【おさみこ】北風太陽、時はきたれり
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■B6/336P ■砂木沼さんと瞳子監督。短編51話。 ■閉鎖済サイトのおさみこテキストを加筆・修正したものです。書き下ろしありです。
北風太陽、時はきたれり
探していたのは、七色の。 流行りも廃りも、知らないままに。 スピード上げて、気づいたら。 足りない足りない、虹の橋。 ひゅうん、と頬を冷たい風が掠めて、私は首をすくめそうになる。 眼前には雷門の青。ユニフォームではないそれは、私の頭上でご機嫌に晴れている。快晴の稲妻町はずいぶん乾いていて、真下にある煉瓦の舗道はからりと今にも笑いそうだ。 くるくると回転する車輪はシルバー。それを支えるようにブラックのゴムが張りついて、灰色の煉瓦をすり減らす。ああ、稲妻町も早く車道の端に自転車専用レーンを作ったらいいのに、と吉良瞳子はしみじみとした。 世界と宇宙はともかくとして、日本の一部に設置されている車道は、それはそれは快適にペダルを踏む輩の一助となる。きっとびゅうんと風を切って走り、自らもが風に変わってしまえるのかもしれない。 なんとも楽しそうだ。私の髪と耳元を吹きすさぶ寒風にぎゅっと目を閉じる。はあ、と白い息を吐き出してゆっくりとまぶたを持ち上げれば、稲妻町の端っこの車道はからりとしている。閑散というほどでもないけれど、とわずかに首を傾げた。 手元のハードカバーの頁をぺらりと捲る。分厚い表紙がぐらぐらするので、えい、と思い切って台の代わりにしている有機物に押しつけた。「痛いですよ。あと重いです」と無機物でない人物が発したので、あら、と私は笑いそうになる。 元宇宙人が自転車をこいでいる。クリムゾンレッドのフレームは彼の性質そのままにピカピカに磨かれて、真冬の世界でも曇りやしない。「でも、捲り難いんだもの」と小さく返して眼下の様子を伺った。 はあ、と彼が呼吸をする度に、私と同じようにホワイトの蒸気が稲妻町に顕現する。もくもくと煙を上げて走り出す蒸気機関車ほどの馬力はないにしても、彼はなかなか頑丈な体をしている。まあ、触れて確かめてみたことはないのだけれど。 生まれながらの頑強と表現するよりも、真っ赤な自転車を操る彼は努力家だったので、それは後天的に身につけたものだ。努力は必ずしも実を結ぶものではないと大人の私は知っていたけれど、砂木沼治は疑いもしない。非現実的であるのとも違うのだけれど、と私は摩訶不思議に囚われそうになる。 元宇宙人である彼は、私からすると不可思議ばかりを内包している。冷静そうに見えてかなりのところで無駄な熱。それはこっそりと隠されるのでもなく、威風堂々と刻を待つ。永遠になりそうに待たされたのなら、自らその立場を払拭する。共通しているのは、彼はいつでも楽しそうだということだ。退屈が嫌いなのかもしれない。 無謀で生きているのではない足がくるくるとペダルを回す。無我夢中でもなく諦めるのでもなく淡々とした動きは、人間二人分を移動させているようには見えない。彼の動きがぎこちないのは、ハードカバーの書籍を頭に乗せているからだ。 彼にしてみたらその光景はまったくもって不本意であり、今すぐにでも異論を唱えたいのだろう。ただし、それはさんざん説得を重ねた上での光景だったものだから、彼の心は無の境地に達しているのかもしれない。ずいぶん我慢強い。ほとほと私は感心していて、それでも変わらずに頁をぺらりと捲る。 刹那、がくんと自転車が急停止した。私は後部キャリアに立ち上がったままだったので、ぽいと世界へ放り出される。ザッ、と私のスニーカーの踵は灰色煉瓦に口づけた。ハードカバーの背は私の左手に張りついている。離れてはならない大事なものだ。 そのまますたすた舗道を歩き出したら、「瞳子監督!」と大袈裟な声が響く。元旦の稲妻町はひっそりとしていて、まだ昨年の眠りの中をたゆたっているかもしれないのに。「なに?」と素っ気なく返事をする。彼は、はああ、と大仰な溜息をついた。「乗ってください。間に合いませんよ」 元宇宙人がこれまた意外な言葉を音にした。冷酷非道、傲岸無知、不倶戴天の代名詞みたいなものを装っていた彼に文句をつけられたので、「平気よ。