Michael der Adjutant (副官ミハエル物語)
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★ 在庫僅少のためと、同人活動終熄方向のため頒価改定します。 サイズ:A5、164ページ、フルカラー表紙 内容:銀河英雄伝説に舞台を借りた二次創作小説。 ・ 原作にもOAVにも登場しない、ジークフリード・キルヒアイスの副官。カストロプ動乱からアムリッツア会戦までを舞台に、その謎の副官君を勝手に想像して作り上げた長編一編です。
第一章 ウジー
「しまった~、すっかりおそくなっちゃったよぉ~」 夕暮れ時近く、帝都の一角を一人の少女が駆けていく。まだ厳冬期のさなかとて街路のあちらこちらに白い残雪がうずたかく消え残っている季節にもかかわらず、真っ赤に上気した頬や額から流れ落ちる汗、そしてきっちりとお団子に結い上げてあったはずの、ゆるいウェーブのかかった赤毛が、その身体の動きに合わせて吹き流れているのを見れば、彼女が相当の距離をそうして走ってきたに違いないことは一目瞭然だった。 「まずいよ、もう暗くなっちゃうよ……っんとに、あの馬鹿、ろくに計算もできないなんて、最っ低!」 走りながら、それでも少女の声は幾らも掠れていない。年齢はおそらくは一〇代の後半。その年頃ではありふれた背格好だが、おそらく普段から身体をよく動かす生活をしているのだろう。息も余り上がってはいない。 「あいつがあんなにもたもたしなきゃ、こんな風に走って帰んなくても済んだのに!」 瞳が一瞬毎に地平線に近づいていく太陽を映して青みの濃い緑に光った。彼女の顔立ちを最も特徴付けて、人並み外れて大きな瞳が怒りで震えて見えた。 最後の届け先は帝国軍幼年学校寄宿舎の食堂……つまり、彼女が時間通りに届けていなければ、幼年学校の生徒さんたちの今夜の食事はデザート抜きと言うことになったわけだ。 「寄宿舎に食堂が付いてるんなら、デザートも作っちゃえばいいのに……」 などとは思わない。何しろ、数は出るし、高級食材の使用を要求されるから良い売上になる。もう少し、売値に上乗せしてもクレームなんか出やしないのにと思うのだが、他のことではめちゃくちゃに厳しいオーナーも、妙に商売気を薄くしてしまうのだ。 「それだって、あいつが……」 ようやく息も切れてきた。店のあるブロックまであと二キロは切っただろうし、夕日の残照はまだ微かに街路を照らしてくれている。 足を止めて両手を腰に当て、ちょっと挑戦的に顎を突き出してから、少女は、脳裡に浮かべた幼年学校寄宿舎の会計監の顔に向かって思いっきりあっかんべーをする。いつもなら、伝票へのサイン一発で済んでいるのに、今日は担当者が休みだとか何だとか、やたらに細々と検算を始めた挙げ句に、実はろくに会計用の端末すら使えない、実に使えない親爺であることが分かるまでに約一時間。 ついにぶち切れかけて『いい加減にしろ、この○○親爺。計算<そろばん>もできないくせに、会計監なんて名乗ってるんじゃないわよ!』と喚きかけた時、やっといつもの会計係の下士官が出てきてくれて、何とか『ブラントミュラー・ケーキ店の看板娘』の評判を泥沼に放り込んで、おもりを付けて底まで沈めてしまうような騒ぎは起こさずに済んだのだが…… これで、客回り用のバイクがちゃんと走ってくれれば――この日は注文が立て込んでいた。それでも手際よく回っていけば、余裕で日暮れ前に店に帰れるはずだったし、実際、幼年学校寄宿舎に着いたのは、最初の予定よりも二〇分以上早かった。 が――最後の最後でけちがついてしまった。 確かにバイクも年代物だし、エンジンがちょっと咳き込んできていてそろそろ整備に出さないと拙いんじゃ……と思ってたのだが、日々の多忙さに紛れて一日延ばしにしている内に、とうとう一息ため息をついたままエンジンが沈黙してしまったのだ。馴染みの整備工場に連絡したものの、こちらも仕事が立て込んでいてすぐには人手を出せないと言う。 幼年学校寄宿舎は高級住宅街の近くにある。帝都の高級住宅街の常として、公共交通機関はほとんど整備されていない。何しろ、住民は公共<パス>交通<や地>機関<下鉄>などをあてにしなくても十分に行きたいところへ行って帰ってこられるわけだし、訪問者同士が同じ公共交通機関の中で鉢合わせというのも歓迎されないのだ。 「うちで車を出してやれるか、調べてやろう」 会計係の下士官はそう言ってくれたのだが、結局、この日の寄宿舎は何とか言う侯爵様だとか伯爵様だとかのご子息をご実家に送り迎えするのに車が出払っていた。