【やいぎょく】しょうもなくとも、ハートレス
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■A6/62P ■下鴨矢一郎×南禅寺玉瀾。短編5話。パピルス版(雑誌掲載版)を題材に、玉瀾がイモリジュースを作る話、矢一郎が乙女に化ける話、正一郎兄様が鍋の底に落ちる話、矢三郎が四条烏丸交差点に寝そべる話、矢一郎が玉瀾に櫛を贈る話、の5話です。 ■サンプルは矢一郎が乙女に化ける話です。
しょうもなくとも、ハートレス
悲劇も喜劇も、絶対王政。 下剋上など、未来の果てで。 掴めぬならば、残りは一つ。 ごまかせもみ消せ、この事実。 世界と日本はともかくとして、洛中に正義はないのか、と俺は問いたい。 ぱちりと大きな目でまばたきをして、「大げさねえ」と母は噴き出した。湯飲み茶碗を手にしていたのなら、緑茶をこぼしたかもしれない。しかし、この服装の母が注文するのは珈琲か紅茶と決まっていたから、緑色の液体がテーブルを席巻することもないだろう。はああ、ととんでもなく深い息を吐き出した。 下鴨家において、母の言いつけは絶対である。家長ないまま下鴨の家をのんびりと守ってきた母に文句を言うつもりはこれっぽっちもないが、この件だけは別である。もはやこれは絶対王政のごとくの所行なのだから。逃げ出したくとも逃げ出せないのが、下鴨四兄弟の業というものだ。はっきり言って、むうう、と唸るほかない。 二つ下の弟はよいのだ。あれは〔面白ければなんでもいい〕と考えている節があり、絶対王政から繰り出される言いつけを〔面白いもの〕の一つとして納得しているらしいのだから。一つ下の弟は(情けなくも)基本的に蛙であるし、ゆえに狸の化け術ですら危なっかしい。末の弟は「ちょっと恥ずかしいかなあ」などと主張しており、わりとまっとうな感覚の子狸だ。 ただし、この言いつけは〔ちょっと恥ずかしい〕ではない。〔洛中が滅亡してしまうくらいに恥〕である。雌狸は論理的な思考回路をあまり持たないので、母に「なぜその一択なのですか!」と叫びを上げても意味はない。「あら、だってその方が見映えがいいでしょう」と返答されるだけだ。見映えなどくそ食らえだ、と真剣に怒号したい。 この元凶である、母の興味を宝塚から反らそうとした日々もあったが、「ああもうひどい! 唯一の楽しみなのに!」と嘆かれてしまった。俺は親不孝ではありたくないので、それ以上を訴えられなくなる。実のところ宝塚はいいのだ。下鴨家の財政を圧迫しない趣味の範疇であれば、実はぜんぜん構わなかった。俺が構うのは別件である。 さっぱりときっぱりと理解できないのだが、なぜに宝塚の青年風に化けた雌狸の隣には令嬢風に化けた雄狸であらねばならないのであろう。いくら問いかけても真っ当な答えが戻ってこないので、これは真っ当な思考ではないのだろう、と息子は考えている。倒錯だ。まやかしの霧のような姿を追い求めてなんとする、と思ったが、よくよく考えれば我々は狸だった。常日頃からの幻を得意とする身であった。 そんなわけで、これから宝塚観劇に向かうという母に付き合っているのだが、正直すぐさま逃げ帰りたい。糺の森が恋しい。ああ、あのざわざわと緑なす葉と枝よ。待っていてくれ、下鴨矢一郎の帰りを期待して。などと適当な口上を頭の中だけで繰り広げたら、二つ下の弟の不在が身に沁みた。とんでもないくらいにはうんざりと。 あいつが普通に京都にいたのであれば、俺に白羽の矢など立たなかった。あれは令嬢に化けるのを面白がっているから、母に声をかけられたのなら同行したただろう。どこに行ってしまったのだか判然としなかったが、下鴨家の三男は洛中に不在である。ゆえに、残されたのは狸に戻れない蛙と化け術の怪しい子狸と俺だけだった。南無三、というやつであった。 窓硝子の向こう側では、じりじりと真夏の日差しが照りつけている。〔UVカットガラス・熱吸収ガラス〕と透明で横長のシールが端に貼りつけられていた。それでもまぶしい、とわずかに目を細めたら、容赦のない太陽さえ俺を照らす。まるでこの滑稽な化け姿を笑われているようで、どんよりとした気分が盛り上がる。これが曇天であったのなら、俺の心とそっくりそのままであるのに、と快晴すぎる高い空を想った。 狸界の誰にも発見されないうちに我が家へと帰還したい。俺が望んでいるのはそれだけだった。幸い、母の乗車予定の電車の時刻が近づいていたから、もうしばらくの辛抱である。これはもはやなにかの修行なのかもしれない。そうとでも思い込まないとやっていられない。