【やいぎょく】崖っぷちでも、グロリアス
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■A6/58P ■下鴨矢一郎と南禅寺玉瀾。短編3話。矢一郎の偽右衛門選挙運動(っぽいもの)・マフラー・ホワイトデーの話。 ■サンプルはホワイトデーの話です。
崖っぷちでも、グロリアス
悩んで唸り、常に迷宮。 勝利を掴んだ、前足ならば。 取ってくれるか、訊ねてみても。 笑顔しかない、この目の前に。 どうやら世の中には、〔ホワイトデー〕という行事があるらしい。 いや、まるっきり知らなかったわけではない。俺はむしろ既知だった。素知らぬ振りをしていたのは、はっきり言って下鴨矢一郎とは関係のない行事だと思っていたのと、件の行事は前月の〔バレンタインデー〕と紐づいているからだ。 これまでの俺は、〔バレンタインデー〕にチョコレートを受け取ったことがなかった。狸は人間と違いこの行事を重要視していないし、たいそうこのイベントに対しておざなりだ。懸命なのは新しいもの好きの雌狸くらいではないのか、と俺は考えている。人間の菓子業界の戦略に乗ってどうする、と声を大にしたい。堅物だし面白味に欠ける、と言われたとしても、それが下鴨矢一郎であったし、俺もそれでいいと思っていた。 だのに、おかしなことが起こってしまった。今でも雄狸は信じられない。ああ、相手が信じられないのではなく、俺にもこういうことが起こるのか、という驚嘆だ。この狸人生、一生縁がないのではなかろうか、と考えていたことが起きてしまった。奇跡なのだろうか。はたまた軌跡なのだろうか。俺は横文字はからっきしなのだが、〔ミラクル〕というやつなのだろうか。 彼女はとんでもなくさりげなかった。うろたえていたのは俺だけだった。「はい、矢一郎さん」と手渡されたそれがなんなのだか理解できずにぽかんとしていると、「偽右衛門の選挙運動、いつもお疲れさま」と彼女は発する。「いや、俺のためにやっていることだ」と返したら、彼女はくすりと笑った。 姿勢のいい背中が歩いていってしまってから、とてつもない感情が押し寄せてきた。「なぜ玉瀾が俺に!?」と世界と日本と洛中に向かって叫び出したい。ああ、今絶叫すれば彼女の耳にも届いてしまう、と慌てて手のひらで口を押さえた。溢れる気持ちを持て余したまま、俺は彼女の後ろ姿を見送ったのだ。 南禅寺玉瀾は幼なじみである。子狸のころはわりと仲がよかった。天狗の赤玉先生の元で勉強をする際にも一緒だった。少しだけ大きな子狸となったころに、自らよりも小さな子狸どもに教鞭を取る赤玉先生を手伝ったこともある。その時分も彼女は俺と共にあった。幼なじみであり腐れ縁というやつだろうか。 だが、今ではもう思い出したくもない件の将棋勝負を境に、俺と彼女の仲は決した。南禅寺玉瀾はこれっぽっちも悪くはない。俺が憧れている父であり偽右衛門の前であったから、彼女は気をつかってくれただけだった。悪いのは下鴨矢一郎である。俺の度量が小さかったものだから、俺は彼女を許せなくて、加えれば情けをかけられた自分も許せなかった。 それからはずっと、下鴨矢一郎と南禅寺玉瀾は大人の狸のように過ごした。丁寧に挨拶をし、二、三の言葉はかわす。でも、それだけだ。たまに玉瀾はくだけた話し方をして昔を思い出させた。俺はどうしてだか、それに丁寧に答えることしかできなかった。そんな下鴨矢一郎に対して、彼女がさみしそうにしているのも感じていた。それでも、俺にはどうしようもなかったのだ。きっと、俺と彼女はこのままの関係が続くものだと思っていた。 だのに、ここにきての突然のチョコレートである。「どういうつもりだ、玉瀾!」