【半夕】スカイリバーは、不可思議屋
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■B6/296P ■半田と夕香ちゃん。短編40話。 ■閉鎖済サイトの半夕テキストを加筆・修正したものです。書き下ろしありです。 ■7年後未来型設定のため、半田は21歳、夕香ちゃんは14歳からスタートです。
スカイリバーは、不可思議屋
鮮やかなのは、空のそれ。 なんとかなるさ、と呟いて。 開いたものが、希望なら。 きらり、と光る、それは朝露。 ああ、はっきり言って、約束なんてするものじゃあない。 これっぽっちも信憑性のない、不確かなもの。わたしはそうと断言をするほど厳しくはなかったし、罪のないそれを憎んでいるのでもない。ふわふわした明確でないそれが心を温めるのを実感したこともあるし、柔らかく消えてしまうそれで涙することもあると知っているだけだ。 豪炎寺夕香十五歳には、果たされていない約束があった。 わたしはその相手を恨んではいないし、相手が違えたくて約束をしたのではないと分かっている。何事もなければ、彼女は翌週には見事にそれを叶えてみせたはずだった。 大好きな相手なのだし、と小さく息を吐く。測ってみたら重いのだろうそれは稲妻町の梅雨空に溶けた。今日もじんわりと湿度が高い。早く夏にならないかな、と梅雨まっただ中の雷門の空を見上げた。ほの明るい灰色の上空はまるでわたしの心を映しているみたいだった。お母さん、と心の中だけで声にした。 七月の頭に、稲妻町の神社でも朝顔市がある。東京の入谷で開かれる三日間の催しと比較するとさすがに規模が小さめだったけれど、稲妻町は入谷の朝顔市に出荷をしている生産者と契約しているらしい。毎年、綺麗に大輪で鉢は咲き誇った。 今朝のテレビで来週の朝顔市のニュースを見てしまい、わたしはその約束を思い出した。幼いわたしは当時もテレビで見かけたその花弁に夢中になってしまい、母を困らせたのだ。入谷の朝顔市の混雑を知っている母は、可愛い娘の願いを叶えたかったらしいけれど、少し難しいと判断したらしい。「稲妻町の朝顔も綺麗よ」と代案を出された娘は笑って、「やくそくね」と指切りをした。 そして約束は果たされず、まだこの手の中にある。自宅のリビングに飾ってある写真の中の母は笑顔だ。この写真を撮った時には、まさか夫と幼い息子と娘を遺して旅立たなければならないとは考えてもいなかったろう。誰が悪いわけでもない。 父と兄は、わたしと母が交わした約束を知らない。知っていたら、小学一年生の時に授業で蒔いた朝顔の花が枯れてしまい、たいそう泣いた理由が分かったはずだ。でも、父も兄も困惑してはぽかんとしていた。あれは心優しい女の子が、単純に花が枯れてしまったのを嘆いたのではないのだ。きっと二人には、今年もそのわけは分からないのだろう。 それでいい、と思う。わたしと同じように彼女を愛していた二人に、これ以上悲しい思いをさせたくなかった。遠慮をするな、と顔をしかめる父と兄の表情が浮かぶ。でも、遠慮をするのでもなく意地を張っているのでもなく、なんとはなしにそうと言えなかったのだ。誓って自然な気持ちなので、伝えたくなったタイミングで言葉にしようと思った。 来週が入谷の朝顔市ということは、今週末が稲妻町の朝顔市のはず。そういえば、町内会の掲示板にポスターが貼ってあったような、と首を傾げる。灰色煉瓦に沿って立っているそれを思い浮かべる。雷門中学校の廊下の掲示板にも同じものがあったかもしれない。 縁日も出るはずだし、半田のお兄ちゃんを誘ってみようかな、と閃いた。彼の浴衣姿を見たことがないので、着てくれたらいいな、と夢を見る。無難に紺だろうか。それとも漆黒だったりするだろうか、とこの胸は夢想した。まさか赤じゃあないよね、と一人で笑った。 少し気分が向いたので、遠回りして神社に行ってみることにした。境内に、縁日の屋台が準備されているかもしれない、と心が弾む。彼の代わりに灰色煉瓦を蹴飛ばして歩く。コツン、とわたしのローファーの踵が音を立てる。彼はよく「俺は灰色煉瓦に笑われている」と苦い顔をするけれど、わたしにはそうは思えなかった。じっと眼下に目線を投げる。 はてさて、と不可思議でグレーの魂みたいな塊を見やると、「冤罪ですよ」と言わんばかりに乾いたそれがある。「そうだよね」と無性に笑いそうになった。半田真一二十二歳は、ちょっとだけ被害妄想ぎみで、なんともかんとも大げさなのだ。くすり、と小さく笑みがもれる。 カツン、と神社への石段をたくさん昇ってみたけれど、境内への道筋は空っぽだった。