バーミリオン、遙かなり
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銀英伝パロ(帝国暦490~491年) (グレーチェン・ヘルクスハイム・シリーズ完結編(4)) サイズ:A5 ページ数:188 帝国軍のフェザーン侵攻を眼前にし、同盟政府は帝国軍からの再度の和平交渉申し入れを受け入れる。が、和平成立の前提として、ラインハルトは亡命皇帝と『偽帝』と主張し、その身柄引き渡しを要求、これを受けた同盟は大混乱に陥る。混乱する国論を辛うじて収拾させ、亡命皇帝の少年をフェザーンへ送った同盟だったが、これが帝国軍の同盟領総侵攻の引き金を引くことになってしまう。 亡命者である彼女を偏執的に憎悪する上官の下、グレーチェンは、フェザーン回廊での戦いに始まり、同盟領辺境宙域での『彗星の戦い』を経てバーミリオン宙域に至る激戦の最中を懸命に戦い抜き、いつしか一流の士官として成長していく。 戦いの果て、バーミリオンの戦場で、真紅の装甲を輝かせた巨大な高速戦艦が、グレーチェンの眼前に現れた。グレーチェン(マルガレータ)はキルヒアイスとの再会を果たせるのか……グレーチェン・ヘルクスハイム・シリーズ完結編。
寒波至る
帝国暦四九〇年……いや、一七年前に生を受けた時とは、祖国として仰ぐ旗を変えた立場としては宇宙暦でカウントすべきだろう。着信したばかりの私信を表示していた端末画面から視線を移動させ、グレーチェン・ヘルクスハイムは、ふと物思う表情に、透き通った紫水晶<アメシスト>の瞳をさまよわせた。宇宙暦七九九年が新たなカレンダーを繰り始めて、すでに丸四ヶ月が経過しようとしている。 「激動の四ヶ月……か」 思わずその唇を漏れたフレーズはいささかありふれすぎていて、陳腐と評してもよいほどだったが、正確な事実でもある。 グレーチェンが同盟軍士官学校首都校から任官証書を与えられたのがこの年の二月始め。巡航艦『レディング』での少尉候補生として訓練を経て、最初の任地であるJL二七へ着任したのがその二週間後だった。 最初の軍事衝突であるダゴンの会戦以来、帝国・同盟間の軍事的争覇戦の唯一の舞台がイゼルローン回廊でだった。戦いはすでに一五〇年余りにもおよび、永久運動にも似たこの戦いが、この先も永遠に続く。帝国と同盟を問わず、ほとんどの人間にとっての暗黙の了解というべき認識だった。 その認識が一挙に覆ったのが、グレーチェンの赴任直後。同盟政府最高議会議長であるヨブ・トリューニヒトによる、銀河帝国『皇帝』ウェルウィン・ヨーゼフ二世の『亡命』と、『銀河帝国正統政府』の樹立の発表だった。 「一体、何が起きたんだ?」 正直、それが最初の感想だった。 「じゃあ、これまでの一五〇年の戦いは何だったんだ? 俺は兄貴を殺された。祖父<じい>さんもイゼルローンで死んだし、親父だって、弟がティアマトで戦死したんだ。それをどうしてくれる?」 帝国を絶対的な悪の具現と見なし、その体現者としての銀河帝国皇帝への憎悪に凝り固まった士官は、怒りの蒸気を憤激の言葉と共に吹き上げた。 「いや、これで戦いが終わるんなら、俺は故郷<くに>に帰れる。家族ンところへ帰れるんだ」 一方で、そう安堵の溜息を漏らす兵の数も少なくはなく、たまたま聞きつけた士官が彼らの一人を怒声と共に殴打するという事件まで起きた。士官による『暴力』が同盟憲章で禁止されていたことから、事件は下士官と兵たちからの抗議活動へと発展し、最終的には当事者となった士官と兵士がともに軍法会議に召集される羽目となった。 そこまで思い出し、グレーチェンはちょっと顔をしかめる。軍法会議の裁判長を務めた、彼女の上官のことを思い出したのだ。JL二七駐留艦隊参謀長ヒラーデ大佐は病的な帝国嫌いであり、この軍法会議でも一方的に士官を支持する判断を下したのだ。 「同盟軍人たるの義務を忘れ、帝国皇帝の亡命を、我が身の安全と保身の目から歓迎するなど許しがたい利敵行為だ」 兵には一〇日間の重懲罰房入りと一ヶ月間の給与停止、一階級の降等を命ずる一方で、士官の方は『良く我が軍の名誉を保持し、士気高揚に資した』として同盟憲章違反を不問に付した。あまつさえ『愛国・忠国の衷情のしからしむところの士官よりの下士官・兵への制裁は、単なる暴力とは自ずから性格を異にするものとして論じねばならない』などとコメントまで出したのだ。グレーチェンの目から見ればまったく不要・不急、要するに余計なコメントが、兵たちの不満を煽ったことは言うまでもなく、基地内の士気は目に見えて落ちた。無論、士気云々はグレーチェンの主観だから、ヒラーデの視野には別な光景が映っていたとしても不思議ではない。 ともあれ、エルウィン・ヨーゼフ二世の亡命と銀河帝国正統政府の樹立は、『一五〇年の沈滞<マンネリズム>』の惰性感を一瞬に打ち破る巨大な動きには違いなかった。動に対しては反動、作用に対しては反作用が伴うのが当然であり、しかも、それは同盟の誰もが予想していない速さで返ってきた。トリューニヒトの発表に対する、ローエングラム公ラインハルトによる、いわゆる『懲罰演説』である。ラインハルトは、同盟政府を『卑劣にして陋劣なる犯罪者』と断じ、『犯罪の首謀者への懲罰は帝国政府と帝国軍にとって最高度の優先順位を以て遂行されるべき任務となった』と宣言した。