伝説の落日(下)
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銀英伝パロ(新帝国暦2年~4年、宇宙暦801年~803年) (『伝説の時代の終わり』シリーズ (4)) 第7章~第11章 猫屋版銀英伝完結編 サイズ:A5 ページ数:164 猫屋版銀英伝本編が最終章を迎える。 帝国に激震をもたらした『フュルト事件』は、ロイエンタールに決定的な帝国政府への不信を抱かせるに至っただけではない。『我が膝を折るは、唯一皇帝ラインハルトのみ。帝国政府など、我において何かあらん』……胸奥深くから呼び覚ました野心という名の巨竜のもと、ロイエンタールは遂に叛旗を翻す。 そして、旧帝都では『長大な陰謀の地下茎』が帝国を覆すべく、蠢動を開始した。伝説が終わり、歴史の始まる時が間近に迫っていた。フェザーン、地球教徒とともに歴史の裏面にうごめき続け、シュミットバウアー一族との確執を続けたある集団も、ついにキルヒアイスの手でその存在に日を当てられることになる。
双璧の袂別
惑星フュルトにおける変事は、当初、帝国内にそれほど深刻な動揺をもたらしはしなかった。ロイエンタールとミッターマイヤー、そしてシュタインメッツ。ローエングラム王朝の元帥二名と上級大将一名が関わり、その全員が行方不明となったにもかかわらず、である。 まずは事件の状況が不明だった。事件の詳細は報道を完全に規制され、『惑星フュルトの帝国軍基地で小規模な暴動が発生するも、ただちに鎮圧せられる』程度のことしか、一般民衆の耳には入ってこなかった。いや、帝国政府の首脳ですら同程度の報告しか受けることはなく、まもなく来着するはずのロイエンタールを出迎える準備に忙しかった。 この時期、ラインハルトの容態はやや安定の兆しを見せており、ラインハルト自身もロイエンタールとの謁見の日を一一月二一日、ロイエンタール来着の翌日に定めていた。その三日前の一八日……すでにフュルトでの事件は起きており、ロイエンタールはフュルトを発してフェザーンへの帰路についていたのだが、ラインハルトは知るよしもなかった。その一八日、ラインハルトはヒルダを呼び、ロイエンタールに対する出迎えに念を入れるよう命じている。 「あまりに病み窶れた姿を見せてはロイエンタールも不快を来すやも知れぬ。できるだけ、快く彼を迎えてやりたいものだ」 微力の限り、ご回復に向けての治療を続けさせて頂きます……バウアーシュミット医師の生真面目すぎる応答はラインハルトの苦笑を誘った。 「にしても長いな。まだ、あと一年か二年、耐えねばならぬか」 これは苦情ではない。むしろ逃亡と恢復への意欲を見せたものであり、彼の着実な恢復を示すものとしてヒルダを安堵させるに十分だった。 異変が具体的な形を取って人々の前に姿を現し始めたのは一一月二〇日、ロイエンタールの旧帝都(オーディン)到着予定の日であった。 宇宙艦隊司令長官たるミッターマイヤーもまた、『ロイエンタール来着前の露払いを兼ねた訓練航行』で不在である。この間、旧帝都(オーディン)にあって帝国軍の指揮を総覧していたのはメックリンガー上級大将だった。 「ロイエンタール元帥が……行方不明?」 突然の報告に、メックリンガーは棒立ちとなって報告者を凝視するしかなかった。一一月一五日、ニュルンベルグ星系惑星フュルトにて発生した大規模な騒乱と、その騒乱の中でロイエンタールとシュタインメッツが消息を絶ち、なおもその所在が明らかでないことが報告の趣旨だった。 「なぜ、このような重大事件が五日間も吾らの耳に入らなかったのか」 メックリンガーにしてみれば、ロイエンタールとシュタインメッツの行方不明と並んで、それが重大だった。ヴァルハラ星系とニュルンベルグ星系の距離は一〇〇〇光年にも満たない。宇宙艦隊なら数日の行程であり、既に旧帝都(オーディン)の中枢部と言って良い。 「いったい、いずこで情報が滞っていたのか……」 疑念を口にしかけ、メックリンガーは恐るべき疑いに身体を硬直させた。これが単なる担当者の怠慢であれば良い。懈怠者を探し、その罪を問い、組織を改めれば良いのだ。問題は、滞っていたのではなく、滞らされていた場合である。ロイエンタールの掌中には帝国軍の過半、特にその機動戦力の大半が握られている。彼の不在は、帝国軍が事実上、半身不随に陥ることを意味している。 「だが、それは後だ。今は、一刻も早くロイエンタール元帥の安危を確認し、連絡を確保せねばならん」 直ちに稼働可能な全帝国軍艦艇が動員されて、ニュルンベルグ星系からフェザーン回廊に至る宙域に投入された。同時に、メックリンガーはフュルトにトゥルナイゼン大将を派遣し、事件の調査に当たらせている。この時期、トゥルナイゼンは宇宙艦隊の前線から外され、ラインガウ星域の基地司令官に転じていたのだが、偶然にもラインガウはニュルンベルグから最も近い有人惑星だったのである。 メックリンガーからの命令を受け、トゥルナイゼンは久々の抜擢に感激した旨を伝え、その二日目には早くもニュルンベルグ星系へ入っている。 だが、期待に反してメックリンガーの手許に入ってくる情報は錯綜し、互いに矛盾し、量的にもはなはだ心許なかった。数万の艦艇を投入したロイエンタールの捜索は功奏せず、第一報以来一〇日を経ても『トリスタン』発見の報は入らなかった。