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書き下ろし「しじまに寄せて」ほか、4篇を収録した短編集『hug』 収録 ・hug ・しじまに寄せて ・花の終わり ・エンゼル 文庫判、72p 以下、「しじまに寄せて」冒頭部分です。↓ 中学にあがってしばらくした頃、心の暗がりに迷い込んだ。迷子になったわたしの手をとり、帰り道を示してくれたのは伊織という男の子だった。 彼は体育館裏の階段に腰かけているわたしを見下ろしてしばらく黙っていたが、気を取り直したように、「先生が心配してるから戻ろう」と言った。同い年とは思えない、温度の低いのんびりとした声だった。わたしはほとんど引き寄せられるようにうなずいていた。 午後の校舎はひっそりとしていた。三十ちかくの教室があり、何百人もの生徒が五時間目の授業を受けているだなんて、信じられないくらいの静けさだった。風が吹き、スカートのうえに音もなく木の葉が落ちた。彼と話したのは、その日がはじめてだった。 校庭のほうからホイッスルの音がして、伊織はわたしに背を向けた。心なしか背筋が伸びたようだった。とっくに消えた音の気配を追うように、彼はしばらく空の低いところを見据えていた。いま思えば、空を見ていたわけではなかったかもしれない。 あの頃のわたしは、何かに取り憑かれているかのようだった。母親が学校に呼ばれて担任の先生と相談していたことも、気づかないふりをしていたけれど知っている。 大人たちはわたしを問いたださなかった。そのかわり、こちらに向けられる視線にはつねに不安の色がにじんでいた。まるで自分がこわれものになったような、奇妙な心地がした。実際、わたしの身にはちょっと奇妙なことが起こっていたのかもしれない。家ではふつうに話をする十三の娘が、外にでた拍子にぷっつりと黙り込んでしまう。どこの母親でもきっと心配する。いちばんにわたし自身、自分についてわかりかねていた。説明など求められようものなら余計に混乱しただろうから、無理に言葉にしないままでいられたのは幸いだった。 そしてもっと幸いだったのは、わたしを見つけてくれたのが伊織だったことだ。 あるとき彼は、 「諏訪を呼び戻しにいったのは学級委員だったからだよ」 と言った。そうでなければ、わざわざ話しかけたりしなかった、と。 「いまにも噛みついてきそうな、犬みたいな目をしてた」 まさか、と思うが、当時の写真を見返してみると、わたしはたしかに性格のわるい犬のような目つきをしていた。これには面食らった。自分はおそらくかなり愛想のわるい部類の人間なのだ。 わたしと伊織はたいていの場合、図形を描くうえで正反対の位置にいた。彼はいつだって誰かしらに囲まれていた。彼らのまえで、伊織はよく笑った。意図せず多くの人の心を救うような笑顔だった。そこにいるだけで空気をやわらかく解きほぐしてしまう人というのは、たしかに存在する。光はどんな人にも平等に降り注ぎ、わたしの心をも掬いあげた。 * 大雨の降る十月のある夜、アルバイトから帰ってアパートの階段を上がると、玄関の前に人がうずくまっていた。髪の毛から雨粒が垂れ、傘もレインコートも持っていない。それにひどく薄着だった。水を吸ったティーシャツが皮膚に張りつき、その体は小さく震えていた。 ゆっくりと近づき、伊織、と呼んでみる。声は雨音にかき消された。わたしはポケットのなかで部屋の鍵を握りしめたまま、しばらくそうして立っていた。彼の二十一の誕生日が近づいていた。