【新刊】ぬい目のある彼は……
- Ships within 4 daysShips by Anshin-BOOTH-PackPhysical (direct)700 JPY

ミスラinぬいちゃんの逆トリップ。 可愛いお話を目指しました。 A5/p76
サンプル
晶の意識が浮上して、ゆっくり目を開ける。見慣れているはずなのに、違和感を覚えるベッド。掃き出し窓にかかったカーテンから朝日が差していて、フローリングに光の筋を作っていた。数度瞬きをして、目が光になれたころ、ようやく意識がはっきりしてくる。 その部屋はまぎれもない晶の部屋だった。ワンルームマンションの一室。キッチンと、それにつながる八畳弱の居室。そのベッドの上がどうしようもなくなじみがあった。呆然と、でもせわしなく目玉だけを動かして周りをうかがう。最近の目覚めは絶対にこうではなかった。 あちらの木目の床は土足で、そばに机があって、窓際にくまのぬいぐるみがあって。少しぼんやりしているとすぐに扉が叩かれて返事をする。そうして時折は隣にいる大きな背をゆするのだ。その、もはや慣れてしまった日常からはかけ離れていた。 きっと誰も信じないだろう。夢だというだろう。魔法使いたちともに、月と戦っていただなんて。愕然としたまま視線を落として、掌を見る。握りこめてみてもあの世界にあった清らかで、凛々しい空気はない。少し涼しく、重たい空気を掴むだけだった。 真木晶は帰ってきてしまった。 すっかり見慣れないものになってしまったスマホをつけると晶があの日あちらに行った翌日の日曜日であることが分かった。のろのろとベッドから這い出てやわらかなカーペットの床に座り込む。それはよくしていた仕草だった。ぼんやりと記憶を掘り起こす。厄災と戦って、倒して、そこからの記憶があまりなかった。ミスラが、呼んでくれて、話をしてそうして、綺麗に別れたのだろうか。 特に親しかった、と思うかの魔法使いのことを思い出す。赤い癖のある髪で顔がとても整っていて、賢者の力を手の平越しに渡すことで眠れる魔法使い。大丈夫。覚えている。なのに。どうしたって、彼に別れを告げて、綺麗に「ではさようなら」なんて言うのが想像がつかなかった。 違和感を抱いても、晶の手元にはあの世界に戻るすべがない。仕方なし、ようやっと立ち上がった。 ふらふらと家の外に出る。肌寒い時期で、上着を忘れていたことに気が付き慌てて戻った。近所なのに、道順を思い出す様にただふらふらと歩いた。歩いたほうが頭の中も紛れるような気がする。きちんとお別れができたか否かにかかわらず、晶はこちらに戻ってきてしまった。あちらで受け取った数々の優しさや悲しさを大事に大事に抱えていくしかない。コンビニで肉まんを買って家に帰りつくころにはそう思えるようになっていた。 気分を変えるようにカーテンと掃き出しの窓を開ける。涼しい風が停滞した室内の空気を押し流した。大きく深呼吸をすればこれからも生きていけると思えた。 一日そうしてゆっくり過ごし、翌日は会社だ。晶はいわゆる普通のオフィスに勤めている。きれいめの服を着て、体に染みついた定時近くに出勤し、忘れかけていた仕事を必死に思い出す。遅れを取り戻すばかりの日々ではなかった。あちらで賢者という役割を背負って生きてきた月日、リーダーシップをとったことのある魔法使いたちの金言を思い出し、以前とは違う振る舞いを見せて、同僚や上司から賞賛されたこともあった。 大丈夫。あの日々は晶の中にきちんと生きている。 「真木さん最近調子よさそうだね」 「そうですかね……でも、そう思ってもらえるならうれしいです」 向かいの席の一年年次が上の先輩が声をかけてくる。あたりが柔らかな男性で、さり気ない気づかいが上手な人だ。微笑んでかけられる声に晶も同じように笑みを浮かべて答える。彼が何かを言いかけた時、同期の友人に晶が呼ばれた。