と洛中を走りながら叫びを上げ、南禅寺に乗り込みたい気持ちでいっぱいだ。計略、策謀、なんらかの罠、(狸)政治的賄賂、と指折り数えてから、彼女がそんなものとはさっぱりと繋がらないことに気づく。はああ、と大きく息を吐いた。 そうだ。彼女は「選挙運動、お疲れさま」と言っていた。純粋にその労いであるのならば、偽右衛門選挙に立候補している狸すべてに配られているのでは、とはたとする。まあ、そんな物好きは俺ともう一匹しかいないのだか。むむむ、と唸った。 叔父とはいえ政敵であるので、当人には訊けまい。仕方がなく、やつの娘であり俺の従姉妹である海星に探りを入れてみた。「はあ? 矢一郎さん、なに言ってんの?」と呆れ顔だった。「うちの父はそんないいものもらってるわけないし、玉瀾先生がそんなことするわけないでしょ」ととんでもなくすげない。「そ、そうか……」 うむむ、と海星の返答に唸ってしまえば、当の従姉妹はにやにやしている。「なんだ」と訝しく問えば、「玉瀾先生にチョコをもらったの?」と嬉々としている。「そ、そうなのだが」と赤いような気がする頬で返す。「ふうん、渡したんだね」と海星はにこりと笑った。「知っていたのか」と訊ねたら、「一緒にチョコを選んだから」と楽しそうに笑む。 俺は玉瀾と海星が並んで立つ姿を想像した。海星は誰に対しても歯に衣着せない物言いだが、きっぱりとした性格の玉瀾とは相性がいいのだろう。子狸のころから、海星は赤玉先生の元でも、俺よりもよほど玉瀾になついていた気がする。「玉瀾先生、玉瀾先生」と。 ふむ、としみじみと納得していたら、「やっぱり矢一郎さんのだったんだ」とにやりと笑われた。む、と海星を睨めば、「誰に渡すのか訊いても、教えてくれなかったから。でも、みんなそんなの知ってるのにね」と淡々と話す。半分呆れ返った風の従姉妹に「そうだな」と適当に答えてから、愕然とした。 「みんな知っている、というのはなんだ!」 従姉妹はぱちりとまばたきをする。「玉瀾先生が矢一郎さんを好きだってこと」と単なる事実を告げるような声音にぎくりとする。顔がとんでもなく赤くなる気がした。「そんなわけが、ないだろう……」と口にする俺の台詞は動揺して震えそうになっていた。「あと、矢一郎さんが玉瀾先生を好きなことも、みんな知ってるよ」 がっ、と顔面が熱くなるのが分かった。「みんな」とは誰のことだ。夷川一家のことだろうか。はたまた下鴨一家のことだろうか。もしや狸界すべてを指すのではあるまいな、と狼狽して冷や汗をかきそうになる。ぽかんとした海星は、まるで「なんでそんなことも分かってないの」とでも言わんばかりだった。 ◇ 俺は下鴨神社の境内で唸っていた。炬燵に入りながらまぶたを伏せて、いっそ修行僧のように邪念を払う。まずは、〔下鴨矢一郎が南禅寺玉瀾を好いている〕を脳内から払う。これはなかなかに難しい。従姉妹には必死でごまかしたが、俺が彼女に好意を持っているのは昔からだった。だから、それを空っぽにするのは難関である。えらく難しいのである。 次に、〔それは狸界すべてに知られている〕を払おうとする。俺は今でも疑っているのだが、さすがにこれはなかろうと思う。大袈裟ではないか。俺と彼女の傍にいることのあった海星はともかく、洛中の狸すべてが知っているだなどとははったりだろう。納得がいかないので、これは否であろうと思う。きっとそうだ。そうであってほしい、頼む。 本来であれば、〔南禅寺玉瀾は下鴨矢一郎に好意を持っている〕を一等先に頭から払うべきだった。俺がそれを選択しないのは、どうにもこうにも夢を見てしまったからだ。無性に期待してしまう。本当だろうか、とざわざわと胸が騒ぐ。心臓がさっぱりと落ち着かなかった。 むむむ、と胸の前で両腕を組んで唸っていたら、ひょい、と細い腕が炬燵に伸びる。