【花の栞を】汐色バルコニー【新刊】
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A6(文庫サイズ)/86ページ(4㎜) 人魚姫パロ。 あるとき人魚のミスラは人間のお姫様の晶を気まぐれで助けたが、そのときを境に魔力がほとんどなくなってしまう。当然そのままではいられず、魔力を取り返しに城へ向かう話。
サンプル
むかしむかしあるところにお姫さまがいました。お姫さまは寝る前にお部屋のバルコニーに出るのが好きでした。夜のバルコニーの外には大きな真っ黒な海が広がっていて、いつもは波の音だけが響いています。月が明るい夜にだけ、その波の音の間から歌声が聞こえてきます。耳を澄ませると聞こえるテノールの声。押しつけがましくない、それでいて、柔らかくも芯のあるその歌声を聞くとどんな辛いことも耐えられるような気がしました。 この夜も、船上でのパーティに出たお姫さまはその歌声に耳を澄ませます。 深い海の底。光も届かないようなそんな場所で力強く羽ばたく、赤い鰭が海中を横切った。目の前を一瞬で通り過ぎた彼の水圧で大岩がずれるのを、ムルはじいと見る。薄っすらと笑みを浮かべてその怜悧な面差しを深めた。それも束の間、すぐに別の物へ興味を移してぱ、と目を輝かせた。 冷たい海水が滞留する北の海。そこに建てられた、あるいはかつて陸から沈没した、大きな宮殿めいた建物。赤い鰭の人魚がそこへ泳ぎつき、速度を緩めた時、宮殿から小さな体の人魚が二人泳ぎ出る。片方が黒地に白い模様、もう片方が白地に黒い模様。二人並び立つとハート型になる。 「やっと戻ったかミスラよ」 「半月ぶりのお帰りじゃの」 呆れたように双子の人魚が言う。 北の海を根城にしている人魚はそう多くはない。他の海になれば事情は違うだろうが、この北の海は強さがものをいう。それは魔法の強さであったり、純粋な戦闘能力であったり、まちまちだ。その中でも鮮やかな赤い鰭の人魚、ミスラの強さは目を瞠るものがあった。 ゆらりと鰭の先をはためかせてミスラが双子の前で止まる。面倒です、と顔の全面に描かれていた。 「なんです、絡まないでくださいよ」 「まあそういわずに。今日は楽しい楽しい定例会議。ちゃんと出席するんじゃぞ」 「はあ」 定例会議。北の海は基本自由な人魚の集まりだ。それでもおおまかな方針を定めるために極まれに定例会議を開く。招かれる人魚は北の海を仕切る五人。そのなかでもミスラは指折りの実力者だった。 「面倒です」 「だーめ! 迎えに行くから待っておれ」 「だって今日は満月ですよ」 薄くミスラは笑った。 日没後。ミスラはその自慢の鰭をそよがせて海面に向かう。ざぱりと海面に顔を出すと真っ暗な空に明るい満月が輝いていた。適当な岩場を探して泳ぐ。手ごろな岩礁があり、海面を鰭で叩いて乗り上げる。ひんやりとした海風がミスラの髪を揺らす。大きく息を吸い込んで、テノールの声が響いた。 あたりにミスラの歌が滲んでいく。歌いつづけると海面近くに何かが跳ねる。 「……来た」 ミスラは眠たげであった瞳を光らせて海に潜った。満月のような明るい月の時に、歌を聞かせると近寄る魚がいる。通常人魚は魚を主食とはしないが、それが絶品だとミスラは言うのだ。いいだけ魚を食べたミスラが仰向けになり、海面に背を預ける。ぷかり。ぷかり。 遠くに雷鳴が響く。最近暑い日が続いていて、日没の近い頃に雷雨になる。あっという間に月が雲に隠れたところを見るに今日のは少々酷いかもしれない。そう思ううち、ぱたぱたと顔に雨が吹き付けてくる。それが不快で海中に潜る。すぐに海が荒れて流れが速くなる。その程度で流されるはずもないが、遠くに何かが見える。船底だ。陸に住む人間の持つ船。 