フュルトに入ったトゥルナイゼンからは、基地司令官のヴィンクラー中将までが行方不明になっており、基地の指揮系統が大混乱状態にあることが、第一報として報告されてきた。トゥルナイゼン自らが基地司令官の権限を代行し、今は混乱を収めて情報の収集に努めるのが精一杯の状態だという。 「何をやっておるのだ、トゥルナイゼンめが……」 メックリンガーは芸術家提督らしからぬ罵倒に口ひげを震わせたが、一瞬後には再び恐ろしい疑いに眉を顰めて沈黙に陥った。並の軍人であれば、基地司令官を不意に失い、混乱の極に達しているであろう基地を前に呆然とするトゥルナイゼンを思いやり、『やむを得まい』と苦笑して済ませていただろう。 しかし、彼はラインハルトのもと、武勲を重ねて上級大将の地位に昇った人物である。最も激烈な戦場を生き延びてきた上級大将であればこその危機察知の能力だったに違いない。 「なぜ、混乱が続いているのだ。何のために軍令承行令があるのだ。それとも指揮権を持つすべての人間が失踪したとでも言うのか」 上級指揮官が失われたときの指揮継承を定めたのが軍令承行令である。帝国軍でも、かつての同盟軍でもそうだが、各級の司令官はすべて次席以降の指揮継承者をあらかじめ戦術コンピュータに入力しておくのが定めになっている。怠れば、上級指揮官からの指摘と叱責があって入力を強制される。万一、何らかの事情で継承権の入力が為されていなかった場合には、階級に於いて上級者、戦場に同級指揮官しかいなければ先任者……先にその階級に上った者……それもなかった場合は、最終的には士官学校の卒業席次などが戦術コンピュータによって判断され、自動的に指揮継承が行われる。やや脱線するなら、『神々の黄昏(ラグナロク)』作戦初期、フェザーン回廊の遭遇戦で同盟軍のJL二七基地駐留艦隊の指揮権を一介の新任女性少尉が継承するという椿事が起きている。それも、この指揮継承の仕組みによるハプニングだった。 メックリンガーは直ちにヴィンクラーの指揮権継承情報を確認し、それが入力済みであること、次席指揮官に指名された人物が確かにフュルト基地に着任していることを確認する。次席だけでなく、最終的には基地司令部付き大尉まで一〇名近く。かれらすべてが失われたとはとうてい思われない。 「……では、トゥルナイゼンは何をしているのだ。指揮継承者と会い、事件の詳細を聞き出し、必要に応じて基地の中を調べ上げれば良いだけではないか。そのための憲兵隊も、護衛のための装甲擲弾兵も十分に連れて行っているはずではないか」 メックリンガーは最も信頼する分艦隊司令官であるビュンシェ中将を呼び出し、ロイエンタール元帥捜索の任を中断してニュルンベルグへ向かうよう命じた。 「トゥルナイゼンには知らせるな。いきなりで良い。フュルトに降着し、基地を武力制圧して、状況を確認せよ」 フュルト基地の状況と並んで、いやそれ以上にメックリンガーを愕然とさせたのはミッターマイヤーの消息だった。 「ロイエンタールを迎えに行く。併せて、宇宙艦隊を上げて彼の警護に当たる」 宣言したミッターマイヤーが旧帝都(オーディン)を発したのは一〇日前である。そして、最後に彼の所在が確認されているのがフュルト基地。一一月一五日夜、ロイエンタールとともに基地宿舎に入ったことまでは確認できているものの、それ以降の消息が全く絶えているのだ。絶えているだけではない。絶えていることが、次席指揮官である彼メックリンガーに全く報告されてきていない。 胸の悪くなるような想像が徐々に形を取り始めるのをメックリンガーは実感した。偶然や事故であろうはずもなかった。巧妙か粗雑か、細緻にして稠密に描かれた傑作か、あるいは子供の殴り書きが偶然にも高い芸術性を得たかのような錯覚に過ぎないのかはともかく、これはメックリンガーから見ればただ一つの主題(テーマ)しか持たない絵画、あるいはただ一つの主旋律によって奏でられる交響曲であるとしか思えなかった。 「陰謀……か」 テーマと言うよりもモチーフは陰謀。ではテーマは何か。 メックリンガーは立ち上がった。彼の直感によれば、ことは一瞬の遅滞も許されなかった。 同じ頃、南苑(ジュートガルテン)、皇姉アンネローゼの居室(サロン)。既に厳冬期に入っている旧帝都(オーディン)だが、巧みに陽光を取り入れるよう設計されたサロンの中は晩春を思わせる豊かな光と温もりに満ちていた。テーブルの上にはサロンの主人自らが淹れた紅茶のポットが周囲を芳香に満たし、その周りに座す人々も、瀟洒に設えられた室内の内装にふさわしく優雅で華麗だった。 「これは……」 第三者から見れば一幅の絵画とも見まごうばかりの光景の中、登場人物の表情だけは硬く凍り付いて見えた。 マリーンドルフ伯爵令嬢ヒルダが、ソファの中で硬直したまま、視線を一様の書類に注いだまま動かない。傍らに座す皇姉アンネローゼもまた、ジークフリード・キルヒアイスをして『木漏れ日のような』と評せしめた微笑を消し、堅く唇を引き結んで沈黙していた。 少し離れて、こちらは佇立したままなのが、彼女たちを凍り付かせる知らせをもたらした『凶報の使者』である。今日は医療スタッフ姿のグレーチェン・ヘルクスハイムもやはり硬い表情のまま、ふたりの女性から視線を外さない。 「このサインは、ジークのもの。間違いはありません」 ややってアンネローゼがしなやかな指先を書類の一点に指しつける。 「ジークがわたしたちをからかうために、こんな複雑な手順を使うとは思えませんわ」 「これが偽書だとは私も思いません、アンネローゼさま。