ヴァッサーゴの隻眼
- 1,500 JPY
オリジナル小説(一次創作小説) 著者 奏 みくみ (二次で活動中しはるの別名、同一人物です) Web投稿サイトで公開中の短編三作を収録しました。 1 【オルゴール修理の相談は 質屋『La Luna』へ】 2 【レディードールへ呪いと愛を】 3 【ヴァッサーゴの隻眼】 ページ下にサンプルあります。 A6文庫サイズ 本文198P カラーカバー付(マットPP加工)
サンプル【オルゴール修理の相談は質屋『La Luna』へ】
【 質屋『La Luna』 】 その店は、駅前の商店街中心から一本横に入った小路にある。 『La Luna』 煉瓦の壁に、曇りガラスの窓がある木製のドア。小さなシルバーのピアノ型プレートの看板が目印。店名と外見が小洒落てカフェのようなので、たまに間違えて入ってくる客がいるが、ここは――質屋だ。 アンティーク家具とオルゴールで溢れていて、さらりと長い髪を束ねた、いかにも人の良さそうな青年が「いらっしゃいませ」と微笑み迎えてくれる。さらには、コーヒーや紅茶まで出てくるのだが。 『La Luna』は、れっきとした質屋なのだ。 【 店主と少女とオルゴール 】 クリスマス前の商店街は、緑と赤、金、とクリスマスカラーで溢れ返る。流れるジングルベルや足取り軽い通行人。心なしか、最近カップルが増えた気がする。 彼氏いない歴十七年の東雲さくりは、商店街のド真ん中でじゃれ合う高校生カップルを横目に、脇道へ入った。 シャンシャン響いていた鈴の音はすぐに消え、代わりに植木の中から猫の鳴き声が聞こえる。昨日もいたよな……と思いながら、さくりは『ラ・ルーナ』のドアを開けた。ドアベルがちりんと鳴ると、カウンター席に座っていた青年が顔を上げた。 「おかえり。さくり」 「響生さん、またオルゴール分解してたの?」 「これは仕事」 響生と呼ばれた青年は、カウンターに並べてあった金属片やネジを集め、それらをガラスの蓋付きチーズドームの中へ片付けた。 チーズドーム――本来はチーズやパンの乾燥や埃を防ぐために使われるもの。 何故オルゴールなのだろうと、いつも思う。そのガラスドームの中に本来入れられるものを、さくりは一度も見たことがない。前からずっと、無機質な部品ばかりだった。 「おかえり。さくり」 さくりの名前は『白衣』のアクセントだが、ニッコリと微笑む相手は『白、衣?』とわざとアクセントを変える。さくりは「あ」と肩をすくめた。 「ただいま。響生さん」 「今日はバイトじゃなかった?」 響生――南雲響生は、さくりの「ただいま」を聞くまで何度も「おかえり」を繰り返す。 否、それだけではない、「おはよう」から「おやすみ」まで。挨拶プラス「響生さん」がセットだ。この流れが無いと、響生のご機嫌はナナメになる。ちょっと面倒くさい。 「杏奈先輩に替わって欲しいって頼まれて。――響生さんってオルゴール修理が仕事だったっけ?」 「頼まれたら有償でするよ。お金を貰えば立派な仕事」 「質屋はどこにいったのやら。カフェなのか家具屋なのかオルゴール屋なのか……もうごちゃまぜだよね」 さくりが座れば、響生が立つ。カウンターに入りお茶の用意をし始めた響生は「本業もしっかりやってます」と笑った。 ――アンティークの家具が並び、いたるところに大小様々なオルゴール(オルゴールもほとんどがアンティークらしい)が置いてある店内。値札は無いけど、どれも売り物と聞いている。そして、奥にカウンター席が五席。四人がけソファーテーブルが一つ。 質屋には質流れ品の高価な時計や宝石、ブランド品が並んでいるものと思っていたさくりは、家具とオルゴールしかないこの店に初めて来た時「この店、大丈夫だろうか」と心配した。 響生が売り物のチェストから、「店の雰囲気に合わないからここに仕舞っている」と質流れ品を出してきた時は、「本当にこの店、質屋なんだろうか」と若干引いた。 