【ハル・京子・花】秘密機関ボン・ボヤージュ
- 600 JPY
■2017年に頒布した復活女子本を再刷しました。 ■「秘密機関ボン・ボヤージュ」A6/86P ■ハル・京子ちゃん・花ちゃん中心で、短編6話な1冊です。 ■5話は男子に対するインタビュー形式。1話は女子三人のそれに関する話です。 ■ハルに関するインタービューは獄寺・山本、花に関するインタビューは了平・雲雀、京子に対するインタビューはツナが受けています。 ■作中に山本→ハル、ツナ→京子ちゃん、了平→花ちゃん、雲雀→花ちゃんの表現があります。 ■すべて片想いまたはなにも始まっていない状態ですが、苦手な方はどうぞご留意くださいませ。 ■サンプルは了平のインタビューと女子3人の話です。
秘密機関ボン・ボヤージュ
【黒川花/笹川了平篇】 ―――黒川花さんについて、どう思いますか? たまに、しゃらくさい! と叫びそうになる。 いや、毎日毎日ではない。会う度に、話す度にではない。それは誓ってもよい。漢の中の漢、ライオンパンチニスト、笹川了平の名にかけてもいいのだ。うむ、そうである。 あれはどうにもこうにも生意気なのだ。無性に、そう感じる瞬間がある。なんと言ったらよいのであろうか。常日頃は、世界と並盛に対してクールでシニカルな無関心を装っておきながら、唐突に発する科白が半端ではない。 興味がないのではなかったのか、と確認せずにはいられないほどに、あれの言葉は俺の胸に突き刺さる。擬音で表すのであれば、グサリ、というやつである。それ一択だ。ほかに選択肢はない。 ふと、つまらなさそうにかけられた音がどうにもこうにも的を得ているので、こやつには悩みはないのだろうか、とまばたきする瞬間もある。的確で明快な発言は、迷走する俺を、扉の手前へ連れてゆくのだ。 いやいや、当然ながら、あれに悩みがないわけはない。そんなことを指摘したのなら、「は? バカなの?」とかなんとか一刀両断されるのがオチである。黙っておいてくれ、笹川了平の漢としての誇りのために。 あれは無言で悩んでいるのだ。俺はなんとはなしにそうと知っておる。ああ、相談されたわけではない。あれは他人に相談する気質ではない。「なんなの、ケンカ売ってんの?」と吐き捨てられるので、これも他言無用である。うむうむ。 ぐるぐると、脳内だけで考えている。俺のように、「悩んでも分からぬのなら、とりあえずはランニングだ!」とはならない。不可思議である。冷淡というわけではないのだが、とんでもなく静かである。あやつは体育会系ではないのだ。 かといって、文化部系なはずもない。強いて表現するのならば、あれは「黒川花系」である。一種の大系なのだ。いつの日か、分厚いハードカバーの図鑑あたりに羅列されるかもしれぬ。一人のみが分類されるのである。 文化部系ではないのだが、よく本を読んでいる。俺が二、三枚めくったら眠りに落ちてしまうであろう本を、飽きることなくめくっているのが印象的だ。「うーん、よく分かんなかった」と苦笑していることもあるが、笹川了平にしてみると、読了したことに感嘆である。 ―――黒川花さんとの出会いを教えてください。 幼なじみである。俺が五歳、あれが四歳の時には既知であった。俺の妹と仲がよく、一緒に遊んだ記憶がある。よくままごとに付き合わされた。だが、俺も木登りをさせていたらしいので、お互いさまである。 並盛河川に麦わら帽子を落としてしまい、川に入って取りに行ったら、とてつもなく怒られた覚えがある。いや、親にではなく花にである。当時五歳であった。こんこんと説教をされた。今でも不可解である。真剣な顔で「ながされたらどうするの!」と泣きそうに叫ぶので、「おれはながされん!」と自信満々で返したら、殴られた。平手でなく握り拳であった。グーである。あれはいつもグーで殴る。ボクシングをやりたいのであろうか。麦わら帽子は花のものだったのだが、夏だったのですぐに乾いた。心配無用である。 翌朝、笹川了平少年は熱を出してしまった。熱が少し落ち着いた夕方に目が覚めると、額に「れいぞうこ」と書かれた紙が貼ってあった。シールでだ。字は、妹や家族のものではない。 冷蔵庫を開けると、ケーキの小箱が入っていた。俺の好きなチーズケーキである。ケーキの箱に、「れいとうこ」とこれまた小さな紙が貼ってあった。冷凍庫にはアイスが入っていた。 笹川了平少年は、まだ熱っぽい頭でぼんやりとしながら、しゃりしゃり、と音をさせてアイスを食べた。熱で眠っていた昼すぎに、誰かがぼろぼろと泣いている姿がうっすらとまぶたに映ったのだ。誰なのかは分からなかった。熱のためなのか、記憶がないのだ。 先日、あやつにその話をしてみた。「昔、馳走になった」と礼を述べれば、「えっと、知らないんだけど」ととぼけていた。照れ屋である。そうでなければ、過ぎてしまったことには囚われないのである。 夏にあれが風邪で熱を出したと妹に聴いたため、チョコレートケーキとアイスを持っていった。アイスは件のものと同じである。