恐るべき冬
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銀英伝(帝国暦488年) (グレーチェン・ヘルクスハイム・シリーズ(1)) サイズ:A5 ページ数:140 「銀河英雄伝説外伝」OVAとして作成された「奪還者(Die Wiedergewinnung)」のヒロイン、マルガレータ・フォン・ヘルクスハイマー伯爵令嬢の後日譚に端を発する猫屋版銀英伝本編。時代的には原作黎明編前、マルガレータが、ベンドリング少佐と共に自由惑星同盟に亡命して後の、彼女の成長譚となる。 OVAでのラインハルトの言葉……『その前に宇宙を手に入れることにしよう』を受けて、ラインハルトが『宇宙を手に入れる』前に、マルガレータが同盟軍士官として宇宙に旅立っていくまでを描く。この辺、かなり年齢的に無理があるのを承知で無理を押し通してマルガレータを同盟軍士官学校に入学させ、その在学中に発生した救国軍事会議のクーデターである役割を果たすストーリーにしている。
亡命
フェザーン回廊から、自由(フリー)惑星(・プラ)同盟(ネッツ)領に入ること約一四〇〇光年の宙域に浮かぶポレヌト星系第四惑星ゾーシム。そのゾーシムの衛星軌道上に設置された入国最終審査機関の事務所を、風変わりな二人の男女が訪れたのは、宇宙暦七九三年二月のことである。 銀河帝国からフェザーン回廊を経由して自由惑星同盟に入国を求めてくる、いわゆる亡命者たちに対して入国の可否を審査し、最終的な手続きを行う施設、それが入国最終審査機関である。つまり、ここを訪れた二人は、フェザーンに置かれた同盟領事館での一次審査をパスして最終審査受審を認められた、帝国からの亡命希望者ということになる。 一五〇年前、ダゴンの会戦で存在が帝国の中に知られて以来、何百万、あるいは数千万を数える亡命者が同盟領に流れ込んできた。当初は『来る者は拒まず』の態度で彼らを迎え入れてきた自由惑星同盟だったが、やがて帝国の内乱にともなう難民や、さらには同盟内部に通牒の網を広げようとする偽亡命者までが流入し始めるに及んで、一定の枠を設けるようになった。その一環が、このゾーシムの審査施設だった。 その意味で、年間何万人もの亡命希望者が訪れるこの施設にとって、珍しくも何ともないと言うべき訪問者だったが、三〇代の、明らかに帝国軍軍人上がりと見える男性と、こちらは一〇代前半、あるいはまだ一〇歳か一一歳になったばかりに見える少女の組み合わせは周囲の視線を惹いた。男性の方は軍人らしい引き締まった体躯以外には特徴らしいものを持ち合わせなかったが、少女の方が行き交う人々の視線を不思議なほどに引き寄せるのだ。 本人たちにとっては、そんな周囲の関心は、それこそ関心の外だっただろう。フェザーンと同盟中枢を結ぶ定期航路の要衝にも関わらず、奇妙なほど寒々しい印象のある施設の中を足早に歩き過ぎていった彼らの姿は、やがて『審査室』のプレートの掲げられた一室に吸い込まれていった。 「帝国に於ける原姓名はマルガレータ・テレーゼ・フォン・ヘルクスマイヤー。ヘルクスマイヤー伯爵家の長女。亡命希望理由は、父ヘルクスマイヤー伯爵関係の政治的抗争の結果として、帝国の官憲の追捕を受ける身となったため……間違いはないか?」 質問の口調は事務的な有能さを示すには粗雑に過ぎ、役人特有の事務作業的な平板さというには、相手への軽侮が露わすぎた。 特に後者を敏感に感じ取ったらしい少女が浮かべた表情は、彼女の年齢にはおよそ似つかわしくない、険しい敵意をはらんだものだった。 「そうだ(ヤー)、間違いはない」 声音そのものは一〇代前半の少女特有の、未完成な不安定さと柔らかさを伴っていたが、声のトーンはそれらを完全に裏切って硬質な響きを帯びていた。 「その書類に書いていないのか?」 「確認のために訊いているんだ。そっちは書類を書いて出せば済むと思っているだろうが、こっちは年に何百件もこんな書類を審査しているんだ。不備な書類を出した挙げ句に、文句だけは一人前に言ってくれるような、お偉い帝国の××なお貴族様とやらとも飽きるほど話をしなきゃならんのだ、伯爵令嬢殿」 「……」 ぞんざいで尊大な口調で嘲弄の言葉を投げつけてきた相手に向かって、少女は、角度によっては僅かに翠色を帯びて見える紫(アメ)水晶(シスト)の瞳から非好意的な視線を突き返した。 少女は、まだ一〇歳を幾つも超えていない年齢に見えた。豊かな淡い色調の金髪と、育ちの良さをうかがわせる柔らかな丸みを帯びた頬。綺麗に通った鼻筋の下で、やや厚めの唇が淡い珊瑚色を帯びている。『美女』と評するにはまだ幼すぎるが、一〇年もすれば十分にその言葉に値する容姿を主張できるようになるだろう。 「……で、年齢は一二歳――と。一二歳と言うことは宇宙暦で何年生まれか言ってもらいたい」 その眼差しのきつさに怯みを感じたのか、亡命審査窓口の係官はほんの少しだけ口調を改めて質問を投げつけてくる。 少女の傍らに立っていた、同行者らしい、こちらは三〇代前半に見える茶褐色の髪の、穏やかな風貌の男がはっとしたように表情を動かしかけた。しかし、少女の応答は一瞬の遅滞もなかった。 「宇宙暦か、宇宙暦だと七八一年だろう。帝国暦四七二年二月二二日生まれだから……なぜ、そんなことを改めて訊くのだ?」 「同盟の市民になる以上、戸籍が必要だ。