帝国から外交的な譲歩を引き出す、外交上の巨大なカードとして利用しようとした目論見は、ラインハルトのこの一言で崩れ去り、同盟政府はラインハルトによる『懲罰』を恐れ、備えねばならない立場に追い込まれた。皇帝の亡命も、亡命政府の樹立も、同盟に益するところは何もなく、その軍事的・政治的な選択肢にいたずらな枷をはめただけの重荷でしかなくなったのだ。 「それだけではないな……さすがにあの者<ラインハルト>はやる」 グレーチェンの呟きは、亡命皇帝への保護を巡っての、国内の意見対立を思ってのことだった。エルウィン・ヨーゼフ二世は、まだ八歳。しばしばメディアに登場する姿は年相応に幼く、繊細な容貌は可憐でさえある。 「このような事態を招いたことは我が身の不徳の至りだと思う。自由惑星同盟の人々には深く詫びたい」 など、健気なとも言うべき発言がメディアに載ることも多く、この幼帝の身柄を守ってあくまでラインハルトと戦うべしとする、いわゆる『騎士<ナイト・>症候群<シンドローム>』患者が急増しているとも聞いた。一方で、彼我の決定的な軍事力の差を理由に、エルウィン・ヨーゼフ二世をローエングラム公ラインハルトに差し出せとの声も上がっており、両者の対立が深刻さを増している……というのが、首都<ハイネセン>からの便りだった。送り主は無論、彼女の保護者であり後見人でもあるヴェンツェル・ハインリッヒ・フォン・ベンドリング。 そのベンドリングが、いつのまにか中佐として同盟軍情報部対帝国諜報課課長の椅子に座ってしまっているのが、グレーチェンの苦笑を誘った。 「相変わらず、口では楽をしたいといいながら、苦労の多い方に転がっていくんだからな、ヴェンツェル・ハインリッヒは」 ただし、微笑には嘲りはなく、むしろ信頼と、そう言って良ければ心からの親愛の色合いが強かった。 一方、もう一通の便りがグレーチェンの眉をひそめさせた。こちらは士官学校時代からの親友であるシャルロッタ・ゼーダーシュトレーム……ロッティ・セーデルからだった。検閲のためもあって所在は分からない。グレーチェンの顔色を曇らせたのは、文面がどうやらロッティが初めての実戦を経験したらしく読めることだった。 「第一一艦隊……か」 ロッティの配属先は、ウランフ中将隷下の第一一艦隊。その第二分艦隊旗艦航法士官が彼女の任務だったはずだ。ロッティが実戦を経験したとすれば、第一一艦隊が帝国軍との戦闘に加わったことになる。 「イゼルローン……か」 その結論しかあり得ない。 そう、ラインハルトは虚言を弄したわけでも、修辞の上で『懲罰』を口にしたのでもなかった。彼の演説から月が替わって直ぐ、イゼルローン要塞は、金銀妖瞳<ヘテロクロミア>の名将ロイエンタール上級大将指揮する、帝国軍三個宇宙艦隊の包囲下に陥った。 「なに、ヤン提督がおられる限り、イゼルローンが陥るものかね」 基地内に流れた楽観論、幾分かはこのルエヴェト星系がそうした華々しい戦いや武勲の場からは遠く離れた位置にあるのだとする他人事意識も含まれていただろう。 「三個艦隊が五個艦隊だって、金銀妖瞳<ヘテロクロミア>が金目銀目の妖怪だって、ヤン提督に叶うわけはない」 しかし、予想に反してイゼルローン要塞はなぜか苦戦した。一度は帝国軍から『要塞内部への侵入に成功せり』との宣言も出され、JL二七ばかりでなく、同盟領内の報道が『帝国軍、大挙侵攻近し!』の悲鳴を盛大に上げ始めた時期すらあったのだ。第一一艦隊がイゼルローン回廊へ投入されたとすれば、この時期だろう。それは同時に、同盟軍に三個しか残っていない現役の制式艦隊の内の一つを投入せねばならないほど、追い詰められた戦いだったことを示している。 その後、要塞が帝国軍の侵入を食い止め、戦いが小康状態となった時、第二の、そして決定的な一撃が、今度はフェザーン回廊を襲った。 ラインハルト直率の帝国軍主力艦隊によるフェザーン侵攻。たまたま、在フェザーンの弁務官事務所への連絡に赴いていたグレーチェンは、その目で帝国先鋒、黒色<シュヴ>槍<ァル>騎兵<ツランツェ>艦隊<ンレイター>の大挙来攻を目撃。志願した偵察行で、これが全面的な帝国軍の侵襲である事実を確認したのがほかならぬグレーチェン自身だった。 短期間の内にフェザーンを制圧した勢いに任せて、一気にフェザーン回廊を突破するかと思われた帝国軍だが、彼らはフェザーンで進撃を停止し、思いもかけぬ次のカードを切ってきた。それが、講和への交渉申し入れである。 「ジークフリード、ジークフリード・キルヒアイス、そなたの考えだな」 根拠はない。しかし、グレーチェンには、あの赤毛の若者が、ラインハルトへ進言する姿がはっきり見えたと思えた。あのジークフリードが力任せの同盟領侵攻を、彼を『かけがえのない友人<とも>』と呼ぶ黄金の髪の覇者に許すはずがない。 それが、ジークフリード・キルヒアイスに対する慕情から来る、一種の『恋人万能論』に分類されるべきものとの意識は、もちろんグレーチェンにはある。 『自らをも第三者の視点から見下ろすことのできる、極度の冷静さ』 後にある人物がグレーチェンのそうした一面を評した言葉である。この人物は更に分析を加え、言葉を重ねている。 『その一方で、自らの想いと判断への愚直なまでに忠実な真っ直ぐさと素直さを併せ持つのがグレーチェン・ヘルクスハイムだった』 ――と。 帝国軍からの意外すぎる申し入れに同盟政府は整合した回答を直ちに返すことができなかった。すったもんだの挙げ句に、ようやく政府の出した回答は、グレーチェンにとってはやや意外なことに、交渉の受け入れだった。 