彼女も信頼に値する人物ですし、彼女の話も信頼できると私は思います」 言うまでもなく、書類はシェーンコップの手からタウゼントシュタイン大尉、さらに彼の妻であるウジーの手を経てグレーチェンに渡ったものだ。細心の注意のもとに、グレーチェンは書類を南苑に持ち込み、この日、アンネローゼに手渡したのだ。シェーンコップがキルヒアイスの承認のもとに、いわば彼からの使者としてこの地を訪れていることはすでに推測を超えた事実だとグレーチェンは思っていたし、この書類はそれを裏付けるものだった……のだが、それだけではなかった。 キルヒアイスからの書簡は、フェザーン自治領主府と地球教、さらには現在『ヴォルフスフント』を名乗っているルビンスキーの協力者組織とのつながりを告げていた。ユリアン・ミンツが地球教本部から持ち出した機密書類は一二〇年にも及ぶ前者のつながりを白日の下にさらけ出していた。 「帝国と同盟、対立する二つの勢力圏の中間にあって中継貿易による収益を狙う。いかにも慧敏な商人らしい目の付け所と見せて、その実は、地球による人類支配の復活を目論む勢力の出先機関の確保であったということです」 彼らの狙いは図に当たり、フェザーンは帝国・同盟とも無視しがたい巨大経済圏を確立した。地球教は表面上、このフェザーンの経済的実力の元に両国経済を支配し、裏面ではサイオキシン麻薬を初めとする非合法手段での支配確立を意図し、じわじわとその計画を進めてきた。 彼らの計画を大きく齟齬させたのがラインハルトの登極である。ラインハルトにより同盟は帝国に吸収され、フェザーンもまた自治を剥奪されて帝国の一地方に堕ちた。均衡する二国の勢力を操り、主導権を握らんとした地球教の目論見は挫折を余儀なくされた。 「ルビンスキーがいつ、地球教の支配を離れたのかは分かりません。おそらく『恐るべき(フィンブル)冬(・ベト)』作戦発起よりもはるかに前でしょう。彼は、ラインハルトさまに一度は全人類の支配を委ねた後に、ラインハルトさまを害する計画に切り替えたのでしょう」 キルヒアイスはそう指摘していた。変異性(ヴァリアビリティトゥ・)劇症(フルミナント・)膠(コラー)原病(ゲネ・クランクハイト)。ラインハルトがこの難治の病に冒されたことは、ルビンスキーは非常な僥倖として捉えたに違いない。玉座に即いたラインハルトを害し、ローエングラム王朝銀河帝国を動乱に中に突き落とすのは、不可能とは言えぬまでも大変な労力と資金、そして時間を要する。一方で、皇帝(カイザー)ラインハルトが病に倒れ、皇帝専制のシステムが崩れるとなれば話は違う。皇帝を害し、帝国政府を覆す必要がないのだ。 「……つまり……纂奪」 ヒルダが唇を噛み、低く呟いた。 「それも陰謀と宮廷クーデターによる、誰も外からはそれと分からないような形での……」 もう一度、その下りを読み返し、ヒルダは自らに納得させるように呟きを重ねた。アンネローゼが気遣わしげに、やがては彼女の義妹となるはずのヒルダに視線を注いでいる。いつになく表情を堅く引き締めたアンネローゼは、そうすると驚くほど彼女の弟(ラインハルト)に似て見える一方で、彼よりもはるかに線の細い繊細な容貌が風にも耐えぬかのように危うげに、心細げに見えた。 そして『ヴォルフスフント』。 「おそらくは一度、ラインハルトさまと私はこの組織に出会っています。アンネローゼさまもご記憶のはずのトゥルンヴァルト伯爵邸での事件です」 一瞬、ヒルダが視線を巡らしてアンネローゼを見る。目顔で、アンネローゼは肯定を与え、それから何がなしはっとしたような表情になって視線を上げた。 「……表面上、それと分からぬ貴族の一族を隠れ蓑として、密かに帝国中、そして場合により同盟にも暗殺と謀殺の手を広げていた。そしてなおも彼らは健在で、ルビンスキーと手を携えているはずです」 現在の彼らの本拠地はフェザーンにあると思われる。ルビンスキーと併せ、彼らの摘発と壊滅を軍務尚書に依頼するが、功奏するか否かは不明である。 「 ―― ラインハルトさまへ、これらの事実をお伝え下さい。御病中のラインハルトさまにとって非常なお身体への負担となることは自明です。しかし、この事態への対処の判断をいただけるのはやはりラインハルトさま以外にはあり得ません」 ご無事を祈ります ―― キルヒアイスの書簡はその言葉で締めくくられていた。アンネローゼに宛てた私信の体裁を取っていたが、ヒルダから、さらにはラインハルト、あるいは政府首脳の目に触れるのを期待している。ヒルダの目には明らかだった。 もう一度、ブルー・グリーンの目が深いサファイア・ブルーの瞳の奥をのぞき込み、そしてヒルダは立ち上がった。 「参りましょう、アンネローゼさま」 「……ええ」 一瞬躊躇い、アンネローゼは裾を払って立ち上がった。 「わたしには、ヒルダさん、あなたやジーク、ラインハルトのようなことはできないけれど、わたしでなければできないこともあるはずですもの」 『……分かった』 話が終わると同時に、ラインハルトは閉ざしていた目を見開いて正面からヒルダを、そして、その傍らに立つ姉の姿を見た。 『ただ、まだ話は終わっているまい。あなたが直接、予の許に来た理由だ。普段のあなたなら、キルヒアイスからの書簡一通で、このようなことはするまい』 「はい……」 頷き、ヒルダはキルヒアイスからの所管とは別の書類を取り出す。