戸籍を作成する以上、年齢は必須の情報だからだ。それに、時々年齢を詐称してくる連中がいる。同盟には年齢によっていろいろと恩恵もあれば義務もあるということだ」 「詐称はしていない。証拠の書類も出しておいた」 窓口の向こうで、係官が視線を横に流したのは、別の端末かスクリーンに表示された情報に目をやったためだろう。 「帝国の書類なんぞ信用できるものか。何しろ、あのルドルフの建てた国だからな。騙すのはお得意だろうが?」 「そなたが、なにゆえにそのように私を侮辱したがるのかは分からないが、歳を偽ったところで私には何も良いことはない。それともそなたは私がもう二〇歳だとでも言いたいのか? それとも一〇歳にもなっていない子供だとでも?」 その声は低く、不必要な刺激を同盟の役人たちに与えないよう制御を伴っていた。弾け飛びかかっている感情の奔出を、紙一重で押さえ込んでいる不安定さをはらんだ口調であったにしても、だった。ただし、少女の目は危険すぎるほどに剣呑な光を帯び、彼女を不快さのどん底に突き落とした連中を、目に見えない視線の槍で突き通していた。彼女の視線が物理的な存在を持つとすれば、この審査室内の係官たちは全員、壁に串刺しになっていたに違いない。 言い負かされた、と感じたのかも知れない。係官は正面からは言い返そうとはしなかった。 「――すかした口を利きやがって、小娘風情が」 小声の悪態は、少女の耳にはとどかなかった。届いていても、彼女の同盟公用語の知識では理解しきれなかっただろう。代わって表情を動かしたのは彼女の同行者の方だった。 「フロイライン・マルガレータ」 きつい紫色の光を帯びた視線が一閃して、男の瞳を正面から睨み付ける。 「フロイラインは止めよ。妾(わらわ)もそなたも、国を捨てた時に、この国の流儀に従おう。そう申し合わせたではないか。もう忘れたのか、ヴェンツェル・ハインリッヒ?」 ヴェンツェル・ハインリッヒと呼ばれた男は温顔に微笑を浮かべた。 「さようでしたね。フロイライン……いえ、マルガレータ」 「なぜ、このような侮辱を受けなければならない? 私やそなたが何をした? 帝国に逐われ、やむを得ず救いをこの国に求めただけではないか」 「お気持ちは分かりますが、ここで抗議を申し入れたところで、何か得るものがあるとお思いですか? 父上は、リッテンハイム侯に命じられるままにブラウンシュヴァイク公の秘密を探ろうとなさいました。その結果がどのようなことになったか、それをお話し下さったのはあなたではないですか」 「――」 少女……マルガレータは唇を噛みしめる。よほどの口惜しさを堪えているのだろう。噛みしめられた唇が血の色を帯びるほどに充血し、握りしめた両の拳が微かに震えているのが見えた。 「マルガレータ――」 ヴェンツェル・ハインリッヒが声をかけていなければ、あるいは下唇を噛み破っていたかも知れない。 「分かっている。そなたの言うとおりだ」 マルガレータは頷き、係官に向き直った。 「話は済んだか? 我々も暇じゃあない。内輪の打ち合わせは事前に済ませておいて欲しいもんだ――まあ、年齢について言えば、お嬢さんが二〇歳の女性でも五歳の幼児でもないことは、身体検査の結果を見れば直ぐに分かる」 係官がわざとらしく身体の位置を変えたのは、『検査結果』の表示画面を少女……マルガレータの視界に入れるためだった。一連のテキストと並んで、複数の立体画像が表示されており、幾枚かは明らかにマルガレータ自身の『検査中』のそれだった。 少女が恥辱に頬を染める姿を期待したのだろうが、マルガレータは特に表情も顔色も変えなかった。 「そういう情報を被審査者に見せるのは、そなたの服務規程に違反しているのではないのか? それとも私の感想を答える必要でもあるのか?」 予想外の応答に、係官は一瞬唖然とした表情になり、慌てて身体の位置を変えて視界を塞いだ。咳払いして端末を操作した。 「七八一年二月二二日生まれ……一二歳で確認。登録希望氏名はグレーチェン・テレサ・ヘルクスハイム――帝国での氏名をそのまま名乗らないのか?」 「構わない。帝国での名前を名乗っていたところで、意味などない」 これもマルガレータが言い出したことだった。同盟領にも旧帝国での氏名をそのまま名乗っている亡命者は多い。いや、ほとんどがそうだという。亡命時に同盟風の名前に改名する方が稀なのだ。特に帝国で高い地位にあったものほど、帝国での氏名に固執する傾向が強いと聞いた。 当然、マルガレータ・テレーゼ・フォン・ヘルクスハイマーをそのまま名乗るだろうと思っていたヴェンツェル・ハインリッヒに、少女はこともなげに告げたものだ。そんな長い名前は要らない。名前はグレートヒェンの方が呼ばれ慣れていて良いし、フォンの称号も貴族のない国では不要だろう。ヘルクスハイマーの名前も長すぎる。 そう言って、彼女が選んだ氏名がヘルクスだったが、さすがにグレートヒェン・ヘルクスではどうもバランスが悪すぎる気がする――ヴェンツェル・ハインリッヒの言葉に、マルガレータはあっさり頷いた。 「では、ヘルクスハイムにしよう。グレートヒェン・ヘルクスハイム……ちょうど、釣り合いが取れていて、良くはないか?」 そのグレートヒェンも同盟公用語では余り一般的ではなく、発音もしづらいので、グレーチェンではどうか……これはフェザーンで知り合った独立商人からの忠告だった。