【エルメロイ教室】前人未踏フロレスタン
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■「前人未踏フロレスタン」B6/58P ■HARUコミ新刊だったエルメロイ教室組(フラット・スヴィン・カウレス・グレイ・ライネス・二世)の一冊です。 ■フラットくん・スヴィンくん・カウレスくん視点で各1話、ピクシブに投稿した「集星ダンドリオン」も入っての計4話です。 ■サンプルはスヴィンくんとグレイちゃん(+フラットくん)の猫の話です。
青猫プリンシプル
シャシャシャ、と響くタンバリン。 扉を引いたら、そらシャット。 シャットグリーズ、恋していたら。 なってみたいな、ああ、シャグリ。 彼女は、どれだけ猫みたいなんだろう、と僕は舗道でぼんやりと立つ。 柔らかな物腰、美しい鼻先、優しい頬、絹糸みたいな髪先、凛とした瞳、すらりとした体躯、のびやかな動作、輝くごとくの爪、ほっそりとした肩、真っ直ぐに伸びる足、心を叩く声音、力強くある指先、柔軟な手首、素早さをカバーする頭脳、振り返ると揺れるフード、歩幅とともにあるコートの裾、袖と脇の下に隠されている匣、立ち上がる意思、ああ、グレイたんグレイたん、とスヴィン・グラシュエートの心は捉えられている。 今日のこの日もピカピカに磨かれた革靴の踵が、赤い煉瓦を踏みしめる。ノーリッジ、現代魔術科から伸びている煉瓦の舗道は、くねくねと曲がって大通りに面していた。大通りにはロード・エルメロイⅡ世が好んでいる珈琲豆を扱う店があるのだと、僕は知っている。挽いた豆を購入しても構わないだろうに、彼女はそれをよしとしなかった。密閉度の高い保存缶を利用していても、その指は頑なにコーヒーミルを愛した。 とんでもなく真摯でとてつもなく丁寧な両手が、ミルへと豆を入れていく。ガリガリと音をさせて回転する先から、ふわりと香ばしい空気が浮かぶ。少しだけ苦味も含む風味は、回るレバーと一緒にくるくると廻る。まるで世界がシェイクされてしまい、すべての動物が混じり合ったみたいに。植物も合わさるときっと匂いは変わるんだ、とやはり僕は知っている。動物と植物は、白と黒みたいにまったく違うものだ。オセロゲームの反対の面みたいに。 慎重な手つきで煎れられる彼女の珈琲は、とても美味しい。いつもこれを飲むことのできる先生を、僕はうらやましく思う。嫉妬なんかはしなくとも、羨望の気持ちは止められない。けれど、それはロード・エルメロイⅡ世の特権というか、当然の権利であるのだと、これまた僕は知っていた。先生だからこそ納得し、先生だからこそ頷ける。だから、一介の現代魔術科の学生がその恩恵を受けていいはずがなかった。 「どうしてさ? グレイちゃんに〈珈琲煎れて〉って言えばいいじゃない」 お礼でお菓子を持っていったら、嫌な顔しないけどなあ、と大きく傾げられた首を真っ二つにしたくなった。ちなみに、グレイちゃんはクッキーよりもマドレーヌが好きだよ、と追加された情報に胸が震える。ぶるぶると握る拳まで振動が伝わって、目の前の同輩(いや、僕の方がちょっとだけ先輩だ)を壊しそうになる。「そんなに簡単じゃない」ぼそりと吐き出したら、そうかなあ、とフラットは不思議そうにした。 こいつは(ある意味天才だけれど)馬鹿だからな、とうんざりする。僕の繊細な感情なんか分かりやしない、と目を細めた。はてさてと肩をすくめ、飄々とした言動でふらりといなくなるフラットは、なにやら猫と似ている。家猫じゃあなくて、野生の猫。といっても野良猫というよりも、ふらふらしているような、放浪しているみたいな感じだ。それだとやっぱり野良猫か、やれやれだな、と僕は唸った。 「煎れてもらうのは気がひけるなら、スヴィンが煎れたらいいんじゃないのか?」 淡々とカウレスに指摘される。こいつがよく彼女に珈琲や紅茶を手渡しているのを、どうにも僕は知っている。蓋のついた紙コップが一瞬だけ二人を繋いで、また離れていく。これも嫉妬とは違って、まるで憧憬のような景色だ。温かい夢の中にいるように、ミルクみたいな匂いがする。「受け取ってくれなかったら、立ち直れない」茶化されているわけではないと分かっていたから、つい、正直な気持ちをつぶやいた。 