亡命者たちの明日
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サイズ:A5 ページ数:76ページ 反乱者たちの明日の直後、アラヌス・ザイデルはイゼルローン機動要塞のエンジン補修工事参加のため、旧同盟軍の士官を採用する。工事に伴う、イゼルローン共和国との折衝の際に、どうしても同盟公用語に通じた社員が必要だったためである。少年時代に同盟へ亡命し、苦労して士官となったという、その若者と会ったとき、アラヌスはある既視感を抱く。『なんか、ベントラム大尉に似ているな……ただ、どっちだろう、俺の生命を救ってくれた時の大尉なのか、それともロルフを撃ち殺した時の、あの大尉なのか……』。 疑問を確認する時間もなく、アラヌスはこの元士官とともにイゼルローン機動要塞へ向かう。『英雄の落日』最終盤でのサイド・ストーリー。 新大長征 ある亡命者たち 二つの家族 幕間 イゼルローンの幽霊
新大長征(ニュー・ロンゲスト・マーチ)
「クリストハルト・ディッカー……元同盟軍大尉さんですか」 もっともらしく書類に目を凝らしているような振りをしながら、アラヌス・ザイデルは、向かいのソファに身を沈めた若者を観察した。 まだ若い。書類には二六歳とあったが、年齢詐称はないようだ。濃い黒褐色の髪と緑彩の強い榛色の瞳は帝国出身者には珍しいが、希少性を主張できるほどではない。 「二六で大尉さんか。世が世なら、今頃は佐官殿にでもなっておられたんじゃないですか」 「そうかも知れませんが、同盟軍はもうありません。これからは自分で自分の生きる道を探すしかないんです」 言葉に淀みはない。少年時代に同盟へ亡命したということだが、操る帝国公用語に同盟公用語の訛りはほとんど見られないようだ。 「亡命されたのはおいくつの時で?」 「一〇歳の時でした。同盟暦……じゃない、宇宙暦七九四年に同盟軍士官学校入学。七九七年に卒業し、同盟軍第一一艦隊に配属されました」 「なるほどねぇ、それでそれから五年ちょっとで大尉さんか……」 「早すぎる、とでも?」 「そうは言いませんがね。何というか、ヘル・ディッカー、何となくあなたが昔の知り合いを思い出させてしようがないんで」 「昔の知り合いとおっしゃる?」 「ええ」 面接者の経歴を示したホロ書類をテーブルに戻して、アラヌスはソファの上で軽く姿勢を正した。脂気のない髪と、こざっぱりとはしているが作業服姿のアラヌスは、これでもロルフ・ウント・アラヌス商会社長である。機関部所属の下士官として帝国軍で一〇年近くの軍務を勤め上げた彼が、今は亡き弟の名と自分の名を冠して立ち上げた、航宙機関維持修理をメイン業務にする小さな会社だった。 父親の工場を引き継いだとは言え、なれない会社経営に四苦八苦し、あやうく倒産させかけたこともあるが、今では仕事も増え、社員も十数名を抱えるに至っている。 その彼に、これまでにない大きな仕事が舞い込んできたのは、今年の四月末のことだった。 「皇帝陛下は、イゼルローン共和国との和解を諒せられ、その証としてイゼルローン要塞の同共和国への譲渡を決し給いたり。併せ、同要塞を以てのイゼルローン共和国の、帝国旧領土および新領土よりの退去を裁可せられたり」 この知らせに、アラヌスも『皇帝陛下も随分と太っ腹なことをなさるもんだぜ』と周囲に驚きを語ったものだった。 「何もイゼルローン要塞まるごとくれてやっちまうことなんかないじゃねぇか。ハイネセンだっけか、あの辺を割譲して、勝手にやってろと仰ってもよかったと思うがねぇ……」 「ま、その辺はいろいろと雲の上のお方達の、大人の事情ってやつがおありなんでしょうさ……それに……」 声を潜めたのは、ロルフ・ウント・アラヌス商会で人事担当を務めてくれているハンス・トレッチェルだった。