さすがのマルガレータも、グレートヒェンの呼び名には愛着があったらしかったが、最後はまだ一一歳にも少し間のある少女としてはあっぱれと言いたいくらいに割り切ってのけた。『それがこの国の流儀じゃというなら、従おう』――と。 「一度選んだ登録氏名はよほどの理由がない限り変更できないのが原則だ。犯罪者や徴兵逃れの人間が身分を隠して潜伏するのを防ぐためにも、この原則にはほとんど例外が認められないが、それでも良いのか?」 「グレーチェンは、もともとわたしの呼び名だから、まったく違う名前になるわけでもない」 「なるほど、帝国にも住めなくなった以上、我が国以外に行くところもない。なりふりかまっちゃいられないってことだ。帝国貴族のご令嬢も、哀れなもんだ。帝国などに生まれるもんじゃないな」 また言わでものことを……マルガレータの激昂を危惧して一瞬ひやりとした思いをしたヴェンツェル・ハインリッヒだったが、当のマルガレータは意外にも冷静そのものだった。ただし、係官の嘲弄が彼女の感情に爪を立てなかったわけではなく、表面上の平静さが優れた理性の制御によるものだったことは、その後で知らされることになるのだが。 「それは私の事情だ。そなたにとやかく言われることではない」 係官は甚だ非好意的な視線をマルガレータに向けたが、それ以上の嫌味や嘲弄は無駄と悟ったようだった。彼女に関してはそれ以上の審査も残っていなかったのも事実である。 「入国カード」 マルガレータが差し出した入国審査書類を収めたカードを受け取り、幾つかの操作の後に、窓口のカウンター越しに投げ返して寄越す。非礼と言えば非礼極まりないやり方だったが、マルガレータは黙ってカードを受け取った。 「行きましょう」 彼女がカードをしまうのを待って、ヴェンツェル・ハインリッヒが声をかける。 「――うん」 頷き、マルガレータ……いや、以降は彼女のことをグレーチェン・ヘルクスハイムと呼ぶことにする……は、審査窓口前の粗末なスツールから滑り降りた。 「――あのような下司、怒るのももったいない」 マルガレータことグレーチェンが初めて感情を露わにしたのは、宿舎に戻る道すがらのことだった。 「あの男、自分が異常性癖者であることを自慢して何が面白いのか?」 係官がこれ見よがしに表示させ、彼女の視界に入れた立体画像には、グレーチェン自身の裸身を写したものも含まれていたのだが、彼女はそのことを恥じてもいなければさして怒りを覚えてもいない。典型的な帝国の門閥貴族に生まれ育った彼女にしてみれば、裸身を他者、特にあの係官のような『下司』に見られることにさして羞恥は覚えない。むしろ、そうした自身の卑しさを殊更に誇示する相手の精神構造が、彼女の怒りと反発を買ったのだ。 「帝国にもああいう手合いは大勢居ましたよ……ええと、マルガレータと呼べばよいのか、グレートヒェンと呼べばいいのか、どちらですか?」 「グレートヒェン……」 呟くように少女は答えた。不意に屹と視線をきつくして、ヴェンツェル・ハインリッヒを見上げる。声を沈ませてしまった自分に腹を立てたらしかった。 「せめてそなた……ヴェンツェル・ハインリッヒくらいにはグレートヒェンと呼んでもらった方が良い」 「分かりました、フロイライン・グレートヒェン」 「フロイラインは要らない。それに、この国に入ったからには、この国の公用語を使いこなさねばならない。違うか?」 「ええ」 「そなたは良いな、この国の公用語をしゃべれるのだろう?」 「士官学校では必須の教科ですし、情報部では叛徒……ではなくて同盟公用語を母国語のように操れねば、仕事になりません」 「では、これからも教えてくれるな?」 「無論ですが……同盟の中心部へ行けば、専門の教師も雇えるでしょう。わたしがお教えするよりもずっとその方が効果的ですよ」 「そうかな……」 豊かな金髪を揺らしながら、グレーチェンの口調がちょっと曖昧になる。軽く唇を噛んでから、またヴェンツェル・ハインリッヒを見上げた。 「ではこの国の首都に着くまでは頼む。そなたはわたしの後見役なのだから、そのくらいは頼んでも良いだろう?」 「ええ、喜んでお教えしますとも」 そにしても、年齢を確認された時はひやりとしました――ヴェンツェル・ハインリッヒは笑った。 「言い出したのは私だ。一二歳と言うからには帝国暦では四七二年の生まれになるし、宇宙暦とやらは帝国暦に三〇九年を加えた数字になる。そのくらいは予習してきた」 「計算しているようには見えませんでしたけれどね」 「計算などしていては間に合わないではないか。暗記してきたのだ」 帝国暦四八四年を迎えて一一歳。それが、この少女の本来の年齢だったのだが、彼女が実際の年齢よりも年上であるように装いたいと言い出したのが、同盟領の最前線基地のあるルウェヴィト星系に入る直前だった。 グレーチェンの父ヘルクスハイマー伯爵の一行は、フェザーン回廊を同盟領に入ったところでラインハルト・フォン・ミューゼル中佐の『ヘーシュリッヒ・エンツェン』に追撃・拿捕されている。本来、亡命のための諸手続きはフェザーンの同盟領事館で行われる。その際にはグレーチェンの年齢もまた申請されているはずで、今更の年齢詐称などできるはずもなかったのだが、この時はある偶然がグレーチェンに幸いした。 門閥貴族の一員として、自らの意志が直ちに行われるのに馴れていたヘルクスハイマー伯爵である。