鶴屋南北ノヴェライズ・プロジェクト01「菊月千種の夕暎」
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完売していました「菊月千種の夕暎」、誤字などの修正に加え、読みやすく全体に手を入れて増刷しました。 「東海道四谷怪談」の原作者として知られる、江戸後期の歌舞伎作者、鶴屋南北の作品をノヴェライズするプロジェクトの第一弾として、鶴屋南北最晩年の作品「菊月千種の夕暎(きくづきちぐさのあかねぞめ)」を読みやすい形で復刻した本です。ノヴェライズと言っていますが、どちらかというと落語の速記本に近い、芝居の実況中継的な文体にしています。 いわゆる妖刀もののバリエーションで、二世瀬川菊之丞演じる芸者の三勝が、知恵と度胸で様々な苦難を乗り越えて、それでも追い詰められた果てに起こる惨劇を描いた、ロマンティック・バイオレンス・アクションです。江戸歌舞伎の奔放な想像力と、ロジカルな物語構成を味わっていただけたらと思っています。 文庫128ページ、1200円。世界で唯一の、気軽に読める鶴屋南北です。ミステリっぽい展開もあり、恋愛ものでもあり、仇討ち物でもあり、シスターフッドでもある、とんでもない物語です。江戸の想像力と歌舞伎の面白さが伝わるといいなと思っています。
鶴屋南北ノベライズ・プロジェクトのこと
鶴屋南北の名前は、江戸の芝居作者の中では、現在も多くの人に知られている方だと思う、「東海道四谷怪談」の作者としてなら有名人と言ってもいいだろう。他にも、「桜姫東文章」「盟三五大切」「獨道中五十三次」「絵本合邦辻」など、現在でも頻繁に上演されている作品も数多い。知名度では黙阿弥に並ぶだろう。 しかし、南北の戯曲を読んだことがある人となると、一気に少なくなってしまう。全編を手軽に読めるのは岩波文庫の「東海道四谷怪談」くらいで、他は、国立劇場が作っていた、その上演時の改訂がなされた上演台本や、古典文学全集などでの抄録。あとは、歌舞伎解説本などにあるあらすじの紹介くらい。これだけ有名な作家が、実際にどういう作品を書いていたのかを知る資料がとても少ないのだ。 それを言ったら、近松門左衛門も近松半二も並木五瓶も河竹黙阿弥も、気軽に読める形での出版は全くない。日本では戯曲が売れないという事情もあるだろうし、当時の風俗やダジャレなどが多用される歌舞伎や浄瑠璃の台本は、現代語訳にもしにくいという事情もあるとは思う。ただ、南北より百年くらい前のシェイクスピアの作品は、そのほとんどを日本語で、しかも文庫本などでも気軽に読むことができるのだ。「ハムレット」や「リア王」のセリフは、ギャグとしても通用するくらい知られているのに、「東海道四谷怪談」のセリフがパロディに使われることは、ほとんどない。この差はなんだろう。 南北の芝居が現代では通じない、なんてことはないのだ。現に、南北原作と銘打った歌舞伎は、ちゃんとお客さんが入る。国立劇場の復刻でも南北が書いた演目は人気だった。ただ、実際に上演される舞台は、確かに面白いけれど、上演時間も限られるし、ストーリーか名場面で切り取ることが一般的な現代の歌舞伎では、その面白さは通じにくい。南北の、というより江戸時代後期の歌舞伎の、お客さんは全員マニアだという前提の上で、作者と役者が、いかに客を出し抜いて喜ばせるかに腐心して作り上げる舞台は、予備知識や基礎教養無しで、その全てを面白がることが難しいのだ。エンターテインメントというのは、本来、そういう進化と深化を遂げるものだと、私は思っているけれど、それを興味が無い人にわかれというのは無理がある。 かつて、明治政府が歌舞伎を低俗なものと決めつけたのは、それが正しい歴史を描いていないからとか、エログロナンセンス趣味が過ぎるからという表向きの理由以上に、江戸に出てきたばかりの薩長土肥の連中には、面白さが全く分からなかったからではないかと思っている。新派や新劇の、演目ごとにきちんと独立したドラマがある分かりやすさとは随分違うのだから、仕方ないとも言える。実際、私だって、南北の戯曲を読んでいて「これはギャグに違いないけど、全くわからない」という箇所はいくつもある。ただ、いっぱい読んで、芝居を見て、役者絵を見ていると、「この辺がポイントだな」というのは分かるようにはなる。