ふたりのひとときⅠ
- ¥ 400
サイズ:A6・文庫本(自家製本) 価格:400円(通販価格) 収録:短編9話(1話 約2~3000字程度) 著書:壱木ひのき vol.1 東郷邦彦・刈谷敦・壬生之哉 vol.3 進藤圭介・秋月総一郎・坂之上龍 vol.5 石井連太郎・田丸啓太・加部良兵
【ふたりのひとときⅠ】
●東郷邦彦 お嬢ちゃんとの交際が始まって早数年と幾月幾日。俺にはずっと気になっている事があった。 いつ言おう、今日言おう、いや次に言おう。元より優柔不断な性格が祟って今まで言えなかった一言。それは先へ延ばせば延ばすほど言いにくくなり、最早気にしている事すら忘れてしまった方がいいのではないかと、いや、たったこれだけの事なんだからもういっそ決心して言ってしまえば楽になれるのではないかと俺を悩ませていた。 そして今日、ついに俺は決心を固く決める。 「お嬢ちゃん、ちょっといいかな」 ●刈谷敦 「刈谷さんの手は魔法の手ですね」 お嬢さんは僕の手元を見ながら楽しそうに笑い、僕は思わず手を止めてしまった。 そんな事を言われたのは初めてだ。僕からしてみればデザイナーなんて仕事はこれぐらい出来て当然であり、今までこれで生活をしてきた。知識と技術をそれなりの年数積み上げてきた賜物。魔法なんかじゃない。魔法のように万能であれば、もっとたくさん、お嬢さんのためだけの服飾を作れただろう。 シャッと鉛筆を紙に走らせて僕は笑う。お嬢さんの一言でどこまでメルヘンでファンタジーな事を連想するつもりなのか。いい年をしたおじさんが、魔法使いだなんて。 「突然どうしたんだい?何かいい事でもあった?」 ●壬生之哉 もしかすると人生で初めてここまで後悔しているのかもしれない。言い過ぎた、たぶん今年一番後悔しているのは間違いなく今だ。 私は今、それなりに敷地を持っている壬生家にお泊まりに来ていた。いつもならデートの帰りにはどこかで夕飯を済ませている。けれど今日は壬生さんが好きな出前専門のお寿司屋さんを食べようとなったのだ。そこのお寿司屋さんがサービスで美味しい煮魚を持ってきてくれて、二人してついついお酒が進んでしまって。 当然、アルコールが入ってしまえば車で送ってもらえない。かと言って酔った女性を一人帰すだなんてと壬生さんの言い分。結果、お泊まりになったのが経緯である。 (やっぱり、帰っておけばよかったかも) ●進藤圭介 僕は女の子が好きだ。恥ずかしげもなく胸を張って言えるし、自他共に認めるぐらいに大好きだ。 街中を歩く時、視線は自然と名前も知らない女性を追ってしまう。きっちりとスーツに身を包んだ化粧の薄い彼女はどんな笑顔を浮かべるのだろうか。明るいトーンに染めた髪をふわりと巻いている彼女はこれからデートにでも行くのだろうか。流行りのファッション、派手なネイル、一見男受けしなさそうな彼女は最近若い世代に大人気のジェラート店の写真をSNSに投稿したりするのだろうか。 スーパーの袋を片手に自宅ではないマンションのエントランスをくぐる。エレベーターで目的地まで上り、家を出る前に借りた鍵をドアノブに差し込んだ。 「ただーいま。お嬢さん、具合はどう?」 ●秋月総一郎 「おかえりなさい、総一郎さん」 仕事を終えて帰ってきた私が引き戸を引こうとしたよりも早く、玄関の戸は私を出迎えるように口を開いた。 「た、ただいま帰りました」 にっこりと微笑んでいるオーナーを上から下まで見やる。耳に掛けられた髪、ラフな服装、首と腰で支えられているエプロン、ドアを開けるために片方だけサンダルを引っかけている足。 はてさて、さながら主婦のような恰好をしたオーナーが、どうしてここにいるのだろう。 ●坂之上龍 朝起きて一番にする習慣なんてのは誰にだってあるものだ。 俺は鏡の中を覗き込んで顎を撫でた。チクチクと指先を刺してくる髭は毎朝剃ったとしても翌朝には短く伸びてくる。料理人たる者、例え生物的に仕方なくても身だしなみは整えるべきだろう。 くあっと大きく欠伸を零しながらシェービング用品を手に取る。カップに無香料タイプのソープを数滴垂らし、熱めのお湯を注いでからブラシで中身をかき混ぜた。次第に泡立っていく液体をぼんやりと眺める。 「おはようございます」 「ん?ああ、おはようさん」 ●石井連太郎 吹き荒れている風が窓を揺らし、突き刺す雨は地面を叩き付けていた。時折姿を見せる雷はカーテン越しに鋭く光るだけで音はない。近くにある大通りからはバシャバシャと水を轢いて走る車の音が忙しなく続いていた。 明かりのない暗い寝室。ベッドの上で私は寝返りを繰り返す。 外の豪雨がうるさいせいか眠気が一向にやって来ない。じっと目を閉じているのも落ち着かなくてぼんやり部屋の中を見渡す。 (うーん‥‥眠くない) 充電器に繋がれている携帯を手に取ってディスプレイを見る。眠れずにもぞもぞしているうちにも時間は過ぎるが、さっき見た時からまだ二十分も経っていない事に溜め息をつく。 ●田丸啓太 僕が働いているコンビニは駅からも住宅地からも少し離れている。大通りに面している場所でもないせいか、平日の深夜となれば二時間ぐらいお客さんが入って来ない時だってざらにあった。 急遽スケジュールの都合がつかなくなった人に頼まれて僕は珍しくその時間に働いていた。二十四時間開いているコンビニと言えど、昼間とはやはり勝手が違う。 もしかして棒立ちしているだけで勤務を終えてしまうのではないだろうか。そんな不安は裏方で事務作業をしている店長のおかげで杞憂に終わった。手持ち無沙汰になる事がない指示をもらい、僕は有線の音楽が流れる店内で黙々と作業を続けている。 (あ、これも・・・・そろそろ在庫を足しておいた方がいいかな) ●加部良兵 「今日は楽しかったですね」 ガタンゴトンと揺れる電車の中、乗客はまばらで席も空いているのに僕達は車両の隅に立っていた。ちょうど角の部分に身を寄せているお嬢さんに夕暮れの日差しが当たる。片手に吊り革を掴んでいる僕は遠くを見つめる瞳を眩しく思って目を細めた。 週の中日。お嬢さんとのデートのために有休を使って少し遠出をしていた。都内から電車を乗り継ぎ、二時間掛けて辿り着いた目的地は小さな温泉街。 別々の露天風呂に入って、休憩所で待ち合わせをして、ちょっと豪華な懐石料理を食べて、お土産屋さんをぶらぶら歩いて、足湯に浸かって、ソフトクリームを食べて。