炬燵の盤に乗せていたチョコレートの箱に進んだ指が、甘い塊を一つ摘まんだ。「あら、美味しい」と悪びれることなく口を動かし、「チョコレートというものは、上手にできているわねえ」と感心した風に笑う。「母上、勝手にしないでください」 むっ、として割烹着の袖を軽く睨んだ。今日の母上は出かけるつもりがないのか、宝塚の男役の姿はしていなかった。「矢一郎が洋菓子なんて珍しい」とくすりと笑い、どうにもこうにも楽しそうだ。「もらったのです」と仏頂面で答える。 ぱちり、とまばたきした猫目(狸だが)が意外そうにしてからにっこりとした。「〔バレンタインデー〕なんて、素敵ねえ」とにこやかな割烹着の袖は特段にやにやしたりはしない。じっと静かに事実を述べて、そっと音もなく爆弾のようなそれを俺の前に置く。ひょい、ともう一つチョコレートを摘まむのでつい睨んだら、まるで子供のようにいたずらっぽく笑った。 「矢一郎は〔ホワイトデー〕はどうするの?」 もぐもぐと甘い塊を口の中で転がした母上は、「うん、これは美味しいものだわ」と感心している。この人は普段和菓子だからな、と納得し鼓膜で台詞を響かせていても、俺はとんでもなく呆然としていた。なかなか頭が働かない。きちきちと歪んだ音を鳴らす脳細胞がゆったりと動き出してから、下鴨矢一郎は絶叫した。 「俺に〔ホワイトデー〕をしろと!? 玉瀾になにを返せと言うんですか!?」 ぶるぶると震えそうになる拳を握る。動揺して顔が真っ赤になったのが分かった。「あら、玉瀾からだったの。南禅寺の?」と言葉にする母上は俺にかまをかけている感じはしない。余計なことを言ってしまった、と己の不覚さに頬が引き釣る。これだから、俺は偽右衛門の選挙運動でも一言多いのかもしれない。「そ、そうです……」 「なんでもよいのじゃあないかしら。だって、気持ちでしょう」 簡単に言ってくれる。こちとらその気持ちが伝えられなくて、何年もこんな状態なのだが、と頬が歪んだ。第一、想いを伝えられるような立場に俺はない。そうなのだ。下鴨矢一郎は幼いころに南禅寺玉瀾を許せなかった。だから、俺は下鴨矢一郎を許すわけにはいかない。 「〔ホワイトデー〕なら、マシュマロとかキャンディーなんて話だけれど、それも相手次第でしょう。玉瀾はなにが好きなの?」 母上の言葉が境内と炬燵の盤に降る。二月も末になり、少しずつ暖かい日も増えてきた。三月に入れば、だんだんと洛中は春へと近づくのだろう。すでに梅は咲いた。だから、もうしばらくすれば桜かてつぼみを膨らませる。柔らかくて小さな花弁が集まり、桜色の花はほころぶ。でも、彼女には桜よりも似合う花がほかにあるのでは、という気持ちになった。 「分かりません……」 ぽつりとつぶやくと、割烹着の袖は「あれまあ」といった雰囲気で息子を見つめた。呆れるというよりも、とてつもなく興味津々な表情で下鴨家の長兄を見やる。くすり、と薄く笑う母上に馬鹿にされた気分にはならなかった。「じゃあ、それを考えるところからかしらね」と下鴨一家をあけすけに、またはひっそりと支える姿は楽しそうに声を上げたのだ。 ◇ マシュマロ、キャンディー、クッキー、そしてはたまたチョコレート。世界と日本と洛中には洋菓子が溢れていて、俺は世の中の甘味におぼれてしまいそうになる。玉瀾はなにを好むのだろうか。参考までに訪れたデパートのフロアには〔ホワイトデー〕とでかでかと銘打たれた看板や垂れ幕がかかり、下鴨矢一郎をくるりと百八十度回転させた。あんな恥ずかしい場所に立てるものか、と頬が引き釣る。 催事場となっているフロアの一角を遠巻きに睨む。あんなに赤やピンクばかりでは目がチカチカする、と毒づきそうだ。