Die Intrige (陰謀)
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銀河英雄伝説の二次創作小説。 ラインハルトがまだミューゼル姓を名乗っていた10代後半、OAV『奪還者』の秘密任務から帝都に帰還した彼とキルヒアイスが直面したのは、帝都を舞台にした不可解な事件だった。既に廃屋となっていた某貴族邸で大規模な火災と爆発事故が起きたのだ。 一見、偶発的な事故でしかないと思われたこの事件をきっかけに、二人はある陰謀の存在に気付く……
シュトレーメル伯爵家
「原因は何かしらね?」 またあなたたちなの――フラウ・ロートリンゲンが、そんなありふれたフレーズで彼らに説教をくれるわけもなく、その温顔から叱声が飛ぶこともない。にも関わらず、この老貴婦人の前に呼び出されると、ラインハルトですら自ずと背を正してしまうことがあった。 かつては金髪であったに違いない、見事な銀髪を古風な形に結い上げたフラウ・ロートリンゲンは、ゆったりと座した姿勢のまま、彼女の前に呼び出された悪童たちに視線を据えている。マリア・アントニア・フォン・ロートリンゲン。幼年学校一年生たちの数学担当教官が戦死してしまったがために、臨時に彼らを担当することになったのだが、既にその威令は一年生クラス全体に行き届いていると言っていい。 「こいつが、いきなり殴りつけてきたんだ!」 顔の中央にちまちまと集まった、その口が歯を剥き出して、金髪の美貌の少年に対する言葉の形をした憎悪を吐き散らした。 「帝国騎士のくせに、この俺を殴ったんだぞ。俺の伯父上はヴィンスティンゲン侯爵閣下で、俺の母上はヴァルテンブルグ伯爵の姪なんだぞ!」 粗暴さを絵に描いて額縁をつけたような、とは余りにステレオ・タイプな形容かも知れない。一〇歳という年齢に比して長身のラインハルトやキルヒアイスと較べても、確実に一回りは大きな身体の輪郭は、しかし、引き締まった筋肉ではなくてだぶついた贅肉で縁取られている。大きすぎる顔の輪郭から遠く離れすぎ、奥に引っ込みすぎた目鼻の造作が、ある種の類人猿の醜悪な戯画を連想させる。 フラウ・ロートリンゲンは、あるいは微かにため息をついたかも知れなかった。それとも臨時の数学教師でしかない自分が、どうしてこのクラスの生活指導をしなければならないのか、納得できていないのかも知れない。 もっとも、それはまだ一〇歳の少年であるキルヒアイスの観察に過ぎなかった。実際にはこの老貴婦人が、現在の事態に興味津々に視線を注いでいるのだとは思っても見なかったのだ。 「もう少し、語彙を増やした方が良いわね。ヴァルテンブルグ伯の姪孫<てっそん>殿。自分の名前も名乗れないのでは、この先が思いやられます」 「なにを――!」 フラウ・ロートリンゲンのいわゆる『ヴァルテンブルグ伯の姪孫<てっそん>殿』は、怒りに顔面を真っ赤にするが、凶暴な色合いを帯びた目は、この老婦人を直視しようとはしない。フラウ・ロートリンゲンに正面から反抗すること一〇回近く、ようやく、彼女への反抗が無駄であるばかりか、自身にとってもデメリットしか生まないことを察したらしかった。 「猿や犬でも一度怪我をしたら、二度としないように注意するものなのにな。あいつらの知能はミミズ並みだな」 辛辣に言い捨てたのはラインハルトである。積極的に同意の言葉を漏らすことはなかったが、キルヒアイスも意見を異にすることはなかった。 「まだわたしの質問に答えていないわね。原因は何なのかしらね」 フラウ・ロートリンゲンの青い目が、一歩下がって佇んでいた少年に向いた。 「コンラディンが――」 少年が指したのは、『ヴァルテンブルグ伯の姪孫<てっそん>殿』だった。少女のように肩口で綺麗に切り揃えた髪は、帝国貴族には珍しいストレートの黒髪であり、その瞳もほとんど純粋な漆黒。白晢の肌とのコントラストが鮮やかだった。ラインハルトの傍にいると完全に霞んで見えるとはいえ、美少年の形容が些かも不自然ではない端正な少年である。 「ヘル・ミューゼルの親について悪口を言ったんです。それから、姉君のグリューネワルト伯爵夫人についても」 言葉遣いの幼さは年相応として、口調の冷静さ、平坦さにキルヒアイスはそっとラインハルトの表情を伺った。蒼氷色の目が軽く瞠られ、微かにその視線が後ろへ流れるのが見えた。ラインハルトもまた、この同級生に興味を惹かれたことは明らかだった。 「グリューネワルト伯爵夫人のね?」 「はい。コンラディンはヘル・ミューゼルの父親のことを……」 「内容は話さなくてもよろしい、ヘル・シュトレーメル」 軽く手を挙げて、フラウ・ロートリンゲンは黒髪の少年を遮った。 「父親を罵られて、ヘル・ミューゼルはどうしたのかしら?」 「だから、いきなり殴ってきたんだ。俺は本当のことしか言っていない。本当のことを言われて他人を殴るのは、こいつが下賤の……」 『ヴァルテンブルグ伯の姪孫<てっそん>殿』……コンラディン少年の罵声が、スイッチを切られたように止まる。フラウ・ロートリンゲンが執務机の上の大きな鈴、牧場で牛たちを呼び集めるための銅製の鈴だから、相当に大きい。 信じられないことに、この細身の老婦人は、平気でこの大きくて重い鈴で生徒たちを殴るのだ。無論、犠牲者は、聞き分けのない、我が儘限りを尽くしている大貴族の子弟たちに限定されていたが。そして、コンラディン少年は、この鈴を頭上で受け止めた回数ではクラスのトップを疾走している。 