皇帝陛下と幸福の人魚
- Digital900 JPY

183P 異世界トリップファンタジー第15弾 庭園を小走りに進む高耶の額には、小さい玉の汗がたくさん浮かんでいる。ぱたぱたぱたぱた、走る目標は機械的に整えられた美しい庭園の先。 「はー暑いー」 広大な庭園の端まで行くのは不可能だ。9年住んでいる高耶でさえ、その全貌は分かっていない。高耶が目指しているのは、その途中にある赤鯨衆の稽古場だ。 剣の稽古場は、場所は奥まった所にあるのだが、距離は王宮とそう離れていない。暫く走っている内に、とした屋外の稽古場で剣を合わせている男達の姿が見えてくる。 「あ」 いたいた 直ぐに目に留まった。 直江にとてもよく似た少年は、真剣な目で剣を振るっている。邪魔をしてはいけない、と高耶は走っていたのを歩きに変え、静かに近付いていった。 カンカン 見ると相手は嘉田だった。屈強な男の剣の腕は中々だと知っている。その嘉田と義明は互角に渡り合っている。 「はー」 すごい、こんなに強くなってたのかこいつ。我が子ながらすごい子だ。 親馬鹿丸出しで、高耶はにこにこ笑って稽古を眺めている。それに最初に気付いたのは、 「皇妃様?」 「おう」 卯太郎だった。 もう青年の域に入ると言うのにまだまだ子供のような顔立ちの赤鯨衆の一員は、高耶を見ると嬉しそうに走ってきた。 稽古場は木の柵でグルッと囲まれていて、初めて見た時は闘牛場みたい、と思った高耶だ。その柵越に卯太郎は高耶の前に立った。 「卯太郎も稽古してたのか?」 「はい、でも全然ダメですき」 卯太郎も、かなり汗を掻いている。暑そうだが楽しそうに笑っていた。 「オレも最近やってないし……今度稽古しに来るよ」 「はいッ、皆喜びますッ」 にっこり笑う卯太郎は、祖国であるトサであんなにも大変な生活をしてきたと言うのに、その笑顔に影は無い。強いな、とこっそり高耶は感心した。 「それにしても……」 視線をまだ手合わせしている義明に移した。 「あいつ……あんな強くなってたんだなー」 高耶の視線を追った卯太郎も、納得したように頷く。 「はい、義明様はとてもお強いです。わしなんか敵いませんきに」 「オレも敵わないよ」 話しながらも2人の目は、カンカン、剣を鳴らしている義明と嘉田に向けられている。 稽古と言えど、使っているのは真剣だ。ヘタすれば大怪我になる。2人も稽古とは思えない程真剣な表情で剣を振るっていた。 カンッ、カンッ 「……」 振り被った義明の剣を、嘉田の剣が弾き返す。 カンッ、カンッ 返した嘉田の剣が、義明の服を掠めた。 「ぅお」 危ない危ない、ヒヤッとした高耶も手に汗を握っている。 カンッ、カンッ 何時の間にか、稽古場にいる男達は手を止め、2人の試合に見入っていた。 カンッ、カンッ 「ッ」 隙を見て、義明が脇から剣を繰り出した。そして、 カンッ 「あッ」 剣が飛ぶ。 それは宙を飛び、少し離れた場所に突き刺さった。 「……」 「……」 少しの間無言でその剣を見ていた2人だが、直ぐに張り詰めていた空気が緩む。そして剣を跳ね飛ばされた方……義明は薄く笑い小さく頭を下げた。すると途端に、おー、と言う野太い声が稽古場に響き渡る。 「ありがとう」 「こちらこそ……お強くなられた」 嘉田も精悍な顔に笑みを浮かべた。 剣を腰に仕舞い踵を返した義明は、そこに義母の姿を見付け、目を丸くする。 「義母上」 「よぉ」 柵に腕を乗せだらん、とした格好で高耶はひらひら手を振った。 「いらしてたんですか?」 卯太郎は義明が近付いてきた時点で、一礼して下がってしまった。 