帝国からの亡命者を、ある意味で祖国の裏切り者と見なして蔑如の目で見下すのを常とする同盟の下級官僚との間に軋轢を生じなければ、これは奇跡のようなものだった。 結果としてヘルクスハイマー伯爵らがフェザーンに足止めされ、ラインハルトによる追捕の舞台がフェザーン回廊の同盟側出口宙域ではなく、フェザーンとなっていても不思議ではなかったのだが、事実はそうはならなかった。 『取り敢えず、ヘルクスハイマー伯爵とその夫人、および令嬢を始め、その従者一行の同盟領への入国を認める。個々人の亡命申請はルウェヴィト星系で行うものとする』 伯爵の手許から領事館に流れ込んだ多額の現金が、悶着にけりをつけたものだろう。伯爵自身と言うよりも、家宰あたりが気を利かせたものでもあろうが、とにかくヘルクスハイマー伯爵らは、予定を僅かに遅れただけでフェザーン回廊の通過を果たしたのだ。 最初は驚いたヴェンツェル・ハインリッヒだったが、直ぐにその意を了解した。彼女をしてそうした決意に至らしめたのは、あの二人の若者達に違いなかったからだ。何しろ、その後に続いたのが、『同盟にも士官学校があり、女子の身でも一六歳以上であれば入学が可能と聞いた』という言葉だったのだから。 「何歳も上を詐称するのは難しい。せいぜい一歳が良いところと考えてください」 ヴェンツェル・ハインリッヒの回答に、マルガレータは微笑ってうなずいた。『そなたに任せる』――と。 亡命申請の手続きが先延ばしになっていたことに併せて、ヴェンツェル・ハインリッヒが帝国軍情報部に勤務していた前歴が役に立った。マルガレータの正式な出生証明書を改竄し、帝国暦四七二年生まれであるとするまったく別の証明書を作成し、原本は破棄する。船に積み込まれていたアルバムや日記類も同じように修正を施した。いずれ、一〇代前半の少女一人のこと。一歳や二歳の年齢詐称を細かく詮索するはずはない……ヴェンツェル・ハインリッヒはそう踏んでいた。万一の際には、帝国と同盟に共通の、役人を物わかりのよい人間に変えるための特効薬も用意してある。 『特効薬』のことはできればマルガレータには知られたくなかったヴェンツェル・ハインリッヒだったが、無駄だった。特効薬の用意には、グレーチェンがラインハルトに許可された、ヘルクスハイマー伯爵家の資産に手を着ける必要があったからだ。 「使えるのなら使えばよい。つまり、その程度の国だということじゃろう? 自由の国とやらも大したことはなさそうじゃな」 資産の使途について問うことこそなかったが、グレーチェンが決して何も知らない無邪気な姫君でないことは、その言葉だけで明らかだった。 マルガレータ・テレーゼ・フォン・ヘルクスハイマーとその後見役ヴェンツェル・ハインリッヒ・フォン・ベンドリング。二人の亡命申請は、彼らがルエヴィトに着いて一週間もしない内に受理され、二人の許には同盟政府の発行した旅券と、ポレヌト星系ゾーシムへの出頭期日を記した書類が届けられたのだ。ただし、ヘルクスハイマー伯爵の資産はその大半が一旦凍結され、それぞれが五〇〇〇同盟(ディナ)通貨(ール)の現金のみ所有を許される。亡命が許可されれば、資産はグレーチェンに返却されるが、その際、法によって定められた率の課税がなされるとの通告も併せて行われている。 いずれにしても、ヴェンツェル・ハインリッヒとマルガレータが惑星ゾーシムにあるのは、そうした経緯の結果だった。 「同盟公用語についてはそうですが、しばらくは駄目ですね」 「ああ、そうじゃ……そうだな。そなたの審査、長くかかりそうか?」 グレーチェンの瞳が笑顔を潜めた。見る見るその表情に影が差し、この少女にしては珍しく、瞳が不安げに泳ぐ。 「あの装置を首尾良く同盟領まで運び込めておれば何も心配することはなかったのでしょうが」 ヘルクスハイマー伯爵は亡命に際して重大な帝国軍の機密を持ち出していた。指向性ゼッフル粒子の発生・制御装置に関する情報であり、単に情報だけでなく帝国軍技術総監部で試作中の実用試作装置までを盗み出して自家用船に積み込み、フェザーン回廊を経て同盟領への亡命を企てたのだ。 当然のようにこの亡命劇は帝国軍の察知するところとなり、一隻の高速巡航艦が亡命阻止のために派遣されてきた。それが僅か一六歳の中佐ラインハルト・フォン・ミューゼルの指揮する巡航艦『ヘーシュリッヒ・エンチェン』だった。ラインハルトはフェザーン回廊出口の同盟領辺境宙域でヘルクスハイマー伯爵の自家用船を捕捉、武装と通信装置を破壊して足止めし、接舷して装甲擲弾兵を送り込んだ。 ヴェンツェル・ハインリッヒ・フォン・ベンドリング帝国軍少佐は、指向性ゼッフル粒子発生・運用の実用試作装置の奪回を任務として『ヘーシュリッヒ・エンチェン』に同乗し、この時も装甲擲弾兵の一隊と共にヘルクスハイマー伯爵の自家用船に乗り移っている。 事破れたりと覚悟したのか、最後のあがきだったのか、ヘルクスハイマー伯爵は一家郎党と共に救命カプセルでの脱出を試みたが、そこで悲劇が生じた。脱出カプセル射出装置を作動させた際にカプセルの気密が失われ、伯爵以下ほぼ全員が減圧事故で死亡したのである。ただ一人の例外が伯爵の一人娘だったマルガレータだった。 「それは言っても始まらない。私は納得してあの者たちにキー・コードを渡したのだし、悪くすれば何もかも奪われて、身一つでフェザーンへ放り出されていたかも知れないのを、あの者たちは見逃してくれた。