【やいぎょく】ちゃんちゃらおかしい、エブリデイ
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■A6/40P ■下鴨矢一郎と南禅寺玉瀾。短編3話。天狗つぶてが南禅寺に落ちた話・1の偽衛門が決まる日の話・矢一郎がケーキを作る話。やいぎょく以外には正二郎・矢三郎・矢四郎がいます。 ■サンプルは天狗つぶての話です。
ちゃんちゃらおかしい、エブリデイ
足しても掛けても、大きくならず。 引いても割っても、小さくならぬ。 それはなにか、と謎解き明かし。 降ってくるのは、アメ、アラレ。 下鴨矢三郎は、南禅寺の境内でとんでもなく呆れ返って佇んでいた。 しいん、とした精櫃な空間であるはずの床で、弟の矢四郎が「ご注意ください。二番線には、上り電車が参ります」と精巧なフォルムの叡電のミニチュアを動かしている。さすがの弟も目の前の人物(狸だが)の様子を気にかけてはいるらしく、声音は小さなものだった。ぴかぴかに磨かれている境内の床の、どこの木目が二番線なのだか俺にはよく分からない。 だがしかし、問題は下鴨家の四男ではなかった。当然のごとく、狸界と天狗界と人間界を股にかけてのらりくらりと生きている三男坊でもない。下鴨家の次男は本来狸のはずがかなり蛙で難ではあったが、この件については無関係だった。「あのさあ、玉瀾先生」 うんざりと息を吐き出しながら、先刻から繰り返している言葉を綴る。初めは「先生は止めて」と都度訂正を求めていた南禅寺玉瀾も、あまりの問いの回数に抵抗を諦めた。諦めるのは「先生」呼びではなくて、その象牙色の盤であってほしい、と俺は祈る。それほどおかしな願いではないだろう、としみじみとしていた。 白いブラウスの袖と青いスカートは境内の床に座り込んで、しっかりとクリーム色の盤を抱えていた。水色のサンダルは珍しく揃えられることもないまま、境内の入口で転がっていた。「それは先祖代々伝えられた家宝とか、曾祖父から曾孫へと授けられた贈り物なのかい?」と質問したくなる。誓って決してそんなことはないのだと、俺も玉瀾も知っているのに。 この件の問題は数ヵ月前まで遡る。春先に如意ヶ嶽を中心点として、洛中にばらばらと天狗つぶてが降り注いだ。俺もその現場を目撃している。というか、まさにそれは目の前に降ってきた。「舞い降りる」とかそんな大人しいものではなくて、「叩きつけられる」とかむしろそんな具合で。擬音にするのであれば、どかん、とかそんな感じだった。 俺と矢四郎の前に落とされたそれは、アンティーク調のカウチだった。濃いめのワインレッドとダークブラウンで、レトロな雰囲気だった。我が母上のために持ち帰りたい気持ちはあったものの、すぐに持ち主が判明してしまったため、俺と矢四郎はそれを二代目薬師坊様に返上したんだ。 その天狗の持ち物が、どうやら南禅寺にも降っていたらしい。 ぎゅう、と玉瀾の腕は綺麗な象牙色の盤を抱き締めたままで、抱きつくのはうちの兄貴にやってやればいいのに、きっと喜ぶ、と近未来の弟は辟易とする。「下り電車が、鞍馬駅を発車しました。到着まで、しばらくお待ちください」と矢四郎。ここはどうやら貴船口だったのか、となんとはなしに納得した。 南禅寺玉瀾は、白いブラウスから出ている両腕でしっかりと盤を抱えている。そんなにいいものだろうか、と俺は世界の果てまで摩訶不思議だ。俺の将棋の腕はさっぱりだったし向上心もないし、仕舞いには狸将棋を開発してしまったものだから、玉瀾の気持ちが全く持って理解できなかった。 玉瀾はすでに小一時間この調子だ。南禅寺を訪ねた際に顔を出していた頭領の正二郎も、「おやおや」と楽しそうに頬を持ち上げてから妹を見て吹き出しそうにしていた。その後は、「じゃあ、矢三郎くん、矢四郎くん、ごゆっくり」と引っ込んでしまった。妹の「こうと決めたら」はなかなか覆せないものだと、兄はきっと既知であるのだ。 ただし、二代目様に家財道具を回収する約束を取りつけてしまった身としては、そうもいかない。どうするかな、と目を細めながら強情に象牙色の盤に張りついている背中に目線を投げた。「エマージェンシー、エマージェンシー、矢一郎兄ちゃん、玉瀾姉ちゃんが緊急事態。