僕は、泣かない 5
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ボストンは不思議な街だった。そこで出遭った2人の女は高耶達の部屋の上に住んでいた。訳ありで仕事を紹介されそこで直江を見付けてしまった男。男は直江を手に入れようと画策する。その真意とは…? 1C 124p ボストンの初夏は美しい。旅行者なら恐らく、この時期に訪れる事を勧められるだろう。確かに、新緑に彩られた公園や街は美しく、躍動に満ちていて―――が、それなのにどうしても寒々しさを直江は拭えなかった。それは街全体の根底に流れる〟統一性〝に拠るものかもしれない。 人種に拠って――そこに何か意味があるなどと直江は欠片も考えた事は無い。人種からくる一体感、連帯感、それに親密感、そんなものは言葉だけの架空の世界だ、現実味の無い。 L.A Santa(サンタ) Fe(フェ) San(サン) Antonio(アントニオ) これらのbig(大) city(都市) は全て人口が一つの人種に偏る事は無かった。それがこの街 ボストンは、明らかににAnglo(白人) 支配されている。それは big(大) city(都市)としては極めて珍しい事だろう。抑圧、そんな空 気は気のせいじゃあ無い筈だ。 高耶は一体、この街に何を感じているのだろうか――直江が思うのはそれだけで。だから〟楽しい空間〝だけに、この子供を連れ出してやりたかったのだ、ボストンの持つ冷たい棘を感じ取ってしまう前に。 「ぅ…んん…」 遮光では無いカーテンからは、夜が明けたのを示す光が差し込んできている。目が覚めてしまった直江はこれからを考えながら、光が作る影を見ていた。 クイーンサイズの広いベッドでは、高耶が自然に温度を求めて直江の懐に入り込んで穏やかな寝息を立てている。昨夜の混乱はそこには見当たらなかった。 髪をゆっくり梳いてやると、少しむずがって顔を顰めてギュ、と胸にしがみ付いてきた。起こしてしまったのか、と思ったが再びスヤスヤ眠る高耶を見て、直江はホッと胸を撫で下ろす。再び今度は髪を、指でそっと髪を摘んで触れて見る。起こしてはいけないと思いっているが、それでも今この黒髪に触れていたかったのだ。 「…なぉ……」 「……」 呟く高耶は幸せそうで、男はそっと閉じる瞼にキスを落とした。背中に手を回し、起こさない様細い躯を引き寄せる。 昨日高耶をBoston(ボストン) Common(コモン)に一人残し直江が向かったのはThe(州) State(庁) House(舎) だった。 追われている自覚はある。知りたいのは自分達が何処 まで把握(・・)されて(・・・)いる(・・)か(・)、だ。派手な殺人事件、当然容疑者として直江の名前が挙がっている。 California(州)を出れば事件はstate(州) trooper(警察)の手から離れる。そうなれば管轄も変る。もし直江が今この街で発見され逮捕されれば、当然身柄はL.A に送られ裁かれる。が、もしも他の地で犯罪を犯せば恐らく管轄はに移って しまうだろう。FBI(連邦捜査局) が乗り出せばもう、直江に逃げ場 は限り無く無くなる。 検挙率が低い警察だが、FBIが出てくれば話は別だ。メンツに異様に拘る集団にとっては、アジア人一人の行方を捜すのなどいとも簡単にやってのけるだろう。だから、警察の動きを知る必要が直江にはあった。 だがこの時点で直江は知らない。Tracy(トレイシー) Rose(ローズ) がprivate(私立) investigator(探偵) を雇った事を。男の名をAlec(アレック) J Silverstone(シルバーストン) と言い、LAPD(LA市警) に繋がりがある事を。そして歯車は既に、動き出している事を――― 「ん…なぉえ…?」 考えに沈みながら抱き寄せると、高耶が薄っすら眸を開いて見上げている。 「起こした…?」 「ううん……直江、寝ないの?」 眠そうだが、声は確りしていた。 「起こしたか……悪い、まだ早いから寝てて」 「う、ん…直江、も……」 前髪を掻き上げキスを落とすと、高耶はニッコリ笑って欠伸を一つ。瞼を閉じると間も無く再び寝息を立て始める。 幸せに形があるなら、これがそうなだのと直江は思う。 愛おしい、言葉にすればそんなものしか浮かんでこない。本当はそんなものでは言い表せないのに。 「お休み…高耶……」 そして男も瞼を閉じ、温もりを抱いて再び浅い眠りに落ちていったのだった。 焦りは確かにあった。 