狭間のラジオ 物語
Physical (worldwide shipping)
Physical (pixivFACTORY)1,800 JPY
Physical (ship to Japan)
Physical (pixivFACTORY)1,800 JPY



ツートンカラーマグカップ - 直径 8.2cm / 高さ 9.5cmこの商品はpixivFACTORYで作られた商品です。サンプル画像は完成イメージのため、実物と異なる場合があります。 『狭間のラジオ』の本棚には、ときどき司書泣かせの本が紛れ込む。 余白という余白に、細い文字がびっしりと書き込まれた本だ。 「本への落書きはいけませんよ」 初めて店を訪れた若い客は、決まってそう言う。スマートフォンの画面を撫でる指先で、眉をひそめるのだ。 すると、猫執事は黙って一冊の古い聖人伝を差し出す。 紙は飴色に変わり、革の表紙はひび割れている。だが、本当に貴重なのは印刷された文字ではない。余白を埋める、小さく、几帳面な筆跡だった。 「これは、三百年ほど前の女性の手になるものです」 当時、本は宝石のように高価だった。文字を書ける女性はさらに少なかった。彼女は、家族が眠りについたあと、蝋燭の火を小さく灯し、本の端にだけ自分の考えを書きつけていたらしい。 『今日も兄だけが学問を許された。』 『この主人公は、どうして一人で旅に出られるのだろう。』 『私は庭の柘榴の花を見た。誰にも言わない。』 名前は残っていない。 歴史書には載らず、肖像画もない。ただ、その人が「考えた」という事実だけが、印刷された文章の隙間に息づいている。 帽子屋は、いつものように紅茶をかき混ぜながら言った。 「落書き、か。案外、後世に残るのは、立派な本文じゃなくて、誰かの小さなつぶやきかもしれないね」 現代の人々は、画面の上に言葉を書いては消し、また別の場所へ流していく。 けれど、『狭間のラジオ』の古本たちは知っている。 余白とは、作者が書かなかった場所ではない。 まだ名前のない誰かが、自分の人生を書き足すために残された場所なのだと。 夜の二時を過ぎると、街の時計は少しだけ時間を忘れる。 終電を逃した会社員、眠れない学生、締め切りを破った小説家、明日の舞台を前に台詞を反芻する役者。そんな人たちの耳元へ、どこからともなく古いラジオの周波数が流れ込んでくる。 「こんばんは。今夜も『狭間のラジオ』のお時間です」 案内役の猫執事は、湯気の立つ紅茶を一杯ずつ配って歩く。 スタジオは、どこでもない場所にある。月明かりの図書館の隣かもしれないし、誰かが忘れていった駅の待合室の奥かもしれない。蝶々の郵便局を右に曲がり、帽子屋の店先を過ぎると、小さな扉が現れる。 扉には、こんな札が掛かっている。 「悩みごと一つにつき、入場料は思い出一枚」 けれど、誰も損をしたとは言わない。 泣きたい夜には、記憶を運ぶ蝶が窓辺にとまり、迷った夜には、中華風のハンプティダンプティが湯飲みを傾けながら東洋哲学を語る。時には、百年前の女優と未来の音響技師が同じテーブルで笑い合っていることもある。 番組の終わり、猫執事は必ずこう告げる。 「ここは、現実から逃げる場所ではありません。現実へ帰るために、少しだけ寄り道をする場所なのです」 もし今夜、眠れないなら。 もし誰にも言えない話を胸にしまっているなら。 ラジオのダイヤルを、ほんの少しだけ回してみてほしい。 ノイズの向こうで、誰かがあなたのために席をひとつ空けて待っている。 雨の日の『狭間のラジオ』には、不思議と古本が増える。 誰が置いていったのか、猫執事ですら知らない。 朝になると、スタジオの片隅の本棚に、一冊だけ本が増えているのだ。 表紙の擦り切れた詩集には、「十八歳の夏」とだけ鉛筆で書かれた栞が挟まっていた。何度もページを開いた跡があり、特定の一節だけが、指先の熱で柔らかくなっている。 料理の本を置いていったのは、深夜の病院で働く看護師だった。彼女は番組に手紙を送ってきた。 「母の味を再現したくて買った本です。でも、結局いちばん似ていたのは、疲れた日のインスタントスープでした」 旅の本を残した老人は、どこの国にも行ったことがないという。彼は毎週ラジオを聴きながら、地図帳の余白に小さな丸印をつけていた。 「行かなかった場所も、人生の一部だからね」 そう言って、照れくさそうに笑った。 本棚の最上段には、一冊だけ題名のない本がある。 背表紙も、著者名もない。けれど、狭間のラジオの常連たちは、その本を見つけるたびに少し黙り込む。 「まだ読めないんです」 若い役者がそう言うと、帽子屋は紅茶を注ぎながら答えた。 「違うよ。まだ、書き終わっていないんだ」 猫執事は、夜が更けると、その題名のない本の埃を静かにはらう。 誰かが失くした言葉。 誰かが言えなかった「さようなら」。 誰かが未来の自分へ宛てた手紙。 そんなものが、少しずつページになっていく。 だから、『狭間のラジオ』の本棚には、貸出期限がない。 持ち主のいない本ばかりなのに、どの本も、いつか帰るべき誰かを待っているのだった。
発送予定日
- ツートンカラーマグカップ - 直径 8.2cm / 高さ 9.5cm(直径 8.2cm / 高さ 9.5cm - ピンク)2026/08/04