げっそりと窶れ、目を落ちくぼませ、さすがに無精ひげはなかったにしても、その分、痩け落ちた頬も隠しようがない。3DTV<ソリヴィジョン>に現れたアイランズ国防委員長の姿に、グレーチェンは唖然としたものだ。姿はもとより、彼の発した言葉は更に彼女を驚かせた。 『最高評議会は本申し入れについて鋭意協議を進め、昨夜、この申し入れを受けて帝国との外交的協議に入る旨を決しました』 政府はアイランズ国防委員長を全権大使とする代表団の派遣を決定し、すでに彼らはハイネセンを離れている。帝国軍が交渉開催地として指定したフェザーンに到着するまでにはまだ三週間近い日数が必要だった。 JL二七には、代表が立ち寄る旨が通知されてきており、グレーチェンもその準備に追われている。ようやく準備の目処も立ち、とかく彼女を目の敵にするヒラーデ大佐の目からも逃れて私信を読み、これまでのあれこれに想いを巡らす時間を取れたのも久しぶりだった。 ヴェンツェル・ハインリッヒとロッティの名を同時に目にしたことが、記憶の余り深くない位置にしまい込まれていたエピソードを思い出させた。 グレーチェンは亡命前の自らの素性を他者に話し聞かせる習慣を持たない。同期生で、JL二七にも行を共にしているティフリー・ブラントンだけはなぜか例外で、彼らはグレーチェンが、ヘルクスハイマー伯爵家の娘であることを知っている。ヘルクスハイマー伯爵家がいわゆる門閥貴族の一員だったこと。同盟への亡命の途上、ラインハルト・フォン・ミューゼル、ジークフリード・キルヒアイスとの間に奇妙な形で人生の軌跡を交差させた経験を持つことも。 そして、もう一人がロッティ・セーデルである。 士官学校時代、本来四年の年限が三年に短縮された上に、救国軍事会議のクーデターでさらに丸一ヶ月以上のロスを強いられただけに、休日とてろくにない毎日だった。そのまれな休日にロッティと連れだって外出した時のことだ。 「すってきだなぁ、ホント、素敵よ、もうホントに素敵っ」 亡命の経緯を話した時のロッティの反応は、グレーチェンをいささか驚かせた。 「何が……素敵……なの、ロッティ?」 「だって、ベンドリング少佐って、あなたのために地位も名誉もなげうってくれたんでしょ?」 「そ……それは、そうだけど……」 「それって素敵じゃない? 身も捨て、身分も地位も捨て、家族までもすてて、愛するお姫さまのためのただ一人の騎士として異境の地に赴く、なんて」 「え、あ、あれ、ちょっと、どうしてそうなるの?」 「だってそうじゃない?」 ロッティの言葉がある意味の真実を穿っていることは否定できない。『友となってくれようや?』とのグレーチェンの言葉通り、ヴェンツェル・ハインリッヒは彼女にとってかけがえのない友人<とも>となってくれた。途中の事情といきさつのすべてを省略し、事象を四捨五入すれば、確かにヴェンツェル・ハインリッヒが、すべてを捨ててまでしてグレーチェンのための『唯一の騎士』となる道を選んだ、と結論できなくもない。 「そうでしょ、そうでしょ!」 ロッティは一人で盛り上がっている。士官学校航法科の首席であり、近い未来の戦艦艦長は間違いないとまで評価されるロッティの別の一面を見せられた気がして、グレーチェンは目を丸くするばかりだった。私生活ではともかく失敗やうっかりが多く、『ドジっ娘』とか『優秀なのは足が地面から離れている時だけ』と言われるだけではなく、どうやらいわゆる『お姫さま幻想』という面もあるらしかった。 などと思っている内にロッティがさらにエスカレートし始めた。 「これって、身分違いの恋よね、そうよ身分違いの、叶わぬ、儚い恋」 「身分違い……の恋?」 「だって、グレーチェンってどう見てもお姫さまじゃない。伯爵家の令嬢だから当然かも知れないけど、すごく綺麗だし、すらっとしててプロポーションだって抜群だし」 「プロポーションならロッティの方がずっといいじゃない」 『同期生の中で文句なしにナンバー1』と言われる、ロッティの豊かな胸をグレーチェンは指し示した。 「もうちょっと上背<たっぱ>があったらね、ちょっとは自信持てるンだけどね」 他者に対してはそれだけ妄想と幻想と想像で盛り上がれるのに、どうして自分にだけは現実のみに限定された視線しか持てないのだ、と時々言いたくなるのだが、この時もロッティは笑み一つ浮かべなかった。ちょっと伸び上がるようにして右掌をグレーチェンの頭頂部にかざし、彼女よりも頭半分小柄であることを示して、ロッティは肩を竦めた。 「これって重くて肩が凝るし、グレーチェンくらいのサイズが丁度良いの。だってゼロじゃないし、バランス取れてるし、形だって抜群に良いし」 「誉めてもらったんだと思っておくわ」 決して長身とまでは言えないグレーチェンだが、士官学校の三年でずいぶん身長も伸びたし、手足の伸びやかさや身体のラインについてのロッティの評価は的外れではない。『ビスク・ドールを思わせる』と評される容貌は、確かに『すごく綺麗』と言われても誉めすぎということはない。もっとも、グレーチェンにしてみれば、一〇歳の時に『超絶的美形』を間近で目にしているのである。自分の容姿など、『あの者<ラインハルト>』に比較すれば論ずるに足りないと思うしかない。 ただ、よく分からないな、とグレーチェンは思う。自由惑星同盟とは身分のない社会を理想として建設された国家ではなかったのか。