結崎剛歌集『少年の頃の友達』全(電子版)
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2015年刊行の『少年の頃の友達』の電子版。 新装版として、表紙および本文書体等を変更しました。 ***** 結崎 剛歌集 2005‐2015 『少年の頃の友達』 「どこにも声高なところの無い、ピアニッシモの歌集・・・、浄明寺の何処に隠れ住むらしい歌人だが、歌にあるのはエーゲ海と古代ギリシア人のような明澄な智と大らかな官能の放恣だ」(佐伯誠)。 著者19歳から29歳までの短歌作品500首を収録。 目次 「星隠」(100首) 「ディアマンテ/インクリュジオン」(100首) 「野辺に咲く母」(30首) 「團欒」(30首) 「動く水」(81首) 「とどこほる管」(59首) 「ペデロティック」(50首) 「ひかるくだ」(50首) 全500首。巻末に全訓索引を附す。 *****
大和志保さん
――「ほどけるからだ、こすれて 境界線上のアティテュード 結崎剛歌集『少年の頃の友達』を読む ……生存の技法の話をしたい。世界の内包物(インクリュジオン)、異物としての人間の「うつくしきとどこほり」の状態を展翅するようにうたうかれの短歌のありようは、二〇一一年の震災と、かれ自身が担ったのであろうと推察される身内の介護の体験を経て変容する。…… われの襁褓を替へくる孫よ有難う脚もつてあんた蹴らせてちやうだいっ 安楽死すべりはてたる道化士を観てかはくだりいかうぜ母よ 死は死者のやすらふ宿かぷりんとして栄螺の先つちよが糞うまし サスペンダーの半ズボン少年に滞りながらする介護とは! 管の中の滞りを描き出してやるような作業のことどものうちに、大津波に押し流されるもののすべてが内包していた滞りが根こそぎ攫われる喪失に、浚われることの爽快をも重ねたのではないだろうか。あるいは介護――あてがい食わせ出させ生かし、という世話を、飼育と愛撫に限りなく近接したエロティックな言葉で上書きしたのではないだろうか。こすれあう皮膚と皮膚の、愛において殺すこと殺されることは、かれの歌のなかですべて等しく底光する。結崎剛の歌は、ただならぬ祈りなのだ。 あらゆるものは辨(ヴァルブ)虚しきところより鳴り出づる楽ふたりの耳よ そこはかとなき或る朝の表情にほころびてお早うと言ひしごとしよ (〈歌誌月光〉49号掲載)
友人より
――「少年の頃の友達」頌 極めて粗い言い方になることを承知の上で言えば、前世紀転換期におけるいわゆる「詩の危機」とは、それまでは一応堅固にあると思われていた詩的言語と日常言語の区分が取り払われつつあるということに対しての詩人の焦燥であったのだと思います。今本が手元にないので朧な記憶のみからの叙述となりますが、マラルメは例の文章で確かアレクサンドランの崩壊について言及していたはずです。それは12音綴りという定型の長く偉大な歴史を持つ。定型とはつまり歌でもあり、年若い散文に先駆ける長大な蓄積があるが、それだけに定型に依存することは凡庸な、しかし一応は無難ではある作品の濫造を生むことにもなった。才能ある詩人は勿論それに対して鋭敏に反応し、12を例えば11に、あるいは13に、絶妙に改変することによって凡庸さをまぬがれた、それもマラルメは言及していたはずです。けれども定型への反抗というものはある種の逃れがたい弱みを持っています。定型を逸脱すれさえすれば新しさが生まれるというような目論見のもとに結局は奇をてらった別種の凡庸な作品を濫造してしまうという危険性がそれであり、事実そうした状況は転換期において少なからず見受けられたものであったようです。要は定型から距離を置くということは詩的に新鮮なものを創造するということの可能性の一つではあっても、万能の手段ではなかった訳です。 (「凡庸」という言葉を当たり前のように使ってしまいましたが、これを本来的な意味で客観的に示す手段はもちろんありません。突き詰めれば詩の価値は相対的なものでしかない、そうした常識的見解は踏まえた上で論旨を進めていることを断っておきます) 短歌について自分は専門的知識を持ちませんが、これも31音という定型の長い歴史の上に成立していること自体はおそらく間違いないもののように思います。『少年の頃の友達』の歌はその少なからぬものが31から距離を取ろうとしているように見えるのですが、読んでいてつくづく感じ入るのは、その全てが前述した二種類の凡庸さのどちらにも陥ることなく、いえそのようなものから遥かに遠く離れて、まるで詩的なものの本質そのものといったような何かを放射しているように思われることです。それはなんというか、何故このようなことが可能になるのだろう? というような感慨です。ここでは31の増減は小手先のあざとい手管からは最も遠いところに位置しているようです。