その痛みの記憶と、その後で浴びせられる彼の両親と、時にヴィンスティンゲン侯自身からの叱責が、さしもコンラディン少年をも自己防衛の姿勢に走らせた。つまり、両手で頭を抱えたのである。 が、彼の期待(?)に反して、フラウ・ロートリンゲンは鈴を鳴らして、従卒を呼び、紅茶のお代わりを頼んだだけだった。 「それで、ヘル・シュトレーメル?」 「ミューゼルが相手をしようとしないので、コンラディンは席まで言って、こんどはグリューネワルト伯爵夫人のことをあれこれ言い始めました。席が離れたので、グリューネワルト伯爵夫人の名前が聞こえただけで、あとは聞こえませんでした。ヘル・ミューゼルがコンラディンを殴ったのは、その後でした」 コンラディンもすぐに殴り返そうとしたが、その拳がラインハルトを捉えることはなかった。コンラディンは仲間の加勢を呼びかけ、その声に応じた数名が、今彼らと共にフラウ・ロートリンゲンの執務室に立たされているわけである。 キルヒアイスの役割はラインハルトへ加勢して彼らを叩きのめすことではなく、彼らの間に割って入っていざこざを止めることだった。一対一でラインハルトがコンラディンのような少年に負ける気遣いはなかったし、一対多となってもラインハルトがむざむざやられているわけはない。ただ、何しろ先に手を出したのはラインハルトである。騒ぎの責任を問われて停学や退学などになっては大変なことになる。 危うく大乱闘になりかけている彼らの中に飛び込み、自身も何発か食らいながらも、漸く彼らを引き離したところに、フラウ・ロートリンゲンが現れたのだ。彼女の授業が始まる前の休憩時間でのトラブルだったのだから、これは別に偶然でも何でもない。現れたのが他の教官であったとしても、多分、彼らはフラウ・ロートリンゲンの執務室への出頭を命じられることになっただろう。何しろ、彼女は臨時に一年生クラスの生活指導を担当することになっていたのだから。 「ほら見ろ、やっぱりミューゼルが先に手を出したんじゃないか。俺は悪くないぞ。先に暴力をふってきたこいつが悪いんだ」 我が意を得たりとコンラディンが吠え猛るのに、フラウ・ロートリンゲンは微笑して首を振った。 「『ヴァルテンブルグ伯の姪孫<てっそん>殿』、暴力は『ふるう』ものであって『ふる』ものではありませんよ」 やんわりと、コンラディン少年の語彙不足をたしなめてその口をふさぐと、老貴婦人は黒髪の少年に視線を戻す。 「わかりました。ヘル・シュトレーメル。あと一つ聞きます。今、グリューネワルト伯爵夫人、と呼びましたね。ヘル・ヴィスティンゲンは、伯爵夫人をその名で呼びましたか?」 ぎょっとしたようにコンラディンが目を瞠る。勝利を確信していたに違いない、その顔面から音を立てるようにして血の気が引いていく。一瞬に白茶けた顔色に変わった額にどっと脂汗が浮かぶのが見えた。それでも深く引き込んだ目が、ぎらつくようなねつい色を帯びて、まずラインハルトをにらみ据え、それから黒髪の少年、シュトレーメルに視線を突き刺し始める。 シュトレーメル少年も気づいたらしい。わずかにその黒瞳が動くのが、キルヒアイスからもはっきり見えた。 「おい、シュトレーメル!」 シュトレーメルは、しかし、コンラディンの怒声を無視した。はっきりとした動作で首を左右に振ったのだ。癖のないストレートの黒髪がさらさらと左右に流れるように揺れた。 「いいえ、コンラディンは伯爵夫人をその名ではお呼びしませんでした」 「黙れ、シュトレーメル、どうなるかわかってんだろうな!」 「お静まりなさい、『ヴァルテンブルグ伯の姪孫<てっそん>殿』――ヘル・シュトレーメル、それで宜しい。ヘル・ミューゼル、それからヘル・ヴィスティンゲン……」 居住まいを正し、フラウ・ロートリンゲンは居並んだ悪童たちを正面からその視界に入れ直した。 「例によって、レポートの提出を命じます。期限と枚数は分かっていますね」 俺は被害者だぞ……なおも抗弁しようとするコンラディンを抑えるように、フラウ・ロートリンゲンはラインハルトに向かって言葉を継いだ。 「ヘル・ミューゼルは夕食抜きです」 「はい――」 「手出しをした以上、何らかの懲罰は覚悟の上だったはずです。あなたにはあなたの正義があるのかも知れませんが、事情はどうあれ、先に手出しをしたのはあなたです。宜しいですね?」 一瞬、蒼氷色の瞳が瞬いたように見えたのは、あるいは自分自身をなっとくさせるための時間を要したからなのだろうか。ラインハルトは頷いた。 「分かりました、フラウ・ロートリンゲン」 「助かったな――」 明日の朝の始業前……フラウ・ロートリンゲンの『レポート』は期限が厳しい。期限を守れなかったり、一〇〇〇語以内、レポート用紙一枚という枚数が規定のそれに届かなかったり、多すぎたりすると、そのまま生活態度の評点にマイナスが付く。一〇歳の少年にとっては中々の難行である。 それに時間の制約もある。普通に幼年学校のクラスを受けているだけなら、それなりの自由時間は確保できるのだが、ラインハルトにとって幼年学校は士官学校への一階梯ではない。幼年学校卒業と同時に最前線に身を投じる決意でいる彼にとって、幼年学校はできるだけ短期間にできるだけ多くのことを学び取る唯一の機会である。ゆえに、限度ぎりぎりまで受講クラスを増やしている上に、課外課業でさまざまな実技講習までうけているのだ。 消灯時間まであと幾らもない時間帯、ラインハルトは黒パンを囓りながら、レポートの仕上げにかかっている。