まだ水曜だからかなあ、と少し残念になった。その代わりに、やはり見覚えのあったポスターを発見する。ああ、やっぱり今週の土曜と日曜だ、と頷いた。 どちらかでいい。彼の都合が空いていたらいいな、と梅雨空に祈る。わたしは神様を信じていないので、神様には祈らない。坂道に祈る。虹に祈る。星や空に祈る。それから、彼の愛している灰色煉瓦にも。 よろしくお願いします。神社の石段を降りて、ぶつかった先の舗道でぺこりと小さく頭を下げた。「そんなことを言われても」とグレーの魂は困惑したに違いない。彼の代わりにくすくすと笑って、うちに帰ったら半田のお兄ちゃんにメールをしよう、とわたしは足取り軽く進んでいくのだ。 ◇ 「半田のお兄ちゃん、青!」 「うん」 「ああ、水色!?」 「ええと、うん」 豪炎寺夕香は土曜の昼過ぎに仰天した。半田真一に限って、まさか水色だとは思わなかったのだ。大人の男の人らしく、てっきり普通に紺か黒か、彼らしく和っぽい緑を選択すると思っていた。とてつもなく意外だ。 ほう、と感嘆の息を吐きながら、物珍しくて彼をじっと眺めてしまう。居心地の悪そうな彼は頬を歪めて、「マックスに借りたんだ」と白状した。なるほど。松野のお兄ちゃんのチョイスなら頷ける。彼の友達の松野空介さんは、その名のとおりに空色が似合っていて、雷門中学校の時分からピンクと水色のストライプの帽子がトレードマークだった。 「買ってもよかったんだけど、正直どれがいいのか分からなくて」 と彼は苦そうに言葉を続ける。「お店で呼んでくれたらよかったのに」と訴えたら、「いやだ。恥ずかしいし」と仏頂面になった。なにが恥ずかしいのだかよく分からない。女の子同士だったら普通のことが、男女であると異なるのだろうか。豪炎寺夕香と半田真一は男女である、と至極当然のことを考えたら、少しくすぐったい気分になった。 「豪炎寺にも訊いたんだけど、あいつのは朱色らしいから遠慮した」 そうと苦笑する彼がおかしい。もしや、雷門大学構内でばったりと出会った二人は、(わたしとの約束であることは主題に上がらずに)浴衣の話に花を咲かせたのだろうか。またもやくすぐったい気分が盛り上がる。でも、確かに兄の浴衣は赤よりの朱色だ。紅色に近くて素敵ではあるのだけれど、「夏はもっと涼しげなのにして!」と妹は叫んでしまう。赤が好きな兄は妹の主張なんて聞きやしない。 「やっぱり、無難に紺でよかったのかなあ」 ほとほとまいった、といった風体だ。綺麗なスカイブルーの浴衣はちょっと渋い感じの辛子色の帯が結ばれている。これまた松野のお兄ちゃんらしい、といつも楽し気にしていた眼差しを思い出しては感心する。少しだけ濃い水色に辛子色は、なんだか彼が愛していたチームのユニフォームの色に似ていた。ふむふむ、と一人で頷いていたら、彼がほとほと首を傾げる。 「で、なんで夕香ちゃんは浴衣じゃないわけ?」 世界に軽く絶望した瞳がわたしを睨む。「わたしも浴衣にするから、半田のお兄ちゃんもそうしてね! とか言ってたよね……」と呟く口端が引きつっている。もうなにも信じられない、とでも叫び出しそうだ。 「去年よりも浴衣の長さが足りなかったの。気がついたのが着ようとした時間で、裾をほどいて直そうとしたんだけれど、間に合わなくて」 そうなのだ。わたしは昨年の秋から成長期に突入したらしく、ぐんぐんと背が伸びた。それまでずっと小柄だったから、浴衣も身長が小さめのサイズを選んでいたのだ。それが裏目に出てしまった。「ええと、ごめんなさい。裾が短かすぎるのは綺麗じゃないなあ、と思って。直している途中だけれど、うちに浴衣見にくる?」と弁解した。「いや、夕香ちゃんが嘘をつくことはないって知ってるから、いいよ」と頬を歪めた。 「そうか。そうだね、背が伸びたもんな」 しみじみと言葉にする彼がどうにもこうにも嬉しそうだったので、どきりとする。今年から、浴衣は一般的なサイズを手にしても着付けで困ったりしなさそう。そうと気づいたら、わたしも無性に幸せな気持ちになった。 「そのワンピース、似合ってるしね」 無理に頬を持ち上げようとする彼のそれは、別段皮肉ではないようだった。綺麗なイエローのワンピースは、真夏に咲く向日葵みたいだ、と選んだものだった。ずっとずっと、豪炎寺夕香は服にピンクやイエローを選択するのを避けていた。子供っぽく見えてしまうのが嫌だったのだ。でも、背が伸びたしもういいかな、と先月、夏服が並び始めた店頭でふと思えたのだ。 神社の境内には、先日とは異なり、ざわざわと屋台が溢れている。