乱離の路
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銀英伝(新帝国暦1年、宇宙暦800年) (『伝説の時代の終わり』シリーズ (2)) サイズ:A5 ページ数:172 宇宙暦八〇〇年、ラインハルトが戴冠し、ローエングラム王朝銀河帝国が歴史の扉を開く。帝国大公となったキルヒアイスを始めとする四人の元帥を麾下に従え、新皇帝の治世はもはや盤石と思われた。しかし、皇帝ラインハルト一人の手腕に一切を依拠する新帝国の姿を知るキルヒアイスは、ラインハルトの『統治者としての疲労』を憂慮する。新帝国の政治体制のさらなる改善への道を模索するキルヒアイスだったが、その影で密やかな複数の陰謀が蠢き出し、その一端がキュンメル事件として表面化する。更に、『木漏れ日と遠き日』で、すでに過去の人たちとなったはずのシュミットバウアー一族の事跡が、再び歴史の表面に姿を現すことになる。 一方、自由惑星同盟では、憧れの年金生活を迎えたヤン・ウェンリーを狙う陰謀に、グレーチェン・ヘルクスハイムが巻き込まれてしまう。新たな動乱の、これが始まりだった。原作のバーラトの動乱からヤン・ウェンリーのハイネセン脱出までをアレンジした二次創作エピソード。
新皇帝戴冠
『正史』に曰く、『若者が玉座に腰を下ろしたのは、それを最初に見た時から一二年の後であった』。帝国公文書館の膨大な記録は、帝国暦四七八年一月三日に催された新年祝賀の会に、当時の帝国軍幼年学校生徒が、同じ『黒真珠の間』への列席を許可された旨を語っており、出席者名簿の中のラインハルト・フォン・ミューゼルとジークフリード・キルヒアイスの名が、彼らが確かにその日、数千の列席者に立ち交じってその場にあったことを示していた。 人生の半ばを遡るほどの遠い過去と言っておかしくはない一二年前のできごとを、ジークフリード・キルヒアイスはつい数ヶ月前のことのように思い出している。 あの時、ラインハルトの表情に気づいたキルヒアイスは思わず注意せずにはいられなかった。 「ラインハルト、目に気をつけて!」 当時も今も変わらない、『超高温の焔を封印して冷凍された蒼い宝玉』に喩えられる、その双眸を、ラインハルトは『姉を奪った仇敵』へ真っ直ぐに向けていた。一一歳の少年だけに可能な視線は、見咎められれば不敬の罪を問われるに違いないほどに、余りにもあからさまで直線的な敵意を封じ込めていたのだから。 聴覚の下限に辛うじて達するキルヒアイスの声が脳裏に理解を生じさせたとき、ラインハルトは明らかに努力を振り絞る様子で、視線の槍を突き刺す先を、玉座の主から足下の豪奢な絨毯に変えた。視線が熱を孕むのであれば、あるいは絨毯に焦げ目が付き、炎を上げるのではないか、キルヒアイスは本気になって心配したものである。 それから約四〇〇〇日余り、ラインハルトと玉座を隔てていた九〇メートル余りの距離はゼロとなり、ラインハルトはローエングラム王朝初代皇帝として、自らをその座の主となさしめた。 「皇帝<ジーク・>ラインハルト<カイザー・ライ>万歳<ンハルト>」 「新帝国<ジーク・ノイ>万歳<エ・ライヒ>」 キルヒアイス自身が主導した、ラインハルト即位への祝賀の叫びが、なお大波にも似て『黒真珠の間』をゆるがせ続けている。一度は玉座に座したラインハルトが、巧まぬ優美さと滑らかさを見せて立ち上がり、群臣に応えると、歓呼はさらに音量と密度を増して耳を劈<つんざ>かんばかりのレベルにも達した。 キルヒアイスと一二年前の記憶を共有する者がいたとすれば、時代の移ろいの速さに、あるいはある感懐に達したかもしれない。一二年前、この場を埋め尽くしていたのは四〇〇〇余家にもおよぶ門閥貴族たちと、軍と帝国政府の高官たちだった。彼らの華麗な礼装の群は、同じく列席していた彼らの夫人達のドレスや宝石、装飾品と相俟って、天上の星々が地に舞い降りてきたのかと錯覚させるほどの煌めきと華やぎに包まれたと称されたものである。 一二年前に劣ることのない盛会ではあっても、どちらかと言えば簡素さを感じさせるのは、列席者の中心が門閥貴族から帝国軍の首脳に移ったことにあるに違いなかった。黒と銀を基調とした軍礼装を纏った彼らが玉座の前、最前列に厚い人の壁を作り、彼らの皇帝を賞賛する姿こそが、ローエングラム王朝の成り立ちを象徴的に示すものと、他の列席者たちに映っていても不思議ではなかった。 それだけでなく、かつての門閥貴族の大半がリップシュタットの戦いとその戦後処理の中で没落して姿を消したことと、軍と政府高官も顔ぶれを一新したこともあるに違いなかった。婦人の列席者が少数派に留まっているのも、彼らの多くがまだ配偶者を得ていない年齢に属するほどに、その平均年齢が若返ったことに理由を求められるかもしれなかった。 