昼食の誘いだろう。軽く会釈をして晶は席を立った。 穏やかな日が続いた。夜の月の大きさにも慣れたころ、晶はふとあちらのことを少しずつ思い出さなくなっていることに気が付いた。月の大きさは指先で摘まめるくらいが普通で、魔法なんて夢の世界。当たり前のことが、晶の当たり前にまた収まろうとしていた。 決して短くない期間あちらにいたはずだ。そんな風になってしまうものだろうか。晶は少し焦燥を感じた。忘れたくない。仕事の帰りに文房具屋に寄った晶はノートを買った。分厚いノートだ。賢者の書とまではいかないが、これに収まらないほどにあちらの思い出を書き留めておきたい。思ったこと、感じたこと、後悔したこと。あの頃と同じように寝る前にノートを開く。ペンを手にもって。あちらに行った最初から書き始めた。 エレベーターに乗って中央の国に辿り着いて、大勢の人に囲まれて、困惑したこと。困っているとカインやヒースクリフが来たこと。焦りながらもしっかりと書き記していった。数日はそれでよかった。トビカゲリが散らした羽を浄化したところまで書いた。そのあたりから筆の運びがゆっくりになっていく。依頼に来た人や旅先であった人を思い出すのに時間がかかっている。おそろしかった。あれほど克明に覚えていたのにどんどん晶の手から離れていく。なんどもなんども、魔法使いたちの名前を指折り数えた。 織物の糸が解けるように端から記憶がなくなっていく。なにか、なにか記憶をとどめておく方法はないものか。文字だけではなくて、何か視覚で。とあるワイドショーを見ながら晶はその特集に目が釘付けになった。翌日、突然の休暇を取った晶は買い物へ行き、材料を買い込んだ。 初心者向けの本を見ながら、慣れない作業を続けた。まずは一つ。あの親しかった魔法使いのものを。そうして大急ぎで作っても結局のところ二週間はかかった。フェルトでできた肌と髪。鮮やかな糸で描かれた眠そうな顔。思い出せない細部を絞り出して、絞り出して、そうしているうちに果たしてこれで合っていたのか確信が持てなくなってくる。不安で泣きそうで、どうかあの人の記憶だけは返してほしい。眼精疲労か涙かで視界が霞む。遠くに視線をやると小物をしまうチェストの上にあるものが見えた。 おそらく、あちらの世界からもってきた唯一のものだ。晶の趣味かというと怪しい、紫の水晶のついたピアス。片方しかないそれを普段つけることはなかった。あちらのものならば、と思い立って、作っている物の体の中にそれを入れた。綿でくるんで、さらに詰めて綴じる。形を整えて、完成した。 手の平に乗るくらいの、ぬいぐるみだ。 赤いフェルト地の髪に、眠たそうな眼。隈をわざわざ縫っているということは寝不足だったのだろうか。半開きの口が我ながらかわいくできたと思う。白い白衣の中は紫のベストに黒いシャツ。 完成したときにはもう、モデルになった魔法使いのことを思い出せなかった。穴が空いたような、その穴の大きささえわからないような呆けた気持ちだ。彼を指先でつんと突くと支えにしていたマグカップからバランスを崩しコロンと倒れた。刺繍で縫われた緑の目が天井を見た。 「あなたの名前はなあに?」 ノートを見返せば、知らない物語が書いてあるのだろう。読めば、大切だったはずの魔法使いの名前を知ることができるだろうが、それを見返したところでこの子のモデルのことは何一つ、知識としてしかわからないのだ。泣いてしまいそうで、でも涙をこぼすとまた一つ何かを失ってしまいそうで怖くて懸命に耐える。 そのときだった。倒れたぬいぐるみがころんと、一人でに寝返る。何かに引っかかったのかと思ったが、何もない。もう一度ぬいぐるみを見る。恐ろしいことに小さい手や足がぴくぴくと動いた。板が持ち上がるように、ぐっと立ち上がる。晶は悲鳴を上げそうになった。 「ぬ!!」 そしてぬいぐるみがしゃべった。晶は今度こそ悲鳴を上げた。