チーズケーキにしなかったのは、花はチョコレートケーキが好きだからだ。 ぽかん、とした顔をしてから、「なんか、懐かしいアイスじゃない?」と子供のころよく食べていたそれを手にした。ぱくり、と食べている姿を見ていたら、無性に気恥ずかしくなった。花は覚えていないのだ、と。 たぶん、気にしていたのは、笹川了平のみだったのだろう。そうと自覚してしまった刹那に、ぺたり、と額にシールを貼られた。「ありがと、了平」と笑んだ頬が照れくさそうであった。シールが件のものとそっくりであったからな。 ―――黒川花さんの印象は? もう少し、愛想をよくしてもいいのではなかろうか。いや、まったくの無愛想というわけではないのだが、淡々としておる。怒らせなんだら、仏頂面でもない。ただし、常に満面の笑みでもない。 俺は、たまに花が笑うとどきり、とするのである。どうやら心臓がおかしいのだ。ボクシングをするのに、体調管理は大事なのであるが。心臓は日々おかしいわけではないため、なにか理由があると推測する。 本人が気にしておるのだが、大層なくせっけである。「巻かなくてもいいのだから、嬉しくはないのか」と疑問だったのだが、「は? 美容室でやるみたいなカールじゃないのよ」と一言だ。迷いはない。 暑いのが苦手だからか、夏になるとまれに髪を結んでおる。簡単にくるり、とまとめてゴムとピンで留めているのを見かけるぞ。それにも、俺はどきり、とするのだが、やはり心臓がおかしいのであろうか。一体全体、どういうことであろう。謎である。 そうだ、夏でも冬でも、制服のスカートが短い。あれは短すぎると分かっているのであろうか。わざとなのであろうか。あの短さで、階段やエスカレーターでも後ろを気にしないのだ。手やカバンで隠したりもしない。ある意味潔いが、そういう問題ではない。 もちろん、見えているわけではない。俺は見たりしないぞ。漢である。笹川了平である。第一、階段やエスカレーターでも、ぎりぎり見えない長さなのである。計算している。悪魔であろうか。はたまた魔女であろうか。 それから、あれに夏は制服のブラウスの上にベストを着ろと言ってくれ。俺の言うことはさっぱり聴かないのである。細い体をしているくせに、出ているところは出ているのだから、迷惑千万である。いや、俺は別に迷惑をかけられてはいないのだが、視覚情報としての話だ。 目の保養だ、と割り切ればいいのだろうか。しかしだな、ほかの男も見るわけであるし、気になるのである。「あたしの勝手でしょ」と返されるのだが、幼なじみの兄代わりとしてはだな、念のためである。決して、不埒な意識ではない。そのはずである。うむ、そうである。 あれは皮肉屋で人をからかってばかりだが、実は密かに熱血である。あまりそれを見せることはないが、こっそりと熱いのである。ただし、その熱量は花の正義によって着火されるので、点く時と点かない時がある。俺にはその差が分からぬ。もう十年来の付き合いになるのだが、未だにさっぱりである。漢には理解できぬのかもしれぬな。 ―――黒川花さんと付き合ってます? うむ。先ほども話したが、五歳のころからの付き合いである。幼なじみと言っても、もう中学生であるからには毎日のように会ったりはしないが。 む、なんだと? 男女の仲で? なぜそうなるのだ。世界と並盛のすべてはそれしか選択肢がないとでも主張するつもりか。花に言ったら、絶対に殴られるぞ。グーでだ。保証してもよい。言うでない。全く持って不届千万である。 俺は当然であるが、花を嫌いではない。むしろ気に入っておる。昔なじみだしな。ただ、それがはたして世間一般で言う、「恋」とやらなのかは分からぬ。はっきりせんのだ。自分の心の中が。 心臓がおかしいと話したが、病気だと考えているわけもない。健康診断で笹川了平はS判定である。健康優良児である。ああ、中学生でも「児」でよいのであろうか。気にしなくともよいところであろうか。 話がそれたが、俺の心臓がせわしなくなるのが、花のせいなのかが分からん。さすがの笹川了平も思春期とやらで、身近な異性に反応しているだけとも考えられはしまいか。俺はそう疑ってしまうのだ。 なにしろ経験がないのだ。比較対象がないのだ。万が一「恋」とやらであるのなら、なにかと比べるのはおかしなことなのやもしれぬが、どうしていいのか分からんのだ。笹川了平はどうしてしまったのであろう。誰か教えてくれんか。 ただし、一つだけはっきりしていることがある。俺の心臓は、花以外の異性には反応しないのである。妹や、クラスの女子にはきっぱりと正常な心臓を誇っておる。これはどういう現象であろうか。いっそ摩訶不思議である。宇宙の謎である。解き明かせるのだろうか、と首を捻るばかりだ。 俺の心臓は、花が制服のスカートの裾を長くして、夏に髪を結ばずに制服のベストを着ていたら、正常に戻るのだろうか。 少し前に、「ちょっと、了平」とあやつに声をかけられた。「なんだ」と振り向きざまに伸びてきた手のひらと指先が、俺の頭に乗っていた葉を取り去った。