至急応援乞う。オーバー?」 携帯電話に向かってそう宣言すると、プツリ、と矢四郎は電話を切ってしまった。「あのな、〔オーバー〕は相手に聴いているか返事を促しているんだぞ」と注釈する。「そうなの?」と弟はのんきなものだ。それでも俺は、「なるほど、その手があったか」と感心する。矢四郎の明確な口上は境内の空間に鳴り響いたんだ。 ◇ 「玉瀾! 玉瀾は無事なのか!」 正二郎は相変わらず笑いをかみ殺している。煎れてくれた緑茶の湯飲みを両手で転がしていたら、ガラララララ、と大仰な音がした。矢四郎の〔エマージェンシー〕から二十分ほどかかったろうか。南禅寺の石畳にまで乗り上げたらしい自働人力車はえらく疲弊していて、がくりと肩を落とした風に見える。油を差した方がいいかもしれない。 下鴨家の長兄は取るものも取らずに駆けつけたといった風体で、愛用の黒いブーツを放り出すようにして境内の床に上がった。土足にならないあたりはまだ冷静だろうか、と茶色の着物を観察する。単に生真面目なだけかもしれないな、とも思った。「兄貴、玉瀾をなんとかしてくれよ」 つい本音が出てしまった。玉瀾の様子に目をむいた下鴨矢一郎は、「矢三郎、玉瀾になにをした! 我が弟がどれだけ阿呆であろうとも、許すわけにいかんぞ!」ととんでもなく睨まれた。「それから矢四郎、携帯電話の電源は入れておけ! 携帯不携帯だろうに!」と叫ぶ。とうとう正二郎が堪えられなくなったのだか吹き出していた。矢四郎は「ごめんなさい」とにこにこしている。 「俺はなにもしていないよ。玉瀾先生になにかするのは兄貴の役目だろう?」 しれっと洛中の現実と事実と真実を南禅寺の床に並べたら、「なっ……」と真っ赤になって口ごもる。南禅寺家の頭領が笑い出したので、下鴨家の頭領は不本意そうだ。「したいのは、山々だ」と独り言のように小さく呟くのが耳に入ってしまった。俺は正二郎と顔を見合わせて二匹で苦笑する。 「兄貴、天狗つぶてを回収したいんだ。二代目様の将棋盤が南禅寺に落ちた。玉瀾が抱えているそれだ。手放すように説得してくれよ」 「なんだと?」 兄貴は訝しそうに床に座り込んでいる玉瀾に視線を映す。人間に化けた細い指先と両腕はクリーム色の盤を抱えたままで、盤の表面にはダークブラウンでいくつもの正方形が連なっていた。「二代目様は英国から戻られたんだろう。それならば、将棋盤ではなくチェス盤では……」と頑なな婚約者を見やる。 「赤玉先生の息子なんだぜ? 英国に渡る前に将棋もやったろうよ」 「ああ、それもそうか」 筋が通っていると納得したのか、兄貴はふむ、と頷いた。「玉「嫌!」瀾……」とかなんとか、婚約者の呼びかけに即答する雌狸はきっぱりとしていた。雄狸は頬を歪めて困惑する。盤を抱き締めたままにきっ、と鋭い目線に見上げられて兄貴はたじろぐ。「どうしたんだ、玉瀾らしくない」 「こんな将棋盤は、もう手に入らないかもしれないもの。私、二代目様に譲ってくださるよう申し出に行く」 玉瀾の顔はとんでもなく真剣だった。兄貴は仰天した表情を隠そうともせずに、「止めてくれ」と呆れ返った声を出す。「盤を象牙で作ってしまうなんて、とんでもない発想。さすがは英国、といった感じかしら。センスが違う。やっぱりチェス盤の雰囲気で作りたかったのかしら」と俺達にとってはどうでもよさそうなことをうっとりとしゃべる。ある意味玉瀾先生らしいな、と頷いた。 ことん、と小さな音をさせて境内の床に将棋盤を置いた玉瀾は、自分のものであろう将棋の駒をそっと取り出した。パチン、と澄んだ音が南禅寺で反響する。ほう、と感慨深そうに頬を持ち上げる横顔はなんとも幸せそうな目をしていた。二代目様の将棋が道楽であったら譲ってくれるかもしれない、と俺は唸る。でも(本人は否定しているけれど)天狗だからな、と目を細めた。 「ずっとこの調子なんだ」 世界と日本と洛中の現実を未来の偽右衛門に淡々と訴えれば、むむむ、と下鴨矢一郎は喉の奥で音を出した。半分以上は呆れ返った風に婚約者を見下ろし、意を決したのだか、「父上の将棋盤を玉瀾にやる。へなちょこな腕の俺が持っているよりも、将棋盤も嬉しいだろう。だから、聞き分けてくれ」と真摯な声音を作る。 「それは駄目。