いや、グレイはそういうタイプじゃないだろ、と困惑した頬。「当たり前だ。グレイたんは心ないことはしない」断言したら、そうか、とカウレスの頬が歪んだ。それきりこの話題を続けることなく、なんとはなしに僕の動向を探られている気がする。視界の端に映したなにかを、そっと見守るみたいに。どうにもこうにもあの動物に似ている感じがして、ああ、ここにも猫が、と僕は呆れて溜息した。 「グレイは、チーズケーキよりもチョコレートケーキじゃあないかな。私はそう思うね」 「はあ、どうでしょう」と最低限失礼にならない返答をしつつ、違うんです、ライネス様、と僕はテレパシーする。ナポレオンパイとは言わなさそうだし、アップルパイ、意外なところでモンブランとか、と笑う頬はなにやら楽しそうだった。確かにグレイたんにモンブランは似合うかもしれない。色味の問題だろうか、と考える。クリーム色よりもダークブラウンよりも、曇った空みたいな鈍色が。 モンブランは珈琲にも合う、と頷く僕を、ライネス様がにやにやと眺めている。「なんですか」素朴な疑問で短く問うと、にやにや笑いをしながらじっと見つめられた。チェシャ猫みたいだな、と思う。このまま姿が消えてしまったりして、と訝しく見返したら、いやいや、なんでもないとも、とさらりとかわされた。紅茶であるなら、グレイはアールグレイよりもアッサムだよ、とにやにや笑いは失われなかった。 「マカロンよりもフィナンシェよりも、チョコレートらしいぞ、彼女は」 黒猫みたいな先生がぽつりと音にする。彼女がすいているらしいと噂の長髪は、しっとりと流れる猫の毛並みのようだ。先生にはピンと張ったヒゲはないのに、不可思議ななんらかの方法で必要な情報をキャッチする。するりと現場に入り込み、追い払われても負けやしない。逃げ出すのは形勢が不利な時だけ。欲しいものを手に入れたら、見とがめられる前にいつの間にやら消えている。シュッ、と音さえも残さずに。 カラフルな菓子でないのが、グレイらしいかもしれないな、と薄く笑う先生は、嬉しそうでも悲しそうでもない。ただただ淡々と、事実を述べる。「どうした、バレンタインには早いだろうに」と苦笑する横顔に、「違うんです、そうではなくて」と返す。「ただ、好きなものを知らないな、と」十秒ほど経ったろうか。くしゃ、と前髪に大きな手のひらが触れる。頭を撫でられるなんて、何年ぶりだろう、と少しうつむいた顔を持ち上げた。 ちょっとだけ照れたようにした先生の指先が離れていく瞬間に、僕は悟る。興味深そうに、遠慮がちに、楽しそうに、遠くから見守るように。からかいながら、呆れた風に、笑い出しそうに、わずかに涙しそうに。スキップするかのごとく、びくびくした足取りで、するりとその場を離れて、軽やかに歩いていく。全部猫だ、と。フラットもカウレスも、ライネス様も先生も、そしてグレイたんも、そうだ。 スヴィン・グラシュエート以外、エルメロイ教室はみんな、〈猫〉のようなんじゃないのかと。 ◇ 「スヴィンがお菓子なんて、なんだか、珍しいですね」 エルメロイ教室の〈猫〉と〈犬〉の関係に気づいてから、しばらくの間、僕は呆然とたたずんでいた。はっ、と我に返った瞬間に煉瓦の舗道に面した洋菓子店に飛び込み、チーズタルトとバターサンドとアップルパイとクッキーを睨んでから、どうしてだかゴーフレットを買った。バニラのクリーム色とチョコレートの焦げ茶色のパッケージが、なんとなく彼女に近い気がしたからだ。派手でなく地味でなく、素朴で美しいそれ。 遠慮がちに個包装のパッケージを破った彼女は、小さく口を開けてほろほろと崩れるゴーフレットをもぐもぐとした。ハムスターみたいだ、と可愛らしい姿に、いや、グレイたんは猫、と思い直す。僕の両手の中には、夢にまで見た珈琲の入ったマグカップがある。さっき一口飲んだけれど、喉を通った温かい液体の味がよく分からなかった。僕の五感は〈獣性魔術〉で鋭くなっているはずなのに。どうしてだろう、となんともかんとも摩訶不思議だ。 「師匠がいないので、ここでもいいですか」 申し訳なさそうに、先生のデスクのある部屋と繋がっている小部屋を指差された。