

1945年春、大阪大空襲で焼け野原になった大阪の街。「芸能の街」として誇った大阪道頓堀も一夜にして焼け野原になり、焼跡には粗末なバラック小屋が並んだ。 終戦を迎えてもなお物資難は続き、大阪の芸能は風前の灯火であった。そうした中でも生き残った芸人たちはなんとか芸や寄席を残そうと奔走を続け、バラック小屋からのスタートを切った。 空襲で主要の寄席が焼き払われてから2年半経った1947年9月。大阪戎橋に定席・戎橋松竹が開場した。 この復興には花月亭九里丸、五代目笑福亭松鶴、二代目桂春団治の奔走があった。彼らは廃絶寸前の上方落語を残すためにこの定席に出演を続け、上方落語を演じ、戦後チラホラと入ってきた若手たち(六代目笑福亭松鶴、桂米朝、五代目桂文枝、三代目桂春團治、笑福亭松之助など)に稽古をつけ続けた。 一方、この定席復活によって上方落語界にはまたしても暗雲が立ち込めるようになった。わずかな手駒しかいないにもかかわらず、分裂騒動が立て続けに勃発。落語家たちは険悪な関係に陥ってしまった。 そんな落語のスキを突くように大躍進を続ける上方漫才。いつしか上方落語の地位は漫才の添え物程度にまで落ちてしまった。 そんな戦後直後の上方落語の栄枯盛衰と上方漫才の動向を、戎橋松竹開設の立役者にして上方落語復興の父・五代目笑福亭松鶴が没して納骨される1950年9月までの動向を絡めて描く。 笑福亭松鶴、桂文枝、桂春團治の初高座や後年一世を風靡する漫才師たちの思わぬ活躍を見逃すな!!
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