黒パンは無論、キルヒアイスが食堂からこっそりとくすねてきてくれたものだ。 「そうだね。ヘル・シュトレーメルが本当のことを言ってくれてなければ、夕食抜きでは済まなかったと思うな」 一方のキルヒアイスも、明日のクラスの予習に余念がない。彼とて並以上の頭脳と、こちらは天与ともいうべき身体能力の所有者であることは間違いない。その彼にとってさえ、この金髪の友人と肩を並べて行くのは大変なことに違いないのだ。 「ヘル・シュトレーメルってどんな奴なんだ。知ってるか、キルヒアイス?」 「ええと……」 テキストから目を上げて、キルヒアイスは記憶をたどる。飛び抜けた美貌にも関わらず、性格に圭角の多すぎるラインハルトには友人が多くない。金髪の天使のようなこの少年と近づきになりたがっている同級生が、実は結構多いことをキルヒアイスは知っているが、残念ながらラインハルトの狷介さが彼らを容易には近づけないのだ。 代わりに……と言うべきなのだろう、キルヒアイスに接近してくる同級生や同期生は多い。男爵家出身のフェルディナンド・フォン・トゥルナイゼンを初めとして、下級から中級の貴族の出身者が中心で、キルヒアイスと同じ平民出身者も何人か含まれている。当然のことながら伯爵家以上の上級貴族の過半はラインハルトを敵視している。 意外なのは、平民出身者の中でも成績上位者たちで、彼らはラインハルトを反門閥貴族のシンボルとしては見ていない。帝国騎士という、貴族の中でも最下層の出自よりも、美しすぎる容姿が典型的な貴族を連想させるためなのかも知れなかった。 自分自身、ラインハルトとアンネローゼの姿を間近で見るまでは、ヘル・セバスティアン・フォン・ミューゼルが貴族だとは信じなかったからな――そう思うキルヒアイスの思いは、まだ一〇歳の少年の制約を離れてはいなかった。 「ホントのところ、よく知らないんだ」 キルヒアイスは正直なところを口にする。ヘル・シュトレーメル……フロリアン・ゲールハルト・フォン・シュトレーメルは、そんな中で異質な存在だった。 伯爵家であるシュトレーメル家の長男だというフロリアン・ゲールハルトが、ラインハルトやキルヒアイスを彼らの社会への闖入者として敵意の眼差しで出迎えたとしても何の不思議もない。むしろ当然の態度だと言って良い。 「話しかけると普通に話してくれるし、何か頼んでも引き受けてくれるんだ」 キルヒアイスにとっては別に珍しくもない、『普通の級友』である。特段に親しい友人というわけではなく、教室に出れば挨拶し、冗談も交わすし、会話やディスカッションで口論になることもない。とは言え、家族のことや個人的な打ち明け話をするほどには親しくもない。 「だけど、あの『ヴァルテンブルグ伯の姪孫<てっそん>殿』――」 ラインハルトはフラウ・ロートリンゲンの口調をまねた。 「あいつの取り巻きってわけでもないだろ」 「違うよ。なんて言うか、対等……って言うのか、友だちってわけでもないし、脅されても平気そうだし」 ヴィンスティンゲン侯爵やヴァルテンブルグ伯爵と言えば門閥貴族の中でも相当以上の有力者だ。その親族の名をあげて、脅されれば大抵の少年は口をつぐむ。たとえば、今日、コンラディン少年が口にした許されざるあの言葉にしても。 挑発に乗らないラインハルトに苛立ったのだろう、コンラディンはアンネローゼを指してこう言ったのだ。『皇帝陛下に(一〇歳の少年にのみ使用可能な、女性の身体のある部分を指す低劣な俗語)でお仕えしている、お前の姉貴のあの売女<ばいた>』。ラインハルトが一瞬のうちに激昂の頂点に達したとしても何の不思議もない。キルヒアイスにしてみれば、ラインハルトがコンラディンの頬に一発入れただけで済ませてやった寛大さが不満なほどなのだ。 一方、仮にも現皇帝の寵姫をあんな言葉で罵ったとなれば、それが子供の戯れ言でもただでは済まない。もし、フロリアン・ゲールハルト・フォン・シュトレーメルが、その言葉を正確に伝えていれば、フラウ・ロートリンゲンはコンラディンを不敬の罪に問わなければならなくなる。だから、彼女はフロリアン・ゲールハルトの言葉を途中でとどめたのだ。 「ひょっとしたら、フラウは全部聞いてたのかも知れないね」 キルヒアイスの言葉に大きく同意を示して頷くと、ラインハルトはキーを押してレポートのハード・コピーを出力させた。もう一度校正読みをするつもりらしかった。このあたり、キルヒアイスの金髪の友人は意外なほどに犀利だった。 「ああ。だから、シュトレーメルにしゃべらせなかったんだ」 「――?」 「考えてみろよ、ヴィンスティンゲン侯やヴァルテンブルグ伯だろ。その甥だか、姪孫<てっそん>だか知らないけど、そんな奴を罰したら大変じゃないか。フラウだって、面倒は避けたい。そうなんじゃないのか?」 キルヒアイスは答えなかった。予習のテキストの最後の一ページを閉じると、椅子を回してラインハルトを正面から見据える。ラインハルトの白晢がみるみる首筋から赤くなり、やがて参ったように右手で口許からうなじのあたりをなで回した。ちょっと拗ねたように、友人の赤毛から視線を背けた。 「――言ってみただけだ、キルヒアイス。言ってみただけだぞ」 実のところ分かっている。ラインハルトは単に不満だったのだ。姉をあのような言葉で貶め、侮辱したコンラディンのような存在が、処罰もされずに……レポートは書かされてはいるものの、のうのうとのさばっている。