あの将棋盤は総一郎さんのもので、矢一郎さんに受け継がれたのだもの。私がもらうわけにはいかないわ。ああ、たとえ、どれだけ素晴らしい榧でできていたとしても!」 ぐっとその手を握っている近未来の義姉に頬が歪んだ。「玉瀾姉ちゃんはすごく欲しいんだね」と真っ直ぐに矢四郎が表現した。「そうみたいだな」と返しておく。南禅寺玉瀾は将棋を愛しているので、将棋に関してははっきり言って道楽ではない。客観的な目線でそれが道楽に分類されたとしても、恐ろしくも熱を持った道楽だった。 元々は赤玉先生の持ち物で、父上へと渡った榧の将棋盤はどうやら高級なものらしい。玉瀾はプラスチックや布製の将棋盤や駒を手にしていてもとても嬉しそうに指すものだから、そんなに素材にこだわっているとは思わなかった。やれやれ、と兄貴は息を吐く。心底嫌そうに下鴨家の三男坊に目線を投げる。「二代目様の不興を買わずに、譲ってもらえると思うか?」 「弁天様よりは気紛れじゃあないお人だけれど、それはどうだろう。難しいかも。玉瀾がどうのじゃなくて、回収している天狗の持ち物を狸が欲しがっている、という話をどう感じるか、かなあ」 うーん、と首を傾げたのなら、兄貴は胸の手前で両腕を組んだ。「当たって砕けてもいいが、厳しそうだな……」とまぶたを伏せる。しばらく静かにしていた雄狸を雌狸は軽く睨んだままで、兄貴は冷静な振りをして声を上げた。パチン、と境内にその音が響き渡るようだった。「その盤で一局指そう、玉瀾」 ◇ パチン、と綺麗な音は南禅寺の境内で鳴る。最初に将棋の駒を動かした時に、兄貴は軽く目を見開いた。俺にはよく分からないけれど、へなちょこな腕の長兄でもその違いが理解できたらしいので、ふうん、と興味深くなった。兄貴は榧の将棋盤で指すのにも慣れているはずで、その指先が感嘆するのだから、玉瀾の腕であればそれは当然なのだろう。 「……なるほどな」 小さく納得の声を漏らしてからは、下鴨矢一郎は無言で指した。たまにまぶたを伏せては駒と盤が触れる音に耳を澄ましているようにも見える。南禅寺玉瀾も黙ったままだった。ただ、すでに興奮や憤りはないらしく、心穏やかに駒を動かしている感じがした。 あぐらをかいた茶色の着物と正座をする青いスカートは、なんだか見慣れた光景になっていた。子狸のころはよくある場面だったけれど、この数年間はさっぱりと見かけない舞台だったからだ。下鴨家の三男坊は、うんうん、となんとはなしに頷いた。 ぱちりとまばたきをしながら二匹の指の動きと将棋盤の駒を見つめている弟は、「僕も教えてもらおうかなあ」とひっそりとつぶやく。「難しそうだけれど、面白そう」と素直な感想を述べる。将棋盤を持って追いかけてくる玉瀾先生に聴かれたら大騒ぎだと思ったけれど、白いブラウスの袖は目の前の盤に集中しているらしい。 南禅寺正二郎はふむふむ、とわずかに頬を持ち上げながら二匹の対局を見ている。正二郎は下鴨矢一郎とは違い、とても〔頭領らしい〕雄狸だ。物静かで落ち着いている。けれども、大人しいのとは異なり、しっかりとした柔らかい貫禄がある。妹には少し甘い兄で、どうやらそこには下鴨矢一郎も含まれるようだった。昔なじみ、というやつだ。 パチンパチン、と精櫃な空間で綺麗な音ばかりが鳴り響く。耳に心地よく届くのは、二匹にとってはまるで天上の調べなのだろうか。しばし声を出していなかった兄貴が唇を動かした。なにやら真摯な様子で、それでもその瞳は将棋盤を見据えていた。「俺が、将来的に玉瀾が気に入るくらいの将棋盤を贈る。だから、これは諦めてくれまいか」 意外な申し出だったのだろう。玉瀾はぱちり、とまばたきをして顔を上げた。「父上の榧の将棋盤ではない、違うものを贈る。それでどうだろうか」と下鴨矢一郎は言葉を続けた。兄貴はこれっぽっちも照れている様子はなかった。いっそ、偽右衛門の選挙運動での口上のごとく。 小首を傾げた下鴨家の四男が、「エンゲージショウギボード?」と境内に謎の台詞を木霊させる。ぽん、と握った右手で左の手のひらを打った南禅寺の頭領は「おお、なるほど」と感心した風になる。「え!?」「ち、違う!」と玉瀾と兄貴は同時に慌てた。 〔婚約指輪〕ならぬ、〔婚約将棋盤〕ときたもんだ。