足る君へ(コピー本再頒)
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コピー本新刊です。 Xにてアップした「忘れる話」の再録加筆修正版となります。 A5/30P/¥400 もう、いいんじゃないかと思ったことがある。息もできないような苦しい中で歩いて、自宅に戻って声を上げて泣いた。もう彼を追いかけなくたって、己の人生を歩めばいいんじゃないかと思って、泣いた。己のために生きて、己のために歩いて行こうと。けれど、そうしたらどこに向かえばいいのだろうか。やりたかったことなんて何もなかった。 キバナは何でもできる人間だった。器用でその容姿は美しく、望めば何でも手に入れられた。幼心につまらないと思うこともあったけれど、周りに望まれるままにおだやかでやさしい気性を演じた。そうであれ、と望まれたままに行動すれば褒められ、物事はうまくいったからだ。キバナは最初、ポケモンバトルに興味はなかった、ポケモン学を学ぶうちになんとなく面白そうと思って手を出しただけだった。それが、十歳のジムチャレンジでダンデと出会ってからキバナの人生は大きく変わってしまった。ダンデに強く勝ちたいと願うようになった。なんでもできると思っていたことが、叶わなかったことが、キバナの興味を大きく引いた。寝食を忘れてバトル考察に明け暮れ、次に会うときは勝てるようにと努力を積んだ。これほど努力したことはいちどもなかった。いつかは手が届くと思った。いや、届かなくてもいいとさえ思った。彼が頂点でい続けてくれるなら、己はそれでもいいとさえも思っていた。 それなのに、その道を失ってしまったらどこへ向かえばいいのだろうか。 「 オレ様って、」 どこに行けばいいのだろう。 そう思った瞬間にはもう、キバナはだめになってしまっていた。 日課にしていたジョギングをやめて、自宅に一日引きこもった。 重い足を引きずってわざわざ外に出る必要もないだろう。体も重く、陰鬱な空気が家に漂っていてどこにもいけなくて部屋の中に籠もっていた。きれいにしていた部屋がごみでぐちゃぐちゃになって、シンクに食器が溜まっていく。それをぼうっと見ているだけで片付けようとも思えなかった。 かろうじて受け取ることができた新聞を広げる。汚い部屋は妙に静かで、新聞を広げた音がやたらと響いた。開いてすぐにぐしゃりと握りつぶす。新チャンピオンの顔とバトルオーナーの顔が並んでいたからだ。顔さえも見られなくなってしまった。どうしてなのか、キバナにはわからない。このガラルであの男と新チャンピオンの顔を見ないなんてこと、絶対にできないのに。頭では分かっていても、体は簡単に拒否してみせた。 テレビも点けることができなくて無音の部屋の中で寝て過ごす。そうしているうちに、そのうち外には一歩も出られなくなった。崩壊するのなんて、あっという間だった。 「 ああ、この程度だったんだ」 そう思うと余計に悲しくなってしまった。 なんとか理性が働いて、連絡だけはしようとどくどくと心臓が音を立てる中、スマホロトムもいないスマホを握りしめて電話をかけた。数日休むと伝えるとリョウタはそうですか、と言っただけでそれ以降連絡もしてこなかった。それが居心地が良いのか悪いのかわからなくて、心がぐちゃぐちゃになった。 カーテンを締め切っているせいで陽の当たらない部屋の中、ぐるぐるとどうすればいいのか考えた。思考がいろんなところに散って、ちっとも考えがまとまらない。もうどこかに逃げてしまおうか、いっそうのこと海外に。そう思ったら少しだけ楽になれたような気がするのだ。 立ち行かなくなってしまった人に、かわいそうだと同情したことはあったけれど、まさか自分がそうなるだなんて思ってもいなかった。ダンデだったら多分、何をしているんだと言うだろうな。そう思うと悲しくなってしまった。己がすべて悪いような気がして、この世のすべての罪を背負ったような気分になった。ぼうっと空中を眺めることしかできない。手持ちのポケモンたちにはフードは与えているが、己自身は食事もまともに取れていなかった。腹はちっとも減りやしないし眠くもなかった。夜通しバトルの構成を練った日にだって眠くなったのに。こうやって体も心も壊れていくのだと、キバナはようやく知った。 ふと、こんこんと窓から音がして、びくりと肩が震える。野生のポケモンでも現れたのだろうか。おそるおそるボールを持って窓へと近づくと、竜胆色が視界に映った。 今一番会いたくない人物だ。 カーテンを閉めて背を向けた。ここからすぐに逃げ出して、どこか遠くに行きたい。そう思った瞬間には駆け出していた。窓の方ではなく、玄関から飛び出して、ジョギング用に出しておいた靴の踵を踏んで走り出した。ダンデが驚いたようにキバナの名を呼んだけれど、キバナは止まることができなかった。スマホも手持ちのポケモンたちも置いてきてしまって、もうどうすることもできなかった。足が勝手に動いて止まることができない。呼吸がぐちゃぐちゃで苦しくてたまらない。永遠にこの苦しみが続くような心地で走り続けた。普段走っているジョギングの距離よりもずっと短い距離なのにひどく呼吸は荒れていて水の中のように苦しい。 息が続かなくてようやく立ち止まり、道の真ん中で座り込んだ。もう立つこともできそうになかった。よりにもよってあいつが迎えに来るなんて。そう思ったら一歩も動けないような体が急に走り出していたのだ。己でも驚いた。良くも悪くも、あの男が原動力だったのだなと今更ながらに理解した。 「 どうしたら、」 どうしたらあの男以外に目を向けられるかな。そう思ったら急激に目の前がぐるぐると回り始めた。突然目が開けられなくなって、キバナは道端に倒れ込んだ。体に力が入らなくて、ひどい眠気が襲うようにキバナの意識はなくなっていった。 「 キバナ!」 気を失う直前にあの男の声が聞こえたような気がした。 ああ、お前を忘れられたらいいいのに。キバナはそう願ってしまった。