これもグレーチェンを経由して彼女の手許に達した書類だが、差出人のサインにはキルヒアイス以外の名前が踊っている。 「イゼルローン要塞防衛司令官ワルター・フォン・シェーンコップ、イゼルローン共和国軍中将……です」 ラインハルトの、顔色の余り良くない表情が明らかに笑顔と分かるものに変わる。おもわずも、決して豊かではない諧謔(ユーモア)の感覚を刺激されたようだった。 『おもしろい男だ。何も本名を名乗ることもあるまいが……あのヤン・ウェンリーの部下であってみれば、それもまた不思議ではあるまい』 軽く顎をしゃくるのに、ヒルダは書類を広げ、ラインハルトの視野に入るようにそれをカメラに曝した。ラインハルトの眉が、黄金色の光をはじいて急激につり上がり、しかし、一瞬後に表情は驚きをぬぐい去り、平静な無表情さが取って代わった。 『……ミッターマイヤーはいるか?』 「……いえ」 痛みに耐える表情でヒルダは答える。ミッターマイヤーがロイエンタールの出迎えにフュルトへ向かい、そのまま消息を絶っていることが判明したのは今朝のことだった。ロイエンタールの消息の知れぬことは、気がかりではあってもヒルダにとっての心労には値しなかった。本来、最も案ずべきできごとであったことにヒルダが気づくのは、まだしばらく後のことである。 「今、この地におられる上級大将はメックリンガー提督のみです」 『そうか、メックリンガーか……』 再びラインハルトは目を閉ざした。ヒルダが訪れてからすでに二時間近くが経過し、あるいはラインハルトにとっては体力の限界に達しているのかも知れない。思わず身を乗り出し、『陛下!』と呼びかけようとするヒルダの肩に、アンネローゼの繊手がそっと置かれた。振り返るヒルダに、アンネローゼは静かに豊かな金髪を左右に揺らした。 『フロイライン……いや、ヒルダ』 不意に室内の沈黙が破れ、ラインハルトの声が響いた。病人とは思われぬ、力のある靱い声はかつてのラインハルトその人の声と変わるところがなかった。 「はい、陛下」 不意に呼びかけられて驚いたに違いないが、ヒルダの応答も間髪を入れなかった。その頬を朱に染めたのは、不意の呼びかけよりも彼女をその名で呼んだラインハルトの声のためだっただろう。 『時間はあまりないかも知れぬ。この知らせをもたらした者たちを直ちに帝都から脱出させよ、彼らの身が危険だ。余の許しのもとに帝国大公の名において新たに許可を出してやるのだ』 「はい、確かに承りました、陛下」 『それと……ヘルクスハイム、そこにいるか?』 「御前に」 二人の女性の背後から歩み出て、グレーチェンはスクリーンの前に軽く跪礼を取る。ヤン艦隊に属していた時には僚友と共に『くたばれ、皇帝(カイザー)!』と叫んだことを思えば忸怩たるものがなきにしもあらずだが、こうしてその前に立てば、礼を取るのが当然と感じてしまう。人物の差というものだろう……グレーチェンはそう思っている。 『卿に頼もう。時が許すと判断したなら、卿の考えでメックリンガーを訪なうが良い。時機を失した時には姉上とフロイラインを連れて南苑を出るのだ。判断は卿に委ねる』 「……最悪の場合には、お二人が人質に取られるとお考えか、陛下?」 スクリーンの中でラインハルトがあるかなきかの微笑を浮かべ、すぐに真顔に戻るのが見えた。 『察しが良いな、ヘルクスハイム。一八歳の身でだてに大尉の肩章は帯びておらぬということだな』 ラインハルトが『あの一〇歳の少女が良くここまで……』などと懐旧の情を露わにするような人物でないことは十分に心得ているが、あるいはこの言葉はラインハルトなりの懐旧の言葉だったのではないか。しばらく後、グレーチェンはそう思い起こすようになる。 「陛下が妾(わらわ)が年齢の時、すでに少将の印綬を帯びておられたと思う。陛下にお褒めいただくようなことは何もしていない……時の許すや否やは妾(わらわ)個人の判断とさせて頂くことで承った」 『宜しい……フロイライン、余の名で彼女に通行証を発行してくれ。行き先は分かるな』 「はい、陛下」 頷き、ヒルダがすぐにコンソールに向かうのを確認して、ラインハルトは視線を天井に向けた。 『無力だな、病でなければ陰謀に絡め取られて死すか。十分に警戒するがいい、ヘルクスハイム。闇から突き出されてくる槍は、いかに勇者とても避けがたいものだ』 「ラインハルト……」 『ご心配なさらないで下さい、姉上。事実を述べたまでです。別に気が弱くなったとか、絶望したとかいうことではありません。必ず恢復して見せます。ただ、今、この時点で姉上とフロイラインを我が手で守れぬのが……どうしても残念です。姉上、それにフロイライン。復た再び会う時も、互いに息災であることを……』 「ええ、ラインハルト」 『姉上』 退出すべく席を立ったアンネローゼを呼び止めたラインハルトの声が再び靱かった。アンネローゼは立ち上がりかけた姿のままで一瞬硬直し、小さく息をつくと再び座席に優美な姿沈めた。その表情が一転して硬い。 その姉の姿をラインハルトはスクリーン越しに凝視し、ややって口を開いた。 『キルヒアイスとのことです』 「……それは……」 『どうして、もっと早くお話し頂けなかったのか……そんなことは言いません。姉上はキルヒアイスを愛しておられる。それは、姉上がフロイデンに去られる前の日に直接伺っていました。