その事実にラインハルトは耐えられないのだ。しかも、コンラディンの口にした言葉は、それがあの少年の品性と内面を反映した下劣さに満ちていようとも、それが事実の一端を示していることに間違いはなく、かつ、彼の熱愛する姉をそうした境遇に突き落としたのが、他ならぬ実の父であるという経緯がある。 にも関わらず、自分は未だ一〇歳でしかなくて、現実をどうすることもできない。五年後、一〇年後はどうあれ、現時点においては、どれほどに耐え難くあっても事実は事実として自分たちの前に立ちふさがっている。そうした苛立ちと怒りが内心で複雑に反射し合い、共鳴しあった結果としてフラウ・ロートリンゲンへの不満という形で言葉となって吹き出してきた。 もちろん、この時のキルヒアイスにそこまでの自己分析ができていたわけではない。ただ、彼自身のフラウ・ロートリンゲンへの評価と、ラインハルトの性格への知識、それらがラインハルトの言葉への違和感となって現れてきた。それが顔に表れて友人を凝視させたに過ぎない。 「調べてみるよ、ヘル・シュトレーメルのこと」 キルヒアイスは話題を戻した。シュトレーメル……フロリアン・ゲールハルトに、これまで二人は注意を払ったことがなかった。彼が敵意も好意も示さなかったことと、本人自身が余り目立たなかったことも、彼らの注意を惹かなかったのだ。とは言え、とにかく敵の多いラインハルトにとっては一人でも味方は多い方がよいに違いないし、ラインハルトに味方を作るのもまたキルヒアイスにとって大事な義務であり、権利だった。
邂逅
「ラインハルトさまは無茶が過ぎます」 ラインハルトの左腕に巻いた包帯を取り替えながら、キルヒアイスはこれで何度目、いや何十度目になるか分からない言葉を口にしている。 「もう言うな、キルヒアイス。無茶だったことは、実際にあの場に立った俺の方が骨身に滲みて感じているのだ。あまり愚痴られると、耳にたこができてしまうぞ」 「たこができるくらいがちょうど良いんです、ラインハルトさま。でないと、また無茶をなさる。ラインハルトさま、お一人のお命ではありません。無用の冒険は慎んでいただかないと、わたしがアンネローゼさまに申し開きができません」 「わかった、姉上にはわたしが自分でお詫びをする。お前が止めてくれたことも、アドバイスをくれたことも。だから、もう説教は止めてくれないか」 「今日はこの程度にして差し上げます。あとは明日にさせていただきます」 「え、明日もあるのか?」 やや情けない口調になったラインハルトに、キルヒアイスはくすりと笑う。ラインハルトのこんな一面を知ることができるのは、確かに彼にだけ与えられた特権に違いない。 帝国暦四八三年一月。ラインハルトは、その生涯でも滅多にない経験……負傷療養……を体験している最中だった。負傷は二カ所。左腕前腕の盲管銃創と、左胸から右脇腹に近いあたりまでを切り下げられた刀傷である。 左腕を傷つけた弾丸は、手首に近い骨で止まり、主要な血管を傷つけるには至らなかった。軍用の熱線銃ならそのまま心臓を貫通して、ラインハルトを即死に至らしめただろうきわどい位置への銃創だった。 「人間の手首の骨は、骨の中でも最も硬いのだよ。火薬の量がすくなくて弾丸が低速だったから、骨を貫通できなかったわけだ。それと弾丸が軍用の鋼鉄製だったから、骨に食い込んだだけで炸裂せずに止まってくれた。これが鉛だったり、銀だったりしたら骨は無事でも前腕部の皮膚と筋肉は吹き飛んでいただろうね。そうなったら切断して義手に換えるしかなくなっていたところだ」 医者の言葉はキルヒアイスに安堵と同時に恐怖を呼ぶに十分だった。目前でラインハルトの腕が吹っ飛ぶ光景を見るくらいなら、自分が身をもって弾丸を受け止める方がどれほどましか分からない。本心から彼はそう思うのだ。 「ええ、明日もあります。わたしを心配させた罰だと思ってください。わたしの気が済むまで、たっぷりお説教させていただきますからね、覚悟していてください」 「悪かった。決闘がどういうものか知っていたら……」 「受けませんでしたか?」 わざと意地悪く反問すると、ラインハルトは困ったように顔を背けてしまった。 キルヒアイスには分かっていた。たとえ決闘というものがどういうものか、いわゆる『決闘者』なる者がどのような存在なのか、事前に知っていたとしても、シャフハウゼン子爵やヴェストパーレ男爵夫人の懇請を無下に退けて、ラインハルトは我が身一人の安泰を図ったかどうか。 だが、それでも決闘など受けるべきではなかった。それがキルヒアイスの結論である。ヴェストパーレ男爵夫人はアンネローゼの宮廷での貴重な味方であり、シャフハウゼン子爵夫妻もまたアンネローゼの数少ない友人である。が、彼らを守るためにラインハルトが生命を失ってしまっては元も子もないではないか。 もし、ラインハルトが道半ばにして斃れたとしたら自分はどうするのか。既に少尉の階級を得て帝国軍士官となった以上、許可なくして軍を退くことはできない。ラインハルトを喪ってしまえば、彼はラインハルトならざる同盟との永久運動にも似た戦いの中に身を投じ続けねばならないのだ……考えようとしてキルヒアイスは途中で思いを放棄する。冗談ではない。ラインハルトは生きている。生きているのだから、彼亡き後など考える必要はないではないか。 「……やはり受けたかも知れないな。ただ、その時はもっと練習するか、準備を整えてからにするだろうけどな」 キルヒアイスは再び笑った。