その空間の中にはダークブラウンやブルーのラッピングやリボンも存在しているようで、ああ、あそこなら落ち着くかもしれんな、と息を吐いた。 それにしても、と俺は溜息ばかりを繰り返しそうになる。なぜにあそこまで大々的に派手派手しく、いっそ恥を知らぬようなのだろう。世界とは、洛中とはそんなものではあるまいに、と肩を落とした。やれやれ、と逃げ出してしまったフロアを背に、あそこに飛び込む勇気は出ないな、と己を噛み締めた。 玉瀾はどんな菓子が好きなのだろう、と考えながらすたすたと歩く。デパートのフロアはぴかぴかに磨かれていて、どこまででも進んでいけるような気持ちになった。仰天する雰囲気の催事場から離れて、ふう、と息を吐く。玉瀾は誰が好きなのだろう、と考えてしまう自らに辟易とした。 暦はもう三月だった。〔ホワイトデー〕まであと二週間もない、と焦りが出てくる。ひょっとしたら玉瀾は、なにを返しても喜ぶのかもしれなかった。たとえば、下鴨矢一郎がそれを適当に選んでしまったとしても。だが、玉瀾の贈ってくれたチョコレートは(母上に半分ほど食べられたが)とても旨かったのだ。もしや懸命に選んでくれたのかもしれない。だから俺は、自分で納得したものを返したかった。 しかし、あそこに飛び込むのは厳しい、とまぶたを伏せて持ち上げた瞬間に、柔らかい色が視界に映る。それは薄いピンクの塊だった。桜色に近い色味のチューリップと薄ピンクのひらひらした花(あとで調べてみたら、スイートピーだった)、そして桃の枝の束。〔ひなまつりブーケ〕と傍に表示されていた。 そうか、雛祭りか、と頷く。確かもう明日ではないか、と小さく思考する。俺が花を贈ったら、気障であろうか。格好つけている、と思われるだろうか。ぼんやりと心配しながらも、俺はだんだんとその束を選ぶ気持ちに傾いていた。どの菓子がいいのだか分からなくて心が焦っていたのもあるが、桃の枝は南禅寺玉瀾に似合うような気がしたからだ。 むしろ桜よりも似合う。なぜだろうと熟考して、輪郭がはっきりとしているせいではないのか、と思い当たる。桜のように儚げではない。円形が連なる桃の花弁はくっきりとした姿を持っていた。この束の桃が濃いめの桃色をしているからかもしれない。可憐というよりも凛々しかった。そして綺麗だ。 俺は彼女をそう思っているのだろうか、と苦笑しそうになる。まあ、服装からして玉瀾は青が好きそうだが、と花屋の店頭を見回したが、あいにく青い花は見当たらなかった。これならば、〔ホワイトデー〕ではなく雛祭りの贈り物だ、と宣言しても通るような気がする。ここにきても、俺は彼女に〔ホワイトデー〕として返すのが気恥ずかしかった。手にしたチョコレートを、〔バレンタイン〕のものだと認めたくて仕方がないというのに。 はあ、と深呼吸をする。意を決してピンク色の束を掴み、店員に声をかけようとする。大丈夫だ、下鴨矢一郎。この店頭で花を購入するのは、あの催事場に飛び込んで、どれがどれやら分からぬ洋菓子と格闘するよりもずっと気が楽なはずだ。照れくさいのは変わらないけれど、と拳を握った瞬間だった。 「綺麗ね、桃の花」 ひょい、と俺の後ろから現れた紺のコートと青いスカートにぴきり、と体が硬直する。俺はこの声と姿を知っていた。どきり、と鼓動が鳴る。ここでは会いたくなかった。俺は桃色の束を手にしても、南禅寺に訪れたとしても、玉瀾の不在を祈っていた。正二郎に預けて辞せばいい、とさえ考えていた。それで、どれだけ彼女の兄にからかわれたとしてもだ。 「こんにちは。矢一郎さんもお使いなの?」 そう台詞を続ける南禅寺玉瀾は、小さな紙袋を下げていた。このデパートに入っている和菓子屋のものだ。そうか、和菓子か、と俺はとてつもなく戦慄する。