そこでグレイたんはよく靴磨きをしている。キュッ、と音をさせ、光沢を取り戻す布地で皮靴を拭う横顔は、何度見ても素敵なものだ。日本の赤い獣の人形のようにこくこくと頷くと、どうしてだか苦笑される。どこかおかしかっただろうか、と疑問に思う。小さなスツールが二つ置かれた小部屋にどきり、とした。 いやいや、グレイたんはそんなことは考えていやしないし、誓って決してふしだらなんかでもない。当たり前だ。当然だ。むしろ鼓動が震えたスヴィン・グラシュエートこそが疑われるべきで、罰されるべきである。お湯を沸かしてきますね、と背中を見せた彼女をうっとりと見送ってから、首をぶんぶんと振る。自分で自分を殴るのは難しいな、と理解した時には、髪がぐしゃぐしゃになっていた。慌てて手ぐしで直す。 シュンシュン、と音を立てて湯が沸いていく。ケトルの内部で起きている現象をBGMに、グレイたんは踊り出したりしない。踊り出したいのは僕で、彼女は静かにお湯の様子を伺っていた。僕は彼女の煎れてくれる珈琲を心待ちにしているのに、湯が沸くのを待つ彼女の横顔を見つめたままでいたい。この不揃いな気持ちをなんと呼ぶのだろう。フラットのやつなら、〈それ効率が悪い〉というのに違いなかった。 どうぞ、と手渡されたマグカップは素朴な形をして、しっかりとした重さで僕の手のひらに馴染む。ぼんやりとカップの表面を包むように受け取ったら、彼女が不思議そうにした。「あの、スヴィン……」と唇が僕の名前を音にするから、ふわふわとした気持ちになる。天にも昇る心地、というのはこんな感情なのだろうか。昇ったことはないから分からないな、と思った瞬間に、「……熱くないですか?」 条件反射で指を広げ、手のひらが空虚になる。手の内側はなんとも悲劇的に真っ赤になっていた。もはや喜劇なのか悲劇なのか分からない。僕の動作を予感していたのか、はたまた予備動作で察したのか、彼女の指先はマグカップの持ち手に強く力を入れていた。アムリタみたいな天上の飲み物は、無惨に塵にならなくて済んだのだ。女神様みたいだ、とほとほと参った気持ちで彼女を見返すと、グレイたんは首を傾げるばかりだったけれど。 小部屋に沈黙が満ちる。しんしんと雪が舞っているわけでもないのに、なんだか真冬の朝方みたいだった。僕の心臓はどくどくとリズムを刻んでいて、これっぽっちも寒くはない。先生のデスクのある部屋から暖かい空気も流れてくる。両手の中には温かい珈琲もある。彼女を相手になにをしゃべったらいいのだか分からなくて、宙を掴む気持ちだ。様々な感慨が渦巻いて、僕の心の中だけがいっぱいだった。いつの日か溢れてしまいそうに。 グレイたんはもともと無口で、フラットみたいに無駄口を叩いたりしない。ライネス様みたいに皮肉ったりもしない。カウレスのように不可思議なアクションを問うたりもしない。それでも、ゴーフレットをもぐもぐやっている頬がにこやかな気がして、美味しかったのかな、と少し嬉しい。ただ、先生が相手でもこんなに緊張したりしない、と僕はとてつもなく悔しくなった。つるつる滑る舌が欲しいと切望した。 「……あの、コーヒーミルの掃除をしても、いいでしょうか」 はい! と大声で返した僕に、彼女はびくりと肩を震わせる。ああ、また驚かせてしてしまった、とがっくりする。かたん、と小さなスツールをもう一つ運んできた彼女は、コーヒーミルの本体をくるくると回転させて分解する。珈琲豆を切るように粉砕する刃は金属製だった。ミル刃はソフトクリームの先端みたいな形をしている。ぐるぐると渦巻く金属が、天上の飲み物のために豆を挽くのだ。 スツールに敷かれたキッチンペーパーの上で、彼女は金属の刃にブラシをかけていく。はらはらと珈琲の粉がペーパーに落とされて、綺麗になっていく。ブラシは絵筆のように長くて、帆を張るように動き、さらさらと金属の溝に触れた。「……手入れが、好きなんです」ぽつりと突然に降ってきた声に、僕の心はやっぱり温かくなる。「使っていたものに、こう、ブラシをかけたり、磨いたりするのが、落ち着くみたいで」 部屋を訪ねてきたのに、だんまりを決め込むエルメロイ教室生に気を遣ってくれたのか、彼女が口火を切ってくれる。