これあるかな我が金髪の親友<とも>……である。 弾丸の摘出手術を受けた銃創はもうすぐ抜糸できそうだったし、胸の傷も塞がって新しい皮膚が傷口を覆いつつある。若いだけに回復も早い。この分では細胞賦活剤の塗布も必要なさそうだった。 帝国暦四八三年一月、ひょんなことからシャフハウゼン子爵とヘルクスハイマー伯爵との間の流体金属鉱山利権争いに巻き込まれたラインハルトは、子爵の代理人として利権の帰趨を定める決闘に赴く羽目となった。ヘルクスハイマー伯爵はその道の専門家である『決闘者』なる人物を決闘場へ送り込んできており、その『決闘者』の放った弾丸と刃が、ラインハルトを初めて負傷せしめた。 決闘そのものは『皇帝陛下の御裁定』により引き分けとなり、シャフハウゼン子爵とヘルクスハイマー伯爵は流体金属鉱山利権については折半するという条件で和解することになっている。本来、子爵が私財をなげうって開発した鉱山であり、ヘルクスハイマー伯爵が権利を云々できる立場ではなかった。伯爵は『皇帝陛下の御裁定』に地を蹴りつけて激昂したと言うが、ラインハルトはこう評している。 「特権に溺れて、厚かましさと自己主張の境目が見えなくなると、ああいう尊大きわまる男ができあがると言うことか。門閥貴族というのは、すべからくああいうものか」 とは言え、ラインハルトにとっては生まれて初めて『勝てなかった』相手との邂逅であり、ここのところちょっと表情が冴えないのも、それゆえなのだろうとキルヒアイスは推測しているのだ。 「あの『決闘者』を名乗った男の前に立ったとき、死の匂いがどんなものなのか、初めて分かったような気がしたぞ、キルヒアイス。どこかに行ってくれて幸運だった。二度と会いたくないが、あんな男が他にも大勢いるのなら厄介だな」 珍しく弱気な述懐を口にしたラインハルトである。 負傷そのものはヴェストパーレ男爵夫人の手配で信頼できる医師が治療に当たってくれ、その後も継続して容態を見守ってくれている。おとなしく入院して寝ているようなラインハルトではなかったし、キルヒアイスからすれば、たとえ男爵夫人の全幅の信頼を受けている医師の病院であっても、基本的に出入り自由な病院である。そこにラインハルトを一人置くのには不安を拭いきれなかったのだ。特に、件の『決闘者』の所在が不明なことも、キルヒアイスに警戒の念を呼び起こさせるに十分だった。 『決闘者』なる男の素性については、キルヒアイスも手の及ぶ範囲で調べては見たが、はっきりとしたことは分からなかった。帝国の貴族社会の陰に潜んで、密かな需要の許に決闘の代理人を供給する組織、あるいは複数の個人がいる。彼らは単に決闘の代理者となるにとどまらず、さらに陰惨な、例えば暗殺をも請け負っている。決して証明はされないが、貴族社会での都市伝説とも言うべき噂が根強くささやかれ続けていたのだが、彼らにとって少数の貴族社会の友人たちは、残念ながら、その噂以上の見聞には欠けていた。 ということで、ラインハルトはリンベルク・シュトラーセの下宿で自宅療養の身となったのである。 「ではラインハルトさま、行って参ります」 包帯を取り替え終えたキルヒアイスが外出準備を整えた。ヴェストパーレ男爵夫人付きの医師を訪ねて、傷の状況や次回の往診の日程を決めると共に、日々のケアのための医薬品を受け取ることになっている。キルヒアイスは幼年学校と、その後の短い軍務期間の間に野戦衛生兵相当の基本資格を取得していた。傷口を消毒して所定の医薬品を噴霧、あるいは塗布して包帯を巻き直す程度のことだが、今のラインハルトにはそれくらいの手当で十分だった。 「ああ、気をつけて行ってこい。わたしは本でも読んでいるから」 「正午過ぎには戻れると思います。昼食はフーバー夫人がご一緒にどうかと言っておられましたから」 ラインハルトはあからさまに顔をしかめた。 「早く帰ってきてくれ。フーバー家の歴史ならもう十分に拝聴したぞ」 「大丈夫です。まだ、クーリヒ家の歴史が残っています」 「この……つべこべいわずにさっさと行ってこないか!」 「はい、では良い子にしていてください」 子供扱いにするな……とでも叫んでいるらしいラインハルトの声を背にドアを閉めると、キルヒアイスは足早に階段を下りる。階下のリビングにいる家主の二人の夫人に声をかけると、彼は下宿を歩みでた。 リンベルク・シュトラーセは帝都の中央近くに位置している。帝都郊外にあるヴェストパーレ男爵夫人の邸宅近くまでは公共交通機関を使って一時間ほどだった。 帝都は首都星オーディンの温帯域に位置するが、緯度そのものは比較的高緯度に属する。西方に広がるフロイデン山系から南南東へ長く伸びた山稜が、緩やかに東への弧を描きながら南方の海洋に落ち込んで作りだした巨大な半島弧が、赤道上から暖流を帝都の近海まで導き上げてくることで、帝都の冬はその厳しさを和らげられていた。暖流は、冬の帝都に暖気と共にある程度の湿潤さをもたらし、結果として帝都の冬は白く彩られることが多い。 この日も、帝都の空は積雪を予感させて低く、濃い灰色にたれ込めて、太陽<ヴァルハラ>からの日差しの恩恵を遮っていた。気温も高くない。降り出したら、かなりの積雪になるに違いなかった。 ラインハルトではないが、さっさと行って帰ってくるに限る。コートの襟を立てたキルヒアイスは、律動的なその歩みを早めた。 ☆☆☆ キルヒアイスがその少女の姿を見たのは、ヴェストパーレ男爵夫人邸から幾らも離れていない森の外れだった。 