僕は、泣かない 6
- ¥ 1,450
自由を得る為に、直江はベルメールと対峙する。そのには高耶の未来も掛っていた。果たしてゲームに直江は勝つ事が出来るのか?! 1C 148p タタタ、と早足で賑やかな通りを歩く高耶の目に、ネオンが毒々しく映っている。食事の途中で直江が消えて、高耶は暫くカフェでボンヤリしていた。アイスクリィムは既に溶け、ただの緑の液体になっていた。そうこうしている内に、段々と店が混み始める。今日は週末なのだから無理もない。 仕方無く立ち上がり金を払うと、夜の街に小さな躯を溶け込ませていった。 カチャ 微かな音を立てて、ドアが開く。覚悟は決めてあるが、心を占めているのは高耶だ。もし自分に何かあったらあの子供はどうなるのか―― 「……」 だが迷いは、浮かび上がった男の顔によって振り切った。このままでは、破滅が待っているかもしれない。何か〟変化〝を起こす必要が直江にはあった。 カタ 背後で静かにドアが閉まる。内部は暗く、音も無い。 「……」 ゴク、と喉が鳴った。 ドアを開くと直ぐに、下へ伸びる階段があった。小さなランプに照らされただけのそこは暗く、足元がやっと浮かび上がる程度のものだ。一歩一歩、降りていく。今の直江は店から支給された皮のローファーを履いていた。店に行く為に履いたままだったのだ。 カツン、カツン 靴底の皮が狭い階段に響く。その音がイヤに耳についた。 カツン――― やがて直江は、一番下に辿り着く。降り立った瞬間、視界が開けた。 「……」 そこは、 「Casino(カジノ)…」 唐突に目の前に広がる光景を、暫し見入ってしまったのだった。 「……」 あの階段の静けさが嘘の様な騒めいた喧騒。だが直ぐに直江は空気に溶け込んだ、何の違和感無く。ガヤガヤとしている空間は狭くだが、華美とも言える装飾に囲まれていた。あの、何も無い静まり返った外観の建物の内部とは思えない。だが、既に直江は分かっていた、ここにカジノを見付けた瞬間、全て明るみに出ていると言う事を、直江が――― 「お待ちしておりました」 ス、と黒いタキシードを着た白髪の老人が現れ、深く腰を曲げて礼をした。 「……」 ―――後を付け、こうして階段を下りて来る事を。 「こちらへどうぞ」 だから直江は、何の障害も無しにここまで降りて来られたのだ。何もかも、掌だった訳だ。 何故か怒りも絶望も無く、スンナリと納得した気分が心を占めていた。カジノに興じている男達の服装は皆仕立の良い、一目で高価なものだと分かる。しかも最悪な事に、直江はこの空気、それを醸し出す男の種類を知っていた。その意味が成す ものを思い浮かべ辿り着いて(・・・・・)しまった(・・・・)事実を噛み締めた。 カードに集中しながらも、チラチラと先程から直江を気にしている男の視線を感じながら、促す男の後に付いて行った。カジノ部屋自体そう広くは無い空間で、直江が連れていかれたのは更に奥にある小さな窓一つない部屋だった。 「こちらです」 老人がドアを開き、一礼して直江を中へ促す。そして自分は入らず外から静かにドアを閉めた。 パタン、と背後でドアが閉まると暗かった室内が突然パァッ、と明るくなる。 「ッ」 警戒を敷き思わず眸を眇めてしまう直江の耳に、フフフ、と愉しそうに嗤う声が入り込んできた。声の主は背中を向けていてだが、それは先程表の通りで見送ったものと寸分違わない。ハメられた――実感させられる――― 「直江」 名を呼ばれ直江は、ギュッと瞼を閉じる。そこに現れた子供に何を思えばいいのか。 「……」 高耶 胸に刻む唯一の言葉を直江は、グッと噛み締めた。 「面白い所で会う」 「……」 ゆっくりと振り返った男は変わらず、穏やかに微笑んでいる。上機嫌なのが、手に取る様に分かった。 「でも嬉しいよ、君に会えればどんな場所でも」 「…オレに何をさせたい」 ギリ、と歯が軋んだ音を立てた。今にも殺せそうな鋭角な眸を、ベルメールはうっとりと見詰める。 「…私はね直江、君のそんな顔がとても好きでね」 「……」 怒りを纏いながらも、直江は冷静さを維持していた。部屋の外には間違いなく、男の部下が張っている。銃は当然携帯しているが、敵の手中に収まっている状態で何も出来無いのが現状だった。どう動けばベストか、常に思考は巡らされている。当然それも男に把握されているのだろう。 室内は薄暗いが、靴底が沈む毛足の長い絨毯はシルクで出来ていて酷く高価なものだ。ソファやテーブルも恐らく同じだろう。暗い中で浮かび上がる白いテーブルの上には、書類らしきものが数枚。何が書いてあるのかは暗過ぎて直江に分からない。 