[完売]むせぶ/那楚小説本/近代パロ/文庫
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むせぶ / 近代パロ / 那楚小説本 / A6(文庫サイズ)/110p 2021年5月に発行したネットプリント版を加筆修正して文庫にまとめたので、ストーリーは変わってはいないものの既に読んでいただいた方も楽しめる内容かと思います。山奥の洋館で生活する謎の紳士と逃亡者が出会う話。近代パロ。 ⚠︎犯罪描写あり。 ⚠︎いつかweb再録する可能性あり。 ⚠︎モブとか捏造とか諸々あり。 ⚠︎とにかくなんでも楽しめる方のみどうぞ!
sample(冒頭〜23p)
かすかにではある。しかし確かに、声が聞こえる。小刻みに揺れる寝台の音、その隙間に、時折わずかに加わるのだ。湿り気を帯びた、ふたつの溜息と共に。 あの人が誰かに抱かれていると、直感的にそう思った。喉の表面を空気が撫でていくような、そこに思いがけず混ざってしまうような、そんな声だった。寝台の音が激しくなるにつれてどうも堪えきれなくなるようであった。 先日、夜中にふと目を覚まし、厠に立った時に初めて聞いた。今日で二度目である。 些か信じがたい事ではあった。いつも目前にいるあの人と言えば、優しい眼差しをしていて、爽やかで、品の良い風体で、穏やかに、ゆっくりと話す。美しい横顔を作り出す、額と鼻の形が那貴は気に入っている。しかしどうにも性に結びつかない。とはいえ欲望ならば誰にでもあるし、わかっているなら放っておけばいいものを、相手に関しちゃ唆られないが、この声の主の表情だけはどうしても気になる。唾を飲み込んで厠の手前の廊下に立ち尽くし、体を固めて息を潜め、近くにあった窓を静かに開けては、注意深く耳を澄ました。察するに、二階の奥の間である。那貴が立っている場所から、ちょうど真上に位置している。 ここに来て、もうすぐ一ヶ月が経とうとしている。足はとうに治っているというのに、まだ踵を引き、痛むふりをしている。だから那貴は、今も尚この場所で寝泊りをしている。 その雨は、世界を丸ごと流さんとするばかりの嵐に発展した。道すがら、だんだんと雲行きが怪しくなっていたことに那貴は気付いていた。けれどどうしても急ぎでその山を越えねばならず、先を急いだ。降り出した雨は一気に森を濡らし、土を緩めた。その内に風も吹いて来て、たちまちに立っているのも儘ならぬ横殴りの雨となった。甘く見た。自分の足力を見誤ったのもある。 これでは山越えどころの話ではない。雨風を凌げる場所を探したが、見当たらなかった。何しろ全ての木々の葉を押して落ちてくるものだから、物陰も何もあったものではなく、土だと思っていた場所はあっという間に泥になり、足元を流れた。進むしかないと考えて進んだ道の先は崩れた土砂があった。引き返そうと振り返ったらずるりと体勢を崩し、足を滑らせた。よく見たらこれまで通って来た道がなくなっており、斜面から大量の水が流れ出ていた。ここに居たら間も無く自分も土砂に飲み込まれる。しかし為す術がない。ざあざあと打ちつける雨に殴られつつ、那貴は尻をついたまま、立ち上がらなかった。眼を細めると水が入るのを多少防げたからそうしてみた。 体力が奪われ、疲労感が積もっていく。雷の音も聞こえる。まぶたを閉じてみると全ての出来事が自分とは全く関係のない場所で起こっているように感じられた。肩で息をしていたら、唐突に頭が冴えて来た。 ああ、死ぬかもしれない。 実につまらぬ人生であった。このような形で生涯を終えるとは、それ相応の仕打ちと言えど、いくらなんでも虚しい。結局自分は何のためにこれまで生きてきたのだろうか。ここで泥にまみれて死ぬならば、無様な死体は誰にも見つからずにせめて土に還りたい。けれど自分のような人間の願いなど叶うはずがなく、雨が止み、明るい日の光に晒されて、腐って蝿がたかったそれを、いつか誰かが見つけてしまうことだろう。もしもそうなればその人が大変に気の毒だ。せめて善人でさえなければ良い。良い人であったら流石に気が滅入る。しかしまあどちらにせよ、その人自身に運がないから誰のものかもわからない死体を見つけてしまうわけで、そのせいでしばらく飯が食えなくなったとしてもそれはそれで仕方がないことかもしれない。ただ一つの幸運と言えばこの鞄を一緒に見つけて生活の足しにすることだが、こんな得体の知れぬ怪しいものを持ち帰るのは悪人がすることであり、善人なら警察に提出するだろうし、結局は残念な出来事にしかならない。