ラインハルトの登極に伴い、これまで女性の多くに対して閉ざされていた政府と軍の上級者への門もまた開かれている。事実、女性出席者の中には早くもその地歩を固めつつある政府・軍関係者の姿も少なくなかった。 帝国政府が女性の登用に消極的であった理由は、始祖であるルドルフに求むべきである。 「女性は家庭にあって家を守り、子を育て、夫を支えるべき存在であり、社会の表舞台に無用の口出しをすべきではない」 社会的な地位の獲得と、その裏付けとなる能力においては男女差よりも個人差の方がはるかに大きく有意であることは、ルドルフの時代を遡るこそ数百年前に確立された、社会的な通念である以前に事実だった。議会制共和主義政体を皇帝独裁の絶対王政によって纂奪する、ルドルフの政治的識見が歴史を数十世紀も逆転させるものであったとすれば、その社会的通念に対する意識もまたそれに近いものであった。 「女性の社会進出こそが、人類を堕落させたのだ」 古色蒼然を通り越して、当時ですら『化石?』、または『先祖返りか?』とまで酷評され、側近であったヨーゼフ・シュミットですら、『今、政府から女性を排除したら、政府の統治能力は半減以下となってしまう』として正面から反対したとの記録すら残されている。 だが、ルドルフは信念を変えず、『劣悪遺伝子排除法』の施行と前後して、公的機関における一定以上の地位への女性登用を禁止するに至った。『劣悪遺伝子排除法』施行当時の内務尚書エルンスト・ファルストロングがルドルフに対して、強引なまでに女性の社会からの排除を説いたとされる。 俗説に過ぎないが、ファルストロングには姉が二人おり、そのいずれもが彼に先んじて内務省の枢要の地位を占めていたと言う。地位でも実力でも、姉たちにはるかに後塵を拝したことがファルストロングの、極端なまでの女性に対するコンプレックスと、その裏返しの蔑視を招いたというのである。ちなみに、この時期の内務省にはファルストロング姓の女性官僚が複数存在し、いずれもがルドルフによる罷免、あるいは左遷が確認されている。 『ルドルフにとって男女平等の思想は共和主義と同一としか見えなかったのだ。これはいかなる説諭を以てしても解くことのできなかった、ルドルフの誤謬である。同時に、彼の誤りを正し得なかった、彼を無謬たらしめるべき吾らの過ちである』 後にシュミットバウアー侯爵を名乗ることになるヨーゼフ・シュミットの手記は、ラインハルトの治下において初めて公刊され、当時のルドルフへの批判の強さが世に知られることになる。ただし、ヨーゼフは、ファルストロングの姉に関する話題については『俗説である』と一顧だにしていない……ただ、それはまだ後日の物語である。 ともあれ、愚劣極まるルドルフの『社会的識見』は、『劣悪遺伝子排除法』同様に晴眼帝マクシミリアン・ヨーゼフ二世によって有名無実化されるまで、有形無形の軛となって帝国の女性を縛り付ける結果となった。晴眼帝の意を受け、皇后ジークリンデは女性の教育や社会進出について意を尽くし、社会に染みつきこびり付いた偏見の改善を図ったが、ジークリンデ自身がルドルフの残した過誤の大きさに対して、控えめではあるが絶望に近い非難の言葉を遺しているほどなのである。 リップシュタット戦役の結果、帝国の実権を把握すると同時に、ラインハルトは『劣悪遺伝子排除法』と共に、『ルドルフの悪しき遺産』の一掃に着手した。晴眼帝とジークリンデ皇后によってすら完全には排除できなかった、ルドルフの名による登用制限は五〇〇年ぶりに帝国の社会から消滅した。結果、高級官僚への登用試験志願者に占める女性の割合は、今年度分で四〇パーセントに達する見込みだった。 無論、改革とは、新たに権利を享受する者と入れ替わりに、既得の利権や特権を奪い取られる者たちを生み出すことになる。 「なぜ、女たちを無用に厚遇するのか」 彼らの声に、しかし、ラインハルトは一顧だに与えなかった。 「厚遇などしていない。同じスタートラインに立つことを保証しただけだ」 一方、軍関係における女性の進出は、まだ余り進んでいないというのが事実だった。特に戦闘部隊においてこの傾向が顕著だった。これは理由のあることで、ラインハルトも急がせはしなかった。 「時間をかけるしかないし、無理に第一線の戦闘部隊に女性を配する必要はないだろう。本当に有能な女性の前線指揮官が現れれば、組織側がそれに合わせて動けるようにしておけば良い」 ラインハルトによるこれらの施策に大きな寄与を為したと囁かれる人物の姿が、黒と銀の軍服の中にある。他の軍人達とほぼ同様の服装で、階級を示す肩章は中将だったが、僅かな化粧と襟元のオレンジ色のスカーフが彼女がうら若い女性であることを証明していた。 