スカイハイ
- ¥ 1,870
新宿で探偵をしている直江は、指定暴力団若頭の成田譲にある依頼を受ける。その内容は、ある少年の『監視』だ。少年高耶は奇妙な少年だった。 初めはクソガキ、と反発していた直江だが、あまりに無垢な高耶に惹き付けられ離せなくなっていく。 だが高耶の出生はいわく付きのもので、様々なトラブルに見舞われるのだった。そして2人の選んだ道は――― ハードボイルド・シリアス
高耶はおれの『持ち物』なんだよ直江さん。
「こちらです、どうぞ」 年配の学園長の声に促され、学園長室兼応接室に足を踏み入れる。 シンプルで質素な部屋には、そこに似合った応接セットが置かれていた。 褪せた皮のシートに腰を下ろすと、初老の学園長に向き直る。 資金が潤沢とはとても思えない学園だが、目の前の学園長から卑屈な雰囲気は感じられない。 それは学園全体の空気も同じ事で。 学園長の人柄が伺えた。だが、男にとってそんな事は、どうでもいいものなのだが。 「わざわざお時間を割いていただき感謝いたします」 「いえいえ、お気になさらずに」 学園長は70代の女性でとても、柔らかい笑みを浮かべていた。 「それで彼は」 前置きは必要無い、世間話をする程暇でもなかった。 「今何処に」 そう問うと、学園長の表情が少し暗いものになる。 「今学習室にいると思いますが」 「では、呼んできていただけますか?」 言葉は丁寧だが、そこには明らかな"命令〝が滲んでいる。 "支配者〝としての空気は消えるものではない。 そんな相手に気付いているのかいないのか、それとも気付いていても気にしていないのか、学園長の表情は真剣なものになった。 「その前に、お話しておかなければならない事があります」 「……」 男は変わらず笑みを浮かべている。だがその目の奥は決して笑っていなかった。 「何でしょう」 「ええ……あの子の〟状態〝の事です」 「……」 質素なテーブルセットに腰を下ろし、学園長と男は向き合って座っている。 男の背後に立つ者は存在感を完全に消しているのか、一度も口を開いていなかった。 柔和で優しい学園長だが、当然それだけでは学園を引っ張っていく事は出来ない。実際肝の据わった人物で、それを男も分かっていた。 「状態、と言いますと」 ずい、と身を乗り出してきた男に対し、学園長は重い口調で話し始める。 「……とても優しい子です……小さい子の面倒もよく見てくれて」 「……」 男としては、そんな話はどうでもよかった。だがここは黙って聞くのが得策だと判断する。 この学園長は人が好いだけの人物ではないと分かっている所為もあった。 子供達を守る為には、政府にでもヤクザにでも躯を張るだろう。だからもし、男が"彼〝にとって害を成す人物だと判断すれば、どんな事をしてでても守ろうとするに違いない。 それが分かるのでここは彼女の言葉を待つしかなかった。 「絵を描くのが好きで……とても上手いんですよ」 「……」 男のとりあえずの笑顔、など色んな意味で鋭いだろう学園長は見透かしている筈だ。だが腹の探りあいなら自分の3倍生きている学園長より長けている自信がある。 「ですが」 ふ、と口調が重くなる。 「……少し……幼い所があります」 「……幼い?」 思わず口を挟んでしまった男に学園長は優しいだが、哀しい色を敷いた笑みを浮かべた。 「知的障害ではありません、健康も知能も正常です。ただあの子は酷く純粋で……純粋過ぎる、と言った方がいいのかもしれないわね」 最後の方は独白に似た響きで。 そんな学園長を男は酷く醒めた目で眺めていた。 「嘘が無い……人を疑う事も知らない、ただただ純粋に人の"善意〝だけしか存在しない……」 「人を信じる、ではなく?」 意味の深い言葉に思わず訊ねてしまう。 "人を信じる"とは"疑う"事を知っていて、疑う、を前提にしている言葉だ。 信じられないからこそ、信じようと意識を無理矢理動かそうとする。 男の問いの意味が分かったのか、学園長は真っ直ぐ見据えてくる。 「そうです、あの子の場合〟悪意〝そのものの発想が無い、と言うか……そうですね……理解出来ない、それを目の当たりにすれば訳が分からず戸惑う事でしょう」 「……」 男は呆れた。 人を信じようとする、ならば分かる。