それもまた面白いのだ。江戸の歌舞伎の初心者って、こういう感じで見ていたのかもとか思う。 ただ、やっぱり口惜しいのだ。こんなに面白い作品が、上演される機会もほとんどないまま、研究者や芝居のスタッフ、一部のマニアの間だけで消費されているということが。それで、どうすれば南北を、気軽に楽しく読めるのかを、ずっと考えていて、いくつかのアイディアを思いついた。ひとつは、南北の作者部屋で、座頭と南北が、次の芝居の打ち合わせをしているという設定から始まって、実際の舞台を南北が座頭に説明するという体で物語を書くスタイル。山田風太郎の「八犬伝」にちょっと似ているかもしれない。もう一つの方法は、小説の形にした上で、途中途中に役者や南北のコメントが入るというスタイル。シオドラ・ゴスの「メアリ・ジキルとマッド・サイエンティストの娘たち」シリーズで使われている手法だ。どちらも、歌舞伎という演劇が、セリフやストーリーだけでは面白さが伝わらないエンターテインメントであること、特に南北は、そういった物語の外側の仕掛けを得意とする作家であることから思いついた苦肉の策である。こういうスタイルなら、仕掛けや趣向を文章で書かれた物語の中に組み込むことができる。 どちらのスタイルも、物凄い技術と文章力が必要だし、全体をしっかりと把握していないと上手く構成できない。何より時間がかかり過ぎる。そこで考えたもう一つの手法が、明治時代から戦前までの間、沢山出版されて人気だった、落語の「速記本」のスタイル。落語もネタの内容だけでは面白さが伝わらないエンターテインメントだ。そこで、咄家が演じたままを速記で記録したものを出版する「速記本」が登場したわけだ。そのスタイルなら、演者の個性やアイディアを活字の中で表現することができる。そこに、実況中継的な要素を加えれば、江戸歌舞伎というものの片鱗も、文字で表現できるかもしれないと思った。まあ、テープ起こしならぬ、演劇起こしだ。明治の演劇雑誌などにあった「芝居見たまま」と似た趣向だが、舞台からではなく、台本からだから、私の文章力でもどうにかなるかなと考えた。少なくとも、この方法なら、とにかく書きはじめることはできる。 ということで始めたのが、この鶴屋南北ノヴェライズ・プロジェクトである。そもそも、江戸の歌舞伎は庶民のためのエンターテインメントなのだから、まず気軽に読める本にしたい。そして、言葉は、なるべく歌舞伎っぽさを残しながら、現代人に通じる言葉にしたい。その二つを実現するのにも、参考になったのは速記本であり、あとは時代小説や時代劇のセリフ。歌舞伎は、その構造上、回想シーンが使えない、とにかく、目の前で起こっていることが全てという形で進行する演劇だ。だから、小説というスタイル自体が合わない。そこで、基本的には実況中継のスタイルを取り、でも、会話や地の文の中には、小説的な表現を入れた方が現代の人には受け入れやすそうという気もした。実際に出来上がったものは変種の小説ではあったので、シリーズ名は「鶴屋南北ノヴェライズ・プロジェクト」とした。 この世界は舞台であるという形を取るか、進行形のドラマの形式を取るかは悩んだのだけど、どうやら私が書きたいのは、南北が考えたストーリーよりも、南北が役者たちと一緒に作ったライヴとしての江戸歌舞伎だということがハッキリしてきたので、舞台のドキュメンタリーの文章という形式を守ることにした。だから、幕が開くところから始まって、「拍子、幕」で終わる。演出やセリフなどは全て原作にある材料だけを使い、足したり引いたりしないことも徹底した。本の形をした歌舞伎だと思ってもらえると嬉しい。登場人物の初出時には「三勝(瀬川菊之丞)」といった書き方をしたのも同じ理由だ。どういう役者なのか気になったら、浮世絵を見て欲しい(拙著「見ようぜ、浮世絵」も是非)。 シリーズは、まずは短いものや、全体は長いけれど、その中でも復刻上演される機会の少ない二番目部分などの中から、今読んでも面白いと思えるものを、少しずつ、書いていく予定。そのうち、前述した、山田風太郎のスタイルや、ジキル博士の娘のスタイルで書いたものも出していきたいとは思っているけど、無理かも知れない。ともあれ、幕が開きます。よろしくお願いします。