狸界には人間界のような〔婚約指輪〕のしきたりはないし、玉瀾がそんなものを欲しているとも思えなかった。ただし、玉瀾ならば確かに、指輪よりも将棋盤を欲しがるだろうことも忘れてはならない。ごほん、と兄貴は咳払いをする。 「……ち、違うが、そういうことにしてもいい」 必死に玉瀾からは目をそらさないようにしている下鴨矢一郎は、すでに頬が赤かった。うちの兄貴はもうちょっとさらりとやれないかねえ、と苦笑する。まあ、堅物だからな、とまぶたを伏せる。兄貴の目線を受けている玉瀾はもどかしそうな顔をしていた。 「矢一郎さんはずるいわ。そんな風に言われたら、返すしかないじゃない」 「そ、それなら……」 兄貴は玉瀾の台詞にがっ、と真っ赤になった。〔ずるい〕と言われたことに激昂したのではなく、〔婚約将棋盤を受ける〕と返答されたのに歓喜したのだろう。全く持って下鴨家の長兄は分かり易い。こんなので騙し騙されの狸界を渡っていけるのだろうか、と心優しい弟は心配する。 「この勝負で矢一郎さんが勝ったら、返します」 途端に、ぐ、と兄貴は頬を歪ませた。持ち上がっていた頬を引き締めて、眼下の将棋盤に対する。切れ長の目を細めて玉瀾の指の動きを追う兄貴は、すでに冷静さを取り戻し始めていた。相変わらず土壇場には弱いけれど、気持ちを回復させる手立ては持っているらしい。ふうん、と俺はなんとはなしに楽しくなった。 パチンパチン、と駒を動かす音ばかりが境内に響く。「矢一郎兄ちゃん、頑張れ」と矢四郎は拳を握り締めた。将棋は分からなくとも、兄貴の表情で劣勢なのが分かるのだろう。正二郎は口を挟まずに、ふむ、と興味深そうに目線を向けている。盤に目をやって、これは勝てないな、と俺も思ってしまった。 「あ」 パチン、と玉瀾が駒を打った瞬間に兄貴が声を漏らす。一瞬だけ目を見開いて、なにかを言いたそうに、なにかを探すようにわずかに唇が上下した。ぱくぱくと動かしたそれを噛み締めて、奥歯に力を入れる。そして、はああ、と大きく息を吐き出した。正面の玉瀾は会心の笑みだった。「……負けました」 「ええ、私の勝ちね」 南禅寺玉瀾はとてもにこやかだ。悔しそうにしている下鴨矢一郎を見つめる瞳がまぶしそうにする。どうしてなんだか、兄貴を見ている玉瀾先生はやたらと綺麗に見える。理由はよく分からない。それでも、なぜだかそうなんだと、正二郎も矢四郎も俺も知っていた。 刹那、ぱらばらばらばら、と変形したクリーム色の駒がたくさん境内の宙を舞う。「な」の口の形で兄貴は固まってしまった。俺も驚いて「げ」と口を開けた。矢四郎は「わあ」と嬉しそうにして、正二郎は「おやおや」と口端を持ち上げる。青いスカートの真上で将棋の駒を受け止めながら、象牙色の将棋盤は細い両腕が支えていた。 「お貸しいただいてありがとうございます。お返しいたします」 兄貴にクリーム色の盤を差し出しながら、玉瀾は柔らかく頭を垂れた。短い前髪がかすかに揺れた。下鴨の長兄は大層ぽかんとしてから目の前の婚約者を見つめて、仕舞いにはその姿に見とれたようだった。惚けた表情でその首筋に目線を落としていた。「矢一郎さんはね、強いと思うの」 ゆっくりと顔を上げた玉瀾は、静かに話し出す。「私ね、〔負けました〕は悔しいから、つい〔参りました〕と言ってしまうの。往生際悪く」と言葉にする玉瀾先生は悪びれない。くすくすと笑う頬に兄貴は目を奪われている。「どちらも意味は同じなのだけれど、なかなか認められなくて」 一度まぶたを伏せてはそれを持ち上げると、強気な猫目(狸だけれど)は下鴨矢一郎から視線を外さない。兄貴も照れくさそうにしながらも、懸命に玉瀾を見返した。「でも、矢一郎さんは真っ直ぐ認めるの。そういうところが強いと思う。だから、矢一郎さんの勝ちでいい」 玉瀾に惚けながらも戸惑う兄貴は、「真っ直ぐなのは、玉瀾だと思うがな」とひどく苦笑した。それでも両腕で象牙色の将棋盤を受け取って、「ありがとうございます」と頭を下げた。ひょい、とその盤を無造作に俺に渡す兄貴に、「あとね、矢一郎さんの贈ってくれる将棋盤が楽しみだし」と玉瀾先生は幸せそうに笑った。 (どんなに素敵なものかしら、と夢見る婚約者に、雄狸はやれやれ、と溜息をついていたけれど)