わたしと帝国のことを案じ頂けるのと同じくらい、姉上がキルヒアイスを思っておられることも察するべきでした』 豊かな長い黄金(こがね)の髪をゆらと左右に揺らし、アンネローゼは碧青の瞳を弟に向けた。 「ならば……分かってくれるでしょう、ラインハルト……」 スクリーンの中で、堅く張り詰めた頬が微かに緩み、そして再び厳しく引き締められた。 『今はわかります。分かりますが、姉上、いずれわたしも皇妃を迎えることになります』 蒼氷色の視線が動き、その視線の先にいたヒルダはさらに頬の色を濃くして微かに俯いた。 『そうである以上、姉上の案じられる、キルヒアイスへの非難の矛先もいくらかは緩くなるでしょう。キルヒアイスがわたしとともにあることができなくなる。そのようなことだけは避けられることになるのではありませんか』 「それは……そうかも知れない……でも……」 『姉上……重ねてお願いします。グリューネワルト大公妃ではなく、帝国大公妃を、キルヒアイス帝国大公妃の名をお名乗り下さい』 「それは……ラインハルト……」 絶句し、アンネローゼは苦しげに眉を顰めた。何かを恐れるように目を閉ざし、怯えた子供を思わせて嫌々をでもするかのように小さく首を振り続ける。 「できない……それは……できない、できないの、ラインハルト……」 「アンネローゼさま」 ヒルダがそっとその肩に手を置く。はっと目を上げるアンネローゼの耳元に口を寄せた。 「アンネローゼさまは人々があなたにゴールデンバウムの亡霊を見ると言われます。では、いっそ帝国大公の傍にいて下さればよろしいのではないでしょうか。やがて人々はアンネローゼさまとともにあるのが亡霊などではなく、帝国大公であるということに慣れるでしょう。そうすれば、もう亡霊など恐れずとも良くなるではありませんか」 「ヒルダさん……」 「アンネローゼさまはキルヒアイス提督の妃となられることで、提督とひいては陛下が非難されることを恐れておいでです。では、悪いのはアンネローゼさま、あなたご自身だと人々の目に明らかにされれば宜しいではありませんか。あなたがキルヒアイス帝国大公の妃たるを望まれたのだ。アンネローゼさまご自身のお言葉で明らかになることで、非難の矛先は陛下と帝国大公から離れ、アンネローゼさまに向くことになりましょう」 「悪いのは……わたし……本当にそう思ってもらえるでしょうか?」 アンネローゼの瞳から憂悶の翳りと怖れの靄がわずかに晴れ、深く碧い澄み切った光が戻ってくるのをヒルダは確かに見たと思った。 「残酷なことを申し上げることをお詫びします。でも、アンネローゼさまを娶られることで帝国大公が非難の的となり、帝国の人々の心が陛下から離れてしまう。そのことのみを思い煩われていれば、出口はありません。このままアンネローゼさまはお二人のいずれのもとへもお帰りになることはできず、虚しく生を費やされる。それのみが答となってしまいます。それはアンネローゼさま一人のみならず、陛下も、キルヒアイス提督も……」 一瞬、その言葉を口にするべきか否か。ヒルダは迷った。一人アンネローゼのみに犠牲を強い、自らの安寧を確保する。余りにも利己的で、独りよがりな言葉に聞こえてしまうかも知れぬことをヒルダは恐れた……が、口に出さぬこと自体がさらに利己的で、誰にも幸いをもたらすことのない選択であることも、ヒルダは知っていた。 「私をも不幸にしてしまう、それは答でしかありません……どうか、ご自分のために、そして私たちのために、敢えて辛い役目をお選び取り下さい。あなたにはそれをなさる義務がおありです……それから」 静かに微笑し、ヒルダは続けた。 「……あなただけに、それをなさる権利がおありなのです」 アンネローゼの声はなかった。しかし、ヒルダは彼女の声が確かにアンネローゼの胸奥深くに届いたと思った。サファイア・ブルーの瞳が何度も瞬き、俯いたアンネローゼからはそれ以上、何の言葉もなかったのだが。 ラインハルトもまた姉の表情にある種の動きを見て取ったに違いなかった。微かに頷き、はっきりと疲労を示してまぶたを閉ざした。微かに唇が動き、何かしらの言葉を紡ぎ出したかに見えたが、三人の誰にも声は届かなかった。 ただ、ヒルダには分かっていた。ラインハルトが『ありがとう、ヒルダ』と呟いたことを。彼女にとってはそれで十分すぎるほどだった。 「行こう」 短く、グレーチェンが二人を促した。 「これ以上、陛下を煩わせるわけにはいかないと思う」 ★☆★ ロイエンタールを乗せた『トリスタン』が、ルッツの急派した艦隊に発見されたのは一二月一六日、フェザーン回廊にほど近いルエヴェト星系でのことである。ニュルンベルグ星系フュルトを発してから実に一ヶ月もの時間が経過していた。『トリスタン』がフェザーンの宇宙港に到着し、ロイエンタールがルッツの出迎えを受けたのは、さらにその二日後、一二月一八日のことだった。 「出迎え、ご苦労」 ルッツの目から見るに、ロイエンタールの様子に普段と変わるところは何もなかった。フュルトでの騒乱の知らせは既にフェザーンにも達していた。味方のはずの帝国政府と帝国軍双方により生死を争うような局面に際会させられ、事実、間一髪の際どさで生命を拾ったにもかかわらず、また、フュルト離脱後に三〇日余りもの彷徨を余儀なくされたにもかかわらず、ロイエンタールの態度はあきれるほどに平静さを極めていたのである。まるで、昨日、周辺宙域の視察に出かけ、予定通り戻ってきたとさえ見えるような態度だった。 