海洋沿いの広大な洪積平野に沿って発展するとともに、不定形に向かって内陸に伸びた帝都の街区が、フロイデン山系の北東から南東に広がる巨大な面積を覆う山麓の勾配と初めて出会うあたりが帝都の郊外区画をなしている。帝都の街並みや交通網と山麓の自然とが絶妙に入り交じった高級居住地域であり、大貴族や平民の富裕層が好んで邸宅や別邸を構える一帯でもある。 それゆえ、視界に入るのはいずれも広壮な宮殿を思わせる邸宅ばかりであり、そうでなければどんよりとした日差しの下で、濃緑の針葉樹の森が黒々と蟠<わだかま>っているのだ。人通りは、あるにしても希であり、行き過ぎる人々にしてもいずれもが明らかにこの一帯の住民らしく複数の従者や、時に巨大な飼い犬を従わせている。午後からの降雪を予感させてじりじりと気温が下降していく天候に、わざわざ散歩を楽しもうとする酔狂な住民が多数派を占めるはずもない。キルヒアイスが病院を辞した時にはすでに、降雪の最初の一波が地表に達しようとしており、街路からは拭い去ったように人影が消えていた。 「車を出しましょうか」 ヴェストパーレ男爵夫人は、キルヒアイスが病院を訪ねるときは、なぜか『偶然』に居合わせるのが常だった。 「この雪はひどくなるわ。少し待っていてくれれば、車で送らせるわよ。荷物があるのに、冬に降られたら難渋するから」 好意からの申し出とは分かっていたが、キルヒアイスは何となくこの男勝りの貴婦人が苦手である。緊急の場合ならともかく、日常においてまでこの貴婦人の世話になるのはどうにもご免被りたいのがキルヒアイスの本音だった。ラインハルトなどが知れば、『そうか、キルヒアイスにも苦手がいるんだな』などとからかうだろう。 「いえ、大丈夫です。大した荷物ではありませんし、雪なら戦場で慣れてきました」 「あら、可愛くないことを言うのね」 カプチュランカの雪は雪などと言う可愛い代物ではなかったが――取りあえず、そういう言葉で相手の好意に謝絶を示し、キルヒアイスは街路に歩み出たのだ。 公共交通機関網が伸びてきているとは言え、そこは大貴族の住む高級住宅街区である。大貴族たちが出仕に地下鉄やバスを使うはずもないから、最寄りのステーションはヴェストパーレ男爵夫人邸からでも二キロ余りほども離れていた。鍛えられたキルヒアイスの脚にとって苦になるような距離ではないし、それに彼は雪の中を歩くのが好きだった。特に、この街区のように高い建物が一切ないあたりでの降雪の中を。 一キロほど歩くと、敷地の間に広がる針葉樹の森がある。大半はヴェストパーレ男爵夫人邸の敷地であり、わずかに幾つかの貴族の領有地が入り交じっているらしい。さして急ぐでもなく、しかし、その長身と鍛え抜かれた体躯のゆえに幅が広く、制御の行き届いた歩調に、踵が舗道を打つ音が律動的に響く。 キルヒアイスは空を見上げる。薄暗い灰色に染まった曇天を背景に、無数の小片がより濃度の高い灰色を帯びて舞い落ちてくる。歩みを止めれば、舞い降りてくる小片は、視界の上から下へ、わずかに左右に振れながら通りすぎて行く。じっと視線を据えていると、周囲を取り巻いた雪片の中をどこまでもどこまでも上っていくような錯覚に、身体がふわりと宙に浮いていくような感覚に襲われる。 彼が、雪の中、一人往くのを好む理由がそれだった。雪の日には空を翔べる……アンネローゼにそんなことを話して、二人で雪の空を見上げたのは、あれは何年前のことだっただろうか。 不意にキルヒアイスは地上に引き戻された。 「――!?」 最初は錯覚かと思った。余りに長いこと……と言っても実際には数分だっただろう……雪の中を舞う幻に身を委ねている内に、本当に幻覚が現れ出てきたのではないか、そんな思いに囚われたのだ。 キルヒアイスは何度か目を瞬かせた。彼を地上に引き戻したのは、人影だった。人の住まう地域であってみれば、人影があることに不思議はない。しかし、戦場での経験でそれなりの鍛錬を経たはずのキルヒアイスにさえ、その気配を感じ取らせずに、視界の中に存在を主張できる距離に近づけた人間がいたことに、彼は驚いたのだ。 護身用に内ポケットに仕舞ってある熱線銃に手を伸ばしかけ、キルヒアイスはその手を止める。細い声がその聴覚を打ち、視覚が幻覚の中にあるのではないことを告げた。 「そなた、このあたりの者ですか?」 繊細な、鈴をふるわせるような声。アンネローゼの声にやや似ているような気がしたが、これは錯覚だったかも知れない。アンネローゼの、繊細で澄明でありながらも硬質な宝玉を思わせる靱さを内に秘めた声に較べると、この声は余りにも繊弱さと不安定さに満ちていた。 銃に伸ばしかけた手を止め、キルヒアイスは数メートルの距離を隔て、佇む人影に目を凝らした。 「わたしはジークフリード・キルヒアイス。帝国軍少尉です」 キルヒアイスほどの観察眼の所有者でさえ、一瞬、その人物の輪郭を見て取り損ねて、改めて目を凝らしたほどに希薄な存在感。 白と黒……光の澄明と闇の漆黒。それが、第一印象だった。早くも雪の衣をまとい始めた地表と、森の木下闇<こじたやみ>とに半身ずつの背景を委ねた、その人物は頼りなく揺らめくように、森の端に立っていた。 縁取りのついた白い毛皮<ファー>のコートが膝丈までを覆い、こんな天候にはふさわしくない華奢な黒い革靴を履いた足許に向かって白いストッキングの脚が伸びていた。やはり縁取り付きのフードを背にはねのけた貌は透き通るように白い。