そなたにしても、あのまま帝国へ帰っておれば、機密を取り戻して戻ったことを皇帝陛下にお褒め頂けたであろうに」 彼女が、父から預けられていた装置のキー・コードを譲り渡すことに同意すると、ラインハルトは彼女がヘルクスハイマー伯爵らとともに死亡したことにするとして、同盟への亡命を認めてくれたのだ。その際、天涯孤独となってしまったグレーチェンに同行を申し出たのが、他ならぬヴェンツェル・ハインリッヒだった。 「あなたに付いてきたのは私の選択です、グレートヒェン。強いられたわけでも、ましてあなたに同情したわけでもありません」 「同情ではないのか? では、何だ?」 「そうですね。強いて言えば、あなた自身への興味……でしょう」 「わたし自身への?」 面白いお嬢様だ……ヴェンツェル・ハインリッヒはそう思うのだ。だからこそ、彼女の行く末だけは何としてでも見届けたい。いつのまにか兆していたそんな思いの前には、男爵家の三男という社会的地位も、帝国軍少佐という肩書きも捨てるにはさして惜しさを感じさせなかった。無論、門閥貴族の娘たちの大半がそうであるように、頭蓋骨の中にクリームチーズが詰まっているような姫君とは一線を画した何かしらを持っている。そう信じたからこそその後見役を買って出た、自身の判断に疑いを挟んだことはなかった。全くの悔恨をも伴わなかったかと言えば、そこまでは断言できないが。 さすがにその辺りは一一歳の少女の理解を超えたらしい。グレーチェンは眉を顰めてヴェンツェル・ハインリッヒを見詰めた。頬が僅かに紅い。 「そなた、たしか三〇歳を超えていただろう?」 「ええ、ちょうど三〇歳になります」 「その歳で少佐の地位というのは大したものだが……せめて私が一八になるまでは待ってもらわねばならないぞ。あと七年というと、そなたはもう四〇近いのではないのか?」 「はあ?」 話に付いていけずに、ヴェンツェル・ハインリッヒは唖然とする。その表情にグレーチェンは苛立ったように言葉を継いだ。 「それに妾(わらわ)……私も一方的にそのようなことを言われても困る。そうではないか?」 「あの……済みません、グレートヒェン。お話が見えませんが……」 焦れったい……両足を軽くとんとんと踏みならして、グレーチェンは唇を尖らせる。 「そなた、私に求婚しておるのじゃろうが」 「求婚ですって――」 もう一度唖然として、それからヴェンツェル・ハインリッヒは悟る。確かに、若い女性に向かって『あなた自身への興味』のゆえに祖国を捨てて、共に亡命すると表白すれば、求愛の告白と受け取られてもしようがないのは確かだった。 「あ、いえ、そういう意味ではないのです」 「――そういう意味ではない? では、どんな意味じゃ?」 この少女が生きていくことで、細やかながらも歴史が少しずつ変わっていくのではないか。その行き着く先を何としてでも見てみたい。偽らざる、それがヴェンツェル・ハインリッヒの思いだった。思いを上手く言葉にできずに使えたり、どもったりしたが、どうやら意は伝わったらしい。グレーチェンは思い切り唇をへの字に曲げると、憤ったように彼を睨み据えた。 「では、最初からそう言えば良いではないか。紛らわしいことを言うでない!」 一一歳の少女とも思えぬ剣幕に、ヴェンツェル・ハインリッヒはしどろもどろに弁解の言葉を探す羽目になる。 「も、申し訳ない。どうも私は昔から口べたで……」 ふっとグレーチェンの表情が緩んだ。 「一二歳でも女子(おなご)は女子(おなご)じゃということは忘れないでいた方がいいぞ、ヴェンツェル・ハインリッヒ。子供じゃと思うて侮っていると酷い目に遭う」 「心しましょう」 「それと……女子(おなご)にとって求婚というものは一大事なのじゃからな。誤解させたままにしておくと、ますます酷いことになるということもな……」 言い差してから、グレーチェンの表情がまた戸惑いに揺らいだ。大人びた顔つきが薄れ、年齢相応の幼さが表情を支配する。 「――何を話していたのだったかな?」 「私の入国審査のことです」 「ああ、そうだった……」 ヘルクスハイマー伯爵はフェザーン経由で同盟に『重大な帝国軍の機密情報提供』を申し入れ、見返りとして同盟での地位と財産の保証を要求していた。情報も装置もラインハルトに奪回されたとは言え、この『重大な帝国軍の機密』に関する情報提供が、ヴェンツェル・ハインリッヒの亡命に対する条件だった。 再び、グレーチェンの表情が硬く強ばった。宿舎のある一角。二人の足はいつの間にか止まっていた。 「迷うているのじゃな?」 淡い紫の眸がヴェンツェル・ハインリッヒの目を覗き込んできた。 「ええ、迷っています」 グレーチェンの後見役としての任を全うしようとすれば、昨日まで祖国として仰いでいた帝国を裏切り、その機密を、こちらはほんの少し前まで叛徒と呼んでいた同盟軍に漏らさなければならない。重大な機密であり、ゆえにこそ帝国軍は危険を承知で追っ手を送り込んできたのだ。 「行こう、ヴェンツェル・ハインリッヒ。ここで立ち止まっていると、周りから変な目で見られてしまうぞ」 グレーチェンが差し出した手を、ヴェンツェル・ハインリッヒは素直に把った。掌の小ささと、ひやりとするほどに冷え切った指先の感触が、彼女の想いを伝えてくる。