そんな店だが、暇さえあれば「ラ・ルーナ」にいるのは、美味しいケーキを出してくれたり、時には宿題を見てくれるから。 幼馴染の響生が、歳の離れたさくりを、本当の妹のように可愛がってくれるからだ。居心地がとてもいい。 「そっかそっか。お金払えば、オルゴール直して貰えるんだね」 「さくりのオルゴールは、もともとは僕のものだからお金は取らないよ」 「ううん。私のじゃなくてね。杏奈先輩の」 「杏……さっき言ってた、バイト先の?」 「うん」 「それはまた意外なところから」 シフォンケーキとお茶を出し、響生はさくりの隣に座った。 ホイップの上に星型クッキーが乗っている可愛らしいケーキに小さく拍手。しかしその手は、カップの中身と香りに気付くと止めざるをえない。 「響生さん……梅昆布茶っておかしくない?」 「源治さんの老人会旅行のお土産。凄く美味しかったから、さくりにも早く飲んでもらいたくて」 「お気持ちはありがたいんだけど、出すタイミング……組み合わせとか」 「…………」 静かになった響生を見ると、表情筋が死んでいた。さくりは慌ててフォローを入れる。 「あ、温かいうちにこっち飲む! ケーキは後でいいし、その時に紅茶淹れてもらおうかな……ほら、あの響生さんお気に入りのやつ!」 「そうだね! じゃあ、あとで」 「ではでは。いただきます」 (まさか、梅昆布茶をティーカップで飲む日が来るとは……) そう思いながらお茶をすする。日本茶マニアの源治がわざわざ選んできただけあって、味は確かだ。老人会……どこに行ったのだろうか――。もう一口。梅と昆布のバランスが絶妙。 響生は、さくりが何だかんだ言いつつ美味しそうに飲んでいるのを、穏やかな笑顔で見つめていた。 昔から響生の世話好きはさくり限定で、そして、何故か至上主義的なところがある。たまに特別扱いされる分には優越感に浸れていいものだけれど、こうして面倒くさい時もままあり、さくりの胸中は複雑で。本当の兄妹だったら、どうなっていたのだろうと思う。絶対、今より面倒くさいに違いない。 「話を戻そうか。その先輩のオルゴールって?」 「実は、もう預かってきちゃってるんだ。杏奈先輩の怒りが激しくてねぇ……。このまま勢いで彼氏さんと別れちゃうのも、どうなんだろって思ったから」 「さくり。もうちょっと詳しく」 苦笑する響生に木箱を出して見せた。文庫本よりちょっとだけ大きいサイズ感の箱は、小物入れタイプのオルゴールだ。蓋を開けても音は鳴らない。ネジを回しても。 「ね? 壊れてるでしょ」 「……このオルゴールが壊れているのと、先輩が怒って彼氏と別れるかもしれない話は、どこで繋がってる?」 「それは――」 何度も蓋を開け閉めして確認し始めた響生に、さくりは店に来る前のことを話した。
サンプル【レディードールへ呪いと愛を】
【 秘密の部屋 】 透明度の高い肌質、宝石の瞳、今にも喋りだしそうなリアルな表情。滑らかに、しなやかに動く球体関節。 アッシュベリー工房の高級ドールは、噂では家一軒建つと言われるほど高価で、希少価値も高い。 一年に数体造られるかどうか……そもそも、受注も人形師の気分次第。依頼すれば素晴らしいドールが手に入るわけではないのだ。 いつしか、金持ちの間では、アッシュベリーのドールを迎えることが富豪の証と言われるようになった。ゆえに、彼らはこぞって人形師を訪れ、願う。 ……が、森の深くに隠れるように建つ屋敷まで足を運んでも、人形師に会えるのはほんのひと握りの人間。もちろん、面会が叶っても願いを受け入れてもらえるとは限らない。 ――ドールの瞳は、金を積めば開くものではない。 ――ドールの唇は、純粋な想いによって開かれる。 これは、先々代……フェリルの祖父の言葉だ。 アッシュベリー家は、代々続く人形工房。 人形といっても、ただの人形ではない、等身大ビスクドール。 このドールを創造するには、大変特殊な技術と能力を必要とする。 たとえ後継者であったとしても、才能に恵まれた者とそうでない者の差は激しい。