かつまた切り詰められた文字数の中での各文節内容の絶妙な断続性が、不意の省略や奔放な語尾のほとばしりが、文法上の規定から同じく絶妙に外れたところでのイメージ(と、今のところ言うしかないもの)を鮮やかに喚起してくる…… (「絶妙」という表現は批評としてはあるいは無責任なものかもしれないのですが、つまりは型から離れつつもそれでいて無残な破綻を迎えない、そのような距離の取り方のありようを現時点でこの言葉以外に自分が言語化できていないゆえです) 「詩の危機」的な問題意識が帰結したのは、つまるところは詩的言語の本質は先験的に存在するのか否か、という問いであったようです。ベンヤミンは「詩作されたもの Das Gedichtete」のアプリオリな存在を擁護し、ゲオルゲ派は詩にあらかじめ内在する「戒律 Gesetz」を主張しました。これらの意見が果たしてどれだけの正当性を持つのか――個人的にはこれはあるいはある種の信仰告白と看做されても仕方のないところもあると思っています――に関しては問題がなくもないのでしょうが、それでも詩なるものが控えめに言ってもその地位をかつてに比べて大幅に下落させたこの現代において(もはや「危機」どころではない(!))、『少年の頃の友達』のような歌集を持てることは僕にとって、詩的本質というしかないものの実在への注意を改めて意識させるものであり、かつまた自分は詩・文学Dichtungに対しての信頼を未だ完全に失わなくてよいのだ、という認識を与えてくれるものでした。素晴らしい仕事の集大成の刊行、改めておめでとうございます。 *****
佐伯誠さん
①a 少年の頃の友達、拍子抜けするくらいアッサリした題名、掌におさまる造本体裁、耽美へと傾斜せずに半ズボンから伸びる少年の足、踵のような清潔な装丁。まるで少年が宝物を秘匿しているチョコレートの函さながら。おさめられた五百首、2005-2015年の歳月を、何とも無造作に差し出すなんて、ずいぶん気前がいい! いちばんビックリするのは、五百首のどこにも人生の労苦が滲んでいないこと。 ①b かもしれない天使って、E・E・Cummingsのperhaps handのこと? 歓待することに全力を傾けて、名も告げずに立ち去ってしまうんだね。 「たましいはおそらく負数こひびとが死体は生体より重しといふ」の形而上学もあれば、 「昼過の子らが両手をたたくときどの窓からも白墨のこな」の観察の眼も。 ②a 貫くという意志が屹立する少年愛のコスモスもさることながら、フッと素の青年のリリスズムが垣間見える”こひびと”をスケッチする歌に注目。「蝉しぐれこの世の外の雨ですと恋人が傘をさす真似をする」なんて、まるで地球最後の道行! もうひとつ、やはり父と母。 さもない日常を生きるフェードルとイポリート、この歌集は、関係をテーマとするものらしいと推察。 ②b ずるり稲妻色のしなそば の献辞がことの外、うれしく今日の年越しそばはしなそばにしようかと心が揺れて・・・。この歌集をどう遇すればいいのかについては無力であるけれど、机上に置いて、或はトートバックに忍ばせて繰返し読むつもりです。 ③a 追補 どの一首にも描かれている情景はあるのだろうし、それを表わすための彫琢を重ねた末・・・、高速で空を切る器械体操を見ている心地で見惚れるばかり・・・ しかし、中にこんな一首も―― 決めまよふカフェのメニューをまへにして一、二分いとほしく滞る ③b エチカでかいがいしく客に応接する小松剛の姿を知っていれば、いっそう笑趣深い一首。どこにも声高なところの無い、ピアニッシモの歌集・・・、浄明寺の何処に隠れ住むらしい歌人だが、歌にあるのはエーゲ海と古代ギリシア人のような明澄な智と大らかな官能の放恣だ。 ④a それにしても、少年の頃の友達という題名はすばらしい。開いてみれば、それぞれに例えば、團欒、ひかるくだ、等、歌集に似つかわしいコトバが用意されているのだが、作者はあえて無造作に少年の頃の友達という大雑把なくくりに包んでしまう・・・。 それというのも、少年の頃というものは粗描きがふさわしいからだ・・・ ④b 酒とならざる麦の穂の青き豪奢、まさに――。熟成を拒むけっぺき(、、、、)! 十九歳から二十九歳・・・、誰しもこの歌人のような感受性の少年が急ぎ足で往くのにすれ違ったことを憶えている。 結崎剛、その後は? 歌集を閉じて、フと胸騒ぎがするだろう。 ***** 可能にしているのは、天性の動体視力であり、静止しているかに見える三十一文字の、ブレやゆらぎを見てしまう、という恩寵にして宿痾ともいえる天稟のせいだ。書いているときに、瞬時で飽きてしまって、もう次のことに気が移ってしまっている。そうして生まれる断絶、飛躍、ジグザグ・・・。これがなければ、遅れてきた秀才歌人として、歌壇で珍重されるにとどまっただろう。そうさせない、いたずらっ子ぶり、甘えん坊ぶり、なんというのか天衣無縫、お下劣を恐れないし、エロも隠さない、抒情に濡れもする・・・・、なんだってやっちゃう。内部に泉を持っているのか、空虚なのか、そもそも「詩」とはその両極にわたされた綱の上を厳粛にわたっていくことではないのか。短歌、その限定性を逆手にとって、広大無辺な器にしてみせる、きわめて正統的な歌人が、いまいちばんアヴァンギャルドに見える!