口調こそ、大人顔負けの気丈さを示すグレーチェンも、まだ実際には一一歳の、両親を喪ったばかりの寄る辺ない少女でしかないのだということを。掌の冷たさは、入国審査、それも亡命に対するそれへの極度の緊張と、そう言って良ければ恐怖の表れに違いない。少なくとも、この時のヴェンツェル・ハインリッヒはそう了解した。 グレーチェンは、それなり会話を止め、それでも真っ直ぐに視線を保ったまま宿舎への道を辿る。ヴェンツェル・ハインリッヒはやはり黙々と、彼女に手を引かれるままにその後に従った。 二つの小さなベッドルームと、小さなテーブルが一つと椅子が二脚あるだけの居室、浴室・シャワールームと洗面所、およびダイニングルームはフロアで共用という被審査者用宿舎。かつてのヘルクスハイマー伯爵邸のグレーチェン自身の居室だけでこの数倍の広さがあっただろう。が、グレーチェンは部屋の狭さや設備の貧しさには一言の苦情も口にしなかったし、二〇歳近く年上の男性と居を共にすることへの不満も顔には出さなかった。 その夜、グレーチェンが自分用に割り当てられたベッドルームに引き込む前だった。 不意に黒ビールの缶とグラスを目の前に置かれ、ヴェンツェル・ハインリッヒが驚いて目を上げた先にグレーチェンの目があった。 「これは……」 「さっき買っておいた。自動販売機と言うのか、あれは便利だな。少し酒でも呑んで、気を軽くすればいい……それで、話してもいいか、ヴェンツェル・ハインリッヒ?」 「え、ええ、どうぞ」 「考えたのだ――」 グレーチェンはその話題を再開した。帰路の道すがら、食事や入浴の時間も考え続けていたらしかった。 「父上はその……何とかいう装置を手みやげに亡命なさろうとした。追っ手がかかって手ぶらになってしまったが、持ってこようとしたもののことを何も知らぬでは通るまい。まして、そなたは父上の郎党ではない。皇帝陛下に命ぜられ、父上を追うて来た身だ」 「それは――そうですね」 ヘルクスハイマー伯爵を追撃する過程でミューゼル中佐は一〇隻近い同盟軍の警備艦艇を撃沈しており、同盟軍もそれを把握している。彼らが何らかの機密情報をもたらそうとしていたこと。それを阻止するために帝国軍が実際に動き、おそらくは阻止に成功して脱出したらしいことを知っている。しらを切り通せる局面ではなかった。 「では、ヴェンツェル・ハインリッヒ、それであれば、どのようなものを持ってこようとしたか、そなたが知る限りのことを話せばよい。それが帝国にも同盟にも公正というものではないか」 「公正……ですか?」 「そうだ。そなたがどう隠しても、父上が持ち出そうとなさったものが実際に作れることは同盟に知れてしまう」 「そうでしょうか……私があくまで否定し続ければ……」 「今日のあの木っ端役人の言っていたことを聞かなかったのか? あの者たちにとって、帝国の人間など人間には見えておらぬ。そなたが隠そうとすれば、あの者たちはそなたを殺してでも知りたいことを引き出そうとするに違いないぞ」 グレーチェンの言葉は、ヴェンツェル・ハインリッヒを愕然とさせるに足りた。非礼極まる入国審査官の言動に矜持を傷つけられて激昂していたに違いない彼女だが、その一方で彼らの言葉の端々に表れる、帝国への極度の敵意を読みとっていたのだ。彼自身はと言えば、彼女が無用の悶着を起こさぬよう、ひたすらはらはらとして見守っていただけで、同盟の人間達が彼らをどう思っているかなど、完全に視野の外だったのだから。 「それは――そうですね。そのようなものを作れると知れば、同盟も同じものをつくろうとするだろうし、少なくとも警戒はできる。そう言うことですか」 「そうじゃ。でも、そなたは一介の情報将校であって技術者ではない。それがどのような仕組みでどんなことができるか、そなたに分かるのはそこまでで、どうやったらそれを作れるかは知らない。結局、同盟は自分の力で目指すものを作らねばならない。少しは時間を短くできるにしても、そなたのもたらした情報で同盟だけが利益を受けることにはならない。そう思う」 「それは、そうかも知れません……そうですね。もう一度、考えてみます。ありがとう、グレートヒェン」 いつものように気むずかしい表情で応答すると思ったグレーチェンが、珍しく笑顔になったのにヴェンツェル・ハインリッヒはもう一度驚いた。驚きが表情に出たのか、グレーチェンの方が一転して不機嫌そうに顔をしかめる。 「なんだ、私がそなたの役に立てたことを、私が喜んではいけないのか? この国で、そなたまで無くして、一人で生きていけると思うほど、私は私のことを買ってはいない。それだけのことじゃ――それから」 テーブルの上の黒ビールを、グレーチェンは指さした。 「その酒は高くつくぞ。そなたの後見人としての俸給から引いておいてやろう」 「それは――ご勘弁を」 「いいや、勘弁ならぬ。許して欲しければ、さっさと入国審査に通ってくることじゃ」 言い捨てるなり、金髪を翻してグレーチェンはベッドルームに姿を消した。 見送り、ヴェンツェル・ハインリッヒはソファに戻ると黒ビールの缶を開ける。よく冷えたグラスに注がれた黒い芳潤な液体を咽喉の奥に流し込む。少なくともグレーチェンと行を共にする限り、退屈だけはせずに済む。何かしらの驚きに見舞われる毎日というのも悪くないものだ。 ヴェンツェル・ハインリッヒへの同盟軍の追及は厳しかった。