それが、内心に荒れ狂う膨大な感情を鮮やかなまでに制御し、均衡させる上での超人的な自制心によるものとルッツが察するまでにいかほどの時間もかからなかった。 「早速だが、ルッツ。会議の招集を頼む」 フェザーンの中心、統帥本部へ向かう地上車の中、ロイエンタールは前触れもなく切り出した。ちなみにこの時期、統帥本部の機能の過半はなおホテル・バルトアンデルスに置かれたままである。 「は、既に軍務尚書と工部尚書には待機を依頼してあります。クナップシュタイン、グリルパルツァー、アルトリンゲン、ブラウヒッチの四名は既に統帥本部に出頭済みです」 「ディッタースドルフとシュラーも出席させる」 作戦先任参謀と情報先任参謀の名を挙げるロイエンタールに、ルッツの目が藤色の光彩を帯びた。 「各大将には副官と参謀長をも伴うよう指示を出せ。軍務尚書にはフェルナーを、工部省尚書には次官を帯同するよう依頼せよ。卿もだ、ルッツ。参謀長と副官だ、良いな?」 「元帥、それは……?」 「フュルトでの話を聞きたくはないか、ルッツ」 いつにかわらぬ平静な声だったが、ルッツは背を硬直させた。彼は察したのだ。何かが違う。これは彼の知るロイエンタールではない。 「それを聞かせてやる。会議で、ゆっくりと……な。今は、何も聞かんでくれ」 眠りから覚め、炬火の両眼をひらく巨竜の姿を目の当たりにした……ルッツはそう思った。 「卿らに去就の自由を与えよう」 会議冒頭、ロイエンタールの第一声に、オーベルシュタイン以外の全員が息を呑んだに違いなかった。 「去就と言うと?」 通常の業務連絡会議の席ででもあるかのような口調で反問できたのも、やはりオーベルシュタインただ一人だった。 「統帥本部総長には、帝国政府に対する叛旗を翻されるおつもりか?」 「卿に私の代弁者を依頼したつもりはないが……その通りだ、軍務尚書」 余りに平静な口調でのやりとりだったため、出席者はとっさには内容の重大さを理解し得なかった。時計の長針がほぼ一周するほどの時間を経て、会議室内の空気が声もないままにどよめくように揺れた。二人の元帥がやりとりした短い会話、言葉が弾けて意味をなし、理解に達した瞬間、ほぼ全員が座席から半ば腰を浮かせたのだ。 静寂が一転して喧噪と叫喚に変わろうとした瞬間、ロイエンタールが軽く右手を挙げた。その僅かな身動きに、叫びだそうとした出席者は機先を制せられ、飛び出しかかっていた言葉を咽喉の奥に飲み込み、会議首座にある金銀妖瞳(ヘテロクロミア)の男を凝視した。 「フュルトで何が起きたか、既に卿らには子細を伝えてある。しかし、私があの地で何を見たか、この場で話しておく必要があるだろう。さもなければ、卿らに不十分な情報のみでの判断を強いることになる」 突然の兵士の叛乱、艦隊との連絡を絶たれ、地上車で獲物のように追い回され、ついには包囲されて絶体絶命の窮地に追い込まれた。『ロイエンタールの首には一〇億帝国マルクの報奨金がかかっているんだぞ!』 ―― ベーア大尉なる男の言葉を、ロイエンタールの肉声で伝えられた時、再び室内の空気が音もなくひび割れ、どよめいたかのようだった。 「出発前、軍務尚書は陰謀の実在について私に警告した。陰謀は実在したと言って良かろう。しかし、これはもはや陰謀と言うには余りに……」 言い止し、ロイエンタールは皮肉めいた微笑に唇の端を歪めた。巨大であり、断じて一私的組織による隠微にして姑息な策謀ではない……大仰すぎる割に実感を伴わない言葉の空疎さに、かえって苦笑を誘われたのだ。 「いや、これはもはや陰謀などという言葉で片付ける必要などあるまい」 「帝国政府による統帥本部総長に対する誅殺計画、そう評すべきと言われるか?」 オーベルシュタインの言葉が熱しかけた空気を一瞬に凍り付かせた。 「統帥本部総長排除のためにはシュタインメッツ提督、さらにはミッターマイヤー元帥をすら巻き添えにして顧みない。いや、統帥本部総長と併せ艦隊司令長官をも葬り去れば、帝国政府に対する帝国軍の発言権は事実上、地に堕ちることとなろう。既にしてヤン・ウェンリー亡く、キルヒアイス帝国大公は遠く新領土にある現在、両元帥をさえ葬り去れば、帝国政府の軍に対する優位性は動かぬものとなる」 オーベルシュタインらしからぬ長広舌と言って良かった。激した言葉でこれを説かれれば、室内は激昂と喧噪に支配されていただろうが、オーベルシュタインの口調はその日の昼食を決めるかのような平静さを動かさなかった。 出席者たちには一様に白茶けた表情を見合わせた。自らの見聞を語るロイエンタールが恬淡であればあるほど、またオーベルシュタインの口調が平板を極めれば極めるほどに、それが動かしがたい事実として胸中に食い入ってくるかのようだったのだ。 「……それが統帥本部総長の見解だと、私は推測するが?」 「たびたび済まんな、軍務尚書」 これまた皮肉っぽくオーベルシュタインに一揖して見せ、ロイエンタールは視線を一同に転じた。 「私の排除が帝国政府の意志であろうと、何者かの小賢しい策謀であったとしても、それは私にとっての問題ではない」 ロイエンタールは大きく息を吐く。さすがにこの言葉を口にするには、彼ほどの人間にしても決意が必要だった。 「敢えて卿らに問おう。このような策謀を我が皇帝(マイン・カイザー)がお許しになるか否か。逆に、我が皇帝(マイン・カイザー)がお許しになり、そのご意思をもって私を排除されようとしたとき、このような粗放にして無様、そして姑息な、兵の叛乱による偶発などを装われようか。