伯爵にしてもお姫さまにしても、もとはと言えば大帝ルドルフが側近たちに貴族を名乗らせた、その末裔でしかない。本来なら、同盟にとって最も忌避すべき敵であるはずだった。 なのに、3DTV<ソリヴィジョン>のドラマや小説などにはしばしば『高貴な身分』の人物が登場する。しかも、彼らの多くが主人公や、いわゆる正義の味方の役柄を割り振られているのが、グレーチェンの理解をやや超えていた。 「……で、そんなお姫さまに恋する……えっと、執事だっけ? 家宰だっけ? 主君のお姫さまに恋する家臣だなんて、これって身分違いの恋ってやつじゃないの、すっごくロマンティック!」 「誰が執事で、誰が家宰だって?」 「っもう、じれったいなぁ。そのベンドリング少佐のことよ」 「ヴェンツェル・ハインリッヒは家来でも従者でもないし、ヘルクスハイマー家に仕えていたわけでもない」 あの時、自分は『家来か、従者か?』だの、『ジークフリードよりも気は利かなさそうじゃ』などと遠慮会釈もない言葉をかけてしまっている。事実は事実だし、殊更に彼を貶めるつもりなどなかったのは確かだが、彼が自分のために捨ててくれたものの大きさに思い至れなかったのは自分の未熟さだった、と今では思える。 「それに彼もベンドリング伯爵家の出身だ。わたしと同じ帝国の貴族の出身よ、ロッティ」 なにげに補足した言葉がさらにロッティの妄想を刺激したようだった。たちまちロッティの両眼がはぁと型()になる。 「きゃあっ、彼だって、彼だって言ったわ、彼だって!」 「ヴェンツェル・ハインリッヒは男性だから彼でしょう? ほかにどう呼びようがあるの」 「でも、じゃあ、ベンドリング少佐ってグレーチェンにとってどういう人なの?」 「大事な友人よ」 「それだけ?」 「それだけ……わたしには大切な男性<ひと>がいるって言ったでしょう?」 「知ってる。ジークフリード・キルヒアイス提督……でしょ」 ロッティの声が低くなったのは当然だった。ジークフリード・キルヒアイスが帝国軍最高の艦隊指揮官としての名声を確立したのがアムリッツァの会戦。同盟軍艦隊の七割が、宇宙の藻屑と消えた戦いで、同盟軍に決定的打撃を与えたキルヒアイスへの憎悪は、優れた敵将への敬意をしばしば凌駕する。士官学校の敷地外とは言え、教官や士官学校生徒の姿も珍しくない辺りだ。どこに覗き込む目があり、そばだてられている耳があるとも限らない。 「金髪の孺子<こぞう>が無理なら、赤毛の若造の首だけでも奪って、墓前に供えねば、アムリッツァの戦没者の霊が浮かばれぬ」 時を一挙に数千年も巻き戻したのではないかと思わせる台詞を公然と口にする同盟軍指揮官、特に猛将型の指揮官が多いのも事実だ。そんな中で、グレーチェンがジークフリード・キルヒアイスへの思慕を打ち明けることができた唯一の相手がロッティだった。 「でも、彼は所詮帝国の人。会うこともできないし、言葉だって交わせない。手紙さえ送れないのよ。そんな叶わぬ恋だけを一途に追い求めて、振り返ってもくれないお姫さまのそばで、彼女の騎士はじっと彼女だけを見詰めている。もしも彼女が唯一の恋に破れて、悲嘆の淵に沈むようなことがあったら、必ずそばについていてあげよう、いつかは振り向いてもらえるだろうなんてそんな大それたことは考えないで……」 「ロッティ、ロッティ……」 「でも、ひょっとしたら、ひょっとしたら……ああ、姫さま、グレーチェンさま、どうかお気づき下さい。このわたくしめの秘めたる想いを、あなたに捧げる真実の心を……」 ついにグレーチェンは切れた。自分一人の妄想の中で、まるでダンスでも踊っているかのようにくるくると身を舞わせているロッティの両肩を掴まえる。 「ロッティ、ロッティ・セーデル」 物凄い形相で怒鳴られ、ロッティは「ヒッ」と息を詰まらせて硬直した。一瞬に妄想が覚めて、現実に戻ってきたようだ。はぁと型()になっていた眼鏡の奥の両眼が、くるりといつもの大きな黒瞳に戻る。 「わたしとヴェンツェル・ハインリッヒで遊ぶな」 「は……はい――ごめんなさい」 ロッティの勝手な妄想は怒鳴りつけて止めさせたけれども 、以来、なにかにつけてヴェンツェル・ハインリッヒと知り合って以来のことを思い出すようになった。亡命した当初、彼は彼女のことをグレートヒェン<フロイライン・グレート>さま<ヒェン>と呼んでいた。彼とて三男坊とは言え伯爵家の出身だから、帝国にあっても身分の差などはなかったはずだった。最初からグレートヒェンと呼び捨てられたとしても、苦情をいうべきものでもないし、実際に『さま付け』を止めさせたのは彼女自身だった。 それに、亡命の時、ヴェンツェル・ハインリッヒは言わなかったか。グレーチェンがこの先どうなっていくのかを見届けたい、と。『彼女の騎士はじっと彼女だけを見詰めている』というわけでもないが、確かに形態としては同じではないか。あの時、確かに自分はヴェンツェル・ハインリッヒが求婚しているものと勘違いして、『幾つであっても女子<おなご>は女子<おなご>じゃ』と説教してしまった覚えもある。 では、自分は彼を、ヴェンツェル・ハインリッヒをジークフリード・キルヒアイスと同じような目で見ているのか。あるいは見ることができるのか。そう考えて、グレーチェンは愕然とした。彼女の心の中に回答がなかったのだ。単に過去に何も考えたことが無かった……のではなく、今、考えても答えが出てこない。そのことにグレーチェンは驚いたのだ。