眉のラインで綺麗に切り揃えられたのは、癖のないまっすぐな漆黒の髪。結いもせずに背に流した長い黒髪が、風をはらみ始めた雪の中にはためくように舞い踊る。ラインハルトにも劣らぬほどの白晢の中、輪郭のはっきりとした眉と、その下の瞳もまた漆黒だった。 「あなたこそ、どなたですか、フロイライン?」 明らかに女性。それも、彼自身と余り年齢の変わらない一〇代半ばから後半くらいの少女……キルヒアイスはそう見て取った。場所柄、近くに屋敷なり別宅なりを構える貴族の令嬢に違いない。 そう思いつつ、キルヒアイスはわずかに首をかしげる。その顔立ちには明らかに彼の記憶を刺激する何かしらがあった。一目見れば忘れられないほどの美女というわけではないから、この少女に会ったとは思えない。ただし、キルヒアイスの場合は『美女』の基準がアンネローゼなのだから、これは帝国に住む女性の過半にとって甚だしく厳しい基準に違いない。 「ジークフリード・キルヒアイス……帝国軍少尉? ここがどのあたりか、教えてくれますか?」 古風な言葉遣いだった。同じ帝国公用語でも、ごく一部でしか使われない、古帝国語に近い。その言葉遣いが少女の身元を告げている。キルヒアイスはそう思った。古帝国語に近い帝国公用語の使われる地域、それは帝国でも一カ所しかない。新無憂宮……つまりゴールデンバウム王朝の宮廷である。つまり、この少女は紛れもなく貴族の娘で、それも宮廷に出入りするような身分の大貴族ということになる。 「このあたりは、ヴェストパーレ男爵夫人の御領地です。友人が怪我をしたので、その薬を男爵夫人の侍医の方に頂きに来たんです」 娘の顔に微かな喜色が宿ったように見えた。 「では、そなたは男爵夫人から知遇を頂いている者なのですか?」 「ええ……」 知遇と言えば知遇である。否定する必要はない。 「それよりフロイライン、今日はこれから雪が強くなると聞いています。フロイラインのような方が一人で出歩かれるような天気ではないです。早くお宅にお戻りになった方が良いです」 「そなた、爺<じい>と同じように言いますね」 淡い色合いの唇を綻ばせて、少女は笑った。いかにも愉快そうなのが、キルヒアイスの戸惑いを強くさせた。幼年学校では多くの大貴族の子弟と会ってきた。その多くが、あのコンラディン・フォン・ヴィンスティンゲンのような連中だった。いつのほどか、貴族やその一族というのはああいうものなのだ。そんな固定観念に似たものをキルヒアイスは抱くようになっていたし、戦場に出てから出会ってきた大貴族の出身者は、そんな彼の概念を補強しこそすれ、裏切った例はほとんどない。ヴェストパーレ男爵夫人やシャフハウゼン子爵夫妻を除けば……『ハーメルンⅡ』のあの伯爵艦長は、確かに高位の貴族一般への、キルヒアイスの視点を大きく修正する存在には違いなかったが。 言葉こそ貴族的で、やや権高な印象は皆無ではない。が、第一印象からすれば、この娘は例外の方に入ると言っていい。 その間も降雪はさらに繁くなり、足を止めているキルヒアイスの肩にもいつの間にか薄く白い層ができはじめている。少女の黒髪も、既に半ばは雪の白さに取って代わられかけているのだ。 「申し訳ないですが、フロイライン。わたしも用事がありますし、フロイラインもこんなところに立っておられては、風邪を罹<ひ>きます。お送りしますから、お宅を教えていただけますか」 また、キルヒアイスのお節介が出た……ラインハルトのあきれたような言葉を胸の内に反芻しながら、キルヒアイスは肩を竦めている。確かにお節介だし、高位の貴族の娘が勝手に屋敷を抜け出してこんなところをふらついているのなら、今頃、この少女の自邸では上を下への大騒ぎだろう。下手に見捨てては、後で思わぬ災難が降りかかってこないでもない。 ふ、と少女の表情が曇った。心配気にキルヒアイスを見上げてくる黒瞳が震えていた。 「迷惑なのですか、ジークフリード・キルヒアイス?」 「迷惑ではありませんが、ここでゆっくりとお話ししていられるような天気ではないですから」 「それは分かっていました。こんなに雪が降るのは、わたしも初めて見ました。帝都は寒いのですね」 キルヒアイスは戸惑った。 「帝都には初めてなんですか?」 「帝都にきたのは、半年ほど前。それまではラキェンテスにいました」 帝都南西にある有名な避寒地の名を、少女は挙げた。 「帝都の冬の寒さは、わたしの身体に悪いと言われて、ずっとラキェンテスで過ごしてきました……でも、どうしても、今年は帝都に来なければならない、父上にそう言われて帝都に来ました。確かに寒い。爺<じい>が言った通りです」 「病気……なんですか」 キルヒアイスの声が真摯な響きを帯びたのを聞き取ったのだろう。少女の顔が半分泣き出しそうに歪んだ。 「済まない。我が儘は分かっています。でも、どうしても、雪というのを見たかった。爺<じい>たちが、今日の午後は雪になると話しているのを聞いて、ついふらふらと出てきてしまって……雪が降るとこんなに寒くなるなんて思ってもいなかった……寒い……」 「まさか、道に迷った?」 少女は半べそをかくように表情を歪め、こくんと頷いた。 「ふらふらと歩いて来てしまって、気がついたらここにいました。ここがどこなのか分からなくなって、そうしたらそなたが通りかかってくれた」 キルヒアイスは慌てた。こんなところで貴族の、それも病弱そうな少女を泣かせているところなどを近隣の住民にでも見られたら、どんな災難が降りかかってくるか知れない――のだが、それがキルヒアイスのキルヒアイスたるゆえんだっただろう。