温泉と有角犬
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銀英伝パロ(銀英伝パロ(帝国暦484年初頭頃)) (『有角犬』シリーズ (3)) サイズ:A5 ページ数:76 17歳になったラインハルトとキルヒアイスは休暇で温泉に… 同盟領辺境を舞台とした秘密作戦(『奪還者』)から半年近く振りに帝都へ帰還した二人に、作成成功の報償として休暇が与えられた。一週間足らずの休暇、アンネローゼをフロイデンに訪ねることもできない二人に、下宿の大家姉妹が思いがけない提案をする……帝都付近で最も有名な温泉保養地グラースブリュンネンへの訪問。一笑に付するかと思われたラインハルトは、なぜかこの提案を受け、キルヒアイスとともにグラースブリュンネンへと出発したが……露天風呂で二人の前に現れたのは……
休暇
「賜暇のことか?」 二人の間で休暇の話題が出たのは、その日の夕食、半年余り振りに大家のクーリヒ夫人の手になるフリカッセを堪能している最中だった。 「夏だったらな……」 ラインハルトが脳裏に浮かべたのは、既に白銀の輝きに包まれたフロイデン山系の風景に違いなかった。夏期であれば、そして時期さえ合えばフロイデンの山荘に姉アンネローゼを訪ねて賜暇の期間を費やすことができる。それが叶えば、一週間の賜暇であっても数ヶ月の休養に勝る貴重極まる時を得られるに違いなかった。 今は厳冬期であり、アンネローゼの山荘のあるフロイデン山麓もまた雪に閉ざされている。無論、人跡未踏の地などではなく、ラインハルトたちも一度となく厳冬期のフロイデン山麓に足を踏み入れた経験があった。 だが、今は肝心のアンネローゼは新(ノイ)無(エ・)憂(サン)宮(スーシ)に留まっており、この冬は山荘を訪れる予定がないという。彼女と共にフロイデンの冬を過ごす機会は来年以降に持ち越すしかなさそうだった。 「おや、お休みを頂けるの?」 耳ざとく二人の間で交わされた単語を拾い上げたのはフーバー夫人だった。 「どのくらい、お休みできるのかしらね?」 「……明後日から、五日間です」 キルヒアイスは答えた。 「半年も宇宙に行っていた割に短いのねぇ」 半年余りに及ぶ秘密任務の後である。一ヶ月以上の休暇が与えられてもしかるべきところだったが、彼らが就いていた任務自体が公開を憚る内容……開発中に持ち去られ、叛乱軍……自由惑星同盟に持ち込まれそうになった帝国軍の機密兵器を、これも秘密の内に奪還する……であったこともあり、通達された賜暇の期間は短い。無論、秘密任務云々は口にしない。 「ずっと宇宙に出ずっぱりというわけではありませんでしたから」 「五日間では遠くまでは行けないけれど、帝都の近場にもいろんなところがありますよ。そうだ姉さん、あそこはどうかしら、ええと、何と言ったかしら、ほら、温泉のある……」 「あの、フーバー夫人……」 キルヒアイスは慌てて言葉を差し挟むが、聞いているような大家姉妹ではない。体の幅では妹の半分しかないが、悠揚迫らぬ落ち着き振りは決して妹に劣ることのないクーリヒ夫人がおっとりとした身ごなしで席を立った。 「そうね、たしか……グラースブリュンネン……だったかしらね……写真もあったはずよ」 「あ、あの別に吾々は……」 強いてまで出かけるつもりはない……言い止し、キルヒアイスは諦めた。交互に情報端末をのぞき込み、ああでもないこうでもないと言葉を交わし出すと、もはや二人の若者の言葉など耳に入れるような夫人たちではなかった。無論、悪意のしからしむるものではなく、むしろ純粋に好意ずく……新無憂宮(ノイエ・サンスーシ)や帝国軍において、滅多に接することのできないものだ……によるものだということを、二人は充分以上に心得ている。 