「どこで引っかけてきたの」と花は笑っていたが、その指先が額に触れた刹那に、やはり俺の心臓は挙動不審だったのである。 どきり、とするのとも少し違う。じわり、と胸に広がったそれはなんだったのであろう。冬だったわけではない。寒かったのでもない。春先であった。その指先が確かな温度を持っていて、その熱が俺に移されたような気がした。わずかに泣きそうになった。笹川了平は漢であるからには泣いたりはしないのだが、泣きそうな錯覚に囚われたのだ。 ―――それが「恋」なのでは? そうなのであろうか。誰に訊ねれば判明するのであろう。正解が分かるのであろう。俺には分からん。花には分かるのだろうか。「いや、あたし了平じゃないし」と言われそうな予感がする。ひしひしとだ。 あれは、子供のころからずっと、「運命の相手」とやらを探しておる。未だに見つからないらしい。恋をしたがっておる。積極的ではある。周囲を見回しては見極めておる。「なんかいないんだけど。おかしい」が口癖である。「赤い糸が見えたらいいのに」も繰り返しておる。 どんな相手が理想なのか、と訊ねれば、「年上で背が高くて大人っぽくて、ミステリアスな人」だとか言っておる。笹川了平が該当するのは、「年上で」くらいである。第一、そんな都合のいい男はいるのであろうか。世界の果てまで探しに行くつもりであろうか。もしや異界であろうか。本の中ならいるのやもしれぬな。 その際に「了平の理想は?」と問われて、「そうだな」の音のあとに答えに詰まってしまった。言葉にならなかったのではなく、ふと浮かんだのが目の前の人物だったからである。南無三、と思った。 待て、そうではない。あやつが理想なわけではない。理想というのは、もっと夢に溢れているものではなかろうか。可愛らしくて清楚で大人しく、美人で漢を立てて謙虚なのがよい、とでも言えばいいのか。だが、そんな相手がいたとしても、俺は興味を引かれない気がする。なぜであろう。 花は漢を立てることはしないが、人を立てることは知っておる。たまにとてつもない勢いで足を引っかけにくるのだが、それはあやつの逆鱗に触れた時である。花の正義が火を噴いたのだ。そうでなければ、知られないように相手を立てるものである。敬意、というものだ。 あれは、清楚でも大人しくもないな。残念無念である。しかし、着物と浴衣を着ている瞬間はそうと表現してもよい。猫をかぶっているのかもしれぬが、知らぬが仏かもしれぬが、和服の花は清楚で大人しく見えなくもない。なかなか綺麗であるぞ。世辞ではない。 謙虚でもないな。むしろ、あの正義を持って検挙しそうである。未来に、警察官になってしまうかもしれぬ。婦人警官よりも、刑事であろうか。「こんなご時世だから、公務員も安全かもね」などと言っておった。小学生の時の話であるが。 可愛らしいところが皆無ではないのだが、可愛らしさの塊でもない。そこは狙っておらんのであろう。笹川了平は、時たまどきり、とするものである。違う、時たまである。毎日ではない! ―――最後に、黒川花さんに一言どうぞ。 今後も運命の相手とやらが見つからなかったら、お前は自分で探しに行くつもりであろう。昔からそう言っておった。お前は子供のころから強情で、これっぽっちも変わっておらん。 その時は、無言で行くでない。きちんと、家族と京子くらいには話して行け。唐突に失踪されたら、皆が心配するからな。お前は「あたしの問題でしょ」と言うかもしれんが、お前だけの問題ではない。人は一人では生きてはいけんのだ。まあ、口先ではともかく、お前は分かっているとは思うのだが。 探しても見つからなかったのなら、可能であるのなら、俺が一緒に探してやる。人探しが得意なわけではないが、一人でやるよりは効率がよかろう。二人で探せば見つかるかもしれんぞ。 それで、ここからは「万が一」の話になるのだが。「万が一」だぞ。「絶対」とは言っておらん。世界と並盛には「絶対」はないのだからな。いいか? あくまでも、「万が一」である。 万が一、その相手とやらが見つからなんだら、お前はどうするつもりだ。昔は、「じゃあ、仕事に生きよっかな」などと言っておったが。小学生のころの話であるが、どうしてだか俺は覚えているのだ。 ちょっと待て、手を握るでない。グーにするでない。落ち着け。見つからないと言っているわけではない。「万が一」だと言っておる。そうでなければ、「たとえば」である。「もしも」である。「ひょっとしたら」でも構わん。 それでだな、その「万が一」が起きてしまったら、お前は、花は、周囲を見回してみるのはどうであろう。前に言っていたであろうが、「なんか見つからないと思ってるけど、もしかして、もう会ってるんだったりして」と。 お前は「だとしたら、あたしの目が節穴なのかな。視力は悪くないんだけど」と不思議そうであった。お前は俺ほどではないが、確かに視力はいい。あれだけ本を読んでおるのに、なかなか不可思議ではある。