一体、自分はヴェンツェル・ハインリッヒを自分にとっての何者として見て、考えてきたのだろう。 それがグレーチェンの心の片隅に蟠<わだかま>る想いとなって久しい。 それにしても、中途半端なことだ、と思わざるを得ないのは、JL二七の位置だった。フェザーン回廊の同盟側出口に最も近い同盟軍の基地。それがJL二七である。講和の交渉がまとまれば良し。両者が交渉の席を蹴り、帝国軍が同盟領への侵寇を開始したなら、その駐留艦隊は真っ先に血祭りに上げられるべき運命を定められている。言ってみれば、執行の猶予を与えられた死刑囚の立場に近い。 わずか三〇〇隻の駐留艦隊で一〇万を超える帝国軍に挑みかかったところで、勝ち目など議論するだけ愚かである。後退して同盟軍の主力艦隊に合流すれば、三〇〇隻という数も何らかの有意義な使い道も出てこようが、グレーチェンはかぶりを振る。ヒラーデ大佐の、一見カリスマを漂わせた哲学者的な容貌が脳裡に浮かんだ瞬間、一切の可能性が蒸発してしまう。 「戦いは数でするものではない。かつ、帝国軍の総兵力一〇万隻以上と言うのも過大すぎる。せいぜい数千隻とみるべきだ」 この期に及んでも、ヒラーデの視野は、彼が真実と認めた主観風景から一歩も動いてはいないようだった。そんな彼が、帝国軍を前にしての戦略的な後退を認めるはずもなかったのだ。 執行猶予中の死刑囚であれ、なんであれ、年初来の怒濤のような時の流れが一瞬の澱みを作り、その中での奇妙な平穏の中で過ごしている。それが、宇宙暦七九九年四月でのグレーチェンの日常だった。無論、この時のグレーチェンには、バーミリオンに至る遙かなる道程の一歩を踏み出したとの自覚は、まだなかった。 ☆☆☆ 無数の星々の連なりが、銀砂をちりばめた二筋の巨大な流れとなって濃藍色の夜空を横切っている。惑星フェザーンの夜空を最も特徴付ける『双児<ツィン・>天の河<ミルキーウェイ>』。一方は既に彼の手で征服された星々であり、ラインハルト・フォン・ローエングラム公爵が、その刺し貫くかのような視線を転じた先に広がるのは、これから彼の膝下に屈することになるであろう星の群だった。どのような形をとるにせよ、ダゴン以来一五〇年余にわたって永久運動のように続いていた戦いは数年の内に終止符を打ち、星々はラインハルトの支配を受け入れる形でのみ存続を許されることになる。星空を突き通す蒼氷色の視線は、巨星の恒星焔を思わせて苛烈なまでに靱い。 「ラインハルトさま、お時間です」 柔らかだが、芯に鋼の硬質さを隠した声が耳朶を打ち、頷いたラインハルトは黄金色<こがねいろ>のオーラさながらに髪を翻した。 帝国暦四九〇年三月三一日。ラインハルトの直率する帝国軍主力はフェザーンの制圧を完了し、フェザーンの夜空に新たな人工の瞬きを加えていた。 音もなく降り注ぐ天然と人工の星空からの光の中、ラインハルトが大広間に戻った時、時計の数字が音もなく動き、四方の壁から鐘の音の奔流となって新しい月の開始を告げた。同時に、大広間に参集した帝国軍首脳の口から一斉に『プロージット!』の叫びが上がり、ラインハルトみずからが高々と掲げたクリスタル・グラスの煌めきに応じて無数のグラスが宙に躍り、新たな光で大広間を満たした。 やや遅れてパーティの会場外でも大歓声が上がった。『プロージット!』、『万歳』の叫びが地を響動<どよ>もして響き渡る。『皇帝<ジーク・>万歳<カイザー>!』、『皇帝<ジーク>ラインハルト<・カイザー>、万歳<ラインハルト >!』など、ラインハルトがフェザーンに来着して以来、兵たちの間ではごく普通となった叫びも他を圧して轟く。祝宴は高級士官だけでなく中下級士官から下士官、兵士にいたるまでを対象として開かれており、参加した将兵たちの上げる歓声が市街を揺るがし、惑星そのものをさえ揺さぶり上げたのだ。 「そんな無駄な……」 二〇〇〇万にも及ぶ全将兵に酒食を振る舞うと聞かされて、眉を顰める主計士官もなくはなかったのだが、『一日分の戦費よりも費用がかさむというのか?』とラインハルトに問い返されると一言もなかった。食事や飲料の準備、会場や式の運営などは地元のフェザーン商人に入札させ、時ならぬ巨大な需要は彼らの帝国軍への反感を大いに和らげる効果を生んだ。 フェザーン商人の中には先んじての買いだめと転売に走り、価格のつり上げによって第二のバランタイン・カウフたらんとした者も少なくなかったが、新たなカウフ財閥がフェザーンに出現することはなかった。一旦は急騰した各種物資だったが、帝国軍がガイエスブルグ機動要塞に満載した軍需物資を放出し始めると、価格は瞬時に買い占め開始以前のレベルを割り込んだ。濡れ手に粟の暴利を夢見たフェザーン商人たちだったが、夢の終わりは破産申請のための裁判所の受付だった。 「盛会だな」 グラスのシャンパンに軽く口を付けてから、ラインハルトは傍らの赤毛の若者に声をかける。 「ええ、二三歳のお誕生日、おめでとうございます、閣下」 「祝ってもらうようなことでもないし、わたしの誕生日を祝うのが目的はなかったはずだぞ、キルヒアイス。第一、今日はわたしの誕生日ではない」 ラインハルトの誕生日は三月一四日なのだが、その時点では帝国軍は未だフェザーン回廊に入ってさえいなかったし、問題はそこではない。ラインハルトが公私の混同を嫌うことは、彼と行を共にすること一〇年余りを数えるジークフリード・キルヒアイスにとっては自明以前の事実と言って良い。