次の日から直江は、高耶を連れて街を歩いた(・・・)。金は直 ぐに底を付く。その前に何とか仕事を見付けなくてはな らない。しかしSocial(身分) Security(証明) card(書)を、ID(ナンバー)を持たない 直江はまともな仕事に就くのは不可能だ、余程のコネが無い限り。 戸籍の無いこの国では、このカードが銀行口座を開く、運転免許証を申請する、医者にかかる、保険に加入する、就職するといった生活に関する殆どの用途に関わってく る。犯罪歴や職歴など、過去の経歴がこのSSN(ソーシャル・セキュリティ・ナンバー)をもとにすべて記録されており、こ の番号が一生社会生活について回る。Americans(アメリカ人) なら当 然持っているこのSSNを、直江も高耶も持っていない。勿論〟普通の生活〝を持たない多くの者達も同じく、これを所有していないのだが。そんな状況では自然、職種は限られてくる。だがそうやって、2人はこれまで生きてきたのだ。 L.Aならば、仕事はいくらでもあっただろう。が、こ こはボストン、遥か遠いEast(東) Coast(海岸)だ。伝もコネも情報 も無い。一番問題なのが〟実績〝だ。おかしな話だが、実績は仕事を得る上で重要だった。 L.Aの街では、直江は裏ではある程度名が通っていた。 確実な仕事は一目置かれる所だった。一方でその冷酷冷 静さを気味が悪がっている者もいたのだが。だからwest(西) Coast(海岸)のbutton(ギャングの) man(メンバー)から何度も仕事の依頼を受けてきた のだ。仕事の内容は様々だが、それらをこなして直江は信用を深めていった。その延長線上に、また直江があったのだ。それが、この逃げて来た何も無い街には皆無になってしまった。 最近は西と東のgang(ギャング) war(抗争)も下火になっていて、裏社会 自体派手な動きは鳴りを潜めている状態だ。情報も、格 段に少なくなっている。それでもSan Antonioでの日々 で多少の情報は得られたのが今の直江の唯一の contact(つて) だ。が、それを使う訳にはいかない。 Garci'a(ガルシア)と言う男、高耶の足を撃ち抜き最後にSeth(セス)に撃 たれ、自室の高級アパートメントで死んだ男。あの場に高耶と直江がいたと、知られるのはFBIに居所を探られるよりも拙い。 生き残り競争の激しくなってきているunderworld(裏社会)では 組織同士で提携、同盟、手を組むパターンが急増している。だから余計に、用心深くなるのだ。 ボストンでどんな組織が、人物が力を持っているか知らないしまた、何処と繋がっているかも直江は知らない。 情報の流用は驚く程早い。誰かが直江を知っている、と言いそれは距離を超え直ぐに方々に散ばっていくのだ。 〟命取り〝は何処にでも転がっている。 「直江?」 9時過ぎに目が覚め昨夜の事など忘れたかの様な高耶は、朝食も何時も通り食べた。元々小食の高耶にしては、キチンと食べた方だった。それから約束通り2人は一緒に家を出、Tに乗っている所だった。 「直江、ってば」 「ああ、何?」 考えに沈んでいた直江は、高耶に手をクイクイ引っ張られて我に返った。 「もう、さっきからオレ呼んでんのに」 「悪い」 そう言って苦笑しながら、柔らかい髪を掻き回す。 「もうッ、何だよグチャグチャになるだろッ」 頬を脹らませながら上目遣いに男を睨むが、高耶はこの大きな手が大好きなのだ。そんな事は直江も承知で、だからわざと乱暴に余計グチャグチャにしてやると、高耶は楽しそうに悲鳴を上げて男の手から逃れる。それでも直ぐに届く範囲からは、決して離れない。 長身のAsian(アジア系)の男と、同じくアジア系の子供の2人連 れは、Tの車内の中でも目を惹いた。その容貌の際立ちの所為だ。広い肩幅はその長身と比例し、首の上の小さ目の顔は冷たい端正さを持っている。何よりも纏う空気 がとても、honest(カタギ) occupation(の職業)に就いていている人間とは 思えない。張り詰めた他を寄せ付けない、それでいて連れの子供に注がれる眸の暖かさのギャップが余計に惹き付けられてしまうのだ。子供の方はと言えば、映画で観 るどのchild(子役) star(スター) よりもwonderful(見た目の)-looking(綺麗)な子供だった。 確かに当然アジア系に見えるのだが、それ以上にそう言った(・・・・・)区切り(・・)が(・)必要(・・)の(・)無い(・・)綺麗さを持っていた。 