タクシーというやつもあるにはあるのだが、わざわざ呼び出して、となると馬鹿高い料金……多分、少女の一月の給金の三分の一は軽く吹っ飛ぶ……を支払う羽目になる。 「じゃ、歩いて……じゃなくて走って帰るよ。大丈夫、まだ日が暮れるまでに一時間はあるよね?」 「一時間って、おい、お前んところの店まで一〇キロはあるだろうが?」 「それくらいの距離だったら走れるよ。故郷<ラストエンテ>じゃ、いつもそれくらい、毎日走ってたから」 元気だよ、とありもしない力こぶを作ってみせる少女に、ごつい見かけの下士官はなおも心配そうな表情<かお>を崩さなかった。案外、故郷<くに>には家族がいて、同い年くらいの娘がいるのかも。 「分かった、じゃあ、店に一発連絡を入れとけ。わるいこたぁ言わねぇ。迎えに来てもらえるなら、途中まででも良いから迎えに来てもらえ。俺が途中まで送ってやる」 「え、そんな、悪いよ。小父さんだって仕事あるんでしょ?」 「だから、ずっとは送っていってはやれねぇさ。あと一時間したらはずせねぇ仕事が入ってるから、ここから片道四〇分。嬢ちゃんの脚で走れるところまでついて行ってやる。だから、できるだけ近くまで迎えに来てもらうか、公共<バス>交通<か地>機関<下鉄>に乗れるところまで出たら、すぐ乗っちまうことだ。なにせ、気をつけろよ。最近、この辺、物騒な話があってな――」 「ぶ、物騒?」 お化けは嫌だ。辺境にある故郷<ラストエンテ>の夜は暗く、怪談話には事欠かない。あることないこと話して子供達を怖がらせようという、悪趣味な大人達はお化けよりも多分、数が多い。 「お……お化け?」 「そんな可愛いもんじゃない」 殺しだよ――その一言には、さすがに気の強そうな碧青の目が怯えに固くなった。 「ちょ、ちょ、ちょっと脅かさないでよ。殺しって、何なの?」 「ここ三ヶ月ばかりで三件。現場は帝都のあちらこちらだから、同じ奴の仕業だとは言えないが、若い女を狙って攫うんだ」 攫った挙げ句に惨殺する。無論、ただ殺すだけではない……省略された部分を、少女も正確に察したようだった。 「三人とも日が落ちてから、行方が消えてるそうだ」 若い女だけでなく、若い男にも手を出してくる可能性は否定できない……憲兵隊総監部からの通達を目にしたのだという。確かに幼年学校には『若い男』というか少年達。それも名の通った貴族の子弟が多く在籍しているし、彼らが門限を破って寄宿舎を忍び出るのは、これはもう『寄宿舎』と名の付く施設での伝統的な行事と言っていい。とは言え、彼らに万一のことがあれば、大変な責任問題になるのも確かなことだ。 彼らに較べたら、しがないケーキ屋の職人見習いの小娘一人くらいどうなろうとも、気にする必要はないのではないか。すくなくとも、憲兵隊総監部からの指示は、出入り業者の娘を保護しろとは言っていないはずだが―― 下士官の返答は明快だった。 「義務でやることじゃないんでね」 ということで、とにかく途中まで。全力疾走とは言わないが、かなりの速さのランニングで約四〇分。会計係の下士官は付いてきてくれたわけで、さらに店からは手が空いたのを迎えに出したから、途中で落ち合えるはずだという連絡も入った。とは言え、心配そうに振り返りつつ幼年学校へ戻っていく会計係に手を振ってから約一〇分余り、ほぼ陽の落ちた郊外近くの帝都の街路を一人で行かなければならない。どうせなら最後まで付いてきて欲しかったけれど、あの下士官の小父さんにも仕事がある。開けられるのは一時間ぎりぎり。幼年学校の方へ走っていった後ろ姿は、来た時の倍のスピードは出している。全力疾走だ。 車は……どれもこれも煌びやかに装飾された高級地上車ばかりだ。その車は何台も行き交うが、その路傍を徒歩、ではなく速歩、あるいは駆け足だが……行くのは少女一人である。ケーキ屋の白い制服だけに薄暮の中で一際浮き上がって見えた。
第二章 カストロプ動乱
「……と言うことで、その健気な女の子が退院するまで、毎日のように励ましに行っていたということなの。中々できることではないわね」 「あの、伯爵夫人、毎日ではなくて……精々三日に一回くらいが正確な数字なんですが」 「からかっているのではありませんよ、ミハエル・タウゼントシュタイン。誉めているのです」 「ですから、教官……あ、いえ、伯爵夫人にお褒めいただくとどうも後が怖いような気がして――」 「誉めるべきことは誉めるし、叱るべきことはきっちり叱ります。士官学校の時に、十分にお話ししてあったはずよ。あなたは誉められるべきことをしたのだし、あなたが本気だと分かったからサポートもしました。わたくしにはその力があったのだし、そうするべき立場でもあったけれど、あなたがいなければ気付かなかった。