ちなみにアラヌスの軍人時代の戦友でもある。 「皇帝陛下のご病気、かなり重いって聞いてますぜ。下手ぁすりゃ、近々に御崩御ってこともないではないかもって、皆、言ってます」 「縁起でもねぇこと言ってんじゃねぇぞ、トレッチェル」 「そうは言っても、先任伍長……じゃなくて社長。あの変異性……なんとか病って、名前聞いただけでも危(やば)いでしょうが……いや、だから、帝国としちゃあ、ヤン・ウェンリーと共和主義者なんて危険物、帝国領内に置いときたくないってことじゃありませんか。あの皇帝陛下と帝国大公、それに双璧が束になってかかってもやっつけられなかった難物ですぜ」 「ああ、たしかにな」 皇帝(カイザー)ラインハルトが、ただちに幽明境を異にすることはないとしても、当面、帝国は政治と軍事の両面、さらには経済面の施策においても、そのカリスマを期待できなくなるのは間違いない。そして、その当面は一年程度ではなく、数年に及ぶやも知れないのだ。 玉座の長期にわたる空位は、当然のように帝国の政情に不安定さを生む。後に『英雄の時代最後の騒乱』と呼ばれた、あの叛乱は辛うじて終熄したが、大空位時代が続けば、二度目、三度目が起きないともかぎらない。 「なんで帝国大公が二代目を継がれないんですかね」 トレッチェルの言葉は、アラヌスの胸中を代弁したものだった。 帝国大公……すなわちジークフリード・キルヒアイス元帥。皇帝(カイザー)ラインハルトの無二の親友であり、皇帝(カイザー)をして『我が半身』とまで言わしめた存在。ラインハルトもまた、彼の病中、帝位の代行、一説では第二代皇帝への即位をキルヒアイスに命じたとも伝えられる。 だが、キルヒアイスは即位の意思を示していない。皇帝(カイザー)ラインハルトを代行して帝国の統治に任じること、併せて皇帝(カイザー)の姉であるグリューネワルト大公妃アンネローゼを正式に帝国大公妃として娶ることを宣言したのみである。 「まあ、それにしても、本当に大丈夫なんですかね。グリューネワルト大公妃とか、帝国大公妃とか言いますけど、前の皇帝の愛人だった人でしょ。それも、皇帝が死んだとき、その大公妃さんの――(アンネローゼの名誉のために削除)――だったとかいうじゃありませんか」 「いい加減にしろ、トレッチェル! いくら何でも不敬罪食らうぞ。忖度ってやつじゃねぇ、万一でもあの方(帝国大公)の耳に入ったら、一〇〇パーセント、お前の首は宙に飛ぶぜ」 「へ、おっかねぇ。今のは聞かなかったことにして下さい、先任伍長」 「社長だ!」 脱線が過ぎたが、ロルフ・ウント・アラヌス商会にその仕事が持ち込まれたのは、その一月ほどあとのこと。イゼルローン共和国が、共和国主席フレデリカ・G(グリーンヒル)・ヤンの名で、『新たなる大長征』参加者を大々的に募集し始めた、その直後のことだった。 仕事の内容は、イゼルローン機動要塞に搭載された航宙エンジン……ワープ機関……と通常航行用エンジンの解体を含む修理と整備であり、工期は約半年。参加予定の関連事業者は数十社にも及ぶ。 最初、アラヌスは『俺ンところみたいな零細企業の出る幕じゃない』と気にもしていなかったが、入札参加への打診は、他ならぬ帝国政府からのものだった。 最初、それが昔のよしみを慮った帝国大公キルヒアイスの口添えかと思い、そこまで気を遣ってもらう謂われはない、と無視を決め込んだアラヌスだった。だが、実際には入札資格のあるすべての整備会社に入札打診が出されていることが分かって気を変えた。 「やってやろうじゃねぇか。こんなでかい仕事(やま)、俺の一生に二度はねぇぞ」 開札の結果、見事にロルフ・ウント・アラヌス商会は受注に成功、あと一ヶ月以内に、アラヌスは従業員と家族を連れてイゼルローン機動要塞に赴かねばならない。 