確かに誰もがハッとなる様な美しさ、など実際持っている人間など多分存在しない。それでもこの子供は確かにその容姿が故に、車内の人目を惹いていた。 L.Aにいた頃は余りジロジロ見られる事は無かった、直江も高耶も。確かに容姿が際立つ所為で皮肉や揶揄いの原因になった事もあったが、直江がそんなものを相手にする筈も無く却って女相手に有効だっただけだった。高耶も方も、住んでいたアパートの近所をフラ付いていても、道端にたむろう者達にそう見られる事は無かったのだ。あの街を出て、各地を点々とし始めてからなのだ、そう一見遠慮しながらも明ら様な視線を浴びる様になったのは。直江は理解していた、その変化を。 coast(全) to coast(米)に広がる数箇所あるゲットー、スラム 街の中でも2人の生きてきたL.Aのゲットーは、その悲惨さでは上位に位置する。そんな中心部に住む者達が、他人の、それも子供の見た目に一々反応する事は稀なのだ。自分が生きていくのに、精一杯なのだから。それでも当然、見られる事は少なくなかったのだが。要するに、他人への関心度の度合いが違う、と言う事だ。 生活に余裕のある者達は、自分や他人の容姿を酷く気にして生きている。その結果だった、こうして行く先々でチラチラ見られ〟あの子…〝といった会話がヒソヒソ囁かれるのは。 だから直江は、高耶に慣れて欲しいと思っている。幼い子供に強いるのは哀れだと思うのだがそれが高耶にとっても自己防衛になる。気にならなくなれば……そんな風に思っていた。 それでも田舎よりも都会ほど、他人に関心が無いのでそう酷いものは無かった。今も車内で2人に気付いた数人が、チラチラ何気なく視線を泳がせているだけだ。 「今日何処行くの?」 部屋を出て、まだ行き先を聞いていない。 「買い物だ」 「買い物?」 嬉しそうに首を傾げる高耶に、直江は苦笑しながら乱れた髪を撫でてやる。 「marketplaceに」 「それ何?」 「ダウンタウンにあるマーケットだ」 今日高耶を連れて行こうと思ったのはfaneuil(ファナル) hall(ホール) marketplace(マーケットプレイス)と言うダウンタンにある3つのmall(モール)がある マーケットだ。食品、服飾、レジャー、雑貨、あらゆるショップが夫々数十単位で並んでおり、広場にはストリートパフォーマンスも行われている、市民以外でも名が知れている観光地でもある子供が遊ぶには恰好の場所だ った。アパートの部屋からも、Tで乗り換えなしで30分 も掛らず行ける距離だ。 「そこで買い物するのッ?!」 興奮に眸を輝かせて乗り出してくる高耶の前髪を掻き揚げて、直江は頷く。 「オレねッ、オレアイス食べたい、walnut(胡桃)」 「分かった」 クスクス笑う直江に高耶も嬉しくなり、腕にしがみついてくる。余程嬉しいのだろう、こんな風に子供の様にはしゃぐのは珍しかった。それだけ何時も我慢を強いているのだと、改めて直江は思う。 笑顔だけを見ていたい、それは現実味の無い願いだと分かっている。だから尚更〟今〝の貴重さを噛み締め出来るだけ優しい時間を高耶にやりたいと思ったのだった。 「わぁ…」 stateで降りて少し歩くと、直ぐにカーニバルの様な賑やかさが伝わってくる。大きな3棟の建物に、あらゆる店舗が入っているのだ。そう言えば今日は土曜、家族連れも多い筈だ。 「直江、凄いね」 直江の手を握ったまま、高耶の視線は賑わっているマーケットに注がれている。釘付けになっている先には、 clown(ピエロ)が赤と青の輪を宙に投げては器用に掴んで回して いた。周りには子供達がキャアキャア声を上げて喜んでいる。高耶も行きたくてうずうずしているのが分かった。 「行ってみるか?」 「うんッ」 言うなり直江の手を離して、駆け出して行く。そのまま背中を見送りながら、直江はグルッと辺りを見回した。初夏の心地良い緩い風が吹き、樹々には新緑が目に眩しい。今日は少し食料と高耶の服も買おう、それと高耶が何か欲しがったらそれも。 何か強請る事の殆ど無い高耶を、今日は好きな様にしてやろうと思った。 「直江ッ」 大きく手を振る子供に男も小さく答えてやると、高耶は更にブンブン振り回した。ゆっくり近付いて行く直江の視線から、高耶が外れる事は無い。常に目を離さずに、注意深く見守る。久々に〟遊び〝に出掛けた高耶は何時もよりも、注意力が散漫しているからだ。それを責める気など直江には当然、全く無い。どころか何時でもそうして精神をリラックスしていて欲しいと思っている、この何よりも直江を優先し、我慢してしまう愛おしい子供に。