いや、そもそも死んだ後のことなんて自分には関係がないことだ。なんせ死んでいるんだから。死後の妄想にふけった後、何てどうでも良いことをと思い直し、こんな生きるか死ぬかの瀬戸際のところで、妙な余裕をかましている自分を鼻で笑った。まあ、もう良い。仕様が無い人生だったが、ここまでよく生きた。一旦諦めたら、来世は虫けらだとしても、その次くらいにはまた人間に生まれて、今度は良い暮らしが出来るかもしれない。いいや、そうまでしてまたこの世に舞い戻りたいかと聞かれたらそれも怪しい。出生など賭けのようなもので、その有り様によっては、生まれぬ方が幸いかもしれないのだ。 そのとき不意に、「おい」と声がした。叫ぶような声だった。那貴は雨が入ってくるから殆ど目を瞑ったままでいた。確かに聞こえたその声を一旦無視した。幻聴だと考えた為である。虚しさを感じているとは言え、幻聴にいちいち耳を傾けるほど既に今世に執着もしていない。すると雨の音が一層増し、その中でもう一度、「おい、君、生きているか。こちらに手を伸ばせるか」と、必死に安否を気遣う声がした。同じ声であった。那貴は目を開けた。「これが替えの服。寝間着だが、もう夕刻だから良いだろう」 初めて明かりの元で彼を見たとき、大人しそうな人だと思った。ちょうど良い大きさの聞き取りやすい声で穏やかに語りかける。 「よく見つけましたね。この大雨のなか、その窓から見えたのですか、私の姿が」 「私は目が良い。夜目も効く。土砂崩れが起こったと思って覗いてみたら近くに人影が見えたからまさかとは思ったが、我慢できず飛び出してしまった」 「そうでしたか。貴方まで危ないことになるかもしれなかったのに。しかし本当にありがとうございました。おかげで助かりました」 「礼は良いから急いで体を拭きなさい。このままだとお互い風邪を引く。私も着替えてくるから」 那貴の目からして、彼は自分よりもいくらか歳上に見えた。その割には話している最中に随分と屈託のない笑顔を作る人で、顔が綻ぶたび、目尻に年相応らしい皺ができるものの、表情だけで言うならば幼くも見えるのが特徴的だった。一見しただけでは通り過ぎてしまうかもしれないが、じっとよく見てみると、すっと通った美しい鼻筋、二重瞼だが丸っこくなく切れ長の瞳で、全体的に品のある顔立ちである。 玄関先で泥を落とした。那貴はそこで荷物を降ろし、着物を殆ど脱いだ。雨に打たれていた時間が長かったせいか、温もった手ぬぐいで汚れを落とし、乾いた布で体を拭いて借りた服を着ても、一向に冷えたままであった。どうも芯から冷えているらしく、震えがなかなかおさまらない。 「君、すまないが天気のせいか、風呂が上手く出来上がらない。こちらにおいで」 別室で着替えをし、戻ってきた彼は那貴を室内に招き呼んだ。 「もし宜しければ熱い茶を一杯頂けますか」 「勿論。少し待っていなさい。ああ、これを貸そう。気が利かなくて申し訳ない。後からもっと温かい物を貸してあげるから、一先ず」 そう言って手渡されたのは羽織りであった。那貴は恐縮した。 「私がお借りしてしまえば今度はご主人が寒くありませんか」 「私はもう寒くない。もともと体温が高いんだ。それに、大丈夫、羽織ならまだあるから」 借りた羽織りは彼の体温で温もっていた。彼は那貴が袖を通すのを確認してから台所へと消えた。那貴は一人取り残された部屋でまじまじと周囲を見回した。電気は通っていないらしくそれらしいものが見当たらない。いくつかの蝋燭で灯される限りしかじっくりと見ることは出来ないが、随分と豪華な家である。こんな山中の洋館に住んでいるこの人は何者なのだろうかと単純に不思議に思った。天井まで作りつけてある棚に本がびっしりと並んでいる。 「何か面白いものはあったかな」 那貴はびくりとして振り返った。緑茶で良かったか、と微笑む顔があった。 「失礼致しました。とても立派なお屋敷でしたので」 「一人で住むには広すぎるのだけれど。両親から引き継いだものだから、そう言ってもらえると嬉しいよ。さあ、もし嫌いでなければ何か腹にいれるといい」 そう言って、蒸した野菜と佃煮、味噌汁が中央に置かれたテーブルに並べられた。那貴は椅子に促され、茶を一口飲んだ。こんなにも冷えていたのかと驚くほど、体内に熱く沁みた。 「もし飲める口ならと思ってウイスキーも持って来た。体が温まるしよく眠れるよ」 「こんな良い酒が飲めるなんて死にかけてみるものですね」 「ハハッ。