THE STORY
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文庫本サイズ・52ページ・オンデマンドカラー表紙 1/8 インテックス大阪 COMIC CITY 大阪 123 右腕を失った十数年後、ついにヒーローを辞めた轟炎司(離婚済み)が引退した盲導犬(名前はきなこ)を引き取って暮らす春から冬までのお話です。 ホークスは現役ヒーローのため、遠距離恋愛をしています。 ※ メインカップリング以外の死ネタあります ■□■抜粋サンプル■□■ やわらかだった日の光が次第に強くなり始めたとある休日。 駐車場に停められたSUV車の後部座席に一人と一匹は寄り添っている。 話の始まりは、三〇分ほど前に遡る。 「きなこー、おいで」 ホークスの呼びかけと車のエンジン音に顔を上げた彼女は「あら、私もご一緒していいの」とでも言いたげなクールな目つきで、けれど確かにうきうきとハーネスに前足を通す。 いつもの通りの指定席、安全のためラゲージルームに固定されたゲージに入れば窓の外の景色はほとんど見えないはずだが、きなこが低く一つ唸ったきり静かになった。 ボリュームを落としたラジオだけが流れる車内に緊張感が満ちる。 「……気が付いてますよね、これ」 「だとしても中止するわけにはいかんだろう」 おでかけにはしゃぎっぱなしのような幼い子ならば、目的地に着くまではごまかされていただろうに、機微に聡くて賢いが故の悲劇だ。 「クゥン……」 『目的地』の駐車場に着いた途端、彼女はこれから己に起こることを察してしまった。 こちらまで切なくなるような声を出し、黒目でじっと見つめられて人間たちは気まずそうに顔を見合わせることしかできない。 今日は、年に一度の狂犬病予防注射接種の日であった。 「手続きを済ませてくる。順番が来たら呼ぶから待っていろ」 運転席に座っていた炎司が、その大きな身体に似合わぬ俊敏な動きでさっさと荷物を持って降りてしまったために残されたホークスたちは、ぽかんと見送ることしかできなかった。 「……キュぅ」 後ろから聞こえてきた鳴き声は、先ほどよりも更に弱々しい。 大きな身体を項垂れさせて、吠えることも暴れることもせずにただただ見つめてくるのだ。 そのいじらしさに負けたホークスは、無言で後部座席に移動してシートを倒した上でゲージの扉を開けてやる。少しばかりためらった様子はあったが、そうっと出て来てホークスの隣の座席に腰を下ろした。 「きなこ、抱っこしようか」 呼びかける声に素直に甘えて、のしと預けてきた上半身を腿に乗せて首から背中までをたっぷり撫でてやる。 いつもならば『もっともっと』『構ってちょうだい』とばかりにはしゃぐのだが今日は尻尾も耳も限界まで垂れ下がったままだ。 漫画だったら今この辺りにしょぼんと書き文字が浮かんでいるだろうなあと、ホークスは宙を眺める。あやすように毛の先を指でくすぐってやっていると、ようやく炎司が戻ってきた。 「そろそろ順番だ」 スライドドアを引けば、促されるまでもなくきなこは自分で車から降りた。 「……お前を連れてきて正解だったな」 「ですかねえ」 問いかけるように話しかけてみると、答えの代わりにペロンと手の甲を舐められた。 意気揚々、とまでは行かないがホークスの先に立って堂々とした姿である。 きなこは近頃、ホークスのことを年の離れた弟か子どものように扱う。 これには、幾つか理由があった。 まず、きなこが深く関わる人間の中でホークスはずいぶん小柄な部類に入る。 ホークスとて現役ヒーローなのだから、細いながらも筋肉質な体型は決して華奢ではないが単純に比較の問題だ。 現時点での主人である轟炎司はもちろん、長らく暮らした元の主人も非常にふくよかで縦にも横にも大きな人だったそうだ。 このため散歩に行った際に大いにはしゃいで、それこそ犬の兄弟のように取っ組み合いして遊んだ時に乗っかったホークスの軽さにびっくりして目をまんまるくしていた。 「俺、小さくないけんね」 剛翼を広げて見せたこともあったけれど『立派になって』と言わんばかりに慈愛に満ちた瞳で見つめられながら、存分に毛づくろいならぬ羽根づくろいをされてしまった。 犬の寸法に尻尾は含まないのと同じく、人間の寸法に翼が含まれないということらしい。 次にホークスは若い。先述の他の人間たちと比べてはもちろん、きなこ自身の体感よりもずいぶん若い。すっかり育ち切った成人男性だが、人生の大きな仕事を終えて引退したきなこから見ると、かわいいかわいい僕ちゃんらしい。 そして最後の決定的な理由。 二人は、付き合い始めからちっとも変らぬ仲睦まじい恋人だった。 きなこが来てから炎司が泊まり不在にすることはなくなったので逢瀬は大抵この家である。 あけすけに言えば、いわゆる交接も同じ屋根の下でということになる。 良識ある二人はもちろん、きなこが眠りについた時間を見計らって充分に離れた部屋で事に及んではいるが、何しろ犬は人間の何倍も優れた聴覚と嗅覚を持っている。 隠し通せるわけもない。 つまり群れの中で一際小さく、若く、そしてたびたび炎司に『いじめられている』ホークスのことを完全に庇護すべき対象だと認識してしまったらしい。 きなこは母になった経験はないはずだけれど、母性とはきっとこういうものなのだろう。 「がんばろね、きなこ」 三〇代も近くなっての子ども……正しく言うならば仔犬扱いは格好の良いものではないが、彼女の励みになるならば甘んじて受け容れよう。 そんなホークスの声掛けに励まされたかのように、きなこが歩き出した。 切り揃えたれた爪がコンクリートの地面に触れて小気味良い音を立てている。 人間たちが揃ってほっと安堵の息を吐きながら建物の入口扉を開けた途端、中から何とも悲痛な鳴き声が聞こえてきて、思わず二人で顔を見合わせる。 数秒の沈黙のあと、ホークスはその場で固まっているきなこをできるだけ優しく抱き上げた。 今まで力仕事はたいてい引き受けてきた炎司の方が、代わるかとばかりに手を出し掛けたが途中で止めてから温かな方の手できなこを優しく撫でた。 たまには、かわいいホークスから甘やかされる日があっても良いこと。 そしてそのたまの甘やかしがどれほど心地よいのか、この男は誰よりも知っているのだ。