元々根底では疑い、 それを自分の為に認めようとしないだけだ。 そんな人間は大勢いるので扱いも楽だ。だが、 「存在、しない……?」 とてもじゃないが、理解に苦しむ。 それが本当なら立派な知的障害ではないか。 「ええ……言葉だけでは分かり難いとは思いますが……そうですね、変わった子、と思っていただければ」 「……」 「だからあの子を理解し否定しないでください」 学園長の眸は必死だった。 本当に"彼"を大事に思っているのだろう。その思いを感じれば感る程、男は白けた気持ちになっていくのだが。 「あの子はある意味とても難しい……人によっては苛々もするでしょう。時折人間にとって都合の良い〟常識〝が通用しません〝誤魔化し"も通用しない……と言うよりもさせてくれない……真っ直ぐな子なんです。でもそれが時に、人を怒らせてしまう場合もあるんです……」 学園長は酷く哀しそうだった。恐らく何度となく、そう言った場面があったのだろう。 学園長の言い分は、とりあえず分かった気はした。 したが正直"実物"を見ない事には明確にならない。 「ただ分かって欲しいのは、あの子には決して〟悪意〝が無い、と言う事です」 学園長にとっても、説明は難しいものだった。 だがあの子にとって目の前の男に理解される事はとても大事な事なのだ。 「園長、お話はよく分かりました、ご安心を、私は彼を家族として引き取りたいんです……大事な家族です、今まで苦労をさせた分これからはゆっくりと幸せになってもらいたい、そう思っています」 男は"優し気"と証される俳優のように甘く整った顔に笑みを浮かべたのだった。 ************************************************************ 大きな通りは思ったより空いていた。 暫く走ると細い道に入る。遠くに雪山でスキーをしているのが視界に入った。 車はどんどん山の方面に進んでいくと、閑静な別荘地に入り込む。 葉の落ちた木々の間々に、別荘は点在していた。 一軒一軒の間隔が離れていて、車が無いと不便な土地だ。 今はシーズンオフなので、別荘地にも人の気配が殆ど無かった。 別荘にもランクがあり、パッと見で大きさ、豪華さがマチマチだ。 そんな森の中の途中で直江は路を反れ、枯葉深い場所で車を停めた。 「……」 グル、と辺りを見回す。 冬の軽井沢は思ったよりも寒く無く、都内とそう変わらない。 薄着の直江は多少の寒さを感じたが、直ぐにそんなものは気にならなくなった。 "高坂"の家が所有している別荘はここ、軽井沢に一軒だけだ。 そこに高耶がいる、と直江は考えた……祈りに似た強い想いで。 軽井沢にある別荘には殆ど壁や門は無い。 あっても簡単なもので、木で作った自然なものが多かった。 だが今直江の目の前にある建物はそんな軽井沢の別荘の中で異質な匂いを放っている。 「……」 2階建ての別荘は、広い庭に囲まれている。 その庭も高い塀に囲まれていた。 門も高く頑丈で、一見するととても別荘に見えない。 「……」 別荘の周りの森に見張りはいないのを確認してある。 塀周辺にも人の気配は無かった。 「……」 直江の動きが止まる。ここまで手薄なのは考えられない。 もしかして高耶はここにはいないのだろ うか。 不吉な考えが脳裏に浮かんだ。 だが今はとにかく確認するのが先決だった。 門の前には決して立ってはいけない。 塀をグルッと回り、建物の真後ろで止まった。 そこまで来たら別荘から離れ、遠くから内部を観察する。 外から見るだけで、大体の構造が分かるのだ。 一旦車へ戻った直江はそこで夜を待つ。 そして冬の短い日は落ち夜は更け、時計を 見ると午前1時を指していた。 「……」 それを確認すると、直江はゆっくりと車を離れたのだった。 存在する音は、緩い風が落ちた枯葉を擦るものだけだ。後はカサカサ、と直江のブーツの下で枯葉が砕けるそれ。 一歩一歩、ゆっくりと高坂所有の別荘の前に立つ。 今度は門の前に立った。 森の中でも別荘地なので街灯はある。あるが間隔が長く街灯近い位置以外は闇の中だ。高坂の別荘の近くには街灯は無い。門の前の灯りも点いていないので月が無ければ闇と化す。 そこに直江はいるのだ。