ちょっと遅れてもいいじゃない」と軽く返した。私はひょいひょいと煉瓦の舗道を進んでいく。その瞳に、クリムゾンレッドのフレームではなくブラックのインクを映しながら。 足元の煉瓦の舗道は自転車も通行可能だ。歩行者がいたのなら路を譲らなくてはならないけれど、稲妻町の西端には人っこ一人いやしない。眠れよい子よ。とんでもなく低い気温の中を闊歩しながら歌いそうになる。ふんふんとそれが鼻歌になりかけたら、「さっきジャンケンに負けたのは誰ですか」とねめつけられた。 はてさて。「知らないわ」と私が答えるよりも前に、彼は吉良瞳子に覆い被せるように声を上げる。どうせなら体の方を覆い被せたらいいのに、と教育者の端くれが声にしたら、一般的に聞き捨てならないだろう思考回路が稼働する。「負けた方が後部座席に乗るんでしたよね」と頬が歪んだ声をのんびり聴いた。 はいはい。面倒だわ、とちらりと考えつつも、目の前にいるのは生真面目一直線の元宇宙人だ。きっと逃がしてはもらえない。もしや囚われの身になってしまったのなら、ああ、お日さま園の未来はいずこ。まあ、私がいなくともなんとかなるとは思うのだけれど。「砂木沼くんは、少し道路交通法を尊守した方がいいわよ」 むっとした顔には知らん振りをして、後部キャリアに腰かける。するとわずかに満足そうな声音が、「守らねばならない時には守ります」と吉良瞳子に誓った。交通法を守らなくともよい時とは、と私は考える。夢の中なんてどうだろう。ふああ、とあくびが出そうになった。 カチャリ、と彼が右手のハンドルについているギアを一段上げた。その瞬間にひょいと両腕を彼の体に回す。妙に腰が細いのよね、と目を細めて背中から抱きつくようにする。彼の腹部にまで伸ばした指でハードカバーの頁に触れたら、どうにもこうにも捲り難かった。「嬉しくて変な声が出そうになりました。ところで、この本はどけてもらえるとより幸せです」 彼はなにやらおかしな口上をしている。「読み難いわ」と彼の背に頬を寄せて唸る。これではだめだ。彼にしがみつきながら本を読む所作はままならない。主に私の姿勢と伸ばした腕とその中のハードカバーまでの距離が。吉良瞳子は作戦を変更する。 すっかりと砂木沼治に預けていた上半身を持ち上げたら、どうにもこうにも寂しそうな風が吹く。この雰囲気は彼のものなのだろうか、と疑問。名残惜しいのかしら、と摩訶不思議。だとしたら、自分から抱きついたらいいのに。意気地なし。無情にもそう思った。 さて、どうしよう。できる限りハードカバーは両手で持ちたいので、彼の腰は放棄。リアキャリアから飛び降りると同じ問答が繰り返されるので、座ったままぐるりと向きを変えた。背中に背中をぴったりと触れさせて、ポカポカした温度を味わう。熱が美味しい。そんな気分になった。 リアキャリアの上で膝を抱える。膝の真上に乗せたハードカバーをぺらりと捲れば、そんなに悪くない。とてつもない快適さはないけれど、なかなかいいのではなかろうか。書籍に夢中になって前屈みになるとまたもや世界に放り出されるので、ぐいと背中を彼に預けた。これで、唐突な左折や右折がない限りは、私の読書時間は守られるはず。吉良邸まで道のりは真っ直ぐだ。 ぺらりと捲られる用紙の周囲では、灰色煉瓦がどんどん進んでいく。煉瓦の一つ一つは小さなものだけれど、それが接着されて周りと同一となって舗道と化す。少しだけ魔法のようだ。誰かが魔術を施しているのかもしれない。こんなにもつらつらと同じ煉瓦が続いているなんて、とわずかに感嘆した。 気になって文面から顔を上げる。私の視界の中で稲妻町はつるつると滑っていく。街の中心となっている稲妻町前駅から真っ直ぐに延びているこの舗道を、吉良瞳子は常として徒歩で進んだ。だからこそ、正面に開けていく景色は馴染み深い。 それがたった今は、背中側から前方に向かい収縮していく。どんどん稲妻町前駅への景観が小さくなる。景色が逆向きに流れる不可思議。この魔法をかけているのは誰だろう、と考えて、それは私ではなく元宇宙人なのだと実感する。 彼はいつもいつでも私の知らないものを見せてくれる。だなんて、ちょっとセンチで夢見がちで、まるで熱病みたいなそれ。