皇帝陛下と深霧の亡霊
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143P 異世界トリップファンタジー第12弾 「おい」 こんなに低い高耶の声は珍しい。 高耶が本気で怒ると〟静か〝になる、静かなる怒りをグツグツ煮えさせるのだ。そして今、 「おい」 「……はい」 今正に、高耶はそんな状況だった。 義明を退室させた後、直江は部屋の扉の前に立つ衛兵に声を掛けられた。 高耶と言う后を得て、穏やかさが生まれた―――高耶限定なのだが―――と囁かれる皇帝だが、恐怖の象徴には変わらない。そもそも皇帝に対し、自分から声を掛けるなど不敬と取られかねないのだ。だが、ここで声を掛けないと皇妃様の言い付けに背く事になってしまう。 「……ぅぁ……陛下ぁッ」 思い切った声は、思い切り裏返ってしまった。 「……」 無言で振り返った美丈夫に、文字通り竦み上がってしまう。だが何とか口を開いた。 「皇妃様からのご伝言がございますッ」 「……言ってみろ」 「はッ」 汗をだらだらかきつつ、衛兵は直立した。 考えてみれば皇帝の執務室の扉を守って随分経つが、直接声を交わすのは初めてだ。 「陛下のお部屋にて待つ、との事でございますッ」 一々緊張で大きな声に頷き、直江は無表情のまま廊下の向こうに消えた。 「はぁ~」 こんなに緊張したのは…… 衛兵は記憶を辿ったが初めてだった。 「緊張した~」 直江の消えた方向を眺めながら衛兵は、安堵のあまり暫くの間脱力してしまった。 そんな直江と言えば、高耶が部屋で待ってると考えるだけで気分が浮上していた。顔には出ないのだが、足取りは微妙に軽い。 そろそろ夕食の時間なので、一緒に食堂へ行こう、と高耶と同じ事を考えながらノックをした。 自室なのでノックの必要は無いのだが、高耶がいると分かっているので自然と直江は扉を叩いていた。 「高耶さん?」 返事を待たずに部屋に入ると、長椅子に高耶が座っていた。高耶の姿を確認すると、直江の顔に笑みが浮かぶ。 襟元を緩めながら近付いていく直江は、高耶の様子を見て眉根を寄せた。 「どうかしたんですか?」 伸びた指は高耶の頬に触れる前に、 パンッ 「……」 叩き落とされてしまった。 「……高耶さん?」 怒っている、それは分かる。だが原因が分からない直江は優秀な脳細胞をフル稼働させ必死で記憶を辿った。 「おい」 思った通り、高耶の声は低かった。 「おい」 「……はい」 原因が分からないのだから、ここは大人しくしているしかない。 昨日の言い争いは、既に収まった筈だ。一旦落ち着いたものを高耶は蒸し返して怒ったりしない。ならば別件か? 「……」 心当たりは無い、無いがあり過ぎる。 後ろ暗い所の多い男は、恐る恐る后に声を掛けた。 「あの……高耶さん、怒っている訳を教えてください」 ストレートに訊いてくる直江に、高耶は鼻白んだ顔になる。怒りよりも侮蔑の色が濃い。 「……お前さ」 「はい」 静かな声に恐怖を感じる。 直江にとっての〟恐怖〝とは、全て高耶が絡んでくる事だ。それ以外にこの男の心、感情は動かないのだから。 「さっきさ、執務室で何言ってた?」 「……」 言われて直江は驚かなかった。 あれを聞かれていたのだと直ぐに把握し、そして高耶の怒りに納得する。そんな直江の冷静な様子に高耶は眦を上げた。 「てめ……」 唸る声に、直江はさてどうしようか、と思考を巡らせていた。 結構な怒りだ、収まるのに時間が掛かりそうだ。その間触れられないのはキツい。 直接言うよりも、あんな風に影で義明に言った事は高耶の怒りに油を注いでいる筈だ。しかもつい昨日同じ事で怒らせたばかりである。 高耶は聡いが単純な所もある。その部分を突いて何とかはぐらかせないだろうか。 「……」 「……」 秀麗な美貌の下での直江の思考は大体こんなものだった。 「……」 「……」 無言の睨み合いで先に目を逸らしたのは直江で。高耶はそんな男に険しい表情になる。 「何とか言えよ」 「……何を言ってもあなたは赦さないでしょう?」 「……開き直るつもりかよ」 逆キレは最低だ、常々そう思う。褒められたものではないが、自分が悪い場合は素直に言い訳しないで侘びを入れているつもりだ……多分。 「そんなつもりはありません……自分でも分かっているんです、馬鹿げていると」 実際あの時義明に釘を刺したのは〟何となく〝だ。 眠る高耶が自分以外の人間の名を呼ぶなど、寛容し難い。呼ばれた者がそう希望したかしないかなど問題ではなかった。だから言ったのだ、皇太子に。高耶に見られていたのは誤算だったのだが。 「あなたが、あなたが関わると俺はどうもおかしくなってしまう」 「……」 「あなたの思考に住むのは……俺だけにしたい……不可能だと分かっているのですが」 そう言いながら直江は高耶に指を伸ばした。 言い包めなければ、と思ったのは違うとは言えない。だが全て事実なので直江に躊躇は無かった。 「高耶さん……」 このまま抱き締め誤魔化せれば…… 抱き寄せると、高耶の抵抗は無かった。そのまま腕の中に閉じ込められている。そんな高耶に直江は心底安堵した。 「高耶さん……高耶さん……」 黒い髪にキスを落とすと、そっと細い躯を解放した。 「食事に行きましょうか」 「……」 無言で頷く高耶の表情は見えない。だが直江は、あれだけ憤っていただろう高耶の怒りが収まった事に確かに気が緩んでいた。 「お腹空いたでしょう?きっと高耶さんの好きなものですよ」 「……」 背中に手を沿えエスコートする直江にとって今は既に、嵐は通り過ぎ穏やか時間を手に入れた、そう信じて疑わなかったのだった。 疲れたから自室で休む、そう言って食事の後高耶は直江に背を向け行ってしまった。今日は高耶を抱きたいと思っていた直江は残念だったが、無理を言うつもりはない。 自室に戻り、直江は何時も通りベッドに入り目を閉じた。明日はまた、高耶に笑みが戻り抱き締められるだろう、何の疑いもせず。