そういうことだと諒解なさいな、ミハエル」 「そういうものでしょうか」 「そういうものです」 かつては金髪だったのだろう、既にすっかり銀白色に変わった髪を古風な形に結い上げた老貴婦人は、ひどくきっぱりとした口調で言い切る。すでに七〇歳は超えていると言うが、耳も足腰も確かだし、老貴婦人というのは少々失礼な呼び方になるのかも知れない――ミハエルはそう思う。彼が士官学校一年の時、驚くべきことにこの貴婦人は数学の正規教官で、講義の厳格さは有名だった。厳格なだけでなく正確で、例えば高等教育期間の教官職にありがちな講義の退屈さともまったく無縁だったことがミハエルの記憶にも新しい。 入学前は数学が苦手だった自分が、落ちこぼれることもなく、むしろ優秀な卒業生として士官学校の門を出られたのも、この人のおかげによるところが大きい。ミハエルはいつもそう思っている。 ミハエル・タウゼントシュタイン。現時点で帝国軍中尉。クルーカットにした柔らかい茶色の髪、こちらは髪よりもやや色の濃い焦げ茶色の生真面目そうな目をした若者である。顔立ちは整っている、とも言えるが、どちらかと言えば『軍人です』と顔全体で主張しているような、要するに帝国軍の士官学校へ行けば至る所で見かける青年だった。笑った時に目尻が下がって表情の堅苦しさがほぐれると、朴訥な辺境出身の少年の表情が顔を覗かせる。それだけが、同期の士官たちと彼との間にあるほんの僅かな違いかも知れなかった。 一方、老貴婦人の名はマリア・アントニア・フォン・ロートリンゲン伯爵夫人。有名な数学者であり、本来は国立文理科大学の数学教授なのだが、請われて士官学校や、時には幼年学校の数学教官・兼・生活指導教官を務めることがある。 帝国暦四八七年二月初旬。ミハエルがウジー・ザーネヘルシュテラーと出会ってから既に二ヶ月余りが経っていた。 「それで、そのウジーという娘<こ>の怪我は治ったのかね?」 ロートリンゲン伯爵夫人とミハエルと差し向かいにソファに身を沈めている壮年の男性は、いくらか疲れて見えた。まだ十分な量は残しているが艶を失ったブラウンの髪がそういう印象を与えるのかも知れなかったが、実際に表情には力がなかった。何日も十分に眠っていないらしく、疲労が皮膚を透かして甚だしく肌の色を損なっている。 「治りました」 「君がサポートしたんだね、マリア・アントニア」 「サポートはしましたよ、フランツ。普通なら右手は動かなくなって、その娘<こ>はケーキ職人の夢を諦めなければならない、それくらいかなり酷い怪我だったそうです」 「伯爵夫人が治療費を援助して下さったんです、伯爵。俺の……いえ、小官ではとても手に負えませんでしたから」 思わず口を挟んだミハエルに、男性は好意的な表情でうなずいて見せた。 『おとなしくしていたら、将官の端くれくらいにはなれるかも知れないけれど、多分、正直すぎる、それから正義感の強すぎる性格が脚をひっぱるでしょうね』 ロートリンゲン伯爵夫人マリア・アントニアは、ミハエルのことをそう男性に紹介した。 『士官学校を卒業<で>てすぐに憲兵隊総監部で副官任務を大過なく果たしていたようだから、これで十分に有能な若者ですよ』――と。 「だから言ったでしょう、ミハエル。わたくしはロートリンゲン伯爵夫人です。ラストエンテはロートリンゲン伯爵家の旧領です。ラストエンテの出身者が窮地に立っているのなら、そして救ける余裕があるのなら救けるのはわたくしの義務です。あなたは、わたくしに義務を行使する必要があることを知らせてくれた。そういうことですよ」 ロートリンゲン伯爵は、かつて帝国辺境領を支配するかなり有力な貴族だった。同時にゴールデンバウム王朝の歴代皇帝が理由もなく忌避した文化や伝統を密かに保護し、継承していた人々に庇護の手を差し伸べるという裏の姿を併せ持っていたのだと言う。 破局が生じたのは数十年前。ロートリンゲン伯爵家が保護していたあるグループの伝えていた童話とそれにまつわる古い歌とが、ルドルフ大帝の嫌忌するところのものであったことが偶然にも暴かれてしまったのだ。伯爵家の当主は死を賜り、ラストエンテもまた伯爵家の庇護を失って、現在は暫定的に帝室の直轄領に編入されている。 伯爵家が健在であった頃、歴代のロートリンゲン伯爵はラストエンテの住民が守り続けている多数の非帝国公用語についても寛大であり、その保存や教育にも密かに資金や援助を与えていたのだが、伯爵家の没落以降は失われている。帝室の代官はラストエンテの文化や風習には無関心であり、それが反帝国の姿となって公然化しない限りはことさらに弾圧はしていないようだが、ロートリンゲン伯爵家時代を知る住民の反発は強い。 