序 ―矢痕の夜、石上に風鳴る―
渋河の陣が崩れ、火走る夜。物部守屋は脇腹の矢を抜かれ、馬上に吊るされるようにして信貴の峰を越えた。追っ手の鬨が遠ざかると、彼は唇の血を拭い、「まだだ」と低く言った。
目指すは石上。布都御魂が眠る古の兵庫(つわものぐら)。忌部の童が灯した松明が、夜気の底で朱の矢羽根を照らした。
神職が秘蔵の塩と薬草で傷を塞ぎ、守屋は四十日、静かに寝た。夜ごと彼は同じ夢を見た。剣の冴えが雨を裂き、山川の匂いが変わる夢。目覚めると、石上の風はただ澄んでいる。
「軍を捨てれば国が滅ぶ。だが、軍だけでも国は成らぬ」
矢痕の痛みが、言葉に芯を与えていた。