友人からの私信
こんにちは。 歌集『少年の頃の友達』、拝読させて頂きました。まず全体を通しての感想としては、本当に素晴らしかったです。知人にこういう才能がいるというのは凄いことなんじゃなかろうかと、我が身の幸運を感じました。以下、細かい点について素人の拙い感想をいくつか。 第一章「星隠」、完全な私の個人的趣味として(自分の好みではないけれど他の人は好きだろうなと感じた歌も除いて)素晴らしいなと○を付けた歌は100首中16首でした。気を悪くされるかもしれませんが、最初期の集であるこの章が、割合としては最も○率が高かったです。ただ、この集の歌は、結崎さんの純粋な才気と、結崎さんがそれまでに育んできた美学、および若さという存在の有り様との、幸福な結婚の産物であり、ある種アノニマスな歌であるようにも思えました。 この集で感じいった歌としては、まず冒頭の「朝は空瓶」。先ほどアノニマスとか言ったばかりですが、この歌はとても結崎さんらしい歌だなと。先に言ってしまうと、私が結崎さんの歌のなかで最も好きな射角は、イノセントな少年っぽさから愛嬌のある無頼までのヘルメス的なスペクトルです。A音の連続による動きの素早さと無邪気さにはまさにこの特質がよく出ていて素晴らしいなと。同様に「死んでやるなどと」の歌も跳び跳ねるような身の軽さとあざやかさがあって好きです。 それ以外の歌では、塚本の透明な部分を思わせる「彼とすれちがふと」や「薔薇を吊る」、地上的なものと天上的なものが懐かしく釣り合った足穂の回想を想起させる「きのふ星みし」や「思ひだし大笑ひ」などが良かったです。特に「思ひだし」についてですが、結崎さんは破型のなかでも下の句のリズムを一息で言い切ったり細かく分割したりと工夫することが多いように見えるなか、この歌の5.5.6という等分の音は恰好いいなと。そしてまた、この端正なリズムが歌の清潔感をたかめているようにも感じ、形式と内容の見事な一致をみた思いでした。 次の章である「ディアマンテ/インクリュジオン」、○は100首中7首。冒頭の「鉱石店」は先述のヘルメス的なきらめきと軽さがあってとても好きな歌です。ただ、全体としては第一章の透明性からは一転して、以前とは違うトーンの歌をつくらなければならないという決意からか、塚本の暗い部分や寺山を思わせる(歌には疎いのでこの程度の喩えしか出ないのです)汚辱や頽廃、禁忌を主調にした作が多いように思われ、これは私の個人的な好みからは少し遠かったです。ただ、人によっては一章よりむしろこちらの章の方が好きだったりするのかなとも。 なかでは、汚辱と無垢のぎりぎりな均衡として「夏まひる」。記憶と生/死という数年後のテーマにつながるような「なにもかももう」。章題の由来の半分であり、不純物を詠んでいるのに他のどの歌よりも透明という逆説的な一首「スペインの兵ら」等が好みでした。 次の「野辺に咲く母」は30首中4首の○。私としては、もしかしたらこの章から結崎さんの歌がはじまったのではないかと思っています。「天鳴ると」や「神がみてゐるから」にみえる、いかにも結崎さんらしい骨っぽさと軽やかさの独特な結合は、「星隠」的な美学と「ディアマンテ/インクリュジオン」的な美学が結崎さんのなかで結び付き、個人の特質を触媒としてついに発酵醸成されたその結果ではないかと。 ただ、次の「團欒」は、なにかきわめて頭の良い人が生に倦んじ果てたような雰囲気(それもきわめてクラシックな倦怠感)、ほとんど一高生的ニヒリズムと言っていいような雰囲気が漂っており、これは当時の結崎さんのリアルな感慨だったのか、歌を作るにあたっての趣向だったのかは分かりかねますが、個人的にはあまり好みとは言えず、30首中○は2首でした。 次いで「動く水」はたいへん好きな章で、○は81首中10首。