ただ、それは無関係かもしれんし、花が読む際に気をつけているのかもしれん。単に持って生まれたものかもしれん。だが、いいことだぞ。 ああ、話がそれたな。そうではなかった。 お前の周りに、近くに、すでにいるのかもしれん。その運命の相手とやらは、花を待っているのかもしれん。当人も気づいていないかもしれないが。だから、俯瞰してみるのだ。十年後になれば、一目瞭然なのかもしれんが、俺たちに未来は分からないからな。だから、それでどうであろうか。 なんだと、「意味が分からない」? お前は俺の話を聴いておるのか! 恥ずかしいであろうが! ・ ・ ・ 【秘密機関ボン・ボヤージュ】 行ってきます、と片手を上げて。 よい旅を、なんて笑顔なら。 世界のすべては、こともなし。 そうそう、見事に毎回お届け。 室内はうっすらとクリーム色の壁紙で、よけいな装飾やおかしな土産物も飾らない。 ちょっとすっきりしすぎかな、という感じがしないでもないけど、シンプルなのはいいことよ。汎用性あるしね、とあたしは首をすくめた。室内の家具はダークブラウン。ひたすらにウッド調。その昔、十年くらい前ね、やたらと青にこだわっていた時期もあった。でも、中学二年にもなったわけだし、多少なりともあたしだって大人っぽさを求めるわけで。 シンプルでありつつ、ちょっとレトロモダンかアジアン風を目指したかったから、青とダークブラウンでもよかった。ただ、それだと少し全体の色味的に重いかな、と思ったのよね。深い海の底みたい。そうでなければ、真夜中の夜空みたい。まあ、「なんとかっぽい」と規定してしまうよりも、多少なりとも大人風であれば、今は満足。そんなに簡単に、理想の部屋が完成してしまったら辟易するし、つまらないもんね。 完成は近未来に取っておこう、とクッキーを指先で持ち上げる。サクリ、と軽くかみ砕く音がする。うん、上手く焼けてる、と頷いた。あたしはあまりお菓子の手作りはしない。もっぱらお店専門。だって、本職であるパティシエがそれこそ本物を作ってるんだもの。素人が勝てるわけなんてない。でも、これは美味しいな。素朴な味がする、と頬がほころんだ。 身内びいきかも、とちょっとだけおかしい。黒川花はそんなのはあまりしない方だと思うんだけど、と不可思議。クッキーの制作者たちは、改装されたあたしの部屋をきゃらきゃらとチェックしたり感心したり、ラ・ナミモリーヌのケーキにフォークを入れていたりする。まあ、京子とハルは別に身内じゃないけど。気を遣わなくていい、気のおけない相手って感じかな。 型抜きされたライトブラウンのクッキーは、人型だったり星型だったりペンギンやネコの型だったりする。ここにいる三人は「可愛い形のものは可哀想で食べられない!」なんタイプではまったくない(あれ意味分かんない)ので、ぱくぱく胃の中に納めてしまう。クッキーの中には、チョコレート色のものもある。ああ、生地を二種類にしたんだ、とあたしは感嘆する。もちろん一つの生地を二分して、片方にココアパウダーを入れるんだけど。それだけなんだけど。 黒川花と笹川京子と三浦ハルは、たまにこんな感じの会を開催している。朝からだったり昼からだったり夕方からだったり夜からだったりといろいろだけど、やっぱり夕方か夜からスタートが多いかな。休みの日だったら、ランチを兼ねてお昼からやってそのままおやつにして、夜前に解散することもある。金曜だったら放課後集合して夕食作るところから始めて、夜眠くなるまで、かもしれない。 あたしも京子もハルも、用事もあるし塾もあるし部活もあるし、毎日暇なわけもない。しかもハルとは学校だって違うから学校行事のスケジュールも違って、毎週だってちょっと難しい。月に一回くらいかな、「ここでやろう」って三人で決めとくの。会場は三人で持ち回りでね。今回は、あたしのうちの内装工事が終わったタイミングだったから、「見に行きたい!」って二人を呼んだ形。うん、そんなこともあるのよ。 クッキーの山とケーキの乗ったプレートを軽く睨む。ちょっと食べすぎな気がする、と息を吐きそうになる。まあ、月に一回だし、体重増えたらすぐに落とせばいいんだけど。あたしもあんまり体重で悩まないタイプだけど、この二人も悩んでない感じがする。ただ、三人とも成長期でカロリー消費が激しくて、そういう意味で心配無用って感じもするけど。そりゃあもうひしひしとね。 ハルは運動部だからよけいにカロリー消費していそうだけど、京子はぜんぜん運動とかしないんだけどな、と不思議。ああ、あたしもやんないけど。あたしも京子も学校の体育の時間くらいだけど。運動部の、体育会系のノリってさっぱり分かんない。理解できない。でも、だからこそハルなんて面白いんだけどね。 京子は並盛中学校のアイドルだ。幼なじみだからあたしは小学校から京子を見てる。小学校当時から人気はあったけど、中学になってそれが頂点に達した気がする。確かに可愛いもんね、と納得する。