俺はなぜ洋菓子にばかりこだわってしまったのだろう。〔ホワイトデー〕という横文字のせいだろうか、と悔しくなる。和菓子であれば恥ずかしくないではないか、と沸々とおかしな感情が込み上げてきた。 「桃仙さんに頼まれたの?」 彼女の言葉を聴きながら、それは誰だ、とぼんやりと思う。ああ、我が母上、と気づいてから、母上は名前に桃の字が入るのだな、としみじみ考える。父上は母上に桃の花を贈ったことがあったろうか、と今は考えなくともよさそうなことばかりが心に浮かぶ。決死の覚悟でくるり、ときびすを返した。「少し待っていてくれ!」 玉瀾に背を向けてしまったので、彼女がどんな表情なのだか分からなくなった。振り返る勇気など皆無。右手に持っていた〔ひなまつりブーケ〕を店員に渡し、会計を促す。その間もずっと心臓は騒がしかった。どくどくとそれは俺の中で鳴り響く。「チョコレートをありがとう。そのお返しだ」と、そのくらいであれば言えるだろう、下鴨矢一郎。行け。 ばっ、と振り向けば、その姿はかき消えることもなく、南禅寺玉瀾は花屋の店頭に存在した。なんだかわずかに楽しそうにして、加えて興味深そうにこちらを見ている。どくん、と心音がひどく騒ぐ。俺はどれだけ彼女が好きなのだろう、とどうしてだか情けなくなった。 ざあっ、と歩幅も大きく彼女の手前まで進む。もんどりうって転ぶのでは、と黒のブーツを懸念した。めかし込んでいるわけもなく、普段の茶色の着物なのだからしっかりしてくれ。そう己を叱咤した。「これを、玉瀾に……!」 差し出した俺の着物の袖とその先に捧げられている桃色の束に、彼女がぽかんとした顔をする。「え、あの……」とかすかに困惑した声の玉瀾の頬がほころんだのを、俺は見てしまった。ぎゅう、と胸が締めつけられる気がした。どうしたらいい、嬉しい、とひたすらに感じながら、「明日が雛祭りだからだ」と続けた。 「え? ああ、雛祭り? そうね、〔桃の節句〕だけれど……」 ぱちり、とまばたいている目線が真っ直ぐに俺を見上げる。嫌そうでないのが致命的だった。雄狸は簡単に自惚れそうになり、そんな顔をしないでくれ、と相反した想いも溢れる。刹那、そっと伸ばされた指先が柔らかい色をした束に触れた。「嬉しい。ありがとう」 彼女の両手が桃の花に近づいて、ゆっくりとそれを引き寄せる。俺はまだピンク色の束を支えていた。なんとはなしに放したくないのは、彼女と繋がっていたいのだろうか。不可思議が胸でいっぱいになる。下鴨矢一郎は南禅寺玉瀾に幸福を与えられている、と感じた。誓って決して大袈裟にではなく。 「チョコレートの礼なんだ……。先月の」 「ああ、そうなのね、〔バレンタイン〕の? そんなの気にしなくてよかったのに」 「そんなわけに、いかないだろう」 「矢一郎さんは義理難いのね」 「違う」 「そう?」 「〔バレンタイン〕のチョコレートを玉瀾からもらったんだぞ。気にしないでいられるわけがないだろう」 「え……」 彼女の頬が綺麗に赤くなるのを見つめながら、言ってしまった、と喉の奥が苦くなる。「嘘だ。雛祭りだからだ」と付け加えても、彼女の照れくさそうな瞳が変化しないので、無性に期待ばかりしてしまう。ばちり、と視線が交差したら、二匹の恋の火花は散るのだろうか。 ぱん、と彼女は手のひらを合わせて、「それじゃあ」と声を上げる。「桜餅をたくさん買ってしまったの、だから」と南禅寺玉瀾は笑った。「それならば」と下鴨矢一郎は彼女の誘いに乗った振りをする。「なにしてるんですか、そこの二人は」と南禅寺の境内で南禅寺正二郎に問われて、「雛祭りよ、兄様」と桜餅を片手に、桃の色の束を手前に玉瀾は答えた。 (長命寺よりも道明寺の方が美味しいわよね、とはさすがの洛中の狸、であろうか)