軍の将兵を参集させてのラインハルト個人の誕生パーティなど、検討にすら値しないはずだった。にもかかわらず、キルヒアイスは、ラインハルトの誕生日と遅ればせながらの新年の祝賀を兼ねた祝宴を提案した。 「俺の誕生日の祝いだって?」 最初、顔をしかめたラインハルトだったが、フェザーン制圧完了で将兵の士気が上がっている一方、年末来の作戦行動で彼らが新年度祝賀の機会を逸しているとキルヒアイスに説かれると、しぶしぶながら祝宴の開催に許可を与えた。 「祝宴などいかがなものか。まだ、自由惑星同盟が我が軍門に降ったわけでもない。公爵閣下の誕生祝いと新年祝賀に名を借りても、これが戦勝祝賀であることは明らかだろう。士気を上げるどころか、弛緩を招く恐れすら無しとはすまい」 オーベルシュタインが反対し、これに和す声も少なくはなかったが、ラインハルトが一度下した判断を翻すことはなかった。 「恐るべき<フィンブル・>冬<ベト>を開始した時に、わたしはこれが『終わりの始まり』だと言った」 祝宴の開会に際して、ラインハルトの最初の言葉がそれだった。 「この祝宴をもって『終わりの終わり』と誤解する者があれば、直ちに考えを改めよ。吾らは未だ道の半ばにある。自由惑星同盟はまだ白旗を掲げおらず、最も有能にして強力な敵将はイゼルローンにおいて健在である。吾らが一時<ひととき>の勝利に安んじれば、次の戦いの勝利の栄冠は敵の戴くこととなろう。卿らに期待するや、大である」 再び『プロージット!』の叫びが大広間を圧する。 「プロージット!自由<フリー>惑星<・プラ>同盟<ネッツ>最後の年に――!」 ひときわ良く通る声が、一同の鼓膜を圧して響き渡る。集中する無数の視線の中、声の主は昂然と傲然を相半ばさせた表情で、彼の主君に向けて高々とグラスを掲げていた。 半瞬の後、ラインハルトが端麗さを極めた微笑で声の主に頷き、グラスを掲げ返すと、周囲で拍手と歓声が沸き返る。大いに面目を施した声の主が頬を紅潮させ、グラスを一息に干すのが見えた。 「若い連中は元気があって良いな」 「私も若いですが、あれほどの元気はありませんよ」 ミッターマイヤーとミュラーが、表現は賛嘆であっても多分の皮肉の酸味を利かせた会話を交わしているのが聞こえて、キルヒアイスは苦笑した。声の主は、キルヒアイスにとっても同窓と言って良い人物だったからだが、今の彼の関心はそこにはなかった。 「今回の祝宴の件ではお世話になりました」 近くにいた人物に向けて、キルヒアイスはその見事な赤毛の頭を一揖させる。 「感謝して頂くようなことは何もしていませんわ、キルヒアイス提督。私<わたくし>は、提督のご意見に賛成だと、ローエングラム公に申し上げただけです」 ヒルデガルト・フォン・マリーンドルフ……ヒルダは小さく微笑んでキルヒアイスの挨拶を受けた。胸元を飾るスカーフ以外は帝国軍中尉と何一つ変わらぬ服装をした彼女だが、その肩書きは、本来ならば帝国軍中将に相当する幕僚総監代理である。ラインハルトにとってキルヒアイスやオーベルシュタイン、あるいは帝国軍の双璧とならぶ、最も信頼する相談相手と言って良い。 「その後、ドクトールからは連絡がありますか?」 キルヒアイスの声がやや低くなる。ヒルダも心持ち表情を硬くし、軽く顎を引いて肯定を示した。 『ドクトール』、国立文理科大学医学部のバウアーシュミット准教授は、昨年来、しばしばラインハルトを襲うようになった発熱と病臥に対して、未確認の難病の可能性を指摘した医師である。今は、マリーンドルフ家が主宰する医学研究基金から資金を与えられ、この難病の研究に当たっている。基金の主宰者はヒルダの父マリーンドルフ伯爵であり、研究成果の報告は伯爵のみに提出されることになっているのだが、無論、伯爵からは随時にヒルダに連絡が入っているはずだった。 数百を数える有人惑星を一々訪れていたのでは症例を確認するだけで数十年を要するだろう。バウアーシュミット医師は、基金から得た資金によって帝国全域の医療機関から症例の情報を掻き集めたのだという。数千万から億を越えるだろう症例情報を、彼は文理科大学の情報処理研究室に依頼して開発したコンピュータによるフィルタで篩い分けた。ただ、情報のフィルタリングには文理科大学のメイン・コンピュータでも能力が不足しており、一部の処理は帝立大学を始めとする多くの研究機関が引き受けることになった。従来であれば、研究機関同士の壁がそうした協力を阻んだだろうが、ラインハルトによる帝国社会の改革は確実に研究者の世界にも及びつつある。 億を越えていた情報は、こうして数千にまで絞られた。あとは、専門家としてバウアーシュミット医師の経験と分析能力、判断力がものを言う世界である。ここ一ヶ月余り、バウアーシュミット医師を巡っては密やかな噂が絶えない。曰く『彼はいつ眠るのだ? 彼はロボットなのか?』――と。 「ほぼ確実な症例は見つかりそうだとのことですわ。まだ、それ以上は何とも言えないということですけれど」 硬質な美貌をかすかに翳らせて、ヒルダはラインハルトの後ろ姿を視野に入れた。豪奢な金髪の所有者の姿は、ミッターマイヤーやミュラーを初めとする元帥府幹部との談笑の環の中にあった。和平交渉が破れ、自由惑星同盟との戦端が開かれた場合の戦略論の花が咲いているのだろう。 「そうですか……」 「まだ海のものとも山のものともつかないような話ですし、かりに実在するとわかったとしても、通りすがりに買った宝くじが当たるような確率だと。