マリア・アントニアはマリーンドルフ伯爵家の出身であり、名家であるロートリンゲン伯爵家の名跡のみを継いで伯爵夫人を名乗る身になっている。ただし、ラストエンテ星系が伯爵領に戻ることはなかった。帝国は、ロートリンゲン伯爵家を復旧はさせたものの、領地は返さなかったのだ。 しかし、マリア・アントニアはロートリンゲン伯爵家当主として、ラストエンテの住民には可能な限りの援助の手を差し伸べてくれている。士官学校受験の際、ミハエルが帝都で頼ったのはこの伯爵夫人だった。 ある程度は覚悟の上のことで、それなりの対応も準備してきたのだが、ミハエルに検問され、ウジーをかっさらわれてしまった例の貴族連中からの抗議は想像を超えて執拗だった。上官のブルーメンタール中将は最初<はな>っからミハエルを庇う気などなく、『厄介ごとを持ち込みおってからに!』とあからさまに彼を非難するありさまだった。 彼を救ってくれたのは、当時、まだ帝都の憲兵隊本部に籍を置いていたウルリッヒ・ケスラー大佐と、ミハエルよりも三年ほど先に帝国軍に入り、今は情報部大尉となっているレオンハルト・オストザイデだった。 ケスラーは、この時、死の床にあったグリンメルスハウゼン子爵の諒解を得て件の貴族一門との折衝に当たった。ミハエルの集めた、忌むべき連続殺人への明白な関与を示す一連の証拠。とくに車内で収集した、複数の犠牲者のDNAとウジーの証言で描かれた似顔絵が決定的だった。 「これらが公開されれば、たとえ刑事罰を免れても、貴家の宮廷での生命は絶たれたも同然となるとはお思いになりませんか?」 拒否すればいかなる手段を取っても情報を公開する。ケスラーが言外に匂わせた脅しもまた預かって効果があったというべきだろう。単に大佐という階級やグリンメルスハウゼン子爵の後ろ盾を除いても、ケスラーという人物は有力貴族にとっても敵に回したくない相手と思わせるところがあった。 犯罪に関する完全沈黙の約束、およびミハエルのブルーメンタール中将副官からの罷免を条件に、ケスラーは陰惨な犯罪に手を染めた三人の幽閉と、ミハエル、ウジー、そしてブラントミュラー・ケーキ店の安全という条件を引き出してくれたのだ。さらに、ケスラーからの依頼をうけたオストザイデ大尉が、情報の保管を約束してくれた。本来、完全な職務外のことだったが、オストザイデ大尉は気にしなかった。『同郷の人間を救けるんなら問題はない』――と。 「卿が罷免される必要はないと思うが、私ももう帝都には長くいられまい」 話をミハエルに伝えた剛毅な憲兵大佐は、そこで声を潜めた。 「ブルーメンタール中将は卿が長く上官として仕えるに値するほどの人物ではない。だから、敢えて卿の罷免には異を唱えなかったのだ。しばらくは身を慎め、中尉」 「はい、大佐。ありがとうございました」 「もし、その機会があって、ラインハルト・フォン・ミューゼル、またはジークフリード・キルヒアイス。この二人の部下か同僚になれる機会があったら躊躇うな。それが卿にとっての最大のチャンスになるぞ」 「ラインハルト・フォン・ミューゼル、ジークフリード・キルヒアイス……ですか?」 ジークフリード・キルヒアイスはともかくラインハルト・フォン・ミューゼルの名には記憶があった。叛徒領ヴァン・フリート宙域の会戦で、敵の准将を捉えた若き准将。『古代の名匠が精魂を込めて彫り上げた、最上級の大理石のような美貌の若者』という表現を何かで読み、そんな美少年が実際にいるはずはないと思った記憶がある。それだけだった。敬愛すべき憲兵隊の先輩が、なにゆえにその『美少年』をそれほどまで高く評価しているのかは、ミハエルの理解を遠く離れていた。 とは言え、ケスラーのおかげでミハエルもウジーも生命の保証を得たようなものである。その言葉を無下にすべき理由などなにもなかった。 「分かりました、大佐。必ず、その時は機会を掴みます」 「私にできるのはここまでだ。達者でな、タウゼントシュタイン中尉」 年明けと前後してグリンメルスハウゼン子爵が亡くなり、それと相前後するようにしてケスラー大佐も帝都を去り、同時にミハエルはブルーメンタール中将副官職を解任された。中将に対して特に思い入れもなかったし、何よりも部下を庇わない我が身大事だけの人物であることも明らかだったので、何の執着もなかったのだが、副官職を失って給与が中尉としての基本給だけになってしまったのは痛手だった。何しろ、ウジーの怪我は考えていた以上に深刻なものだったからだ。 「手術と二ヶ月のリハビリ入院は必須だ。でないと、ケーキ職人として必要な指先の動きは恢復できなくなる」 それが医者からの宣告であり、ウジーにとっては死刑判決も同然だった。 