ゼッフル粒子に、宇宙戦闘用として実用可能な速度での制御可能な指向性を持たせるという研究は同盟で行われはいた。他の媒質に混ぜて噴出させたり、宙雷弾頭に封じたりなど、初歩的アイデアがいずれも惨憺たる失敗に終わった後、同盟でも帝国軍が開発した方法とほぼ同じ考え方に達しかけてはいたのである。 しかし、ゼッフル粒子を誘導するナノマシンの開発と、その制御システムの開発はまだ確たる方向性を見いだしてはおらず、フェザーン経由でヘルクスハイマー伯爵がもたらした実証実験装置提供の件も、半信半疑よりも疑問符の方が多いという状態で受け取られていた。 最初のうちは極く穏やかだった、ヴェンツェル・ハインリッヒ……ベンドリング元帝国軍情報少佐への尋問が、彼の語る装置の概念が明らかになるに連れて時間と苛烈さを増し始めたのは当然のことだった。彼の尋問結果が同盟(ハイネ)首都(セン)へ送られ、語るところの装置と制御の概念に実現可能性が見いだされたのだ。 審査開始から二日目までは帰宅を許され、グレーチェンに事の次第を報告する時間も取れたのだが、三日目からは事情が一転する。同盟首都から同盟軍兵器研究本部の技術将校が到着し、尋問が技術的詳細に入り始めると、審問は日付が変わっても続けられるようになった。 四日目、身柄を入国審査事務所から、惑星ゾーシムの同盟軍基地に移されることを告げられ、ベンドリングは同行者……彼(グ)の(レ)被保護者(ーチェン)への連絡の許可を求めた。が、返ってきたのはにべもない拒絶だった。 「話の裏を合わされては困るのだよ、ヘル・ベンドリング。事と次第によっては、ミス・ヘルクスハイムにも改めて審問に付き合ってもらうことになるからな」 「私は一介の情報将校であり、指向性ゼッフル装置の実証実験装置を奪回するよう、帝国軍首脳から命じられて、それに従ったに過ぎない。装置の概念や操作方法などは既に回答したとおりだ。それ以上の技術上の詳細は、私の専門外だし、それに一二歳の女の子がそんな装置の何を知っているというのだ?」 「それは貴兄の見解だ。我々の見解はまた別にある。被保護者を庇おうとするのは立派なものかも知れないが、我々にも国家の存立を支えるという使命がある。いずれが我々に重いか、議論するだけ無駄というものだ」 とは言え、ベンドリングがそれ以上の技術的詳細を知るわけもなかった。手を変え品を変え、あらゆる角度に質問の方向を変えての追求が為されたとしても、彼に応える術のありようはずもなかったのだ。ベンドリングへの尋問はさらに丸五日間にも及んだが、自分は一介の情報将校であって技術的詳細には通じていないとして、その概念以上には通じていないとするベンドリングの主張を覆すには至らなかった。。業を煮やした同盟軍の技術将校は、自白剤の使用を主張するが、これは入国審査官によって拒否される。 「自白剤は隠している事実を引き出す効果とともに、尋問者の誘導にそのまま答えてしまうという欠点があります。ベンドリングが実際にこれ以上の知識を持たないのであれば、何かしらを引き出せたとしても、何の意味も価値もない内容でしかない可能性が大です。それに、亡命希望者に自白剤まで使った前例はありません。そのような事実が伝われば、帝国は同盟が亡命希望者を拷問したとでも尾ひれを付けて宣伝するかも知れません」 「では……このミス・ヘルクスハイムか。この娘を尋問してはどうか。一二歳ということだし、当然、情報将校としての黙秘訓練など受けてはいないだろう?」 「既にミス・ヘルクスハイムには亡命が許可され、同盟市民としての市民権が与えられています。彼女を改めて尋問するには、裁判所の許可が必要です。それに、一二歳の女の子に、ゼッフル粒子の制御技術を質問して、まともな答えが返ってくるとでも?」 ベンドリングが尋問の終了を告げられ、拘束を解かれたのは、ゾーシムの同盟軍基地へ移されて七日目。実に、審査開始以来一〇日目のことだった。 審査の終了と、亡命許可の発行を告げた審査官は、最後になってしまったが……と前置きして、ベンドリングにその質問を投げてきた。 「貴兄と共に、ミス・ヘルクスハイムと彼女の家族を追跡し、実証実験装置を奪い返していった帝国軍の指揮官のことを確認させて欲しい」 「巡航艦『ヘーシュリッヒ・エンチェン』。指揮官はラインハルト・フォン・ミューゼル中佐。副長はアウグスト・ザムエル・ワーレン少佐、艦長護衛がジークフリート・キルヒアイス中尉」 ラインハルト・フォン・ミューゼル、およびジークフリート・キルヒアイスの名が、同盟側の公式記録に記録された、これが最初の出来事だった。銀河の歴史に新たな一ページを刻み込んだのだという想いは、無論、彼らの裡にはない。審査官にとっては、敵国の無数の人名の中の二つというに過ぎなかったし、ベンドリングには多少の感懐があったかも知れないが、彼にはもっと気にかけねばならない事があった。 丸一〇日、連絡も消息も絶やしたまま、グレーチェンを入国審査事務所の宿舎に放置しているのである。何を措いても、審査の完了を告げ、彼女の無事を確認しなければならないところだった。 だが―― 「ここは基地だからな。連絡シャトルは一日に二便だけだ。次の便は五時間後になる」 入国審査事務所とゾーシム基地では管轄が違うから、必要最小限度の連絡シャトルしか飛ばしていない……等というお役所的な説明など、ベンドリングには冗談ではなかった。 