ただ、この仕事には一つのネックがあった――言葉の問題だった。 イゼルローン共和国の公用語は当然のように同盟公用語である。一方、アラヌスを初めとして商会の従業員は全員帝国人。士官出身者はおらず、同盟公用語に通じている人間はいない。 その結果が、今回の面接なのである。帝国と同盟、両国の公用語に通じ、できれば軍関係や契約関係の用語に詳しい人間を、という条件で人材(リク)募集(ルート)をかけたのだ。この条件では、一般人からの採用は難しい。帝国から同盟に亡命したか、その逆の、できれば退役士官が狙い目だった。ただ、士官学校を出るか、そうでなくとも幹部登用試験を通って士官の地位を手に入れた古参の下士官ともなれば、人材としても有能な存在が多い。事実、帝国内の騒乱が一段落し、新旧両領土での再建事業が活発化するに連れて、そうした人材は急激に大手の事業者たちによって吸収されつつあったのだ。 ただ、アラヌスは幸運に恵まれた。新領土の総督府経由で、旧同盟軍を若くして退役した、帝国からの亡命者が帝国内での職を求めているとの紹介を得たのだ。その結果、こうして有望な候補者を面接するに至っているのである。 「その知り合いと言われるのは、軍時代の上官でいらっしゃる?」 候補者……クリス・ディッカー元同盟軍大尉は当然のことのように、その問いを放ってきた。 「ほう、分かりますかね」 「軍の経験が長いと聞きました。とすれば、昔、上官だった士官の中に、私のような若僧がいたとしても不思議ではありません」 「ま、若僧ではありませんでしたけどね。いい人でしたよ、基本的には。平民……って分かりますか?」 「ええ。私も平民の出身です」 ディッカーは微かに頬笑んで頷いた。 「ああ、そうでしたね……平民出身で、俺が下に就いた時は大尉だった。俺たち、平民出の下士官や兵どもにとっては、眩しいような存在でした。大尉も……ええ、ハルトマン・ベントラム大尉って人でした」 「ベントラム大尉は、良く、あなた方を庇ってくれた、と?」 「ええ……」 アラヌスは迷った。何と言うべきか。確かにベントラム大尉は、無理解な貴族士官や無能な貴族艦長から、何度も彼らを庇ってくれた。だが、そのベントラム大尉が言い放ち、彼らの信頼をどぶに叩き込んだ言葉を、アラヌスはハッキリと覚えている。 「お前たちは手足だ。手足が考える必要などない。考えるのは、エリートたる士官がやるのだ」 一方で、アラヌスがベントラム大尉を『俺たちへの裏切り者』として憎悪の対象としきれない理由は、大尉によって生命を救われたからだった。最後の最後の瞬間、ベントラム大尉は身を捨てて、アラヌスを救ってくれた。彼を突き放した反動で恒星アルトミュールの強烈な輻射のただ中に飛び出していくとき、確かにベントラム大尉が微笑っていた……アラヌスの記憶の中ではそうなっている。 ディッカー元大尉を、どうしてベントラム大尉に似ていると思ったのか、アラヌスにはよく分からなかった。自らを『エリート』と言い放ち、アラヌス達を自分の踏み台としてしか見ていなかった彼なのか、身を犠牲にしてアルトミュールの光の中で炎の塊になったベントラムなのか。 「まあ、いい上官でしたよ。私の生命の恩人です」 平民出身で、かつ、若くして士官として栄進した。その経歴が、良く似た履歴を持っていたかつての上官への相似を思わせるだけなのか……確かに良い上官だった。あの理想の上官ともいうべき若者達に出会うまでは――。 『生命の恩人』の言葉に、ディッカーは一瞬驚いたように目を瞠り、それから面映ゆそうな笑顔になった。 「それは……私ではヘル・ザイデルの生命の恩人にはなれそうにないです」 「いや、別に生命の恩人になってもらうつもりはありません。聞きたいことはすべてお聞きしました。わざわざ、こんな辺境の惑星まで出向いて頂いて恐縮です。