創造主になれるか、修理師で終わるか。一族の英才教育を受けても、持って生まれた才能が、最後はものをいう。 フェリルの祖父は、一族の中で最も優れた才能を持つ人形師だった。生み出したドールの数も歴代最高。 逆に父は創造の才に恵まれず、また、修理工としてもあまり腕が伸びず。苦悩の中で家を守り続けた人だった。 そして、フェリル。フェリル・アッシュベリー。 幼くして父を失い、アッシュベリー家当主になった彼女は、祖父をも超える才能を持っている。本人はまだ自覚もなにも感じていないが――。 「お嬢様、Mr.ウェンズから修理の依頼が入っております。いかがなさいますか」 朝食後のお茶を淹れながらルカが言うと、フェリルは首をちょこんと傾げた。 「ミスター、ウェンディ?」 「違います」 はぁ……と、ため息をつき、ルカは「No.633です」と返す。 フェリルは視線を斜め左に向け、しばらく考えたあと「ああ!」と笑った。 「あのドレス店のブロンド乙女ね!」 「そろそろ、ドールのナンバーではなく、オーナーの名前で覚えては……」 「ルカが覚えているし大丈夫」 「まぁ、そうですが……それを言われると元も子もないというか……。先代も先々代もキチンと把握されていましたよ?」 「ルカはお祖父様が生きていた時はこの屋敷にいなかったじゃない。なんで分かるの? それに、お父様もよく依頼主を間違えていたわ」 「……」 もう一度深くため息をついたルカが、両手を軽く上げ小さく笑った。 「分かりました。私の負けです」 「ふふっ」 「ですが、お嬢様。先々代が、依頼主とドールのことを全て把握されていたのは事実です。先々代に一日も早く追いつきたいのであれば、その辺りもお勉強なさった方がよろしいかと」 「……」 抑揚がないルカの口調は説教じみていて、妙な迫力もあり少し怖い。負けたと言ったくせに全然負けを認めていないじゃないのよ。 フェリルは頬を膨らませ紅茶を飲んだ。 「それで? 依頼の内容は?」 朝日に輝くアイスブルーの瞳は、No.633のブロンド乙女とよく似ていた。名前云々はともかく、ドール本体の子細は頭に入っている。そう、全てのアッシュベリードールのカルテがフェリルの頭の中にはあるのだ。 「両頬に薄い縦ひびが出現したそうです」 「両頬に……縦のひび」 彼女が住んでいるのはドレス専門店――沢山の女性がパーティードレスをオーダーしに集まる場所。 新作のドレスが発表されると必ず、それを着て店に立つ――最高のモデルに最先端のドレス。これ以上の宣伝効果はない。No.633は、マネキン人形として店にいる。 「《Birthday》かしら……」 「どうでしょう。泣いているように見えるので困っている、とは仰ってましたが……」 「新しいドレスを着て泣くなんて。ウェディングドレスなら嬉し泣きかな? って分かるけど」 「……」 フェリルは人差し指を唇にあて、じっと考えた。 《Birthday》とは――人形に命が宿ること。 童話ピノッキオは、木の人形が女神から命を与えられ、良心をもち試練を乗り越えたことで、意思を持つ人形から本当の人間になれたという話。 アッシュベリー家最高の人形師・フェリルの祖父は、この童話に出てくる女神に似た能力をもっていた。 精巧に造られたドールにかりそめの魂。 だがそれは、祖父自らの意思で与えられる訳ではなかった。また、全てのドールが命を手にするとも限らない。どのように意思が生まれるのか、童話のようにやがて本物の人間に成り得るのか。 まだ誰にも解らない。 ゆえに、彼は決めた。 そんなドールを世に置いておけない。何か起こってからでは遅い。 壊してしまえば、宿ったものも消えるはずだ。回収しなければ――と。
サンプル【ヴァッサーゴの隻眼】