「直江」 ドアの前に立ったままの直江に笑いかけ、男はゆっくり回り込みソファに腰を下した。 「立ってないで座ったらいい」 「……」 こんな事で一々抵抗しても仕方が無い。直江は言われた通り男の正面に座った。 広い肩幅はきっと、直江と同じかそれ以上。身長こそ直江の方が高いが、そう変らない筈だ。短く刈った髪も精悍さを助長している。笑ってはいるが、眸の奥が醒めた光で絡め取ろうとし ているのが分かる。躯中にそれ(・・)が纏わり付いているのを直江は 感じていた。 「さて」 ゆっくり足を組む仕草さえ、余裕があり優雅だ。室内の灯りは部屋の隅にあるチェストの上に乗っているランプだけで。それが有名なドームのランプだと、当然直江には分からない。ボンヤリとしたはっきりとしない灯りの中、直江は再び男と対峙していた。 「何をさせたい…それはそれ次第では来てくれる、と言う事か?」 身を少し乗り出しながら言う男の顔から瞬間、ス、と笑みが引いた。残るのは酷薄で、獰猛を明ら様に曝け出しているそれだ。 「……」 ここで何と答えれば良い(・・)方向(・・)へ行くのか―――どうすればい いのか、直江には本当に分からなかった。もしも自分一人ならば適当に答え後はどうにでもしただろう。だが、今直江には高耶がいる。高耶の平穏を、心を守る為には何と答えどう動くのが最良の方法か―― チ、チ、チ アンティクの時計の針が、直江を追い詰めていく。 チ、チ、チ 「直江」 見詰め合う、視線が交差する。 「……」 時間は、永遠だ。嵌り沈み、それは終る事無く―― 「断る」 ―――続くのだ。 「……」 直江が答えた瞬間、男の顔に浮かんだ穏やかな笑みにどんな意味があるのだろううか。 「……」 「……」 交差する視線には、温度の低い炎が立ち消え、そして立つ。 支配の下の平和よりも、混乱の中の自由を 浮かび噛み締めた言葉はきっと、高耶と共有出来る思考の底に延々流れるもので。だから男はそれを手放せないのだ―― 「そう、か」 数分の沈黙の後の男の声には低い嗤いが含まれていて、直江は慎重にジーンズの上から銃を押さえる。 「でも直江」 深まる笑みに、直江の手に力が篭った。 「それでは私は困る……こんなにも君を欲していると言うのに」 「……」 黙ったままの直江に、男はふぅ、と溜息を吐く。 「分からないな」 心底不思議そうに言う男に、直江の目が微かに眇められた。 「何がだ」 直江の反応が嬉しいのか、男はふふ、と鼻先で笑ってみせる。 「そうだろう?私の庇護があれば君は今よりもずっと自由になれる―――追われる事なく」 「……」 普通の人間が見れば息を止め硬直してしまうだろう殺気立った直江の視線を、男はこの上無く心地良さそうに受け止めた。 美しい、そう思う。聡明さと獰猛性、それは偏る事無く直江の内部に息衝いている。こんな生き物を他に知らない、こんなにも美しく危険な。それにあの子供、男が唯一愛し赦す小さな生き物。 初めは直江の様な孤高の生き物にそんな存在は邪魔なだけだと思った。が、2人の様子を見て考えが変ったのだ。高耶と言う名を持つ子供は大そう、類を見ない程度には綺麗だった。綺麗な子供、そんな言葉の持つ意味をベルメールは高耶を見て初めて知ったのだ。それを無頓着に晒しぶら下げ歩いている…そう思うと堪らなく興味を湧き立てた。 「子供を拾って育てるなど、中々大したものだな」 唐突な言葉に、直江は一瞬虚を突かれる。分かっていた筈だが、ここまで知られているのが多分ショックだったのだ。 「直江…私は君達の力になりたいんだよ。ヨーロッパへ行けばもう、不安無く暮らす事が出来る」 「……」 「自由に…何処へ行くにも自由だ。芸術学問スポーツ、未来にはあらゆる可能性が開けているんだ。高耶の未来は無限なんだよ直江」 一瞬だが、直江は想像してしまった。 普通の子供の高耶。学校へ行き友人を作り、犯罪とは無縁の人生を送る高耶を。子供としての当然の庇護を受け、伸び伸びと成長する子供―――それは、直江の何よりの願いではなかったのか?そして高耶の横には自分の姿があり――― 「良い養子先もいくらでもある」 養子―― この言葉で、ハッと我に返った。 「ダメだ」 一言で切り捨てる。 高耶を養子に出す考えは、千秋の家から攫って来てしまった時に捨てたのだ。どんな事があっても、側にいると。それが高耶のただ一つの祈りなのだから。それが生きている限り、直江が決して捨ててはいけない義務であり願いなのだ。 