「うん」 「義母上も稽古に?」 腕で汗を拭う姿は様になっていて、これじゃあ女が騒いでも無理ないな、とこっそり思う。 「違う違う、お前を探してだんだ」 「私を?」 「うん」 にぱ、と笑う義母を皇太子は、眩しそうに目を細めた。 「でも今忙しいなら後でいいよ」 そう言いながら引き返そうとした高耶の背中を、義明は慌てて止める。 「待って下さいッ!」 「へ?」 必死の声に、高耶は驚いて足を止めてしまった。 「何だ何だ?」 目を丸くしている高耶に、義明はバツが悪そうに苦笑を浮かべる。 「いえ……私もこれで上がろうと思っていたんです」 柵の隙間を潜り、義明は突っ立っている高耶の横に立った。 「いいのか?」 「ええ、喉が渇きました」 「喉、そうだよな、お前汗すごいぞ?」 言いながら高耶は、腕を伸ばし自分の袖で額の汗を拭ってやる。 「あーあー、汗すげー」 少し乱暴だが、義明の方は大人しくされるがままになっていた。高耶の見えないその表情は、酷く幸せそうなもので。目を細め、心地良さそうにほんのり香る高耶の匂いを感じていた。 「義明?」 固まったままの義明を不思議に思い手を引いた高耶に、皇太子は残念そうに苦笑する。 「何でもありません……行きましょう」 その時、衝撃的な事実を高耶は目の当たりにした。 「……」 「義母上?」 「……何でもない……」 「?」 何と、並ぶとほんの僅かだが、義明の方が大きいのだ。その事実に肩を落とし、高耶は義明と連れ立ってとぼとぼ王宮へ向った。 王宮前まで来たのだが、中には入らず2人は中庭に回った。そこには何時もの〟高耶の席〝がある。東屋も気に入っているが、ここは自分の部屋から直ぐなので、この中庭にいる方が多いのだ。 2人が椅子に腰を下ろすと、直ぐに森野がやって来た。手にはガラスのティーポットを持っている。 「丁度よかった、義明喉渇いてるから」 「はい」 「それとあのさ、三郎呼んでくれるか?」 「畏まりました」 カップに透き通った黄色のハーブティーを注ぎ、森野は一礼して下がって行った。 冷たいお茶を入れたので、カップは汗を掻いている。それを義明は一気に飲み干した。 「おー」 礼儀正しい義明のこんな態度は珍しい。だが家族の前ではこんな風に、飾らない姿を見せてくれると知っている高耶は嬉しくもあった。 「美味しかったか?」 「はい、生き返りました」 そう言って義息子は、にっこり直江とよく似た笑みを浮かべる。 「そっかそっか」 可愛いやつめ! 何処までも親馬鹿な高耶なのだ。 「それで義母上、今日は何か」 訊かれて高耶は、ああ、と思い出した。 「そうそう、あのな、今度家族で海水浴行くぞ」 ビシ、と指を指す。 「え」 何とも唐突且つ乱暴な突付けに、義明は珍しく怯んでしまった。 「……かい……?」 しかも聞いた事のない言葉に、義明は首を傾げてしまう。そんな義明の反応など初めから読んでいた高耶は、くふふ、と含み笑いだ。 「海だ海、海に泳ぎに行くんだ、夏だしな。しかも今年は暑い!」 「……はぁ……」 「夏の家族旅行って言ったらやっぱり海だよな、スイカ割りに花火、とうもろこし~」 「……」 1人うっとりしている高耶を義明は黙って眺めている。 「海で、泳ぐ、んですか?」 「ああ」 「可能なのでしょうか」 「可能だってば絶対、義明だって海で何かしたいって思うだろ?」 「海の絵を描きたい」 「わッ」 「三郎……」 突然降ってきた声に、高耶は驚き義明は呆れた顔になった。 「三郎お前……気配消すなよ……」 あーびっくりした、と高耶はお茶を一口。 「海行くのか?」 