たこ焼きもお好み焼きも焼きそばも、りんご飴もチョコバナナもクレープも、金魚すくいも射的も水風船も選び放題だ。もちろん、主役の朝顔の鉢だって石造りの路に軒を連ねる。 ひらり、とワンピースの裾を揺らして彼の隣に佇んだら、水色の袖はとても不可思議な顔をした。ひゅう、とわずかに熱を持った六月の風が雷門の空に吹く。神社の外壁に沿って植わっている常緑樹がわさわさと葉と枝を震わせた。稲妻町は気温が上がって梅雨のあとの季節を待っているからか、その緑も生き生きとしている。 「朝顔市に来たかったってことは、夕香ちゃんは朝顔が欲しいのかな」 そうと彼は首を傾げる。「家のベランダに置くの?」と問われてしまい、わたしはぱちりと瞬きをした。びゅうん、と湿った風がわたしの頬を掠めて、瞬間的に幼い頃の気持ちが胸いっぱいに広がる。じわじわとした速度ではなく、まるでこの心を席巻するようになにも考えられなくなっていく。わたしの視界に映っている朝顔の鉢が、当時のテレビが映していた色とそっくりだったからだ。 どうしてだかぼろぼろと水滴が頬にこぼれる。「ええええ」と彼は当然ながら仰天して、息を飲んで浴衣の袖は困っている。当たり前だ。もしも逆の立場だったとしたら、わたしかて困惑してしまうだろう。 どうしよう。コントロールできない。はらはらと落下する水滴がイエローのワンピースの胸元と足元の石畳に落ちていく。石畳は薄い灰色を色濃く染めて、跡を作った。「朝顔が欲しいのかな」と豪炎寺夕香の核心に触れた、彼の声ばかりが脳内でこだまする。繰り返されたそれはいつしか、母の声と重なった。まだ彼女の声を覚えているんだ、と不思議な気持ちになる。 小さくしゃくりあげながら、四歳の時に朝顔市に行く約束を母としたこと、それが叶えられなかったこと、父にも兄にもそれを話していないことをたどたどしく音にする。彼は豪炎寺家のリビングに母の写真が飾られているのを知っているためか、途中から辛そうな目をしていた。半田真一は「どうして、豪炎寺先生と豪炎寺に言わなかったのかな」とやや迷いながら訊ねる。「二人が泣くのが嫌だったの」と答えたら、彼は余計に苦そうな顔をした。 「でも、代わりに夕香ちゃんが泣いてるじゃないか」 うーん、と唸る彼は、当然ながら困惑したままだ。彼の手のひらがぽんぽん、と柔らかく背中を叩く。子供扱いしないで欲しい気持ちよりも、それは逆効果なんだと説明しそうになる。でも上手く言葉にならない。「俺が泣かせてるみたいで、周りの視線が痛い……」と彼は頬を引きつらせた。「ごめんね。泣き止むから」と声にはしたものの、なかなかわたしの涙腺は強情なようだった。 「別にいいよ。ああ、夕香ちゃんが泣いてるのは俺は嬉しくはないんだけど。でも、ここで止めたら、たぶん夕香ちゃんはあとで一人で泣くんじゃないかな。だったら、ここで泣いちゃった方がよくない? 少しはすっきりするかもしれないし」 淡々と言葉にする彼は相変わらず、境内のざわめきと泣いている女の子とその手前にいる男の人への目線に頬をひきつらせたけれど、まあいいや、と考えたらしい。 「豪炎寺先生と豪炎寺の前で泣きたくないなら、俺の前で泣いちゃうのでいいんじゃないかな」 なんだかへんてこな台詞が世界と日本と稲妻町に響く。もう彼に甘えてしまおうか、子供のように泣きじゃくってしまおうか、と考えた刹那だった。あまりに驚いて、しゃくりあげていた喉が大人しくなる。彼は「家族の前でなく、俺の前で泣いて」と宣言したのだろうか。ちょっと意訳だけれど。 さっきまでとは少し違う胸のざわめきでぽかんとして、じっと水色の浴衣を見上げた。「どうしたの?」と不思議そうな目はさっぱりと照れていない。ああ、彼は大それたことを発したとは思っていないんだ、と知れた。だのに、わたしの胸はどきどきしている。 「ええと、夕香ちゃんのお母さんの代理で、俺が朝顔を贈るのでどうかな。四歳の時に約束したなら、十鉢くらいでいいかなあ。全部は持てなさそうだし、宅配してくれるといいんだけど……」 そうと言葉を続ける彼は、朝顔の鉢の並んでいる屋台の軒先を気にしている。「配送します」という印を見つけようとしているのかもしれない。わたしとお母さんの約束は、「毎年一つ、朝顔市で鉢を買ってあげる」じゃあないのに、と笑いそうになった。 何色がいい? と彼は言う。 うちのマンションのベランダにそんなに置けなさそう、とくすくすと笑う。 そうかなあ、夕香ちゃんちのベランダって横に長いし、いけそうだけど、と首を傾げる。 一つでいいんだよ、なんてわたしは言えなかったのだ。 (赤と青と紫と水色の花は、夏にざわざわと豪炎寺家のベランダで笑った)