卿らにとって、我が皇帝(マイン・カイザー)が、そのようなお方であるや否や……私は敢えて卿らに問うのだ。その上で、再度卿らに去就の自由を与える。これが、本日この場で私が話すべき議題のすべてだ」 「……と、統帥本部総長は……皇帝陛下がすでに帝国政府に於いて実権を失っておられると、そうお考えか?」 咽喉に絡まるものを何度も飲み込むようにして、ようやくのことで声を発したのはグリルパルツァーだった。レンネンカンプの部下として名声を博し、ミッターマイヤーも最も信頼する部将であるバイエルラインに向かって『彼の戦場における慎重さを見習え』と諭したことで知られる。その彼にして、ロイエンタールの迫った決断は重大に過ぎた。彼とて戦乱の中で階梯を上り詰めてきた男である。フュルトの事件が通報された時点で、ある程度のことまでは予測の内にあった。それでも、ロイエンタールが全く他の選択肢を示さず、彼らに去就の判断を迫るとは完全に予測の範囲外だった。下僚に去就を迫る。オーベルシュタインの補足を得るまでもない。ロイエンタールは帝国政府に対する正面からの挑戦、皇帝(カイザー)ラインハルトに叛して自らが纂奪の意思を表明したに等しい。 「それ以外にどう聞こえたのだ?」 ロイエンタールの応答も冷然さを極めた。 「……だ、だが、陛下はご病中にある。ご病中にあるが故の一時の手違いとお考えにはなれぬのか?」 「私が仕え、我が膝を折ったのは皇帝(カイザー)ラインハルト陛下お一人だ。陛下がわが主君たる所以は、陛下が陛下である、ただその一事に由来する。その説明で不足か、グリルパルツァー」 「……陛下がご回復になり、元帥に謝罪されれば……」 「異な事を言う。卿が病となり、陛下に不敬を働き、その結果、陛下が亡くなったとする。卿が恢復し、陛下にお詫びしたとして卿は許されるのか?」 冷嘲に近い応答は、グリルパルツァーに反論の言葉を失わしめた。救いを求めるように同僚たち、クナップシュタイン、アルトリンゲン、ブラウヒッチらに順に視線を送るが、彼らもまたロイエンタールが彼らの眼前に投擲した言葉の形をした爆弾の前に、言葉もなく硬直するばかりだった。 「卿はどうするのだ、工部尚書」 ロイエンタールは一転して、この場にある少数の文官中の筆頭者に目を向けた。 「ひどい質問をなさる」 あごひげをつまぐりながら、シルヴァーベルヒは肩を竦めた。 「元帥につこうと、帝国政府につこうと、いずれにしても新帝都の建設は当分見送りでしょう。私が旧帝都側につくと言えば、私を拘束するつもりでおられるはずだ」 「否定はしないな。卿にサボタージュでもされると、艦隊の補充と整備すらままならなくなろうからな」 「私に言わせれば、そんな無駄なことはして欲しくありませんな」 シルヴァーベルヒの口調は思い切って辛辣だった。 「元帥が帝国政府と戦いたいと思われるなら、いくらでもお戦いなさいというしかない。しかし、新帝都の建設はこれからの人類社会にとって必須の事業です。たとえ、ローエングラム王朝が滅ぼうとも、新帝都はこの後数百年も存続し、人類社会の中枢として機能し続けるはずだ。その事業を阻害し、停止させた挙げ句に、漸く収まった戦火を再現しようなどと愚かなことを考えるなら、元帥も帝国政府もどちらも愚者の極みと呼ばれてしかるべきでしょう……まあ、どうせ、私が何を言おうと元帥は決意を動かされますまいし、どうやら帝国政府側も掌を返して元帥に詫びを入れてくるようなことはなさそうだ。とすれば、選択肢は一つしかない」 「辞める、というのか?」 「ええ。そんな帝国になぞ興味はない。一民間人に戻って辺境開拓にでも加わりますよ」 席を立ち、シルヴァーベルヒは挑戦的にロイエンタールに向かって身を乗り出した。 「拘束でもしますかな?」 帰ってきたのは苦笑だった。 「好きにしろ。卿を害しては、それこそが人類にとっての損失だろう。野に下って、愚か者どもの愚行をつぶさに観察しているが良い」 「辞表は後で届けますよ」 感謝の言葉はなく、シルヴァーベルヒは退席する旨を伝えた。傍らで硬直しているグルックに、『後は任せた。また会うこともあるだろう』と肩を叩き、そのまま会議室を退出する。 「旧帝都(オーディン)に着かれたおりに陛下に取り次いでおいて下さい」 「私が無事に旧帝都(オーディン)に着けるとでも思っているのか」 ロイエンタールの問いは、しかし、閉ざされたドアに弾き返された。 「……さて、卿らの判断は二日後に聞こう。艦隊と共にフェザーンを去り、旧帝都(オーディン)に投じるも良し。皇帝(カイザー)への叛逆者として私を射殺するも良し。すべては卿らの自由だ。一二月二四日に、フュルト事件での責を問い、帝国政府に対しての挙兵を宣言する」 「誰の責を問うのか、伺いたい」 再びオーベルシュタインだった。 「挙兵の趣旨は君側の奸の討伐か?」 「……そのことなら、既に告げたつもりだが? 卿ならばすでに察していよう。先ほどのように卿の言葉でここで語ってみればどうだ。私はいっこうに構わんぞ」 ロイエンタールの応答はいっそ冷嘲に近かった。 「卿の意志は、皇帝(カイザー)ラインハルト陛下の責を問うにある」 既に十分な驚きに満ちていた室内が、今度は恐怖の波動を帯びた驚愕に揺れたようだった。一人眉一つ動かさなかったのは、当然ながらロイエンタールのみだった。