「では、映話くらいはできないのか」 「基地の通信施設は軍の施設だ。一般市民や亡命者に使わせるわけにはいかん」 「では、基地の外から連絡すればいいのか?」 「審査事務所で正式の手続きを済まるまでは、貴兄が基地の外へ出る許可は与えられないし、いずれにしても通信料を払おうにも手持ちがあるまい?」 穏和な……あるいは自らに穏和たるべきことを課していたベンドリングだったが、ここで切れた。冗談ではない。一二歳の寄る辺ない少女を一〇日間もひとりぼっちにして連絡もしていないのだ。 「そもそも私をここへ連れてきたのは卿らの都合だったではないか」 ベンドリングの剣幕に恐れをなしたのか、最長一〇分だけという条件で入国審査事務所の宿舎への通話を許可してくれたのだが――ベンドリングを狼狽させたのは、この映話にグレーチェンが出なかったことだった。 シャトルの時間まで、許可を得て三度、時間をおいてかけてみたが、いずれも発信音が空しく鳴り響くのみ。映話の画面も『呼び出し中』のテロップをフラッシュさせるだけで、金髪の少女の姿がスクリーンに現れることはなかった。 何かあった……そう判断せざるを得なかった。 そもそもグレーチェンの父ヘルクスハイマー伯が亡命せざるを得なくなったのは、帝国最大の有力者にとって重大な秘密を探り当ててしまったからだ。ミューゼル中佐がグレーチェンの亡命を敢えて見逃したのも、その秘密ゆえに彼女が暗殺の危険にさらされるのを危惧してのことである。 まさか刺客が――考え、否定する。ミューゼル中佐はグレーチェンがヘルクスハイマー伯とともに事故で死んだと報告してくれるはずだ。事実が漏れたとしても、関係者が刺客を仕立てて送り込んでくるだけの時間的余裕はない――が、マルガレータ・フォン・ヘルクスマイヤーをではなく、単に裕福そうに見える亡命貴族の子女を狙う者がいたとしても不思議ではないことに、改めてベンドリングは気づいた。審査事務所の宿舎区画には彼ら以外にも多くの亡命希望者がいた。貴族に反感を持つ平民、あるいは金に困った亡命貴族も少なからず、その中には含まれている。更には、入国審査の係官が露骨に示した態度に見られるように、あの施設自体が彼女にとって決して好意ある場所ではないのだ。 もう一度、審査官を脅し上げるようにして宿舎への保安チェックを約束させると、ベンドリングは、やっとのことで発進時間が来た連絡シャトルへと向かった。 打ち上げから衛星軌道までさらに約三時間、衛星周回軌道に入ってから審査事務所のステーションにドッキングするまで、なお二時間。ステーションのドッキング・ポートの係員たちは、ゲートが開くと同時に血相を変えて飛び出してきたベンドリングに仰天する羽目になった。 一〇日余りの過酷な尋問の後である。頬がこけ、無精ヒゲが伸び放題で、髪も大きく乱したままのベンドリングが血走った目を見開いてシャトルからの通路を駈け抜け、入国ゲートを躍り超えようとしたのである。驚いた警備員が通路を封鎖し、突進しようとするベンドリングの胸に複数の銃口が突きつけた。 「待て、入国チェックがまだだ!」 「止まれ、止まらぬと撃つぞ!」 「そこをどいてくれ、急いでいる。亡命希望者のヴェンツェル・フォン・ベンドリングだ。入国審査を終えて戻ってきた。直ぐに宿舎に戻らねばならないんだ。どいてくれ!」 「ダメだ。規則は規則だ。発砲は警告ではないぞ! 亡命希望者だというなら、入国カードは何処だ?」 もどかしげに、ベンドリングが内ポケットを指差す。警備員の一人が銃を突きつけたまま、もう一人がポケットからカード入れを取り出した。 「ヴェンツェル・ハインリッヒ・フォン・ベンドリング。元帝国軍少佐。昨日、二月二二日付けで亡命が許可されている。本人に間違いないか?」 「本人だ!」 怒鳴り返し、ベンドリングは何かに気づいたように目を瞠った。 「今、何と言った?」 「昨日付で亡命は許可されている。それがどうした?」 「その前だ、いや、昨日が何日だって?」 「二月二二日だ。それがどうかしたか……」 「二月二二日……昨日が二二日だったのか……」 「ああそうだ。宜しい、ヴェンツェル・ハインリッヒ・フォン・ベンドリング本人と確認した。審査事務所からベンドリング本人に連絡が入っている。宿舎に異常はない。お前の同行者は、宿舎でお前が帰ってくるのを待っているそうだ」 「え――?」 やや表情を緩め、係官が入国カードをベンドリングに返した。 「まだ最終手続きが残っているが、それは明日でも良いことになっている。早く帰ってやれ」 相手の言葉が脳裡で分解され、理解に達するまで数秒の時間を要した。シャトルが飛び立ち、ステーションにドッキングするまでの数時間、ベンドリングの内心を占めていたのは最悪の予想ばかりだった。それらの予想総てをあっさり覆す言葉が、しばらくは理解できなかったのも当たり前と言うべきだった。 「待っている?」 「ああ――悪いが後ろがつかえている。手続きが終わったらさっさと行ってくれ。こっちは忙しいんだ」 漸く言われた意味が理解できた瞬間、ベンドリングは膝から力が抜けそうになった。ゲートに列をなしている、シャトルでの同行者たちの視線に気づき、辛うじて通路の端に座り込む。全身から安堵の汗が噴き出し、ベンドリングは掌で口元を覆った。 「大神(オーディン)よ……感謝します」