から、オタク系に限らない他の問題系へと開かれていかなければならない。 「『女』へのまなざし」という特集テーマにおいては、「ゼロ年代」のオタク系カルチャーに内在的な問題を扱うのはほどほどに、広く当時の「女」にまつわる問題系を再発見することが目指される。それと同時に、現代において目立っているフェミニズムの切り口(たとえば「暴力への批判」や「エンパワメント」など)に限定しすぎないことが視野を広げ、かえってフェミニズムにとって新たな地平を開きうるであろう。 では改めて問おう。ゼロ年代にとって「女」とはなんだったのだろうか。
インターネットにおける「女」の場所
ゼロ年代においてひときわ重要だったメディアは、パソコンを介したインターネットである。インターネットは、パソコンと回線が必要であるものの、ひとたび環境が整えば誰もが発信可能な公共圏として脚光を浴びた。ただし、スマホ・Twitter普及以前のインターネットはまだまだアップロードできる情報量が限られていたため、発信の形態はテキストが中心だった。それゆえある種のアンダーグラウンド性を帯びながらも、個人のテキストサイトに始まり、「はてな」などのブログのプラットフォーム、そして初期のSNSを代表するmixiにおいて、さまざまな新たな書き手が生まれたのだった。 ただし、誤解を恐れず言えばインターネットは〝男のもの〟だった側面も強い。インターネットに参入していた実際の女性の割合はそれなりに高かったと思われるが、たとえば「2ちゃんねる」においては「私女だけど」という書き込みが揶揄され、ミーム化されるほどに「男性であることが前提」だった。裏を返せば、女性が男性に擬態して「俺」のような一人称を使うようなこともしばしばあった。少数者として発信するにはしばしば緊張が強いられ、その存在は他者化される。そうして少数者が黙り込むことでさらなる少数者となる「沈黙の螺旋」のメカニズムが見られたであろうことも想像に難くない。 それでもなお、相当数の女性の書き手が台頭してきたのがインターネットにおけるテキスト文化だったのだ。インターネット自体が社会の男性中心主義的な規範を再生産する一方で、現実社会で表立って言いにくいことを発信する場を提供してもいた。藤谷千明「自虐・こじらせ・エンパワメント――クソ長い「ゼロ年代」とインターネットと女の自意識」はその薄暗い場で生まれた「自虐」の文化の中にちょっとした連帯感があったことを見出している。小松原織香「インターネット上でフェミニストだった頃――「身体と切り離した仮想の主体」の冒険」は、現実における自らの身体から切り離したかたちで文筆活動を展開できた経験をビビッドに描写している。
「女」の周縁を再発見する
世の人間は「男」と「女」の二つに分けることができる(とされている)と同時に、しばしば「女」の中にも「主流」と「傍流」が生まれることになる。そうしたなんらかの「主流/傍流」の意識が、ある世代の人間には半ば共有されていたとしても、異なる世代の人間にはその時代の空気感が伝わらないことがしばしばである。 既にゼロ年代は二〇〇〇年前後のファッションの潮流を指す言葉である「Y2K」によって半ば偽史的にリバイバルされている。しかし、そこで何が「カウンター」として期待され、何が敗北し、時代の流れの中で霧散していったのかを明らかにしなければ、私たちはただ現代を特権化し、同じ過ちを繰り返し、せいぜい車輪の再発明に堕してしまうだけだろう。だからこそ、現代の閉塞を打ち破っていくうえでも「歴史」と呼ぶにはだいぶ近い「過去」であるゼロ年代の「主流/傍流」について、証言者の声に耳を傾けることが必要だ*1。 黒人のフェミニストとしてインターセクショナリティの議論が立ち上がってくるうえでの重要な貢献者でもあるベル・フックスは、社会の中心から排除された周縁marginの経験や語りにこそ社会変革の可能性を見出した。人種のような「一目でわかる」差異が前景化しない日本においては、「女」の中でより複雑に差異化された注目することも重要だろう。ロスジェネ(就職氷河期)と呼ばれる「論壇」において女性の労働や貧困の問題について発信してきた栗田隆子「私が続けている『地味』なこと」は、ともすれば見過ごしてしまいそうな「地味」で目立たない日常的な事例から、この二〇年の間にも「目立って」きた「性愛」や「支援」といった切り口に囚われないバランスを模索している。七草繭子「ゼロ年代における『青文字系』とスクールカースト」は、「多様性」が称揚される現代よりも明白な「スクールカースト」(学校・教室内における序列)が存在していたゼロ年代において、忘れ去られつつあるファッションの記号である「青文字系」が有していたポテンシャルを探っている。西原麻里「乙女ロードの言説史――女性たちを可視化・不可視化するジェンダーの問題」は、ボーイズラブ(BL)を愛好する女性たちが集う東池袋の「乙女ロード」がメディア上でどのように描かれてきたかに注目し、ビジネス的な思惑が先行するがゆえにつきまとう抑圧的なジェンダー規範を明らかにしている。 *** このVol・3は本当のところ昨年一一月に出るはずだったが、刊行を延期した。その経緯は、端的に言えば「書き手が足りない」ことだった。そこで、以上の五人の書き手については、ゼロ年代研究会からそれぞれに執筆依頼をさせていただいた。「『女』へのまなざし」という特集テーマである以上、「書き手のジェンダーバランス」と言われるありふれた問題に対処した、という側面があることは否定しない。