採否の結果は、三日以内にお知らせしますが、よろしいですかね」 「ええ。滞在先は既にお知らせしてあると思いますが」 市内のビジネスホテルの名前を確認して、アラヌスは頷いた。 「確かに。できるだけ良いお知らせをできるようにするつもりです」 立ち上がり、面接の終了を告げるアラヌスに、ディッカーもソファから長身を立ち上がらせると右手を差し出した。 「トレッチェル」 事務所のエントランスから、面接者の背が工場の敷地の外に去って行くのを確認し、アラヌスは振り返って、人事担当の部下を呼んだ。 「もう一度、ディッカー元大尉の身元を洗っておけ」 「怪しいんですか?」 だったら採用を止めてはどうかと言うトレッチェルに、アラヌスは苦笑して首を振った。 「念のためだ。ディッカー元大尉を逃したら、仕事自体が没(ぼつ)っちまうかも知れねぇ。だから、採用見送りはないさ」 「じ、じゃあ?」 「さてね。俺にも良くわからねぇ。ただ、やっぱり気になるのさ。なんで、あの元大尉があんなにベントラム大尉のことを思い出させるのかってな。全然似てないのに、変だと思うだろ」 「変ですよ、確かに……でも、社長がそう言うなら、総督府でしたっけ、あっちに再照会しておきます。あそこは仕事が早いですからね、二日あれば、回答来ると思います」 「ああ、頼んだ」
ある亡命者たち
「この船の救命ポッドの内、一機の救命信号発信装置を破壊し、食糧、水、救急キットを下ろせ」 その命令は、最初、室内にいた全員、亡命者のみならず黒と銀の軍服姿の男たちにとってすら理解の範囲を超えていた。 「何をしている。命令が聞こえなかったのか?」 一瞬、表情を空白に変えた帝国軍の兵士たちは、無形の鞭に面上を拍たれ、表情を理解に変える暇もなく、数名が敬礼して室外へ飛び出していった。 「さて……」 命令者……フェザーン回廊の入り口で、この亡命船を捕らえた帝国軍軽巡航艦の艦長は、ある種の極彩色の感情が、目を背けたくなるような歪みを与えている一瞥を投げた。室内の一角に、身を寄せ合うようにして彼を見上げている亡命者の一団がその先にいた。 その視線が逸れ、室内に残った部下に向かう。 「ポッドの準備ができたら、この連中の中から、ガキどもだけを詰め込み、そのまま射出しろ」 冷酷極まりない命令が、さして広くもない船室内の空気を氷結させた。 「そ……そんな、救命信号も、食糧も何もないポッドで、子供達だけを射出するだって!」 「こ、こんな、こんな何もないところで!」 「悪魔、サディスト!」 「何を言う?」 帝国軍艦長は嘲笑(わら)った。彼が、終生にわたって忘れることなく、『帝国の、専制主義の象徴』として記憶し続けた嗤いだった。 「これは慈悲だ。本来なら、よくて貴様らともども流刑惑星で終身労働、さもなければこの場でこの船と共に爆破という運命なのだ。私は、慈悲深くも、ガキどもに僅かな生存の……そうだ、叛徒どもの奴隷として生きられるかも知れぬ、そんな可能性を恵んでやろうとしているのだ」 「う、う、嘘だ。そんなポッドに入れられて……それにポッドの定員は五人だ。ここには子供だけで一〇人以上いるんだぞ。それを……」 「黙れ」 軍靴の踵を踏みならず甲高い音に続いて殴打と悲鳴、フロアに人の倒れ込む音が響いた。誰もが息を呑み、室内が静まりかえる。 彼を面罵した男性を容赦なくフロアに打ち倒した艦長は、表情を変えぬままに部下たちを振り返った。 「何をしている。さっさと命令を実行しろ」 数瞬の空白の後、再び親たちの悲鳴が室内を満たした。続けざまの殴打の音と怒号、兵士に引きずられていく子供達の泣き声が、それに重なった。 彼も両腕を屈強の兵士に掴まれて抱え上げられた。 「父さん、母さん!」 必死に手を伸ばし、両親に救いを求めたが、一〇歳の子供の抵抗など、鍛え上げられた帝国軍の兵士たちには何の意味も持たなかった。 ドアから室外へ引きずり出されるとき、最後に彼の視界に残ったのは、あの艦長に指揮棒で殴打され、顔面を朱に染めて倒れる父親と、兵士たちの腕から逃れでようとする母親が必死に伸ばした右手の掌だった。 それが、両親との永遠の別れとなった。