彼らが幼年学校を出たばかりの少尉と准尉であろうと、既に大佐と大尉、彼女たちの亡き夫たちよりも高い位階を得た中堅士官となっていようとも、彼女らにとっては二人が二階の下宿人の少年たちから変わることはないのだ。 「確かね、ついこの間、軍の方から問い合わせがあったんですよ」 「軍から?」 ラインハルトの眉の動きが黄金色の光を帯びてキルヒアイスの目を射た。 「誰ですか?」 「確か……軍の広報部の人って言っていたように思いますけど……昔行ったことのある保養地の中で一番思い出の深いところはどこですかって……その時に思い出して調べたのよ……ああ、あった、これよ、これ、やっぱりグラースブリュンネンね」 意気揚々とクーリヒ夫人が情報端末を操作すると、立体(ソリビ)TV(ジョン)スクリーン一杯に、ある風景が浮かび上がった。相当な標高の、地平線までうねうねと濃緑色の草原の続く平原。大きく黄土色に崩落した一角の地表から真っ白な濛気が立ち上っている。風景の中央、濛気を遠景に笑顔を並べているのは、若き日のフーバー夫人とクーリヒ夫人、彼女らと肩を並べている男性たちは彼女らの亡夫たちと覚しかった。 「これは?」 滅多にないことに、ラインハルトが意表を突かれた表情で問うた。宇宙では、およそ人の想像を超えた光景など、それこそ星の数ほども出くわすことになるのだが、ラインハルトもキルヒアイスも惑星上の絶景とは縁がなかった。 母(クラリベル)が亡くなって以降、ラインハルトには家族と共に遠出をした経験がない。キルヒアイスも、帝都から遠く離れた地へ赴いた経験のほとんどはラインハルトと行を共にしたものである。 「グラースブリュンネンという場所ですよ、金髪さん。温泉が出ていてね、帝都の近くでは一番有名な保養地になっているんです。帝国軍の保養施設があって……」 「そうそう、一緒に出かけたわねぇ。もう二〇年前になるかしら。うちの人なんか、山の中だと釣りができないじゃないかとか何とかね、いろいろごねるのを何とか説得して、出かけたんだけど、けっこう良いところだったわよ。地面から勝手にお湯が沸き出しているの」 「お湯に怪我とか病気の治療の効果もあるんですよ。軍の病院もあって、何か月もそこで療養している傷痍軍人さんにも会いましたよ。みんな、来て良かったって言ってました」 「せっかくお休みを頂いたんだから、行ってらっしゃい。あなた方は若いから何日も行かなくても良いでしょうけど、良い話のたねにはなりますよ……そうそう、保養所に連絡を入れておいてあげましょう」 「あの、クーリヒ夫人、別に、僕たちは……」 戦場では怖れとも怯懦とも無縁な二人だったが、さすがに大家の未亡人二人が交互に注ぎ込んでくる言葉の十字砲火の前には、ただ呆然としているしかなかった。 「キルヒアイス……」 先に白旗を掲げたのはラインハルトだった。 「半年も宇宙に出ていたんだ。一日や二日、地上で過ごすのも無駄にはならないさ」 「ラインハルト……さま?」 大望に向けてただの一日も無駄にしたくない。彼だけが知るラインハルトの常の口癖とは正反対な一言に、キルヒアイスは驚いた。 ラインハルトはなおも、そのグラースブリュンネンなる土地のことを話し続ける二人の未亡人を掌で指し示して見せた。あるいは一六歳の少年らしい好奇心が、わずか数百キロの距離に位置する、見知らぬ土地への関心を呼び起こしたのかも知れなかった。 「どんなに策略を巡らそうが、計画を練ろうが、一切を放棄して流れに任せるしかないときがある……」 「今がその時だ……と?」 最上級の白大理石から削り出されたように形の良い頤(おとがい)を軽く引き、ラインハルトは苦笑と共に頷いた。 「それだけじゃないが、その通りでもあるさ。お前に何か策があるなら、話は別だがな」 あるはずがなかった。