「……どうしよう、もう貯金もないし、このまま手が治らないんじゃ、雇い続けるのも難しいって言われちゃったよ」 診断結果を聞かされた時、ウジーにはさすがにいつもの気丈さはなかった。 ラストエンテを二分する二つの政治勢力……と言うほど大げさなモノでもないのだが……の内の一つ、いわゆる独立派が、ミハエルのタウゼントシュタイン一家が属するグループだった。一方、ウジーの一家はもう一派の、いわゆる宥和派に属している。 実は、タウゼントシュタインともう三つの家、四つの大きな一族が独立派の中心で、彼らはそれなりの資金と人脈を持ち、その中で毎年のように士官学校や帝都の有力大学に子弟を送り込んでいる。ウジーが彼らと同じグループに属する一家の出身なら、そうした資金の中からの援助も可能なはずだった。 ミハエルは宥和派の有力者であるシュタインウンターブレッヒャーにも連絡を取ったのだが、タウゼントシュタインの名を告げただけで、取り次いですらもらえなかったのだ。いくらウジーのことを説明しても無駄だった。 マクシミリアン・ヨーゼフ二世によって多少の整備は見たとは言え、帝国の社会保障制度は貧弱の一言に尽きた。治療に要する費用は高額であり、まだ見習い職人でしかないウジーにそんな蓄えも、私的保険の用意もあるわけもなかったのだ。雇い主のブラントミュラーにしても、職人としての修行を続けられなくなったウジーを雇い続けられる余裕はないというのが実情だ。 費用は何とかするから手術だけはまず受けろ……説得するミハエルに、ウジーは事情の一切は察していたに違いない。 「悪いよ、中尉さん」 「同じ故郷<くに>の人間を助けるんだ、何が悪いもんか」 ウジーの最初の手術費は何とか捻出したが、一月目の入院費を支払う前にミハエルの蓄えも底をついてしまった。何と言ってもまだ士官学校を出て二年目でしかなく、それでも多少の蓄えができていたのは副官職という、激務だが実入りのいい地位を得ていたからなのだが、それも解任されてしまったとなると…… 「やれやれ、このままじゃ、強盗でもやらなきゃならないかも――」 万策尽きた思いのミハエルだったが、万に一つの機会を求めて訪ねたのがロートリンゲン伯爵夫人だった。 「分かりました、タウゼントシュタイン中尉。その娘<こ>がラストエンテの出身者ということなら、わたくしにも庇護の義務があるでしょう。ただし、無償ではありません。何年かかっても良いから、きちんと返済してもらいます。宜しいですね。それにしても何を馬鹿なことをやっているのかしらね。たかが数百万人程度の住民が、独立派だ、宥和派だといがみ合っていて、助けの要る女の子一人救けてやれないなんて馬鹿げているわ」 マリア・アントニアの口調は辛辣だった。 伯爵夫人の切ってくれた小切手のおかげで、ウジーは無事に手術後のリハビリを終え、右手の機能を恢復することができた。 「元通り手が動くようになったんなら、いつでも帰ってきてくれて良い。部屋もちゃんと整えておくから。にしても治って良かったな」 店主のブラントミュラーも快く承諾してくれ、晴れて退院したウジーが店へ戻ったのは一〇日ほど前のことである。一方、ブルーメンタール中将副官職を解任され、待命となったミハエルのもとに、暫定任務として通知されたのがマリア・アントニア・フォン・ロートリンゲン伯爵夫人の私的護衛任務だった。二ヶ月ほど、中尉くらいで副官職の経験のある若い士官を護衛任務にお借りしたい……それが伯爵夫人から帝国軍への申し入れだった。 帝国軍の士官を貴族の私的な護衛任務に充てる。一種の公私混同に近い話なのだが、珍しい話ではなかった。帝国軍にとっては、一般平民を守るよりも大貴族の生命財産を守る方が優先度の高い任務であることもまた事実だったのだ。伯爵夫人の出した条件にぴったり当てはまるのは、この時点でミハエル一人であり、当然のようにミハエルに白羽の矢が立った。 任務を受領し、伯爵邸を訪れたミハエルに、マリア・アントニアは今日の午後ピクニックに出かけるというような口調で告げた。 「これから宇宙港<テンペルホーフ>へ行きます。行き先はマリーンドルフ星系。片道一週間の旅よ。三時間以内に準備してきて下さいな、中尉」 五時間後、ミハエルはこの老貴婦人とともにマリーンドルフ星系へ向かう定期船の中にあった。一ヶ月ばかり帝都を不在にすることと、暫定ではあるが新しい任務を得たこと。ウジーにはメールでそう伝えるのが精一杯だったが、返信はすぐに来た。 『新任務おめでとう。今度、店に出すケーキを一人で焼いて良いことになったから、帰ってきたらご馳走するよ。楽しみにしててね』 メールの中で楽しげなウジーの笑顔が踊っていた。 