ふたつの家族
『長征一万光年』の終結は帝国暦二一八年のことであったが、専制政治の軛(くびき)を脱した人々は、帝国暦を廃して宇宙暦(SE)を復活させることを決定した。自分たちこそが銀河連邦(USG)の正当な後継者であるとの誇りがそこにあった。ルドルフごときは卑劣な裏切り者にすぎない。 こうして自由(フリー・)惑星(プラネ)同盟(ッツ)の成立が厳(おごそ)かに宣言された。宇宙暦(SE)五一七年のことである。初代の市民は一六万人余、長征において同志の過半を失っていた――『正史』黎明編・序章より。 時間的に少し前。 テルヌーゼン市高速鉄道のターミナル前で停車した自走タクシーから二人の男女が降り立って、待ちを包む霧雨に目を細めた。 「珍しいわぁ、この時期にこんな雨なんて……」 やや小柄、素直な黒髪と大きな黒瞳。大きな丸眼鏡のレンズがみるみる霧雨の滴に覆われていくのに、ちょっと顔をしかめた女性が、傍らに立つ男性を見上げた。 「そうなのか?」 見下ろす方は、髪をクルーカットに短く整え、同盟軍……正確にはイゼルローン共和国防衛軍……大尉の制服に厚い胸の頑丈な長身を包んだ青年である。灰色に染めて街路を満たしている目に見えぬほどに細かい雨粒に気付くと、腕に抱えていたコートを女性に着せかけてやった。 「眼鏡は要らないだろう。いずれ素通しなんだからな」 「ううん」 素直にコートを着せてもらいながら、女性はきちんと結い上げた黒髪の頭を振った。 「どうしても、これがないと、服を着てないよりも裸な気分になっておちつかないから」 「そうか……」 頷き、青年はポケットから小さなスプレー缶を取り出した。身をかがめ、女性の眼鏡を手に取る。 「え?」 びっくりしたように黒瞳が瞠(みは)られるのを尻目に、眼鏡のレンズを拭うとスプレー缶を一吹きさせる。 「軍用の防滴スプレーだ。これでちょっとはましになるはずだ」 「あ、確かに。雨がつかなくなったよ……ありがとうね、ティフ」 「礼を言われるようなことじゃない。たまたま持っていただけだ……で、どっちへ行けば良いんだ?」 「うん、この辺、あんまり変わってないね。一〇分も歩けば着けるわ。タクシーだとちょっと道が狭くて入りきれないんだ」 言葉を切り、連れを見上げる顔がちょっと悪戯っぽい微笑を浮かべているのに、男は微かに眉を寄せたようだった。 「緊張してる、ティフ?」 「あ、ああ」 ティフと呼ばれた青年は、背を正して軽く咳払いした。頬から顎のラインはいかにも鍛え抜かれた軍人の逞しさを誇示しているが、皮膚の下の血流が明らかに増大していて、肌の色を紅く変えているのが一目で見て取れた。 「やっぱり緊張するな。士官学校の入学試験の面接に行くときよりも、ずっと緊張している気がする」 「ちょっとは緊張してもらわないと、ね……さ、行こう。きっと待ってると思うよ」 黒髪の女性が男の腕を取り、霧雨の中をリズミカルな歩調で歩み出す。一時、決して多くはない通行人達の一目を引いたものの、奇異の目で見る者はなかった。長い長い戦いがその終熄を見た今、街で軍服を着た若者……長い戦いの果てに故郷に帰ってきた元兵士たちの姿を見るのは珍しくもないできごとだった。また、この男女は、彼らが恋人同士か、そのような関係になろうとしている間柄であることを隠そうともしていなかった。 