オーベルシュタインの言葉を、ロイエンタールは予期していたに違いなかった。 「さすがだな、軍務尚書。その通りだ。今次の件につき、私は我が皇帝(マイン・カイザー)の御責任を問う。その結果に於いて、陛下には責任をお取り頂く……」 ルッツがぞっとしたようにそのロイエンタールの顔を見つめた。あるいは装ったものかも知れなかった。既にロイエンタールは忠良なるローエングラム王朝の臣下たる表情をかなぐり捨てたように見えた。 「その結果として、陛下に御退位頂き、私自らが玉座を襲う。それが、今次の挙兵の趣旨だ。卿らは十分に承知し、その上で判断しろ。私に従うこと、すなわちそれは我が皇帝(マイン・カイザー)を正面より敵とすることに等しいということをだ」 最後、ついに平静さを放擲したロイエンタールの言葉がたたき付けるように激した。雷光に撃たれたように、オーベルシュタインを除く全員が、もはやこれ以上は叶わぬほどに身を強ばらせ、席を立つことすら叶わない。 「……一つ提案がある」 完全に冷却し、凍り付いたかと思われた室内に、再び響いたのはオーベルシュタインの声だった。 「聞こう」 今更何を提案するのか、などとロイエンタールは言わなかった。 「旧帝都(オーディン)を占拠して後のことだ」 ロイエンタールは片眉をつり上げた。 「ほう、私が勝つと卿は予想するのか?」 「卿が一度(ひとたび)兵を挙げれば、卿を押しとどめるだけの力は、今の帝国政府にはない。帝国政府は卿とミッターマイヤー元帥を併せ葬ろうとした。では徹底して葬るべきだったのだ。彼らは卿を逃した。あるいはミッターマイヤー元帥をも逃しているやも知れぬ。帝国政府は既に勝機を失したのだ。卿が旧帝都(オーディン)を制圧し、皇帝(カイザー)との再会を果たすのは自明の未来と言って良かろう」 「それで、何を提案するのだ?」 「たとえ卿が皇帝(カイザー)の身柄を抑えても、帝国大公は卿の帝国支配を肯ずるまい。卿がそれを考えておらぬとは思えぬ。卿と帝国大公が戦場で相争えば、戦場は無数の死屍に埋め尽くされよう。帝国の得た最も賢明なる二将が、最も愚劣な戦いの主演者として史書にその名を刻む。それが卿の望むところなら話は別だが……」 「我が皇帝(マイン・カイザー)の生命と引き替えに帝国大公に無条件降伏を迫れ。卿はそう言うのだな?」 「そうだ。一度(ひとたび)卿の軍門に下れれば、帝国大公と雖(いえど)も一人の人間たるに過ぎぬ。処刑するも、一定の兵権を与えて辺境宙域に追放し、遂には自棄の叛乱を企てさせるも良し。卿の思うがままとなろう」 そのような卑劣な策をとれるものか……ロイエンタールが激昂して、その場でオーベルシュタインの拘束を命じる。出席者の多くが期待していたかも知れないその光景は、しかし、現実化することなく終わった。激昂の代わりにロイエンタールが浮かべた表情は、嫌なものを見いだして、しかし、その存在を認めざるを得ない苦々しさでしかなかった。 「卿は、私が我が皇帝(マイン・カイザー)を殺せぬ。そう思っているのだな?」 「卿にとっての唯一のジークフリートの肩は皇帝(カイザー)に他ならぬ」 オーベルシュタインは、それ以上の言葉を継がなかった。誰もが不得要領の表情となり、回答を求めてロイエンタールに視線を転じる。しかし、その金銀妖瞳(ヘテロクロミア)はいかなる表情もなく、空白のままだった。いや、その半瞬間、おそらくはオーベルシュタインの義眼のみがその光景を映していただろう。冷徹極まる帝国軍元帥、玉座纂奪を企む野心家、そのいずれの仮面もがはげ落ち、激しく動揺する傷ついた少年の顔が一瞬だけ露わになったのを……無論、自らの観察を言葉に変えて披露するようなオーベルシュタインではない。 短い、酷く居心地の悪い沈黙が流れた。 我に返ったようにロイエンタールが押し出すように、半ば呟くように応じた。 「卿の提案を私が受け入れぬとすれば、どうする?」 「卿が私の提案を受け入れず、なお私を生かしておくならば、私は卿には従えぬ。私を生かしておくと随分とやっかいなことになろうことは卿も理解していよう。条件を容れぬということなら速やかに排除するのが卿の覇権にとって必須だ」 「さて、たかが卿一人を生かしておいた程度でひびの入る程度の覇権など、最初から望まぬし、一兵も持たぬ卿を殺す手は持たぬつもりだ。騒ぎが収まるまで、卿には軍務尚書の職を離れてもらうとしようか……それと、卿にも『トリスタン』に乗ってもらう」 「私の助言など不要だったはずだが?」 「誰が卿に助言を求めると言った?」 ほとんど事務的と行って言い無造作さでロイエンタールは言い捨てる。 「先ほどとは矛盾する言い様だが、卿をフェザーンに置き残しては、何をされるか分からぬ。戦場を前にして、リスクはできるだけ摘んでおきたい。それだけのことだ」 微笑い、ロイエンタールは改めて一同を見回した。 「ここで散会する。軍務尚書と工部尚書の二人にして、私の旧帝都(オーディン)までの路の啓開されるべきを保証した。卿らの賢明なる判断を期待するや大である」 翌々日を待たずして、ルッツ上級大将を初めとする四名の大将、在フェザーン帝国軍の将官クラスのほぼ全員がロイエンタールへの忠誠を誓い、その挙兵に従う旨を明らかにした。 これが、帝国暦三年の擾乱、あるいはロイエンタールの乱として知られる一大事件。ローエングラム王朝創業期における最後の武力騒乱の幕開けとなった。