マリーンドルフ星系までの旅は一週間。到着するやいなや、マリア・アントニアが指示した行き先は、他ならぬマリーンドルフ伯爵の本邸だった。 「君のことだから、きちんと返済してもらうといいながら、無利子・無期限なんだろう?」 男性……マリーンドルフ伯爵家当主のフランツ・フォン・マリーンドルフは苦笑を隠せない様子だったが、マリア・アントニアは平然とした表情を崩さなかった。 「当然です。困っている女の子から利息を取るようなことはしません。でも、困ったら無償で救けてもらえる、などと思うようになっては、やはりその娘のためにはならないでしょう、フランツ。ミハエル……いいえ、タウゼントシュタイン中尉にも言い聞かせてあります。立て替えた手術費用もちゃんと返しておもらいなさいとね」 「随分高額だろう」 「そうかもしれませんね。別にわたくしが生きている間に返してくれなくても良いのです。一年もしたら、わたくしも貸したことなど忘れてしまうかも知れませんからね。要は、恩は着せるものではない、着るものだということですよ。そのことを分かってくれれば、それで良いのですよ」 「君には勝てないな……で、今日、わざわざ来てくれたのは、その幸せな女の子の話を聞かせてくれるためかね」 「とぼけるのが下手ですね、フランツ。相変わらず」 「何をとぼけていると言うんだね」 「分かっているでしょう、マクシミリアンの件です。マクシミリアン・フォン・カストロプ」 マリア・アントニアの声が厳しくなる。 ミハエルも思わず息を呑む。 カストロプ動乱と呼ばれる事件が勃発したのは、つい先日のことで、ミハエルもよく知っていた。 カストロプ動乱については『正史』に詳しいので改めて述べる必要はないが、帝都から派遣された徴税官に、マクシミリアン・フォン・カストロプが有角犬<ホーンヘッド>をけしかけて追い払ったのが先月半ば頃。無礼を怒った帝国政府が、国務尚書リヒテンラーデ候の名を以て手厳しい召喚状を発したのが、そのすぐ後のことである。 『正史』にもあるように、マクシミリアンの反応は常軌を逸していた。帝都へ出頭するどころか、周辺星系に配置されていたカストロプ侯爵軍を主星へ呼び戻し、あまつさえ大規模な軍需物資の買い付けまで始めたのである。誰が見ても、マクシミリアンが帝国に反旗を翻す準備を始めたと考えざるを得ない状況だった。 「カストロプ侯爵家は帝国に対して反逆の意を示したり」 帝国政府は宣言し、制式艦隊の内からシュムーデ提督麾下に約二五〇〇隻の任務部隊の編成を始めた。 かつて長年にわたって財務尚書をつとめたカストロプ侯爵家は屈指の大貴族であり、親族・縁戚は多い。その中から何人かがカストロプ星系へ出向いて、マクシミリアンに帝都出頭を説いたが、これまで成功したという話は聞こえてこない。 「フランツ、あなた、行くつもりなのでしょう。マクシミリアンのところへ」 「カストロプ星系は、このマリーンドルフ星系の隣接星系なんだよ、マリア・アントニア。それにカストロプ侯爵家は何代も前からマリーンドルフ伯爵家とは縁続きだ。私が行かないわけにはいかないだろう」 「お隣だから迷惑をかけられたことはあっても、世話になったことはなかったでしょう? マリーンドルフ伯爵家に、カストロプ侯爵家に対して着なければならないような恩が一つでもあったとはわたくしは思いませんよ、フランツ。オイゲン卿が存命の間も、財務尚書の地位と侯爵家の財力を傘に着てやりたい放題。何度マリーンドルフ伯爵家が迷惑を被ったか知れない。でも、そんなことはどうでもいいのです」 「マリア・アントニア……」 「いいですか、フランツ。マクシミリアンがまともな青年なら、わたくしもあなたが行くのを止めません。でもね、あなたはマクシミリアンをヒルダの婿候補にしたいと本気でお思いかしら?」 「それは――」 マリーンドルフ伯爵が絶句する。 ヒルダって誰だろう……ミハエルはそっとマリア・アントニアの顔を伺うが、厳しく引き締まった伯爵夫人の表情は、彼が口を出す隙を与えてはくれなかった。それにしても、自分はどうしてこの席に同席させられているのか、それがミハエルには分からない。マリア・アントニアの私的護衛というのであれば、わざわざ応接間で二人の伯爵と同席し、コーヒーのお相伴にあずからねばならないと言うことはない。伯爵夫人の身に危険があるなら、邸の庭あたりを一回りしてきた方が良さそうなのだが。 それとも――とミハエルは思い直す。マリア・アントニアが考えもなしに、彼を同席させると言うことはあるまい。彼女は明らかに、彼女とマリーンドルフ伯爵との会話を聞かせようとしているのだ。