これは受け売りですけれど」 宝くじを買ったことがありますか……とヒルダに問われ、キルヒアイスは頭を掻いた。絵に描いたような堅物だった父は、ギャンブルは無論、少年時代のキルヒアイスがフリー・マーケットで景品目当てのくじ引きをするのにさえ、いい顔はしなかったものだ。 「宝くじ、どんなものかご存じですか?」 キルヒアイスに反問されたヒルダが今度は赤面した。 「どんなものかは……知っていますし、銀行が普通に販売していることも知っています。でも、買ったことはありません」 「ドクトールは買ったことがあるようですね。それも当たったことはなさそうだ」 つまりそういうことであり、ヒルダがマリーンドルフ伯爵に依頼して医学研究基金を設けてもらい、バウアーシュミット医師に資金を提供したのも、本当に万一の際の保険という色彩が強かった。自分たちにとって……キルヒアイスはためらいなく『自分たち』の中にヒルダをカウントする。もう一人は自明だった……ラインハルトは万一の保険をかけてでも守るに値する存在だったのだ。 バウアーシュミット医師の懸念が単なる杞憂に終わるとしても、自由惑星同盟との戦いはできるだけ早くに終結させねばならない。キルヒアイスにとって動かしがたい想いがそれだった。講和交渉が破綻する可能性は低くはない。重要なのは、そうした外交チャネルを常時開いておくことだ。交渉が破れたとしても、一度は交渉のテーブルに着いたという実績があれば、機会を捉えて外交の席を新たに整えることは難しくない。要は、憎悪が憎悪を招き、征服が叛乱を、叛乱が征服を呼ぶような救いがたい連鎖の中にラインハルトが引きずりこまれるような事態を避けること。いまのキルヒアイスにとって、単に一、二の艦隊戦の勝利よりも遙かに重い意味を持つ。 だからこそ、この祝宴についてのヒルダの応答が謙遜に過ぎないことをキルヒアイスは知っている。ヒルダは判断したに違いなかった。フェザーンの制圧が今次の作戦の『終わりの終わり』であるべきだと。既にラインハルトは帝国全土を征している。これにフェザーンを併呑すれば、帝国は人口の六五パーセント、経済力の七〇パーセント近くを手中にしたことになる。講和への交渉を拒否し、帝国とフェザーンへの門戸を閉ざしたとすれば、自由惑星同盟を待っているのは数年後の経済的な破綻と、国家としての枯衰死への一本道でしかないはずだった。 「古来、軍事的に対立した二つの勢力が、天然の要害で隔てられていない至近の距離で対峠してなお偃武<えんぶ>を保った例はない」 オーベルシュタインをはじめ、主戦派の高級士官たちが講和交渉に反対する最大の理由がそれである。すでにフェザーンは占領下にあり、同盟領側の回廊出口は空白も同然で、フェザーン航路局の全ての航路データは帝国軍の接収するところとなった。もはやフェザーン回廊は『天然の要害』とは到底呼びがたい状態である。 ラインハルトの演説がどうあれ、戦勝祝賀の祝宴は兵たちに平和を思わせ、家族を思い起こさせる。忌避とは言わぬまでも、彼らが戦場以外の選択肢を未来に見いだすことが、自由惑星同盟との講和成立への不可避の条件だった。一方で『自由惑星同盟最後の年を――!』と叫んだトゥルナイゼン中将を始め、中堅クラスの提督たちの間にも、さらなる武勲と戦乱を求める意識が強い。止戦へ、彼らの意識を変えるのは容易ではないのだ。 無論、キルヒアイスが甘いだけの外交知らずでないことは、同盟に提示した条件の辛辣さが物語っている。同盟の各有人惑星と帝国との個別の通商関係締結、イゼルローン要塞の返還、同回廊経由の通商路設定などを要求しており、これは自由惑星同盟の統一国家としての解体を要求するに等しい条項だった。ローエングラム体制の許、帝国が経済的立て直しに成功しつつある一方、自由惑星同盟の経済体制が破綻寸前で辛うじてつま先立っていることはすでに明らかだった。帝国側からの資金と直接の通商の機会を提供されれば、自由惑星同盟の辺境宙域は雪崩を打って帝国の政治的・経済的支配下に移っていくことは間違いない。 「数年……ですな」 キルヒアイスから諮問され、カール・ブラッケはそう断じた。数年で、自由惑星同盟は事実上解体し、中枢星域のわずかな星系が、辛うじてかつての同盟の余喘を遺すありさまになるだろう。その後は、彼らを軍事的に制圧するも、同じ人類としての同盟者として残すのも、すべては帝国側の選択に委ねられることになる。 それで良い、とキルヒアイスは思う。自由惑星同盟が信奉する共和制なる政治形態が残すに足りるものであれば、生き残る機会は与える。彼らが生き残りたくないというのであれば、敢えて生き残らせる必要などない。 ラインハルトの『残すに価値があるというのであれば、生命を賭けてでも価値を証明せよ』なる価値観は、ややその苛烈さを緩めてではあったとしても、確かにキルヒアイスの共有するものだった。 ☆☆☆ 一方は征服することを望んでいたが、他方は征服されることを願ってはいなかった――『正史』の言葉は、この時期の両国の関係を最も端的に表現するものと言って良く、多くの史家が『正史』の編者に対して賛辞を惜しまないと同時に、その修辞の巧みさに羨望を隠さない所以でもある。ラインハルトがフェザーンに兵を進めるまで、同盟政府は『我が国に対して、帝国軍の本格的な軍事活動が再開されるのは早くとも五年後』とする楽観論のまどろみの中にあった。 