面白いな、君は」 繊細なグラスに注がれた黄金の液体が、テーブルに置かれた燭台の光で一層美しく映った。芳醇な香りが那貴の鼻先をくすぐった。 「初めてか、ウイスキーは。好き嫌いはあると思うが」 「いいえ、何度か。僕は好きです。炭酸水で薄めるより、そのまま飲むほうが」 「そうか。分かる口で嬉しいよ」 本当に嬉しそうにまた顔を綻ばせた。彼はグラスを差し出した。 「君、足を怪我しているんだろう」 「ああ、気付かれましたか。あのような大雨の中で山にいたことも、それで足を滑らせたことも、本当に間抜けで恥ずかしい。しかし雨が止んだら出て行きます。これ以上、ご迷惑はおかけしませんので」 「そんなこと。迷惑ではないから、君さえ良ければ足が治るまでここに居たらいい。先を急ぐのかもしれないけれど、その足ではこの山は越えられないよ。無駄に広い屋敷だから、君があと三人くらい居たとしても歓迎できる。部屋は充分にあるんだ」 「流石にそこまで厄介をかけてしまうのは申し訳が立ちません」 「気にしなくても良い。ちょうど喋り相手が欲しかったんだ。ほら、こんなところで一人で暮らしていたら、普段誰とも会話をしないから」 彼はそう言って立ち上がり、那貴の足元にしゃがんだ。見せてみなさいと言われて差し出した足首は仄暗い室内でもしっかりと見てとれるくらいに赤黒く、大きく腫れていた。 「これは骨が心配だ」 言いながら、どこからか救急箱を出してきて、湿布を貼り、添え木を作ってからきつめに包帯を巻いた。 「整形外科は専門ではないが、私は元々医者だった。何かあっても、普通よりかは知識がある。安心してくれたら良い」 優しく笑いかけ、骨に異常があったら変なふうにくっついてしまうからやはり今はあまり動かさないほうが良い、と付け足した。道理で痛いわけだと観念した那貴は「お言葉に甘えさせて下さい」と言って頭を下げた。 豪華な家で暮らしているとは言え、使用人もつけず、本当に一人でいるようだった。余っていた多くの部屋のうち、一階の客間を借りた。雨は翌朝には嘘のように止んで、昨日の反動か、抜けるような青空の元、朝から太陽が強く照りつけていた。カーテンの間から日光が差し込んでいたが、疲れもあって昼過ぎまで眠りこけた。目を覚まして起き上がろうとした時、足がびりびりと痛んだ。 そう言えば、俺は足をやっていた─── 那貴は昨晩のことを思い出し、ため息をついた。足を気遣いながら上半身だけを起こし、視線をずらすと、ずぶ濡れになって玄関に放置していたはずの鞄が丁寧に拭かれて、出入り口の脇に置かれていることに気が付いた。染みだらけになっている革の、どこにも泥がついている痕跡がない。あの人がしてくれたのであろう。ふと中身は見られたのだろうかと考えた。しかしもし見られてしまったとしても、何ら問題はない。盗まれていないかだけが心配だ。親切そうに見えたとはいえ、腹の内は昨日今日会ったくらいでは分からない。 那貴は、普通に歩けるようになるにはどれくらいかかるのかを考えた。冷静になってみると相当痛む。だがなるべく早めに動き出さなければならない。時間は充分にかけた。ありったけの甘い言葉もかけた。経験上、一月はまずばれることはない。二月目にあれ、と思い始め、三月が経つ頃にようやく気付くのだ。それまでに出来るだけ遠くに行かねばと考え、逃げたのであった。 そう言えばあの人に名を名乗るのを忘れた。那貴はどの名前を使おうか悩みながら、寝台のすぐ上にある窓にかけられたカーテンの、手の届く方だけを開けた。窓を押すと、たっぷりと水分を含んだ緑の香りがした。それからぼんやりと空を眺めていたら足音がした。コンコンと扉を叩く音がして、「起きたか」と訊いた。 「ええ、起きました」 ドアを開けると、彼は心配そうに顔を出した。 「朝食を作ったからさっき様子を見にきたのだけれど、そのときには君はまだ寝ていたから、鞄だけを置いておいたんだ。勝手に申し訳なかったな」 「いいえ、ご親切に何から何までありがとうございます。ところで先生、中身を見ましたか?」 「ああ、悪いが、中にも泥が入っていたらと気がかりで開けたんだ。大切なものだったらと思ったが、大金だったから驚いたよ。中身は大方濡れていなかったから良かった。革の鞄は凄いんだな」 何事もないような顔で大金を目にしたことを彼はすんなり認めた。那貴は、何から何まですみません、ありがとうございます。そう前置きをして、「示談金なんですよ、実はね」と言った。