では、拝聴するのが筋というものだろう。 「無論、最終的にはヒルダの意思が優先しますけれどね……問題は、ヒルダの同年配の男性として、マクシミリアンが評価に値する人間だと本気であなたがお思いなのかどうかです」 「それは……確かに、難しいと思うが……」 「思うが……じゃないのですよ。わたくしが知っているだけで、もう五人が説得に行っています。しかも、行くごとにマクシミリアンは態度を硬くしています。いいえ、硬くと言うより高飛車になってきています。つまり、侯爵軍の準備が整ってきていて、マクシミリアンはあらぬ自信を持ち始めているのだと、わたくしは思います。侯爵軍の準備ができて、たとえ帝国軍に攻められても跳ね返せる。マクシミリアンがそんな馬鹿なことを考えていたとしても、わたくしは全然驚きません。マクシミリアンの耳にはもう親身な忠告など入りはしません。思い上がった挙げ句に、帝国軍相手に戦ったりするな、などと言われても、マクシミリアンは、こいつは、帝国軍のスパイだ、などと思うだけです。そんなところへあなたが行ったらどうなるとお思いですか?」 「確かにマクシミリアンは……ちょっと常識に欠けたところもあるし、良い判断力があるとも言えない若者だ。今が最後の機会だとすれば、私は行くしかないと考えているよ。今、止められなければ沢山の血が流れる。それだけは何とかして避けたい。君はそうは思わないのかね。確かに止められないかも知れない。しかし、止められるかも知れない。止められるかも知れないのであれば、僅かな努力を惜しむべきではない。私はそう思っている」 マリア・アントニアは大きくため息をついた。 「頑固ですね、フランツ」 「あなたもだよ、マリア・アントニア」 「それで、この件はヒルダに話してあるのかしら?」 「ヒルダに――?」 マリーンドルフ伯爵は明らかに動揺したように渋い表情になる。 どうやらヒルダというのは伯爵にとってかなり煙たい存在らしい。マリーンドルフ伯爵の正夫人は早くに亡くなっていると聞いているが、あるいは古くからいる家事取り締まりの女性か、それとも愛人の一人なのかも知れないな――でも、だとするとさっきの『婿候補』の意味が分からなくなる。 ミハエルのあらぬ妄想をよそに、マリア・アントニアの口調が再び厳しくなった。 「ヒルダなら、この時期にあなたが一人でカストロプ星系へ出向くなどと言う愚行を許すわけはありません」 「この件は、ヒルダには話していない。無用の心配をかけたくはないからね。手紙は何通も来ている。カストロプになど行くなと……ね」 「呆れますね、フランツ・フォン・マリーンドルフ伯爵」 きつい調子でマリア・アントニアはマリーンドルフ伯爵の言葉を弾き返した。士官学校の教室でマリア・アントニアにさんざんに絞られた記憶がよみがえったミハエルは思わず首を竦める。 「ヒルダはあなたの娘というだけではなくて、マリーンドルフ伯爵家の跡継ぎです。それなのに、あなたはヒルダにカストロプ星系へ行くことすら告げていない。一つ間違えば、ヒルダはすぐにでもマリーンドルフ伯爵家を嗣がなければならないというのに」 娘なのか――ミハエルは自分の思い違いに苦笑しかけ、それからマリア・アントニアの一瞥を受けて慌てて浮かびかけた笑いを引っ込める。 「マリア・アントニア、そんな大げさなことではない。私は親族の代表として、マクシミリアンに翻意を促しに行くだけなんだ。私の生命がどうこうなると言うようなことではないのだよ」 「もし本気でそうお考えなら、大変な誤りですよ、フランツ――」 もう一度、大きくため息をつくと、マリア・アントニアは冷めかけたコーヒーを口に運んだ。 「それがマリーンドルフ伯爵としての決意で、もうどうしても動かし難いというなら、二つだけ認めて頂きたいことがあります。それさえ認めていただけるなら、もうわたくしがあれこれ言うのも無駄なことと諦めます」 「ヒルダに話す、というのだね」 「ええ。ヒルダは、状況さえ話しておけば、後はすべて一人で判断できる娘<こ>です。あなたに万一のことがあったとしても、最善の判断をしてくれるでしょう。それと、あなたには用意していただきたいものがあります。マリーンドルフ伯爵家当主として義務を果たすために最小限必要なものです。あなたはどうあれ、わたくしはこういうものが必要なほど、今の事態はこじれていると考えています。宜しいですね、フランツ・フォン・マリーンドルフ?」 大きくため息をついたのは、今度はマリーンドルフ伯爵の方だった。 「わかった。君がそこまで言うなら用意しよう。何をどう話すかは君に任せてよいね」 「ええ……それと、もう一つあります。