彼の無駄な熱が移ったのかもしれない。とすると、それはどこからだろう。フットボールフロンティアインターナショナルで日本代表に挑戦した時なのか、はたまたサッカーで地球を侵略しに宇宙人が襲来した時なのかと悩んで、ねえ、砂木沼くん、私ね。 無駄な熱を持ったあなたと会えて、なんだか人生得してしまった、と今にも笑い出しそうなのよ。 ◇ 「瞳子監督、今何時ですか」 「さあ、知らないわ」 「その細腕に時計はついていないんですか」 「あら、そんなに細くないわよ?」 「いや、細いですね。少なくとも私よりは」 「それは当たり前。曲がりなりにも私は女だし、曲がりなりにもあなたは男の子だし」 「子供扱いしないでください」 「でも、子供じゃない?」 単なる事実を言葉にしてしまえば、サドルに腰かけた背中がぐっと黙り込む気配がした。ちょっと意地悪だったかしら。でも反省はしないし後悔もしない。将来的に虚飾の音には意味がないし、明るい未来のためにも嘘は面倒だ。だって、私はもう好きなのだもの。現実の一つや二つでへこたれるのであれば、今のうちに離れてくれた方が楽。 楽。そう考えているのは吉良瞳子なのだと気づく。楽ではなく苦しいのは砂木沼治にばかり課せられるのではなかろうか。とんでもなくはた、とした。私は自身を大人だと評しながら、この真実に目を反らしていた気がする。なんて巧妙で悪辣なのか、と小さく息を吐いた。 青少年が健やかに生きていけるように支えてあげるのが、大人の役目ではなかろうか。はっきり言って私の言動は矛盾している。彼が楽しそうにしているのが好きなのであれば、彼に苦ばかりを与えるであろう吉良瞳子は身を引くべきなのでは。まあ、なにも出していないのになにを引くのか、と疑問は残るけれど。 とくとくと心臓が鳴る。まぶたを伏せてじっくりと思考する。知らないうちにハードカバーの頁を握りしめていた。もしやこれが答えだろうか、とちらりと脳裏を掠める。私は、吉良瞳子は彼を放したくないのだろうか。どういうことだろう、と己が不思議であふれるみたいだ。 びゅうん、と恐ろしくも北風が吹く。苦ばかり与えて寒風みたいな私は、いっそ北風なのかもしれない。きゅっと軽く唇を噛みしめた。寒い。吉良瞳子の季節だ、となんとはなしに苦しくなる。元旦からなんて酔狂な、と微妙に目を細めてしまった。 「瞳子監督、コートのポケットにスマホがあります! 時間を見てください!」 北風に対して彼が叫ぶ。相変わらず待ち合わせ時間にうるさい青少年だ。この青少年は元宇宙人であるのに、どうしてなのかネオジャパンの練習時間にもとんでもなく細かくて、十分前行動が当たり前だった。さすがのいつもいつでもキャプテンくん、と私は息を吐く。どうにもこうにも白いそれは体を凍えさせる。 気が進まないまま、ひょいと彼のコートのポケットに手を伸ばす。右なのだか左なのだか問うのがまどろっこしくて、適当に左手を滑らせた。すいと進んでいく私の掌は虚空をさ迷う。空っぽだ。「……ぐ」と彼が変な声を出した。ああ、右なのね、と私は納得する。 なにも掴めやしない左手はそのままに、仕方がなく右手もコートのポケットに滑らせた。すとん、と落ちていくのは私の右の掌だ。どうしてなのか、私の右手も彼の発する電子機器を見つけられない。吉良瞳子は砂木沼治には触れられないのだ、という暗示なのかと疑ってしまった。 スマホは見当たらない。現在時刻は闇を漂ったまま、綺麗に晴れた空の下で虚しくそれを経過させる。このまま、なにも分からないままに時は過ぎていくのだろうか、と不可思議になる。彼のコートのポケットの中身は空で、まるで私がなにも持っていない地球人のようだ。 ぼんやりとした瞬間に、キイッ、とブレーキの音が虚空に鳴り響く。誓って本日初めてのブレーキ音だった。彼は、なぜだかブレーキをかけずに稲妻町をつるつると走っていたので、なにやら新鮮な気分になった。そんなこともあるのだと、静かに私に実感させる。 クリムゾンレッドのフレームを停止させた彼が、えらく頬を歪ませて私を振り返った。ぐい、と上半身をひねり振り返るコートのポケットに、私の両手は入ったままだ。そのまま腕を引かれて、ぎゅうと彼に張りつく。「私のではなく、瞳子監督のポケットです!」 