それを聞いた彼は眉をそっと上げた。 「しかし厄介な相手でね。渋々ですよ。先方が原因でこっちは父親が死んでるって言うのに。弁護士の前でこれを渡されて、そのまま逃げるように来たわけです。汽車に乗れば良いとも思ったのですが、念には念を入れまして。逆恨みでもされて何かあったら困るので。都会の人混みの中では誰かの悪意に気が付きにくい。それに、汽車に乗るよりもこちらを歩く方が、近道でもあったので」 「大変だったんだな。改めて、無事で良かった。中身には勿論手をつけていないが、大事なものだ、一応確かめておいて欲しい。でも、それなら君、家族が心配するのではないか」 「うちは代々呉服屋を営む家系でして、今現在で路頭には迷っておりませんのでどうかご心配なさらないで下さい。むしろ少しの間ここに隠して頂くことは私としても助かる。家族にはしばらく仕事で都会に行くと言っているので私が帰ってこなくても心配しないでしょう。なに、水面下で進めていたこの話をね、うまくいかせて、驚かせてやりたかったのです。仇をとったぞ、ってね。先ほど誤って動かしてしまいましたが、先生の言うとおり、やはりまだ歩くことは無理そうです」 「もう私は医師ではないから、その呼び方はよしてくれ」 「ではどのように?」 「楚水でいい。失礼。名乗っていなかったな。そう言えば、君の名前もまだ聞いていなかった」 「那貴です」 普段ならば絶対にしないのに、なぜか本名を名乗っていた。山奥で、これっきり二度と関わることがない人だと判断したからかもしれない。那貴は一瞬、自分の口に自らも驚いた。しかしたまには本名も使ってやらねば腐る。 楚水は「わかった」と頷き、「朝食を持って来るから待っていなさい」と言った。きつく握られたおむすびと、味噌汁と、漬物だった。寝台の上に盆を置いて、そこで食べた。楚水は少しの間近くに座り、世間話をしながら那貴が食べる様子を見ていた。 「美味しい」 と言うと、それは良かった、と言って微笑んだ。 以上が、那貴のここに至るまでのいきさつと、楚水との出会いである。閨の音を初めて聞いたのはそれから間も無くのことであった。殆ど自給自足をしていると言っていたわりに、たまに肉であるとか魚であるとか、とにかく動物性の物が出た。台所の酒が増えたりもしていた。いつ山を降りているのだろうと不思議に思っていた。この周りに隣人でもあるのだろうかと考え、特に尋ねたりはしなかった。恐らく誰かが楚水を訪ねていて、その際に持ってくるのだと思った。 楚水は、日中は畑の手入れ、昼から夕方までは部屋に籠って何かの仕事をしているようだった。楚水が仕事をしているらしい書斎は、那貴が借りている部屋の隣にあって、そこに入ったら夕刻まで殆ど出て来ない。そしてそれから食事を作りに行く。実に堅実な生活ぶりである。楚水の料理は那貴の口によくあって、美味しい美味しいと言うたびに目を細めて嬉しそうに笑った。見ず知らずの自分のためにここまでよくしてくれるとはと純粋に考え、良い人間といると心が安らぐと思った。せめてお金は払わせて下さいと言っても、充分あるから問題ないよと言われた。 一度目の音があった時、翌日にかまをかけた。朝食をとろうとしていた時だった。杖をついて食堂に行き、椅子に座っていたら台所から楚水が戻って来た。先生、と呼んだ。 「昨夜、誰かいらしてましたか?」 そう質問を投げかけてみた。楚水は顔色を変えず、テーブルに盆を置きながら、「なぜ」と首を傾げた。 「二人分の足音がした気がしたので」 那貴が言うと、楚水は目を逸らして、 「風の音だろ。気のせいだよ」 と、口角を緩く上げ、呟くように言ったのだった。 もう、堪忍してくれ。壊れてしまう────。疲れ切った様子の声がして、少ししたら音が止んだ。那貴は静かに窓を閉めた。随分と色気のある声が出るものだ。一人で暮らしている元医師で、毎日真面目に生活をして、穏やかで、親切で、時折、誰かに抱かれている。 十日経つ頃には足の腫れはかなり引き、骨には異常がないことが分かった。それでも痛みがあるふりをして踵を引きずったのは、単に興味が湧いてしまったからである。誰が会いに来ているのか、そして誰があの人をああやってなかせているのか。他人の閨事にここまで興味を持つなんて、下卑ていて、野暮である。そんな場合じゃないくせに、早く遠くに行かなければならないのにと、わかっていながら、那貴はまだこの屋敷に残っているのだった。 (続きは本編でお楽しみください)