だが、五年という数字の出所は泥酔者の記憶さながらに、あるいはそれ以上に曖昧であり、根拠に至っては街角の占い師の予言以上に薄弱だった。 「おそらくは、リップシュタット後の帝国軍の状況の速報を求められた政府の一部局の課長あたりが、十分な情報もないままに憶測と推測を積み上げた結果だっただろう。しかし、一度、責任者が機械的に入れたサインによって正式な見解となってしまうと、政府の中ではそれが動かしがたい事実として取り扱われ、評価も確認も行われないままに数字だけが一人歩きし始める。やがて、情勢の変化に伴う検証の必要性さえ忘れられ、絶対的な真実として扱われるようになると、今度は逆作用が生じ始める。つまり、『真実』に反する情報や報告が検証の必要性ではなく、報告者の、組織に対する反抗の意思を意味するものとして受け取られ始め、彼らを異端者として扱うための、ひいてはその排除理由として使われるようになるのである」 この時代が完全な過去として語られるようになった時期、ある歴史作家はこう断じ、最も事実に近い推測として広く受け取られるようになる。さらに、同盟政府と市民が、五年の猶予を、アムリッツアで受けた致命的な軍事的損失を恢復する時間的猶予としては受け取らなかったことも事態の悪化に油を注ぐこととなった。 その七割以上が失われた軍事力の再建には、すでに急速に悪化の度を加えている経済と財政の立て直しが前提条件となる。トリューニヒト一派に罪を帰する必要すらなく、同盟政府のすべての官僚から市民にいたるまでの共通の、唯一の選択肢が、労苦のみ多く市民一般の短期的支持の望めない政治的方針の採用よりも五年間の安逸と無為となったことに何の不思議もない。 「極度に硬直化した組織では特に珍しくもない官僚的な無責任さと言うべきだが、無論、最終的な責任をとるのは報告の作成者や政策の意思決定者ではない。無数の市民がその生命によって、判断の誤りを償うことになるのである」 さらに件の作家は続けているが、まさにこの時期の自由惑星同盟は、『無数の市民がその生命によって、判断の誤りを償』わねばならない状況に追い込まれていた。 この時期、同盟政府は『華麗なる詭弁者』ヨブ・トリューニヒトの指導下にあったが、人々の期待に反して、彼は『華麗なる指導力』を発揮しようとしなかった。周知のように、トリューニヒト不在の同盟政府を、講和交渉受け入れの方向でまとめ上げた功績は国防委員長ウォルター・アイランズに帰せられるべきものだった。最終段階になって突如、その姿を現したトリューニヒトが彼の方針を支持し、対帝国の交渉全権大使に任命したとしても、である。 外交のテーブルに着くことは決定しても、それだけですべてが終わるわけではなかった。これまで同盟政府は帝国との外交を想定しておらず、帝国側から提示された講和条件の諾否からしてゼロからの検討が不可避だった。時間的にも余裕はなく、帝国軍からは『講和の意思があるのであれば、帝国暦四九〇年五月一四日までに全権代表団をフェザーンに到着せしむること』との期限を突きつけられてもいる。高速船を使ったとしても、ハイネセンからフェザーンまでは三週間近くの航程を要する。のんびりと議論している余裕はなかった。 「議論に費やしている時間は余りない。無条件に受諾できるもの、条件が必要なもの、最後まで留保すべきものの三つに分け、三つめについて帝国と取引できる代替の条件検討を中心に準備を進める」 講和条件の検討に当たっても、討議の主査として議論を主導したのはアイランズであって、トリューニヒトではなかった。トリューニヒトは、さすがに議論の席にこそ着いてはいたが、意見を問われた際の応答は『国防委員長を支持する』だけとなった旨が議事録に記載されている。僅かに議論に加わったのは、講和会議の開催場所について、『代表団がフェザーンに到着後に、帝国軍より指定する』とあった部分だけだった。 「場所が帝国軍の戦艦艦上などというのでは、まるで降伏の使者ではないかね。同盟政府の名誉にかけても、それだけは受け入れられまい」 「帝国軍にしてみれば、吾々は叛乱軍でしかないわけです。名誉云々を言い立てても聞く耳はもってくれますまい」 アイランズは難色を示したが、トリューニヒトはなおも開催場所にこだわった。 「申し入れるだけでもやってみてはどうかね。少なくとも、これは外交交渉なのだよ、アイランズくん。交渉というのは、なにもかも相手の言いなりになるという意味ではないと思うがね。いかがですかな、ビュコック提督?」 「相変わらず、口だけは達者な御仁じゃな。相手の意向を打診するくらいはFTL一本のことじゃからやってみれば良かろうて。無論、お前さんも交渉というのは相手のあるものじゃということも心得済みじゃろうから、拒否されても我が儘は言いっこなしじゃぞ」 「駄々っ子扱いは恐れ入りますね。もちろんのことですよ、提督。相手があってこその交渉ですからね」 トリューニヒトの要求は直ちに事務化された。とは言え、駐フェザーン弁務官事務所はすでに機能しておらず、ヘンスロー弁務官もヴィオラ大佐も帝国軍に追われる身となって消息は知れない。ハイネセンからの連絡はJL二七基地へ送られ、フェザーン回廊入り口宙域に進出した同基地の駐留艦隊を経由して帝国軍に送達されることになった。必然的にJL二七基地は対帝国軍の軍事的のみならず、外交上の最前線基地として位置づけられるようになっていく。