彼は妙に顔を紅くしている。ぱちり、と私はまばたきをした。はたしてスマホを持ってきていたろうか、と首を傾げる。私の両手は虚空を掴みながらも、コートのポケット越しに彼の足に触れていた。ああ、それで紅いのかしら、と斜め上の頬に頷きかけた。「失礼します」 彼はなにかをためらった末に、私のコートのポケットに手を伸ばす。と、その右手が迷って動きを止めた。ちらりと自分の両手をにらんで、「む」と小さく唸る。眉間にしわを寄せて真剣に思考すること数秒。「左右どちらか忘れました。すみません」 元宇宙人は何度でも謝罪を乞う。砂木沼治が吉良瞳子に許しを必要とすることなんて世界にはない。おかしな言動の青少年だ、と私は大人しく彼の動きを目で追う。すい、と彼は掌を私のコートのポケットに滑らせる。とてつもなく照れくさそうな目が私を見ているので、恥ずかしいことでもするのかしら、と期待してしまった。ばっ、と彼は右手を雷門の空にかざした。 どうやら右が正解だった模様。スマートフォンの液晶画面がきらりと反射する。薄っぺらい四角さの右隅に「07:55」と読めた。ほっとしたらしい彼が、「なんとか間に合いますね」と満足そうに頬を持ち上げる。それは照れくさそうなままだった。 「ありがとうございました」 そう言葉にして薄い電子機器を私に差し出す彼が、吉良瞳子の両手が未だに自分のコートのポケットに埋まっているのに気づく。なにやら戸惑いながらも、彼は私の両腕を本来あるべき位置へと戻した。私の掌は雷門の宙に触れている。 クリムゾンレッドのリアキャリアに座り、真っ直ぐに彼を見上げた。特に言葉にしなかったのは、なんと言ったらいいのだか分からなかったからだ。照れくさそうな顔ともどかしそうな顔の行ったりきたりを繰り返した彼は、仕舞いにばっと足を上げてサドルに逆向きに座った。 電子機器をひょいと私のコートのポケットに滑り込ませると、はあ、と大きく息を吐き出す。なんだかそれはとてつもない決意を感じさせた。彼は空っぽの両手を見ている。まるでにらむような様子は、世界に挑むようだった。イナズマジャパンに不敵に挑戦した時と似ているかもしれない。それほど、彼はなにかを定めた目をしていた。「嫌だったら言ってください」 台詞のあとに「自害しますから」と聴こえた気がして、私は自分の聴覚を疑った。彼の唇の動きを確認したかったけれど、それは叶わなかった。なぜって、彼の顔面は私の耳に張りついていたからだ。おずおずと伸ばされた腕に抱きつかれたのだと気がついて、夢かもしれない、とおかしな感想を持つ。 じんわりとした熱が私を包む。ゆっくりと沁みるように伝わる温度が彼のものだと理解する。脳内ではなく体で分かってしまえば、低温の稲妻町の空気にだって負けやしない。柔らかく私を侵食する熱がポカポカと移動してくる。際限のない熱量が私の耳に触れながらあふれるようで、大丈夫かしら、と心配になった。 吉良瞳子の両手は空っぽだ。空虚を掴んでいたそれを持ち上げて、そっと彼の背に回してみる。ぎゅっと少しだけ抱きしめたら、腕の中身がぎくりとしたようだった。ドクン、と彼のそれが脈打っている。私の耳はその鼓動を聴く。 あり得ない熱が世界を席巻している。呼び出したのは誰なのだろう。まるで宇宙をまるごと暖められそうな温度を持つそれは、と夢想する。刹那、ぎゅう、と腕に力が込められた。抱きしめて抱きしめられて、なんだか興が乗ってしまいそう。 うっとりとした熱量とは裏腹に、腕の力の強さにはっとした。そうだ。男の子は男になるんだったわ、と息を飲む。私はなにを安心していたのだろう。安堵なんてできやしない。油断していられるのなんて、きっとわずかな時間だ、と目を見開く。それでも、私の腕の中には大層な熱があって、いっそ永久機関のごとくに燃え盛っているのだけれど。 ばっ、と屈んでいた上半身を持ち上げて彼が私を解放する。私の指先は、熱を保持した体躯を名残惜しく追いそうになった。「頭が真っ白になって、すみません」と気恥ずかしそうにする腕はまだ躊躇している。「謝るなんて失礼でしょう。自害させるわよ」と北風は言い放った。 (嫌です! と北風の天敵の太陽は、それはそれは誇らしげに笑ってみせたのだ)