「ご令嬢な矢一郎はもてるのねえ」と母は感心している。そんなのは冗談ではない。 ホテルのロビーに面しているカフェに座す雄狸に対して、ちらちらと目線を投げてくる人間には呆れ果てるしかない。いくら令嬢風に化けているとはいえ、見る目がなさすぎるのではなかろうか。こんなものが見抜けないから、人間の女にも化かされるのだろう。時間よ早く過ぎ去ってくれ、と溜息を量産した刹那に、窓硝子の向こう側で白い日傘が揺れた。 相手に気づいた母がひらひらと手を振る。日傘の中で小さく頭を下げた猫目(狸だが)がぱちり、とまばたきをする。俺の姿をじっと見据え、しばらく凝視された。だらだらとワンピースの背中で冷や汗が伝うのが分かった。とんでもなく南無三である。〔洛中が滅びるくらいに恥〕ではなくなってしまった。どうしたらよかろう。むしろどうすればこの場面を切り抜けられるであろう。 一番見られたくない相手に見つかってしまった。ああ、八兵衛明神よ、俺を洛中から消滅させてくれ。〔殺してくれ〕だと偽右衛門になれなくなってしまうから、そうもいかない。今、この場だけで構わない。こんな姿を彼女の前に晒すのならば、俺は死さえも厭わない勇敢さだったけれども。令嬢風に化けているから女々しいのかと言われようとも、下鴨家の長男は悲願を捨てるわけにもいかないのだ。 ◇ 「あの、そういう会合なのかと思ったのだけれど、違うの?」 南禅寺玉瀾は多少遠慮がちに、ゆっくりと淡々と問う。いっそ阿呆なことをしでかした金閣銀閣に対するように、「いったいぜんたい、なにをやっているの!?」と詰問された方がましであった。世界には神も仏もなく、俺を消滅させてくれる存在は現れない。誰が好き好んで、好いた相手におかしな姿に化けた己を見られたい雄狸がいるというのだろう。 母は玉瀾がカフェのテーブルまでやってくると、「おや、格好いい」と笑顔で応じた。「私はもうお役ごめんみたいだな」とにこやかに椅子を立ち上がる。なにが〔お役ごめん〕なのだろうか。その役割を与えられていたのはむしろ俺である。母は趣味の化け姿を堪能していただけである。ああ、洛中を騒がせる〔黒服の王子〕はとんでもなくワガママだ、と溜息ばかりだ。 きらきらした宝塚風の笑顔を振りまいて、「じゃあ、行ってくるよ」と母の後ろ姿はスキップでもしかねないありさまだった。ぺこりと頭を下げて見送る玉瀾と、むっとした表情のまま〔令嬢風〕を取り繕っていた俺がテーブルには残される。母という壁がいなくなってしまったのだから、下鴨矢一郎はこの姿で南禅寺玉瀾と対さなくてはならない。なんの罰ゲームだろう、と泣きたくなった。 「ひょっとして、私は化けなくともよかった?」 こそり、と顔を俺の方へと寄せて彼女が問う。どうにもこうにもどきり、としてしまうのは、彼女の姿が普段と異なるからだ。面立ちはさほど変わらないが、黒髪の短髪が目の前にあり、なんとも摩訶不思議な気分になる。「下鴨のお母さんは宝塚風の青年になっているし、矢一郎さんらしき狸は令嬢風だし、そういう会合なのかと思って」と首をかしげられた。南禅寺正二郎の兄である、正一郎さんに少し似ているだろうか、と思った。 あの人(狸だが)も猫目(狸だが)だからな、と妙に感心する。青年に化けた玉瀾が次男の正二郎と近くならないのは、兄妹の目元が違うからだ。正二郎は垂れ目である。俺がこんなどうでもよさそうな検証を続けているのは、自らの化け姿の情けなさに羞恥で消え失せてしまいそうだったからだし、彼女の化け姿に鼓動が騒がしいからでもある。どきどきと鳴っている心臓を叱咤したい。ああもう、落ち着け。 先刻舗道側から俺を凝視した玉瀾は、「矢一郎さん」とぱくぱくと口を動かし、きょろ、と周囲を見回した。舗道沿いに植わっていた常緑樹の影でポン! と可愛らしい音を鳴らす。半袖のワイシャツにネクタイをした青年が現れて、ちらりと俺に目線を投げた。そのまますたすたとホテルのエントランスを潜ってきた青年は、カフェのテーブルにやってきたのである。 「言っておくが、俺の趣味ではないのです」 「どうして敬語?」 一瞬だけ苦笑した青年はくすりと笑う。青年に化けても彼女の笑い方は変わらないのだな、と考えながら、「ええ、下鴨のお母さんのお願いよね」と絶対王政にやんわりとした脚色をした声を聴く。しばらくこの声を聴いていたい、と感じるのは俺が令嬢風に化けているからだろうか。 「分かっているから、気にしなくともいいの。それにしても、ご令嬢に化けるのが得意なのは矢三郎ちゃんだけじゃあないのね」 くすくすと青年が楽しそうに笑う。