あたしはこれまで京子以上に人気のある女の子が近くにいなかったけど、ちょっと可愛かったり人気があったりすると、普通だったら少し調子に乗る。一見そうでなくても、なんとなくそう思ってるのが透けて見えたりする。それ自体は、別におかしなことだとは思わない。あたしはね。だって、自然にそうなるんだと思うし。 でもね、笹川京子にはそれがない。鈍いわけでもなくて、プライドがないわけでもなくて、謙虚なわけでもなくて、単純にそう考えていないんだと感じるのよね。不可思議なことに。もしあたしが京子と親しくなかったら、完全なポーズなんだと思うだろう。でも、どうしてだかそうじゃあないのを、あたしは知ってる。直感してる。日々の会話で読み取っている。ひょっとしたら、運動部なんかよりも、笹川京子の方が謎かもしれない。なんだかおかしいけど。 ほかの男はどうでもいいけど、沢田くらいにははっきり言ってやったらいいのに。受けるにしても断るにしてもね。たまにそう思う。あんなに明らかに好意むき出しなのに、なに考えてんだか、と親友として不可思議。単に、男として興味がないだけかもしれないけど。でも、男でなく人間としてなら、京子は沢田にかなり興味があるんじゃないかと思う。「ツナくんてすごいよね!」と科白にする時の笑顔が満点だ。ただ、純粋に生物学的に気になってるんだったりして。京子は生物好きだし得意だし。大学で生物学取りたいって言ってるし。だとしたら、ちょっと沢田が哀れだ。 緑中学校での三浦ハルはどんな感じかあたしは当然知らないけど、目の前にいる状態と変わらないんじゃないのかな、って気がする。これは素でしょ。明るくて素直で嘘がなくて元気だから、あんまり敵はいなさそう。むしろ人気ありそう。誰にでも好かれてそう。だって、ハルみたいなタイプを嫌いなのは、ちょっとひねくれてるんじゃないかな。ハルを苦手なのは、女として敵対視するのでなければ、「テンションと反りが合わない」くらいじゃないの。予想だけど。基本として誰とでも上手くやってるイメージ。 ハルみたいなのを苦手にしてるのは、あれでしょ、うちのクラスの帰国子女くらいのもんよ。あれはめちゃくちゃねじれてるからな。顔を合わせればケンカばっかしてて、あんたたち大人になんなさいよ、とか思う。まったく持って溜息だわ。あたしが「やれやれ」って顔すると、獄寺は舌打ちするけど。あたしは気にしないけど。 ハルは(どうしてだか)沢田が好きみたいで、その好意を隠そうともしない。むしろあけっぴろげで、「これでもか!」という感じ。ある意味ほほえましくもあるけど、沢田は明らかに困惑してるから、めっぽう引いてるのが分かる。そりゃあもう、ありありとね。男に対してひたすらに押せばいいものじゃないんだな、って実感する。ハルは可愛いからアプローチされてさっぱり嬉しくないわけでもないんだろうけど、沢田のあれもよく分かんないな。キープしときたい、ってわけでもなさそうだし。そんなことができる器用な性格でもなさそうだし。 これはまずいんじゃないの、とあたしが少しだけ気になってるのは、ハルと沢田が騒いでると、決まってケンカを吹っかけたり睨んでいたりする獄寺の方だ。ハルとは相性悪そうではあるけど、あそこまで敵視しなくてもいいんじゃない? しかも、沢田を(どうしてだか)敬愛してるのを差し引いても、なんでそこまで、ってレベルだから質が悪い。あれは無意識なんじゃないのかな。意識してなくて、無意識でなにかを察知してるんじゃなかろうか。それがなんなのか、ってあたしにもよく分からないんだけど。単に恋愛感情でもない気がする。好みなんだけどそれが屈辱だとか? うーん、謎だな。 ◇ 当初、「コンクリート打ちっぱなしもいいよね」なんて声が出ていたから、あたしはぱちりとまばたきをした。「ほら、あっさりしてて潔い感じするじゃない」と続けられたので、まあ、花らしいけど、と笹川京子はおかしくなる。デザイナーズマンションやおしゃれなカフェならともかく、日本の一般家屋でそれはなかろう、と首を傾げた。 あたしの親友がそれを本気で彼女の両親に主張したのかは知らない。でも、完成したこの部屋を見る限り、花の希望はなんらかの理由で叶えられなかったか、一笑に付されたのかどちらかだった。 綺麗なクリーム色の壁紙は、少しでこぼこしている。日本人の一般的な、無難な選択のホワイトにはしないのが花らしい、とわずかに頬がほころぶ。てっきり壁面は青く塗ってしまう(花は青が好き)のじゃあなかろうか、とかすかに考えていたけれど、それも選択しなかったか、できなかったみたいだ。「扶養家族は難儀よね。早く自立したい」なんて皮肉っていたから、黒川のおじさんとおばさんに選択を譲ったのかもしれなかった。「壁なんて、気に入らなかったら塗り直せばいいのよ。しょせん壁なんだから」と一言で両断した彼女をあたしは忘れない。結構大胆だ。 天井は素敵なダークブラウン。部屋のドアやクロゼットの扉の色と合わせられている感じがする。こんなに濃い色の天井はなかなか見ないから、壁紙の色を譲る代わりにこっちを主張したのかもしれない。