【 丘の上の図書館 】 天涯孤独だと思っていた。 両親の事も自分の素性も何一つ分からない。 生後まもなく施設の前に捨てられていたらしく、名前以外は一切不明。詳しい事情を知る人も、もちろん迎えに来てくれる人もいなかった。曲がらずに生きてこれたのは寮母さんや沢山の仲間たちのおかげだ。血の繋がりが無くても、あたたかな家族が私を支えてくれた。人より少し特殊だけど、それなりの幸せ……味わってきたと思う。 そんな私をずっと探し続けていた祖父がいたのだと知ったのは、大学進学も決まり、高校卒業を目前にした時だった。 「鈴原陽菜さんだね。はじめまして」 施設に私を迎えにきた人は、背の高い若い男性。 祖父の所有する私設図書館で司書を務めているという彼は、祖父から私の存在を聞き、そして「孫に全てを」という祖父の遺言を守る為に私を探しだしてくれたのだ。 「あなたは?」 「成瀬祥一朗と言います。鈴原氏にはとてもお世話になったんだ。聡明で優しい人だったよ」 長い前髪の奥で、懐かしそうに、そして悲しそうに細くなる瞳。 成瀬さんもとても優しい人なのだと、その瞳を見た時に私は感じた。 ◇◇◇ あの時から一か月と少し。新しい生活にもようやく慣れてきて。私はお祖父ちゃんの図書館【鈴原文庫】を継いだ。 「……ヒマだなあ」 もちろん図書館の事なんて全然わからないから、ここで長年司書をしてる成瀬さんに頼りっぱなしの名前だけ館長だけど……。 「図書リストでも見て勉強するか……って、うわ! 字、雑! 酷すぎる!」 パソコンの無い図書館での蔵書管理は、アナログな手作りリストファイル。しかも前館長――お祖父ちゃんの手書きときた。開いたファイルを見て思わず私は文句が出る。なんだこの字…… ミミズかっ! 「文雄さんの字は特徴があるからね……読むのはコツがいるよ?」 「成瀬さん!? いつの間に?」 「リストチェックか……陽菜さんは仕事熱心で助かるな。でも、リストなら僕が全て把握しているから大丈夫だよ」 「全て? 全部覚えてるんですか!?」 私設といえど蔵書数はかなりのものだと思うこの図書館。ここにある全部の本を覚えてるって……成瀬さんの頭脳はどうなってるんだろう? 大した事ないと謙遜する成瀬さんを見て、「んな訳あるか」と心の中でツッコミ。何冊あると思ってるんだ。しかも二階は全部洋書! 十分大した事ある。あり過ぎる! 「文雄さん、来館者の案内はとにかく苦手だったからなぁ。それに、リストを作ったもののよく解らなくて、本に関しての問い合わせは僕が担当してたんだ。だからリストの把握は必然的に必要だった……それだけだよ」 「自分で書いた字が読めなかったとか……ありえない。お祖父ちゃんて一体……」 頭を抱えた私に成瀬さんが目を細める。さらさらとした彼の前髪が揺れて、その奥に見えた瞳の色に思わず私は目を奪われた。 青みを帯びた黒色。綺麗。 いや、綺麗なのは瞳だけじゃない。スラリとした高身長。白い肌。瞳と同じ色のサラサラな艶髪。表情豊かではないけど、それも魅力にしてしまう程、この人は綺麗だ。 眉目秀麗、頭脳明晰――その言葉がぴったり当てはまる人物に出会ったのは初めてだった。 だから、仕方ない。見とれてしまうのは仕方ない。……これって言い訳っぽい? だってね。突然「迎えに来ました」なんて現れて。色々助けてくれるだけじゃなく、優しい態度や言葉で側にいてくれる。王子様でしょ……これは。たった一か月で慣れろ、と? 絵本に出てくる様なイケメン王子様を前にドキドキするなって言う方が無理な話だ。 それに成瀬さんって―― 「……さん、陽菜さん?」 「は、はい!」 思考は低い声で遮られる。 居眠りから覚めた様な感覚の後は、全身が熱を持った感覚に。目の前に、成瀬さんの端整な顔があった。 「来館者もいないし、少し休憩しようか?」 耳元でテノール。 成瀬さんはいつも距離が近い……。 ◇◇◇ 今日の天気は朝から雨。 でも、来館者が少ないのは雨のせいじゃない。これが普通、日常的。この図書館はやたら来館者数が少ないのだ。それは何故か。理由は沢山あって……。 一つ目。街の中心部には、ここよりはるかに大きい市立図書館がある 二つ目。