「……ふふ…だから2人で私の元へ来ればいい」 「オレは何も出来無い…ビジネスなんか知らない」 興味も無い 「だから何の役にも立たない」 「違うな…君は知らないかもしれないが、ビジネスと言うのはね、経験など実際殆ど意味の無いものなんだよ」 「何?」 「無能者は何年、何十年やっても何も変らない。分かる者は何も言わなくとも、感覚で功を成す」 「オレが、それだと?」 吐き捨てる直江に、ベルメールは笑いながら頷いた。 「ハッ」 鼻で嗤う直江にも、男は気にもせずに続ける。 「私は人を見る目はある。だからこそ今の地位を築けた…登用と人選…分かるか?」 「……面白い話だな、オレがお前の部下になりバレンチノのスーツでも着て書類を作るのか?」 「それもいいな」 「クククク…ッ」 可笑しくて堪らない、そんな風に直江は嗤い出してしまう。スノッブで鼻持ちならないスカしたホワイトカラーの仲間入りをすると言うのだ、自分が……血に塗れた手を持つこの自分が。 「まぁ、これまでの君の人生を考えれば想像も付かないと思うが」 「そうだな、随分面白い事を言う、stand( コ)-up(メ) comedian(ディアン)で食っていけるな」 見下し嗤う直江にも、ベルメールは淡々と続ける。 「言っておくがこことは、アメリカとヨーロッパは違う。ガサツで品の無い…ビジネスに置いても目先だけの利益を浅ましく漁る 奴等(アメリカ人)とはな」 「……」 「あちらは高耶にとって教育的にも環境的にも優れている。素晴らしい学校もある、そこで高耶は色んな事を学び成長するのだ。いいか?私は君達を引き離そうなどと思ってはいない、どころか家族として登録をしてもいいとさえ思っているのだ」 「……家族、だと?」 「そうだ家族だ」 「……」 家族――高耶と直江の間に、一番遠い言葉かもしれない。実際直江は高耶を〟家族〝とは一度も思っていないのだ。きっと高耶の方のそうだろう。 違う、そんなlump(括り)など意味は無かった。 繋がりはlifeline(生命線)で、好きとか嫌いとか、ましてや家族など と言う言葉の括りは無意味で。 呼吸をするのに、心臓を動かす事に理由や意識など無いのと同じで、ただ生きると言う事イコール、2人でいる事なのだ。だから家族の定義ど、そこには皆無だった。 男の言うとこが言葉でしか分からない、感覚が伝わらない直江はただ黙って聞いている。 「どうとでもなる。親子……いや、これは無理があるな。兄弟、甥と叔父、それとも従兄弟か親類か。君の好きな間柄にしてあげよう。そうすれば法的に堂々と2人でいられる」 「……」 分からなかった、何故この富も権力も持つ男がただの犯罪者の直江に拘るのか。どう考えても普通じゃあない。だからなのか、直江は男の異常性を疑い始めた。だが男はそんな直江の考えを読んだ様に言葉を続ける。 「ふふふ…私は至って正常だ…君には分からないだろう…素晴らしいものだけに囲まれて生きる事の素晴らしさを」 やっと見付けた〟持つ者〝どうしても手に入れたい。その思いは既に妄執となりただ直江に向かっていた。その思いは恐らく、永遠に直江には分からないだろう。 生まれ持って環境的に選ばれた者達は、自分の願い自体に異常な執着を見せる。経済的に恵まれている状態以外知らない者は〟欲求〝だけの為に手段を選ばない。 ベルメールはドイツの著名な企業化の家に生まれ、幼い頃からビジネスの裏を全て見てきた。無能な部下、思い通りにならな い自分の手足(・・)。そんなものを見てきた男は極自然に願う様に なる。本当(・・)に(・)欲しい(・・・)もの(・・)だけ(・・)に囲まれた人生、を。これ程豊か で素晴らしい人生があるだろうか。己の選び認めたものだけが、自分の周りに何時でもあるのだ。 だが生きていく内に、それがいかに稀で稀有な事なのかも思い知らされる。金、では無い、どんなに莫大な財産を持ってしても、それは叶う事の無い――― その突き付けられた事実にベルメールは内心、諦め落胆していたのだ。それでもどうしても諦め切れなかった。そんな思いを忘れた頃だった、あの朝直江を偶然見掛けたのは。 見付けてしまった、見付けてしまったのだ―――〟欲しかったもの〝を―― それは美しかった。強くしなやかで躍動感に溢れ。見て直ぐに分かったのだ、これが求めていたものだ、と。だから男は長年の欲求を叶える為に手段は選ばない。 「どうだ、直江。きっと皆幸せになれる」 「……」 見詰め合う形になった。男の眸は奇妙に澄んで、純粋に直江を欲しているのが分かった。だから、 「……」 ゆっくり立ち上がる。 「直江」 「No(断る)」 ワン、と耳鳴りがしたのは果たしてどちらの方か。