これまた花らしい、と小さく吹き出した。 小さいころから知っている部屋だけれど、間取りは変わっていないのになんだか別の空間みたいだ。色と素材を変えるだけでこんなに印象が違うんだ、と感心する。ちょっと摩訶不思議。見慣れたあたしの部屋も、色を変えたらこんな風に変わるだろうか、と脳内で考えてみる。なんだか想像で楽しさが溢れるみたいだ。 すい、とラ・ナミモリーヌのケーキにフォークを入れる。ショコラケーキは今日も美味しい。こんなに美味しくて綺麗なものを作れるなんて、パティシエはまるで魔法使いみたいだ。だって、手作りではなかなかこうはいかないもの。 くるりと流れるようなショコラクリーム。甘いけれど甘すぎずに、じわりとあたしの口の中で溶けていく。すとんと胃の中に落ちてしまうと、心にもほんわりと幸せが広がる。ああ、小学生の女の子の「将来の夢」にパティシエがランクインするのに納得する。なぜって、こんな美味しさは夢そのものだ。 さっき、ケーキの入った箱にチーズケーキがあるのを見てしまった。チーズケーキはうちの兄の好きなケーキだ。花はそんなにチーズケーキを好んでいない。でも、どうしてだかいつも花はチーズケーキを買う。笹川了平は本日黒川家に来訪する予定がないのにだ。もちろん、単純に店頭でいろんなケーキをチョイスする上で、美味しそう、と思っただけかもしれない。でも、もしもチーズケーキが残ったのなら、「了平にやって」とあたしに持たせてくれるのかもしれない。 兄は、最近自宅で突然挙動不審になる。花の話をするといつもそうだ。夕飯時に、ガシャン、と茶碗を落下させたりする。兄は慌てて茶碗を取り上げては、取り繕うように白米を飲み込む。お兄ちゃん、きちんと噛んだ方がいいよ、と苦笑する。「花となにかあったの?」とストレートに訊ねると、「なにもない! なにもないのだ!」と絶叫してから、「なにもな……」としょんぼりとする。なにかあるのを望んでいるのだか、なにもないのを願っているのだか、よく分からない。兄妹とはいえ、男子中学生の思考はとても謎。 ブラウンのクッキーをつまんでさくり、と音をさせたら、男子中学生といえば、とふと記憶がよみがえる。薄力粉を振るっている時に、隣でバターを計量しているハルちゃんが視界の端に入って、はたとした。ハルちゃんは、山本くんの視線に気がついているだろうか、と。 並盛駅の反対側、緑中学校に所属しているけれど、三浦ハルちゃんはよく並盛中学校にやってくる。しっかり放課後の校門前だったり、緑中新体操部として土曜の午後の交流試合での体育館訪問だったり、お忍びで日中に校舎へ入り込んでいることもある。 ハルちゃんは基本的にツナくんのところへやってくるのだけれど、その際にあたしはなんとはなしに気づいてしまったのだ。山本くんがハルちゃんを見ていることに。あれ、と不思議だったので、ついぶしつけに長身を眺めてしまった。 山本くんは数秒であたしの目線に気づいて、「あり」と短く声にした。しばらくまじまじと笹川京子を見やった山本武は、口の手前で人差し指を立てて合図をした。どうして秘密なんだろう、と不可思議で首を傾げてしまえば、パン、といい音で両手を合わせて祈る並中野球部期待のエースの姿。ぱちりと上手にウインクまでされたので、よく分からないけれど秘密なんだね、とあたしは一つ頷く。そして、山本くんはいつもみたいにニカ、と笑うのだ。 ◇ ああ、モンブランは幸せのカタマリです。キラキラしているように見えるプレートは左手に、ざらりとした感触の壁紙を見つめる。表面には当然のように、撥水のコーティングがされている。でも、手触りとして気にならないレベルのそれ。和室っぽくしたかったわけじゃあないんだな、と花ちゃんのチョイスに頷く。 ハルは自分で仮装の服や着ぐるみを作るので、少しだけ素材が分かるんですけれど、この壁は塗り直せるタイプ。一般的には、日本住宅の壁紙は劣化や汚れによって貼り直すものだけれど、これは違う。表面の凹凸を最小限にしていて、絵を描いたりステンシルのシールを貼ったりもしやすいはず。でも、一番の特徴はやっぱり壁の色を塗り直せるところ。一等最初からこれを選んでいるなんて、黒川花ちゃんはなにをたくらんでいるんだろう、とわくわくした。まあ、単なる偶然だってありえますけども。 ただ、ちょっとそうとは思えなかったので、「ひょっとして将来的に壁をビビッドピンクにするんですか?」とこそりと訊ねてみた。花ちゃんは一瞬意外そうにまばたきし、次に心底うんざりとした顔でハルを見やってから、「内緒」とにやりと笑った。 内緒! なんて素敵な響きでしょう。秘密もいいですよね。胸と心で夢と希望がふくらみます。ええ、そりゃあもう無限大に。世界の果てまで広がって、くるりと一周して戻ってきそうです。いいですよね、世界一周。大層ロマンです。 内緒といえば、とハルはふと、この間のことを思い出した。いつものように、ハルが並盛中学校にお邪魔していた時の話。