「戦いが終わった時、生き残った者たちが負うべき義務は再建と再生である」 月並みな評言には違いなかったが、熾烈すぎる戦いを生き延びたらしい若者二人が腕を組んで街を往く姿は、好意の視線を吸い寄せこそすれ、嫌忌や疑心の目を瞠らせるにはほど遠い光景だったのである。 「……それにしても吃驚したなぁ。ブラントン家って、そんな名家だったんだなんてねぇ……」 道すがら、黒髪の女性がゆるやかな動作で首を振りながら慨嘆する。 「その話はよしてくれ、ロッティ。あんなことを考えているのは父と、その取り巻きだけだ。今時、『大長征(ザ・ロンゲスト・マーチ)』以来の名家なんて、コメディ以外のなんだって言うんだ」 吐き捨てるというよりも、頑丈な歯でかみ砕くようなというべきだろうか。思い出したくもない記憶を振り払うように、防水フードに包んだ頭を左右に激しく振った。 「それに……ゼーダーシュトレームが亡命者の名前だなんて馬鹿げている。同じ系統の名前の家族だって、『大(ザ・ロ)長(ンゲス)征(ト・マーチ)』にも何人もいたことも分かってるのに……すまなかった、ロッティ。本当は、会いに行くつもりもなかったんだが、母がどうしても会いたいと聞かなかったんだ」 「そうだねぇ……ゼーダーシュトレームってウムラウトOが二回も出てくるもんね。ティフのお父さまが帝国系の名前だって勘違いするのも無理はないっていえば、無理はないんだけどね」 女性は、名をシャルロッタ・ゼーダーシュトレームという。長すぎる名前ということもあって、士官学校入学を機に略称のロッティ・セーデルを名乗るようになり、そのまま現在に至る。連れのティフ……ティフリー・ブラントンとは、士官学校での同期生であり、そして、これが最も重要なポイントなのだが、今は将来を誓い合う仲ということになる。 「いや、あれは分かっていた。確信犯だ。要するに、俺のすることすべてが気に入らない、そういうことだ」 「ま、いいじゃない。力尽くで引き留められたりしなかったし、あとはイゼルローンに入っちゃえば、それ以上に邪魔の入れようもないでしょ」 「力尽く……でね。言葉って言うのは便利だな」 ロッティの口調には全く翳りも拘りもない。ブラントンとともにかつての同盟首都ハイネセンにブラントンの両親を訪れた時の、汚泥を投げつけられるような不快極まる記憶は、すでに彼女の脳裏からは綺麗さっぱり拭い去られ、痕跡すら残していないようだった。 ★☆★ ハイネセンは見る影もないありさまだった。 新帝国暦一年、ハイネセンはジークフリード・キルヒアイス帝国大公率いる帝国軍によって占領された。衛星軌道に展開させた五万隻の大艦隊の武威を背景に無条件降伏を迫るキルヒアイスに対して、同盟政府はなすところがなかった。即時に降伏を受け入れていれば、まだハイネセン市には再起の余地があっただろうが、同盟政府はその選択すらしなかった。 降るか戦うかの二者択一を突きつけられつつも、政府はいずれの選択をも、沈黙という手段で拒んでしまった。結果、恐慌に陥ったハイネセン市民が暴動と、それに伴う大火災を引き起こし、街の中枢部を破壊し尽くしてしまったのだ。 最終的に政府は降伏を受け入れたが、政府からは市を再建する経済的余力は失われていた上に、その後発生した軍部によるレベロ評議会議長暗殺事件後は、ハイネセン市はもとより、惑星ハイネセンはなかば廃墟の中に放置されたのである。 さらに、『新領土総督』に就いたキルヒアイスが、その統治の中枢をケリム星区に移したことで、バーラト星系自体がすでに『新領土』の経済的・政治的中枢からも外れつつあるという現実がある。 「帝国はハイネセンを破壊した責任を取れ!」 「ハイネセンの再建計画を提示せよ!」 「栄光と歴史ある同盟首都の破壊に対する責任糾明を!」 ハイネセン宇宙港に降り立った二人を、帝国を糾弾し、賠償を要求する声が出迎えたが、ことの経緯を知る二人は顔を見合わせてため息をつくしかなかったのだ。