「ゼロ年代研究会」という名前がもうすでにダメなのかもしれないが、その中心メンバーはほとんど男性であり、「身内」だけで誌面を埋めたとすれば男性だけで「女」を論じるという滑稽な事態となっていただろう。 しかし、だからといって女性の書き手を「寄せ集め」たわけでは断じてない。ジェンダーバランスの問題は単なる見栄えの問題ではなく、実質的な問題として考えられなければならない。 たとえば女性が少数であればあるほど「女性ならではの視点」が求められてしまうという構造的な問題がある。もちろんそれぞれの書き手には「女性」であること以外のさまざまなバックグラウンドがあるのだから、「女性の視点」は書き手のさまざまな視点のうちの一つ、その出発点に過ぎないのだ。そこから「ゼロ年代における『女』へのまなざし」を立体的に浮かび上がらせていくうえでは、まず誌面上のバランスを保つことでそのような「女性ならでは」に見えてしまうバイアスを排し、そのうえで個々の記事内容を文字通りに受け取っていただく必要がある。さらにそれぞれの記事内容が有機的な繋がりを持つことでその全体像がようやく見えてくる。 すなわち、これは「ゼロ年代における『女』」という、まだ誰にも見定められていない場所を一挙に見通すための「地図」なのだ。しかも五人の記事は、それぞれのやり方でゼロ年代頃から現代までの「変化」を見据えた書き方になっており、その点では一貫した視点で読めるようになっている。 とにかくこの五人の記事を読んでいただければ、現代社会とも比較しやすい「地図」が浮かび上がってくるはずだ。これは冒頭の引用で永井が述べている「反省」の先にあるものだろう。もう一度言うが、とにかくこの五人の記事こそをまず読んでほしい。
少女漫画からオタク系への系譜
残る記事はおなじみの偏執的なアレ……というのはさすがに言い過ぎで、「男」は「男」なりに「女」について考えてみている。その鍵になっているのは「少女漫画」である。 ちろきしん「〈傷つける性〉の転倒――〈救われなさ〉をめぐって」は、「内面」を描くことで〈癒しの力〉を有していた少女漫画の技法が二〇〇〇年代前後の美少女ゲームや青年漫画に引き継がれていく中で、いかにして同性ではなく異性のキャラクターへと自己投影するロジックや「救われなさ」こそを「救い」として受け取るロジックが成立したかを追跡している。久固「少女漫画とゼロ年代」は、男性オタク文化とゼロ年代少女漫画との共通点と差異を明らかにすることで、オタクが少女漫画から受け取ることのできる価値を模索している。ホリィ・セン「負けヒロイン・母殺し・喪による昇華――岡田麿里が本当に描いていること」は、男性オタクからも強い支持を受けるアニメ脚本家・岡田麿里の作品群を精神分析の観点から扱うことで、呪いのごとく人を縛りつける〈母性〉との折り合いのつけ方を提示している。 *** 恒例の座談会では、スクールカースト文学を象徴する二〇〇五年のテレビドラマ「野ブタ。をプロデュース」を取り上げた。これは原作の「信太(シンタ)」がドラマ化に際して堀北真希演じる「信子(ノブタ)」へと変更されたことに対して「まーた異性愛主義か」と決め打ちしてのチョイスだったが、結果的にはむしろ恋愛至上主義への批判的視点を持ったバランス感覚のある作品として取り扱われた(ゼロ研編集部企画「『野ブタ。をプロデュース』座談会」)。 今回も特集とは無関係にゼロ年代を扱った論考として、馬場息吹「中年のゼロ年代――濱野智史論」がある。『アーキテクチャの生態系』などで存在感を発揮していたが、今や論壇的な場ではあまりその名を見なくなった濱野智史の問題提起からいかなるバトンを受け取れるのかが検討されている。 最後に、今回の表紙を描いていただいた漫画家・村上かつら氏について。毎度毎度『リフレイン』では漫画家の方にかなり唐突な依頼をしてしまっているところだが、今回はインタビューまでさせていただいて、ついつい熱を上げてだいぶ前のめりな質問文をお送りしてしまいご迷惑をおかけしてしまった……ただ、ゼロ年代における「『女』へのまなざし」という本特集において、村上かつら氏は最も重要な漫画家と言っても過言ではない(特に「短編集」や『サユリ一号』)。村上かつら氏のファンの方々が喜ぶであろう、貴重な表紙・インタビューになった(幸い、村上かつら氏のほとんどの漫画は電子書籍で読めるので、今からでもぜひ読んでほしいものだ)。お忙しい中ご協力いただいた村上かつら氏に感謝致します。 ホリィ・セン(永井玲衣さんと同じ1991年生まれ)
収録内容
【インターネットにおける「女」の場所】 ・藤谷千明「自虐・こじらせ・エンパワメント――クソ長い『ゼロ年代』とインターネットと女の自意識」 ・小松原織香「インターネット上でフェミニストだった頃――『身体と切り離した仮想の主体』の冒険 【「女」の周縁を再発見する】 ・栗田隆子「私が続けている『地味』なこと」 ・七草繭子「ゼロ年代における『青文字系』とスクールカースト」 ・西原麻里「乙女ロードの言説史——女性たちを可視化・不可視化するジェンダーの問題」 【少女漫画からオタク系への系譜】 ・ちろきしん「〈傷つける性〉の転倒——〈救われなさ〉をめぐって」 ・久固「少女漫画とゼロ年代」 ・ホリィ・セン「負けヒロイン・母殺し・喪による昇華——岡田麿里が本当に描いていること」 *** ・ゼロ研編集部企画「TVドラマ『野ブタ。をプロデュース』座談会」 ・馬場息吹「中年のゼロ年代——濱野智史論」 ・村上かつら(聞き手・ちろきしん)「村上かつらインタビュー」 表紙:村上かつら