玉瀾はわりとつり目なために、怒っていると迫力があり、鋭い表情になりがちである。でも、笑うととても可愛らしいのは青年の姿でも変化がない。注文した紅茶がテーブルに並べられ、ティーカップを持ち上げる指先が長い気がした。まあ、俺はそれほど彼女の手を握ったこともないのだけれど。 こくりと紅茶を飲む青年の目がわずかに細められた。もしや苦かったのだろうか、と不思議になれば、「はあ、ネクタイって苦しい。男の人は大変なのね」と周囲に聞き咎められそうな台詞が降った。すい、と首元のネクタイに指先が伸ばされる。「……ん」と少しだけ眉根を寄せた玉瀾はネクタイを引いたが、どうやら上手く外せないらしかった。結び目に触れるそれが両手になった。 俺はなにも考えていなかった。ああ、外せないのだな、とそれだけだ。玉瀾の化け姿は基本的にはロングスカートにブラウスであったし、まれに着物や浴衣を着ているくらいだ。たぶん、ネクタイをしなくてはならない服装が初めてなのだろう。だから下鴨矢一郎は、誓って決して他意があったわけではないし、当然ながら不埒な思考でそうしたのではない。なんとも自然な気持ちで手を伸ばしてしまった。 「……矢一郎さん……」 かすかに動揺した彼女の声音で、自分がなにをしでかしてしまったのかに気づく。じわりと額に浮かんだ汗が吹き飛びそうにがっ、と顔面が赤くなる。数十センチの距離にあるネクタイを外したのは、単純に玉瀾が苦しそうだったからだ。加えて、ネクタイの外し方が分からないらしいと思ったからだ。それは現実で事実で真実であるはずだった。俺が彼女の衣服を脱がせてしまった、という結実を除いたのなら、洛中にはこれっぽっちも嘘はない。 ゴッ! とカフェのテーブルに俺の額が激突するのと、ガチャン! とテーブルのティーカップが音を鳴らすのが同時だった。まずい、やってしまった、と脳内でぐるぐると混乱した気持ちが回転する。「すまない」と蚊の鳴くような声量で台詞を必死で引っ張りだし、「そういうつもりはなかったんだ」と付け加える。なんだかそれがえらく言い訳がましくて、なんと言ったら伝わるだろう、とめまいがした。 洛中が恥ずかしさに滅んでしまうほどの静寂があり、狸も天狗も人間もなに一つもの言わない時間が過ぎていく。彼女の姿が消え失せていたらどうしたらよかろう、と絶望の淵でそろそろと頭を持ち上げる。苦渋と気恥ずかしさで目を細めたら、目の前の席には白いブラウスと青いスカートの彼女が座している。あれ、とまばたきしたら、眼下の腕と繋がっているのも見慣れた茶色の着物の袖だった。 テーブルに頭突きをした瞬間に化け術が解けたのだろうか、と考えながらも、俺はぼんやりと目の前の彼女を見つめていた。「あの、気にしていないから……」と言葉にする頬がとんでもなく照れくさそうで、気にしてくれた方が嬉しい、と口走りそうになる。矛盾だな、としみじみと思考する俺は、じわりじわりと侵食してくる心に嘘がつけなくなってしまった。つい、そのまま声にする。 「俺は、いつもの姿の玉瀾が好きだ」 凛々しくて綺麗なのに気取っていなくて、ふとした瞬間に笑まれたらどうしたらいいのか分からないくらいには頬がゆるんでしまう。彼女は、俺がどれだけ顔面を引き締めようと格闘しているのだか知っているだろうか。雄狸としては知られない方が格好いいのだろうと分かっていたが、少しくらいであれば知られてもいい、と思った。これも矛盾だ、と下鴨矢一郎は分かっている。 「私もね、いつもの矢一郎さんの方がいいと思う」 俺の台詞にぱっと頬を染めた彼女が変わらずに目の前の席にいて、俺でも彼女を照れさせることができるのだな、と小さく感嘆する。常日頃、赤面しているのは自分ばかりのような気がしたが、そうでもなかったろうか、とおかしくなった。そんな刹那に、俺の視界にすい、とかざされるもの。「赤くなってる……。大丈夫?」 カフェのテーブルに全力で打ちつけた額が気になるのか、彼女の指先が俺の目線を遮って柔らかく触れた。「へ、平気だ」となんとも息も絶え絶えに答えたら、ぱちり、と彼女はまばたきをする。やはり、俺の方がより赤面しているのではなかろうか、と熱を発する頬を思った。嬉しいのを気取られないように見据えると、なんだかさっぱりとお見通しでいそうな声が洛中には響くのだから。 (若旦那風の矢一郎さんの方が、私も好き、といつもの彼女は笑ってみせるから) ※パピルス15号にて、矢一郎が「ふくれっ面が高飛車な印象を醸し出し、なかなか可愛くできていた」乙女に化けている。