限りなく青い「疾走の少年の足」や、才気抜群の「青年の腿まで」、童話的にきらめく「よく見たら」等も素晴らしいですが、かたちと記憶というふたつの異なる側面から存在の不安を詠んだ「門から門へ」と「忘却といふは」二首の底知れなさには肌が粟立ちました。 第六章「とどこほる管」は、たしか結崎さんと最初に知り合った時に買わせて頂いた薔薇窗の収録歌だと思うのですが、やはり扱っているテーマの重さが私には荷が勝ちすぎていて、読んでいて苦しかったです。○は2首、「うるはしき時よ」と「安楽死」だけですが、これは私の惰弱さゆえだと思っています。なかでは後者が、"すべりはてたる"や"道化師"、"かはくだり"といった言葉の指すところが私には読み解けなかったものの、死というものを正面から見据えながら猶お軽やかに動きのある良い歌だなと感嘆しました。 第七章「ペデロティック」も薔薇窗で拝読させて頂いた歌群ですが、もう二年も前になりますか。いま読んでも「石は夢みる」は超絶技巧な歌だなあとただただ嘆息。括弧内の11を除けば7.7.5.11の三十音でとりあえず音数としてはほぼ定型内。しかし、これだけでは俳句未満の風景デッサンといった趣きで面白くとも何ともない。"飛んでゆきたくなあーい!"という石の声があることで、はじめてこの11音と下の句11音が共鳴して下の句が生き、その結果"真夏の湖の底"は4.5.2という音に細分化され、水の上を切る石のすがたの音声的等価物として、きわめて俳句的な余韻を生じさせる。しかし、既に書いたようにこの機能はどこまでも石の声11音という呼び掛けの言葉によって生じているのであって、その意味でこの歌はどれだけ俳句的に見えようとも根元的に交感の文学である短歌以外のなにものでもないのでしょう。俳句と短歌のあわいの横断に加え、定型を決定的に破壊する11音の付加によってはじめて短歌となるというパラドクス。色々な意味で短歌の限界を探索しようとする野心的な一首であると感嘆せざるを得ません。 そして、「死は死者の」は、塚本の「馬を洗はば」や春日井の「スキンヘッドに」などと並んで私が暗唱できる大して多くない歌のうちの一つですが、結崎さんの歌から一首を選ぶならこの歌だろうなと思います。死者と生者を、死という概念と死者という実体を、二重に転倒させ、そこで唐突な場面転換。しかし"栄螺"の殻は死者の"宿"と重なりあい、その螺旋構造は意味連関的に城砦都市やユートピア、迷宮といった生/死の宗教的関係物につながっていき、豊穣な意味を呼び起こしたところで…、またしても唐突に"糞"が"うまし"とばっさり了。そこに反転的に立ち上がるのは、どうしようもなく在ってしまったからには在らなければならない生そのもの。その切って終わる無頼っぷりはけれどどこか飄々として、やはりヘルメス的です。 最後の章「ひかるくだ」は、○は50首中4首でしたが、正直に白状するとほとんどわかりませんでした。これは好みか好みじゃないかという基準からではなく、良い悪いといった基準からでもなく、ただただもう宇宙人の作った機械が分からないように、どこをどう押すと何が作動するのかがわからなかったです。歌の世界ではおそらく新しい語法が存在するのだろうと推測され、無知な読者でまことにもって申し訳ないです。そんな中では、以前からの死の主題を引き継ぎつつ、犬に対する愛があふれた、「くんくんと」がしみじみ良い歌だなと。 だいぶ長くなってしまいましたが、感想は以上です。結崎さんのこの後の歌がどう続いていくのかたいへん興味あるところ、また歌を発表する時にはぜひ教えて下さい。それまでには少し新しい歌についても勉強しておきます。蛇足ですが、めちゃくちゃ恰好いい本になりましたね。薄紙のカバーを外してあらわれるホログラム箔押しの天使もとても綺麗です。てっぺんからつま先まで完璧にスタイリッシュなのに、奥付のタイトルのフォントだけがファンシーなのには一本とられました。それと、全首索引と全訓が予想以上に良く、歌集はこれからは全部この形式にすべきですね。それでは、そのうちまたお酒でも飲みましょう。