我が身の被るだろう火の粉よりも、今はもう雪嵐に近いような有様になった天候の中、どうやら極く簡単な防寒具しか身につけていないらしいこの少女をどうやって無事に自宅に帰り着かせるべきか。この時の彼の胸裡を占めていたのはそちらの方だったからだ。 慌てて駆け寄ると、既に少女は唇まで紫色に変えて震え始めていた。透き通るほどに白い肌が氷をまぶしたように透明な白さに変わり、それが髪や瞳の黒さとのコントラストを不吉なまでに際だたせる。 「大丈夫ですか、フロイライン」 「寒い……」 着ていた軍用コートを脱ぎ、少女を頭からすっぽり覆うように着せかける。コートごと、その身体を抱えてやるとまるで風に吹かれる木の葉のように震えているのがはっきり分かった。 「ごめんなさい……」 キルヒアイスの腕に抱えられながら、少女の声がますますか細く小さく震えている。既に立っているのもやっとなほどに身体が冷え切ってしまっているらしかった……と言うより、既にこの森の端まで歩いてきただけで体力の大半を消耗してしまっていたに違いなかった。 キルヒアイスは胸ポケットからPDA<ケータイ>を取り出し、ヴェストパーレ男爵夫人の侍医の病院を呼び出した。 既にヴェストパーレ男爵夫人邸からも一キロ余りは歩いてきている。直接連絡するすべこそ知らないが、あの病院なら連絡の手段は幾らもあるのだから、男爵夫人へ支援を請うのは難しいことではない。キルヒアイスの体力なら、彼の半分も体重のなさそうなこの少女を背負って男爵夫人邸まで辿り着くのに三〇分もかかるまい。だが、腕の中で震える少女の様子には、その三〇分すら命取りになりかねないのではないか――そう危惧させる脆さがあった。 男爵夫人はまだ病院にいたようだった。電話口に出た侍医の秘書に状況を伝えると、すぐに声が変わった。 『どんな娘<こ>なの?』 「一五、六歳くらいで、身長は一六〇センチに届くか届かないくらいです。目と髪の色は黒で、白い毛皮のコートを着ています。半年前まではラキェンテスにいて、帝都の冬は初めてらしいです。男爵夫人のことは知っているようでした」 『そう――』 わずかに息をのむような響き。男爵夫人は、この少女の身許に心当たりがあるのかも知れない……と思う間もなかった。 『分かりました。すぐに車を出します。一〇分もかからないと思うから、その娘をできるだけ暖かくなるようにしてあげて。身許には心当たりがあるから、私の方から連絡を取ってみます。宜しくて、ジークフリード・キルヒアイス?』 「ええ、分かりました。よろしくお願いします」 『あなたに、よろしくお願いします……と言ってもらえるのは中々良い気分よ、ジークフリード』 「は――?」 『いいの。では、待っていなさい。とにかく暖かくしてあげるのよ。あなたが凍えても私が温め直してあげるから、心配しないでよくてよ』 え――と聞き返す間もなく通話が切れる。自分が凍えたら温め直してくれるとはどういう意味だろう。冷凍のレトルト食品でもあるまいし、凍えた人間をどうやって温め直すというのか――などと言う疑問を繙<ひもと>いている暇は確かになかった。 少女がにわかに身体を二つに折って激しく咳き込み始めたのだ。滅多にないことだが、さすがにキルヒアイスも狼狽<うろた>えざるを得なかった。幾ら急激な寒さに襲われたからと言っていきなり風邪を引き込んで咳き込むということはないだろうが、それにしても少女の咳き込みようは激しすぎた。身体を二つに折り、腰から上半身を丸め込むようにして両手を胸に当てて咳き込み続ける。今にも血を吐くのではないかと思わせるほどに続けざまに咳き込む、その背を最初は恐る恐る、その後からは懸命にさすってやるのだが、咳はいっこうに収まらない。ばかりか酷くなる一方で、みるみる少女の顔からは血の気が退いていく。透き通るような色白さだけに、無機質で透明な大理石を思わせるような白さに、その肌が透けていくのが、キルヒアイスの背にも冷たいものを走らせた。 『とにかく暖かくしてあげるのよ……』 ヴェストパーレ男爵夫人の言葉が脳裏に蘇り、キルヒアイスは少女の背にかけてやっていた彼の軍用コートと、彼女自身が着込んでいたコートを一度脱がせた。案の定、コートの下は夏用とさして変わらない薄手の部屋着だった。少女のコートと軍用コートをひとまとめにして被り……少女用のコートはキルヒアイスの長身には小さすぎたが……咳き込み続ける少女の細い身体を腕の中に抱きかかえる。要するに、少女を抱きしめた上から二枚のコートを蓑虫よろしくすっぽりと被ったような格好になったのだ。 「……あ……たた……かい」 身体を海老のように曲げて苦しみながら、それでも少女が小さくつぶやくのが聞こえた。冷え切っていた身体が少し温まったせいか、咳が小やみになり、身体の震えも少しずつ収まってくるようだった。 「フロイライン?」 「……ごめんなさい……少し、暖かくなって……きた……ありが……とう」 少女はそのまましっかりとキルヒアイスにしがみつき、顔をその胸に埋めるようにして、なおも切れ切れな咳はいっかな止まりそうになかった。都度、黒く艶のある真っ直ぐな髪が揺れ、立ち上った柔らかな香りがキルヒアイスの鼻孔をくすぐった。 驚きとも狼狽とも付かない小さな衝撃に、キルヒアイスが思わず顔を上げたとき、白い壁を切り裂くようにして地上車のライトが近づいてくるのが見えた。