ことん、と椅子に腰を下ろした三郎は、表情の薄い顔で高耶のお茶を勝手に飲む。 「行くんだよ」 「オレも?」 「そう、三郎も一緒に」 「ふーん」 チラ、と三郎が義明を見ると、何やら難しい顔をしている。 「何時?」 三郎はそんな兄を横目で眺めつつ高耶に訊いた。 「えーと確か……4日後、だったと思う」 「……」 「……」 4日後…… 兄弟2人は黙ってしまった。 何とも急な話だ、普通もっと早く言うだろう。そう思ったのは恐らく同時だ。 「行くだろ?」 「オレだめ」 「へぇッ?!」 一言で返され、高耶は目を丸くしてしまった。 「何でッ?!」 思わず立ち上がってしまった高耶にも、三郎は涼しい顔だ。 「だって後少しで実が落ちるから」 「……はい?」 三郎は淡々と続けた。 「庭の黄色の実、落ちるのずっと待ってた。八海が言ってた、あと3、4日で落ちるって」 オレはそれを見たいから行かない、そうきっぱり言い切った三郎に迷いはない。 この皇子はとんでもなくマイペースで、自分の感覚でしか動かない。だからそう決めたのならば、三郎は海へ行かないだろう。 「……そっかー……」 「あの……」 がっくりしている高耶にだが、追い討ちが掛けられる。 「義明?」 「その……義母上……」 何とも言い難そうな様子に、高耶は珍しくピンと来た。 「もしかしてお前も行けないのかッ?!」 「……はい……」 「何でだよッ!」 「……約束が……」 それだけ言うと、義明は黙ってしまった。 約束と言うのは本当だ、相手は貴族のご夫人なのだが。 無論義明にとって、高耶以上に優先させる事柄などない。だが今回は特別だった。 退屈な夫と日々を過ごしていた夫人と義明は、互いに遊びだった。だが何時の間にか、夫人は義明を好きになってしまった。互いに拙いと思い別れようと決め、そして最後の逢瀬が6日後なのだった。 最後ね、と言った哀しそうな女に愛を感じた訳ではないが、感謝はしている。だからこの約束を果たすのは義明の中の義務なのだ。 「そっか……」 見るからに、可哀想な程萎れていく高耶を見て、夫人の涙を見た時より遥かに義明の胸は痛んだ。だが今回だけは仕方がない。すみません……心の中で何度も謝った。 「三郎、実はまた生る、だから海に行って海の絵を描いたらどうかな」 自分は行けないが、せめて三郎だけでも、そうダメだろうと思いつつ言ってみたが、 「やだ」 「……そうか……」 結果は予想通りだった。 「高耶」 「義母上」 「……」 顔を上げると、義明は勿論三郎までどこか気遣う表情をしている。それを見て、これはいかん、と高耶は気を引き締めた。子供達に気を遣わせてしまうだなんて。 「いいって、お前らにも都合があるもんな、それに急だったし……いいよ、直江と2人でゆっくりしてくるから」 無理矢理笑った高耶はだが、次の瞬間完全に顔を引き攣らせてしまう。 ぽん 肩に手が置かれると同時に、 「そうですね、ゆっくり過ごしましょう」 「……」 高耶はまず、肩の上に置かれた手を見た。そこから手首、腕、と躯に沿って視線を上げていく。そして、 「直江……」 やはりと言うか、背後に三郎以上に気配を消して立っていたのは夫である皇帝だった。 「何してんだよ」 「あなたの姿が見えたので」 悪びれもせず直江は答える。手は高耶の肩に置いたままで2人の皇子達に向き直った。 「お前達は来れないのか、では仕方がない〟家族旅行〝は高耶さんと2人で行って来る事にしよう」 「……」 「……」 三郎は無表情で、義明はどこか悔しげに父王を見上げた。そんな皇太子に、皇帝は珍しく薄っすら笑う。そして告げた。 「そう言う事だ」