その日は、午後に地域の私立中学校の教師勉強会があるとかで、緑中は午前授業だった。新体操部も塾もない日だったので、これは幸いとハルは並中に潜入したわけなんですが。そこで不思議なものを見てしまった。 並中は公立ですので件の勉強会がなかったのか、通常授業でツナさんたちは六時限目まであった。だから、お昼を食べてから、ハルは屋上でのんびりとしていたんです。放課後待ちで、たまに宿題をしたりしながら。 ザアッ、と風が吹きすさぶ。初夏の屋上は日向は暑かったけれど、日陰はなかなか過ごしやすかった。今日は湿度が低くて気持ちがいい、とまぶたを伏せたら、わあっ、とグラウンドから声が上がる。なんの声援かな、と屋上のフェンス越しに見下ろすと、高跳びみたいだった。 あ、花ちゃんだ、と高跳び用のマットから数メートル離れた位置で、ひらひらと手の甲を振る姿を認識。背面飛びかな、と分厚いマットの手前でたたずむバーを見やって、ハルは少しだけ仰天した。高い、と目を見張ってごくりと息を飲む。花ちゃんは「やれやれ」といった表情で、正直うんざりした頬をしている。 マットの近くでは、京子ちゃんが嬉しそうに手を握りしめているのが見えた。わくわくしている顔。一般的に、高跳びはバーをだんだん高くしていく。同じ高さで二回失敗したらアウト。もしや、あの高さまで花ちゃんは跳んだの? だとしたら、かなり運動神経がいい。ピッ、と教師が吹くホイッスルが鳴ると、「そろそろ終わりにしたい」と言わんばかりの目で彼女は走る。 ずいぶんとおざなりな走りをしていたのに、バアッ、と彼女の体は綺麗なフォームで並盛の宙を舞った。すごい、とハルが感嘆した瞬間にカラン、と音がする。花ちゃんの右の踵あたりに引っかかったのか、バーは落下。ああ、とマットの傍にいた京子ちゃんが残念そうにする。花ちゃんは転がったバーを一瞬だけ睨み、分厚いマットの上で「ま、こんなもんか」という顔をした。 花ちゃんは、グラウンドはそんな様子だったんですけれど。ここでは、屋上ではそうじゃあなかった。ハルは見てしまったんです。 屋上の入口は少しだけ高くなっている。入口のドアのサイズにぽっかりと並盛の空に浮かぶように、そのひとはいた。真っ黒な学ランを肩にかけている。でも、さすがに今日のこの日は暑いと感じていたのか、袖は通していなかった。ワイシャツは白。並盛中学校の制服はブレザーなんだけどな、と首を傾げた。 屋上入口の真上に腰かけて、膝を片方立てていた。その姿が、花ちゃんがバーを落下させた刹那にガシャン、と横のフェンスを握った。グラウンドを睨む瞳も真っ黒。髪も真っ黒だ。ああ、並盛町を震撼させている(らしい)風紀のひと、とまばたきをした。 グラウンドで落下したバーを不機嫌そうに見つめる。花ちゃんを知っているのかな、と不可思議。でも、それにしては、彼女の快挙に対して仏頂面だ。むっとした顔が延々と彼女と落下したバーを睨む。まるで宿敵みたいに。なんとはなしに納得がいかなさそうな目もしていた。ああ、ひょっとして悔しいのかな、と考える。「どうしてあれが跳べなかったの」という雰囲気。 なんだかロマンの香りがする、と彼のひとを凝視していたら、ハルの視線に気づいた瞳につまらなさそうに睨まれた。「花ちゃんのお友達さんですか?」と声にしたら、つまらなさそうな顔がぽかんとした。ゆっくりとそれがうんざりとした頬に変わっていって、あれ、花ちゃんの表情と似ている、と摩訶不思議。「ハルも跳べると思いました。ちょっと悔しいですね」と素直に感想を述べたら、だんだんとむっとした口元が小さく音を鳴らす。「黒川の友達?」と訊かれたので、「はい、とっても仲良しです!」と答えたら、むっとした顔が深刻になった。はてさて、です。 終始つまらなさそうに仏頂面をしていた学ランが屋上の風になびく。トン、と入口の真上から飛び降りたひとは、「内緒」とつぶやいた。「はひ?」と返したら、またまたうんざりとした顔が「内緒にしてよね」と吐き捨てて、すたすたと屋上からの階段を降りていってしまった。カツンカツンと階段吹き抜けに音が響く。しばらくして、その反響は消え失せてしまった。またもや内緒、とハルはしみじみとロマンについて考えたものだ。 ◇ 「あの、花ちゃん」 「ん?」 「風紀のひとと、仲良しですか?」 「は?」 「並盛中学校の風紀のひとです。並盛町を席巻している、学ランで腕章をつけてて……」 「ああ、雲雀恭弥?」 「そうです、そのひとです!」 「まあ、有名人だから顔くらい知ってるけど。同じ学校だしね」 「そうですか」 「美形だから女の子に人気あるみたいだけど、あれはちょっと普通の子には手に負えないでしょ。風紀委員会形成して、どうしてだか並盛町で権力維持してるし」 「そうなんですか?」 「うん。でも、あたしはよく知らない。生徒会は手伝ってるけど風紀じゃないし」 そうですか、と曖昧に小さく返事をしたら、花ちゃんは不思議そうな顔をした。さくり、とクッキーをつまんで噛みしめる。おかしい。話が合致しない。