わたくしが帝都に戻ったことをあなたにお知らせするまでは、カストロプへ発たないで頂きたいのです。何とでも理由は付けて下さいな。とにかく、わたくしから連絡するまで絶対にマリーンドルフ星系を離れないこと。それさえ守ってくれるなら、いずこなりともあの愚かな若者の説得にいらっしゃって結構ですわ」 「それは……難しいな。三日後の昼にマリーンドルフを出ると、マクシミリアンには約束してある。向こうも色々と取り込んでいる折からだ、会いに来てくれるなら、できるだけ早いほうがよい。そう言っていた」 「だから、説得の見込みがある。そう思ったのでしょう?」 「その通りだ。こちらが一方的に延期すれば、マクシミリアンは……私が約束を破ったと思うだろうし、まとまる話もまとまらなくなるのではないかな」 マリア・アントニアが、マリーンドルフ伯爵に対して単純な好意だけの笑顔を浮かべたようには、なぜかミハエルには思えなかった。憲兵隊総監部で副官職に就いていたころ、上官や、上官の同僚が、しばしばこうした微笑とも苦笑とも憫笑とも、何とも付かない表情を浮かべるシーンに出くわすことが多かった。多く、相手の不明さに対する嘲り、哀れみ、あるいは困惑を含んでいたように思うのは決して錯覚ではないと思う。この時のマリア・アントニアの微笑が、多分に相手の不明と言うよりも頑なさに対する困却を包んだものに間違いはなかったから、ミハエルの観察は的を射ていたというべきだろう。 「ほんの数日です」 口調が、鉄を剪る靱<つよ>さを孕んだ。 「何とでも理由を付けて下さい。それが、マリーンドルフの家……いいえ、マリーンドルフ伯爵家などどうでも宜しいのです。あなたとヒルダの二人、こんなところで躓いて欲しくはありませんからね」 怪訝そうに……マリーンドルフ伯爵の表情を観察していて、ミハエルは僅かに安堵を覚える。大貴族と言われる人々は頭の構造が違っているのではないか、と内々に思わないでもなかったのだが、マリア・アントニアの言葉がすぐには理解できなかった点で、どうやら彼とマリーンドルフ伯爵はさして差はないようだった。実際、この老貴婦人の言葉は唐突に過ぎて、ミハエルの理解を超越しすぎている。 「――そう言うことかね?」 ややあってマリーンドルフ伯爵が呟いた一言はミハエルを失望させた。彼には未だ理解の糸口すら見いだせない、銀髪の老貴婦人の言葉を、早くもこの伯爵様は理解してしまったというのか。 僅かに顎を引き、マリア・アントニアは首肯の意を示して見せた。 「ミハエル・タウゼントシュタイン中尉、別にわたくしの言ったことが分からなくても良いのです。あなたは、マリーンドルフ伯爵家とカストロプ侯爵家の間の事情を何も知りませんから。分からなくて当然ですよ。分からないからと言って、鐘で殴ったりはしませんから、安心しなさい」 言われて、思わずミハエルは頭を押さえそうになる。この老貴婦人が士官学校の数学教官を務めていた頃、物わかりの悪い生徒はしばしば、彼女が手に提げてくる巨大な牛飼い用のハンドベルで頭頂を一撃される羽目になったものだ。頭蓋骨を割られるかと思った……同級生からはそう聞いたが、彼自身はハンドベルの洗礼を受けたことはない。そう言えば、ロートリンゲン教官が容赦なくハンドベルを振り下ろす相手は、数学の講義での劣等生ではなかった。 「なるほど、君が士官学校でどんな教官だったのかよく分かったよ。私も君の言うことを聞かないと、ハンドベルが頭の上から降ってきそうだ」 「今日は持ってきていませんから安心なさって結構ですわ。わたくしがどんな生徒に手を上げたかは、この若者が知っています――それで、お約束はして下さるんですの、マリーンドルフ伯爵?」 「選択の余地はなさそうだね。それに私一人ではなく、ヒルダの身にも関わるなら、私に否やはない。君から連絡が来るまで出発は待つ。これでよいかね?」 「よろしうございます、伯爵。これで、わたくしがマリーンドルフ星系まで来た甲斐があったというものですわ――とにかく、フランツ。くれぐれも気をつけて下さいね。どんなことになっても絶対に諦めないで下さいな」 「まるで今生の別れのようなことをいうんだね、マリア・アントニア」 「そうですとも……」 立ち上がり、マリア・アントニアは静かに微笑んだ。 「一度別れれば、明日もう一度会える保証なんてどこにもないんです。そういうものではありませんか――慌ただしくて申し訳ないけれど、中尉、このまま帝都へ戻ります」 「え……あ、はいっ、お供します!」 結局、自分は何をしにマリーンドルフ星系まで来たのだろう……首をひねりながら、ミハエルが、マリア・アントニアとともに帝都へ向かう船上の人となったのはその翌日のことだった。