口下手なグレイたんが、〈自分の好きなこと〉を伝えてくれるのも嬉しかった。彼女の言葉が心に沁みて、ゆっくりとお腹で満ちていく。カロリーも形もないはずのそれは、じんわりと僕の体内を照らす温度を持っている。ばくばくいっていた心臓が少しだけ静かになって、僕はゴーフレットのパッケージを破った。 「そういえば、さっきのスヴィンは、ちょっとだけ面白かったです」 ぱり、とゴーフレットに噛みついた僕は、彼女の台詞にぱちりと瞬きをした。この部屋で、なにかおかしなことをやってしまったろうか。まあ、洋菓子店に飛び込んだ段階からおかしくはあった、と自分を反芻する。「マグカップ、熱かったですよね? スヴィンのびっくりした顔が、たまに師匠が餌をやっている猫と、そっくりで」少しだけ頬をほころばせて、グレイたんは遠慮がちに笑んだ。 僕が、なにと、そっくりだって? こう、驚いた時の目の開き方が、と言葉を続ける彼女をまじまじと見据える。いや、僕は犬だから、という台詞が音にならずに、ぱくぱくとする口の奥に沈んでいく。驚いたのは、マグカップの熱さに気づかなかったからだ。僕の表皮はひょっとして、ずいぶんと分厚く変化しているのかもしれない。もしかしたら、わりと近い未来に、熱いものも冷たいものも、感じにくくなっていくのかも。でも、今はだけはそんなのはどうでもよくて。 「ねえねえ、グレイちゃん、グレイちゃん印の珈琲を二つ、お願いしたいよ!」 コンコンコン、ガチャリ、と遠慮のない強めのノックとドアノブを回転させる音と声が重なる。飛び込んできた姿が「えっと、俺とル・シアンくんの分! お土産はね、チーズタルト!」と叫びながら、通路で止まりかけ、こちらの小部屋を一瞥した。まじまじと僕とグレイたんを凝視したフラットは、「あれ?」と発音しながら、びっくり顔を晒している。なるほど、魔術師が驚いて目を見開いた場合、猫に見えなくもない、と僕は納得するものだ。 「ええと、ごめん、邪魔しちゃった……? それよりも、あのさ……」 フラットは、チーズタルトが入っているのだろうペーパーバッグを振り回しそうに、スキップかステップを踏んでいそうな両足のまま、とんでもない一言を。「どうして、ル・シアンくんは泣いてるの……?」ぱたぱたと膝に水滴が落ちる。「は? お前はなにを言ってるんだ」の声は音にならなかった。自分の膝に小さく水滴が作る形を見て、眼球が水分を放出しているのを確認する。隣のグレイたんが息を飲むのが分かった。 「お、お腹空いてるとか……?」 はいこれ、と小さくつぶやきながら、フラットがチーズタルトを口に突っ込んでくる。ぐしゃ、と円になっている縁の生地を噛み砕いて、「美味しい!」と叫んだ。不気味そうにこちらを見やって、フラットはグレイたんにもそっとタルトを手渡した。どうしたらいいのだか分からずに迷っているのか、彼女もゆっくりとチーズタルトを口にした。もぐ、と優しい頬が膨らんで動くと、綺麗な目がぱちりと嬉しそうに瞬いた。まるで天上の輝きだ。 これ、美味しいです、と彼女が発すると、ほっとしたようにフラットが話し始めた。そうなんだよ、新しくできたお店で、エルメロイ教室の女の子たちに評判らしくて、焼きチーズタルトで、表面がちょっと焦げた感じなのもいいよね、と言葉を綴る。「あ、俺も珈琲欲しいな。グレイちゃん、煎れてくれる?」なんて、フラットはしれっと続けた。じゃあ、チーズタルトのお礼に、と立ち上がった彼女を見送ってから、数十秒が経過。 「……乾いた?」 「もちろん、乾いた」 はあ、と大きく息を吐いたフラットは、「ル・シアンくん、壊れちゃったのかと思ったよ」とうそぶく。「僕に限って、そんなわけないだろう」と素っ気なく返しながら、手のひらを開いたり閉じたりして力を入れる。うん、感覚はある、と頷いた。「なにかあったの?」に対しては、「いや、なんにも」と返答。ふうん、と訝しげな同輩には、「ただ、ちょっと感激しただけだ」と正直に申告した。 犬でも猫でも、魔術を行使。 格子を用いた、墓守ならば。 行ってみたいな、天上天下。 忘れやしない、その言の葉を。 (ああもう、エルメロイ教室組は、僕でも誰でも、〈犬〉じゃあなくてみんな〈猫〉!)