人間は人魚を獲って食うという。鱗の一枚まで高値で売りさばかれ、体の一片も残らない。だから決して人間に見つかってはならないというのが深海での常識だ。それを恐れるミスラではないが、それでも幼いころから刷り込まれた常識が警戒心を掻き立てた。 潮流に流された船の速度が上がる。完全に流されるままという有様のそれが、海中のミスラの前を通過した。そうして、先ほどまで腰掛けていた岩礁に船体をこすりつけ、傾いだ。それをミスラは無感動に眺めた。 その時。ざぷんと音を立てて、ミスラのすぐ目の前に何かが落ちてきた。瓦礫というにはまろやかな形のそれはどうやら人間のようだった。裾の長い服を着て、長い髪が海水にそよいでいる。これまで人間をそばで見たことがなかった。思わず覗き込む。 「……ふうん」 顔立ちは自分たちと変わりない。皮膚は柔らかい、というより弱い。服の裾から中を見ると長い二本の『足』というらしいものが生えている。体は小さく、すぐに藻屑と流されてバラバラになりそうだった。こげ茶の長い髪がふわりふわりと靡いて、眠っているように気絶した顔が薄暗い海中に晒された。 こんな生き物の何が怖いのだろう。魔法も使えなければ強くもなさそうな、こんな。不可解な気持ちで眺めていると、がぼりと人間が空気を吐いた。苦しそうに顔が歪む。ミスラはしばらくそれを眺めて、人間が水中で息をできないことを思いだした。人間の肩と、足を支えて海面に向けて鰭を叩く。海上へ出ると、空気を得て人間が大きく咳込んだ。意識はまだ無いようで、ぐたりとまたミスラに体を預ける。月の下で見る人間は、肌が白くて、顔は存外あどけない。顔に張り付いた髪を摘まんで避ける。滑らかな頬に触れるとミスラの手とそう変わらない温度をしていた。柔らかかったからだが硬くなってくる。 この人間はどこから来ただろう。浜に落とせばこの人間は生き延びるだろうか。このまま命を落とすのを見つめて、海中に持ち帰ってみようか。人間の骨なんて深海では珍しい。そう思って、とぷんと体を抱えたまま潜る。次第に人間の顔が苦悶に歪んで、ごぼりと泡を吐く。徐々に歪んでいく苦し気な顔をじいと見ていた。空気を求め泡すらも出なくなった口がはくはくと動く。 ほんの、気まぐれだった。ミスラがえら呼吸で得た酸素を口腔内に溜める。力なく動く紫色の唇にそっと自身の唇を重ねた。やわらかいけれど、海水と同じ温度だった。ふ、と酸素を吹き込むと冷えた体がぴくりと跳ねた。重ねたまま呪文を吹き込むように唱える。 「『アルシム』」 海中に扉が現れる。開いた扉の向こうは浜辺へつながっていて、とめどなく海水が流れ出た。ミスラが使える魔法、空間移動魔法だ。人魚は多くが魔法を使えるが、強力な魔法は一つだけ。ほかのこまごました魔法と、それを研鑽し、能力を高めていく。 ミスラは扉の向こうに人間を文字通りぽいと無造作に放り投げた。海水に乗って、人間の体が浜に放り出される。再度酸素を得て、ふたたび人間が大きくせき込んだ。今度は意識が戻ったらしく、咳き込みながらも顔を上げる。木の実のような色の瞳がきらりと月光に光った。その瞳はすぐに扉のその先にいる人魚をしっかりと視界に入れた。しばし二人は視線を合わせて互いを見たが、ほどなく空間の扉がぱたりと閉まる。 「連れて行けばよかったかな」 扉がさらさらと消えていくのを見つめながらミスラは海中で一人つぶやいた。 「今のは……」 晶は浜に残されて、呆然する。びしょ濡れの冷え切った体でへたり込んで、細かい砂がそこら中について気持ち悪い。気持ち悪かったが、それよりも不思議の扉の向こうに見えた、男。おそらく命の恩人であろうその人は、赤い鮮やかな髪であることと。 「すごく、かっこよかった……」 色気のある美青年であることしか、晶にはわからなかった。