花ちゃんは自分の知っていることを、情報を隠すタイプじゃあない。もしあのひとと既知であるのなら、たとえそれを隠したかったとしても、「まあね」とか「一応ね」とか返答するはずなのだ。そう、それこそ「内緒」と答えるのかも。ということは、本当に知らないのかな、あのひとの一方通行? とどんどん不可思議は広がっていく。そう、「内緒」はある意味肯定なんです。 ◇ 「ねえ、ハルちゃん」 「なんですか?」 「山本くんて、どう思う?」 「ああ、かっこいいですよね。並中野球部のエースですし、お隣だから親善試合もよくやっていて、緑中にもファンがいるみたいですよ」 「ええと、そうじゃあなくて」 「はひ?」 「ハルちゃんの感想を」 「はあ……かっこいいですし優しいですし、ちょっとのん気かなあ、とも感じますけれど、山本さんはそこが味でよいのでは、と思います」 「あ、そう?」 「はい!」 山本くん、秘密は守られてるよ、とあたしはぎゅっと握り拳になった。朗らかに彼の評価を口にするハルちゃんは、天真爛漫そのものだ。迷っていない、きっと正直な気持ち。緑中のファンが押しかけちゃったら、山本さん困っちゃいますよね、と苦笑する頬には陰りがない。たぶん、彼を普通に友達だと思っているんだろう、と笹川京子は頷けた。秘密は守られているけれど、山本くんはそれでいいんだろうか、と不可思議になった。ハルちゃんの言うとおり、「優しい」からなんだろうか。あたしは、ちょっとだけ疑問になるんだ。 ◇ 「ちょっと、京子」 「なに?」 「少しははっきりしなさいよ、並中アイドルは」 「なんの話?」 「周り全部にいい顔する必要はないから、少しは切って捨てろって言ってんの」 「花は物騒だねえ」 「あんたはいい顔してるつもりはなくても、無意味に期待する男が哀れだって言ってんのよ」 「そうなの?」 「そうなの!」 「そうなのかなあ」 まったく、と頬が少しだけ引きつったら、京子は不思議そうにまばたきをした。分かってないな、と苦い気持ちだって込み上げる。ああ、並中の男ども、ついでに沢田、幸せは遠いみたいよ、と合掌する気分になった。でも、ひょっとしたら、切って捨てないことによって幸せな男がいたりして。報われはしなくても、小さな幸せを取り上げられたりもしない。あたしはそれを選ぶのは趣味じゃないけど、人によって選択は違う。京子も、もしやそれを分かってるんだったりして。まあ、あたしの買いかぶりかもしれないけど。 「そういえば、花」 「ん?」 「お兄ちゃんと、なにかあった?」 「なんで? 別に了平とケンカしてないわよ。第一、昔から了平とケンカとかあんまないし」 「あのね、花の話をすると、お茶碗を落としたりするんだ」 「はあ? ボクシングやりすぎで手がおぼつかないんじゃないの?」 「うーん、そうかな」 「あ、そうだ。こないだ」 「うん?」 「夏服のブラウスの上はベストを着ろとか、スカートが短すぎるとか、難癖つけてきた。なにあいつ、兄貴気取り? まあ、あたし兄貴いないから、了平が兄貴分だけど」 だめだ、お兄ちゃん、伝わってないよ、と妹はどうにもこうにももどかしくなる。花は結構あまのじゃくだから、あんまりストレートに注意すると頑なに拒むのに。了平のやつ、調子悪いのかな、もうすぐ試合じゃなかった? なんてそれでも兄を懸念している花はあくまで幼なじみの妹分だ。あたしには姉がいない。そして笹川京子は黒川花を気に入っているので、そんなことになったらちょっと嬉しい。あたしにどうにかできることじゃあないけれど、お兄ちゃんがんばって、とこっそりと祈った。 ◇ 「あ、そうそう、ハル」 「はい?」 「あんたさ、あんま獄寺にケンカ売るんじゃないのよ。アホ女がアホ女が! ってうるさいったら、あいつ」 「なんですかそれ、心底心外です! ケンカ売ってくるの獄寺さんですから! ハルは買ってるだけですから!」 「だから、それ買うなって言ってんの」 「いやです! ハルの誇りにかけて買い続けてみせます! 獄寺さんが売ってこなくなるまで!」 「あのさあ」 「なんですか!?」 「あれ、ただの寂しがり屋なんだから、優しくしてやんなよ」 「はひ!? なんですかそれ!」 だめだこりゃ、とあたしは辟易として少しだけうんざりとした。モンブランの味が分からなくなっちゃうじゃないですか! とかぷんぷんしているハルは、しばらくしてフォークを握りしめた。ハルだって、ケンカしたいわけじゃないです、と小さくつぶやく。やれやれ、と感じてぽんぽん、と頭を軽く叩いた。ふえ、とわずかに涙だって浮かぶ。もう、なんなんですかあのひと! と涙をこらえて叫ぶ唇は強情だ。少しは獄寺の方でも素直になってほしいもんだわ、と溜息。難しいのかもしんないけど、と目を細めた。 ケーキにクッキー、カフェオレにミルクティー。 秘密と内緒、二つを胸に。 誇りも望みも、なくしやしない。 手に手は取らずに、ボン・ボヤージュ。 (それが女の子ってもんなのよ、ねえ、そう思うでしょ?)