町のはずれ、しかも丘の上の私立図書館は利用には不便 三つ目。置いてある本がマニアック(成瀬さん談) と、こんな感じなんだけど、私はやっぱり決定的な理由はこれだと思う。 四つ目の理由。幽霊が出るともっぱらの噂 図書館と隣に建つ住居の屋敷は、大正時代に建てられた洋館というアンティーク度の抜群さ。外観も内装も歴史の重みを受けてかなり雰囲気がある。 だから、丘の上に人目を避ける様に建つ古い洋館――しかもそこには幽霊が……という噂がついてまわれば、避けられるのも納得かな。実際、私も初めてここを見た時は空気に圧倒されて言葉が出なかったし。 ただの噂でしょ、そう言って笑う人は少なくない。ここに来る利用者の大半がそうだ。 彼らは、噂だと思っているからこそ来る。 雨は相変わらず降り続いてた。微かな雨音が、私の居るカウンターにも届く。 成瀬さんが淹れてくれた紅茶で休憩した私達は、再び午後の静かで暇な時間から逃れる為に、お互いの作業に戻ることにした。 成瀬さんは二階の司書カウンターへ。私は解読難のリストとにらめっこしながら貸し出しカウンターに。 あまりにも難しい読書のせいで眠気と戦っていたその時だった。 「すみません」 女性の声が頭上でする。 いけない。戦ってた筈がいつの間に負けて居眠りしてたみたい。誰かが来館したのに全く気付かなかった。はっと我に返った私は顔を上げた。 「………あ」 「《ヴァッサーゴの隻眼》を探してるんです」 目の前には俯いた女性。人が苦手なのか、私とは目を合わさず立っている。 「《ヴァッサーゴの隻眼》を探してるんです」 彼女はもう一度同じ事を言った。雨の中やってきたその女性は、全身びしょ濡れだった。 「あの……大丈夫ですか? 傘は――」 「…………」 「寒くないですか?」 「…………」 うーん…… 。 無言の女性に、しかたなく館内案内図を取り出してカウンターに広げる。 私がそれを指さすと、女性も長い髪を揺らし近づいてきて案内図を覗き込んだ。 雨の香りが女性からした。……濡れた土の香り。 「二階の一番奥、司書カウンターがありますからここへ。うちの司書がご案内します。すみません、私新人でまだちゃんとご案内出来ないものですから……」 「……二階……司書……」 カウンターの上にパタパタと滴が落ちる。自分の髪から落ちる水を気にもせず、女性は単語を繰り返した。 「………あの」 その状態で行くつもりなのかな? と私は困ってしまう。長いスカートからも滴は落ち続け、床だってすでに相当濡れてるっていうのに……図書館中を水浸しにするつもりだろうか、この女性は。 「ちょ、ちょっと待ってください。今タオルを……」 奥の事務室に確かあったはず。私は女性に声を掛け、タオルを取ろうと事務室へ振り返る。でも、その瞬間背後で声を聞いた。女性の「二階……」という呟き。低く抑揚の無い声に背筋が思わずぞっとした私は慌てて彼女を見た。 女性が、いない。 「……!」 今そこにいたはずの人が消えていた。それどころか、あんなに濡れていたカウンターや床も濡れていなかった。 まるで時間を巻き戻したかの様にそこは綺麗で、誰か――雨に濡れた女性がいた形跡は全く無く。一分足らずの出来事が奇妙な記憶として私に残る。 ああ……そうか、と奇妙なそれは納得いく理由に変わった。 「また、か……」 脱力した私は椅子に勢いよく背中を預けた。カウンターから見える階段を見つめて、成瀬さんはどうしてるのかと考える。あの女性は、私の案内通り彼のところへ行った……? この図書館には幽霊が出る。 それは単なる噂でしかないはずなのに、実際ここに近寄る人は少数でしかない。 何故か? 多分、みんなは無意識の内に何か感じているんだと思う。 ここは怖い ここは危険 近寄りたくない そんな感じのものを。 最初私がこの洋館を見た時に感じた、言葉も出せないほどの圧倒的な重い空気を。 この図書館には幽霊が出る。噂なんかじゃない。本当だった。 『彼ら』はここに現れる――。 私がその目撃者だ。