「マリーンドルフ<フロイライン・>伯爵<マリーン>令嬢<ドルフ>は、同盟軍に倣って女性将兵の最前線部隊の積極的登用をローエングラム公に進言し、認めさせた……でなければ、一兵の指揮もしたことのない、二〇歳そこそこの女性が栄えある帝国軍中将、幕僚総監の名をその身に帯びられるはずはない」 どのような組織も、その成員すべてに対して完全な満足を与えられるものではない。マリーンドルフ伯爵令嬢ヒルデガルトに対する、明らかに偏見の色眼鏡を経た噂を口にする人間は、今のところ極少の数に留まっているようだった。式典は新皇帝の即位への祝賀の歓呼の中に終始し、新たに帝国を統治することとなった体制への不満がわずかも囁かれることはなかった。 「一つの時代が、これで終わったと言うべきだな」 公式の式典が滞ることなく終了し、祝賀のパーティに席を移した時、ウォルフガング・ミッターマイヤーが声をかけたのは、傍らに立つ同僚だった。 「ん――」 ミッターマイヤーよりも長身のその士官は、手にしたグラスを揺らめかせながら、左右異なる色合いの視線を僚友に落とした。 「ほう、宇宙艦隊司令長官殿は来たるべき平和の時代を前に、早くも髀肉<ひにく>の嘆を託<かこ>っておられると、そういうわけか?」 言葉は皮肉を帯びていたが、表情と口調はそれを裏切って真摯な響きを伴っていた。 「案じるな、ミッターマイヤー。まだ、これで何もかもが終わりというわけではないさ。自由惑星同盟の命脈、旦夕に迫れりと言えども、一五〇年以上にわたって帝国と銀河を二分してきた巨大国家だ。それにフェザーンの黒狐の行方も知れてはおらんのだからな。このままなすことなく、ゴールデンバウムの後を追って退場ということはあるまい」 「まだ、過去系で言うには早すぎる、ということか」 信頼すべき僚友とグラスを合わせ、打ち合わされたクリスタル・ガラスの奏でる澄明な調べの中で、ミッターマイヤーは芳潤な液体を咽喉に滑らせる。 「新しく時代が始まった。これまでが散々な時代だったからな。それよりも良い時代であって欲しいし、なろうことなら長続きして欲しいと思うのは当然のことだろう」 「ローエングラム王朝がよりよい姿で、より長く続いて欲しい、そう言いたいわけか」 「卿は違うのか、ロイエンタール」 「いや、違わない」 オスカー・フォン・ロイエンタールは曖昧に僚友の言葉を首肯して見せた。左目は、明らかにミッターマイヤーの言葉を肯い、未来を見晴るかすかのように青く鋭く輝いていたが、右目は異なっていた。右目は、明らかに親友とは異なる世界を視野に入れて、深沈と深く沈み込む昏い閃きを湛えていたのである。 左右異なるロイエンタールの目の表情は、ミッターマイヤーの視界の外にあったようだった。 「今すぐにと言わないが、俺はいずれ、元帥閣下……いや、ラインハルト陛下にご結婚をお勧めしようと思っている」 「結婚だと?」 自身にとっては不吉極まる単語をいきなり浴びせられたロイエンタールが、あからさまに忌避の表情を浮かべて身を引くのに、ミッターマイヤーは苦笑した。 「何を驚いている。卿に結婚しろと言ったわけではないぞ。俺に勧められたからと言って、その気になるような卿でもあるまい」 「それは、そうだが……まだ、皇帝陛下は玉座に即かれたばかりだ。どうして、そこで結婚などと言う発想がでてくるのだ?」 「だから、俺も、今日明日中にお勧めするとは言っていない。今は色々と慌ただしいが、一年もすれば落ち着くだろう。別に結婚でなくても良いのだ」 「ほう……」 驚いたように眉の端を釣り上げたのはロイエンタールの本心ではなかった。 「つまり事実が先行すれば良い、と言うのか、卿らしくもない言い様だな」 「卿でもあるまいし……」 あるいはミッターマイヤーは心の裡でため息をついたかもしれなかった。 「婚約の発表でも良いと言いたかったのだ。そうやってあくまで茶化すつもりなら、この件で卿と話すのは止めにするぞ」 「……いや、悪かった。そんなつもりはなかった。気を悪くしないでくれ」 言い止し、ロイエンタールが視線を巡らした先に、ワインのグラスを合わせている父娘の姿があった。新たな王朝で国務尚書の印綬を帯びるマリーンドルフ伯爵と、その娘ヒルデガルトである。 「皇帝陛下の結婚、あるいは婚約によって新王朝の継続を保証し、その安定に信を置かしめる……か。卿も中々に政治家だな」 「血縁による相続が、政治体制の良き継承を意味する、などと無条件に思い込むほど、さすがに俺でも政治にも歴史にも無知ではない」 先回りするかのようなロイエンタールの応答に、あるいは揶揄の響きを聞き取ったのか、ミッターマイヤーの口調が僅かに棘を含んだ。 「いや、済まぬ、ミッターマイヤー。俺も、我が皇帝<マイン・カイザー>を、ルドルフ以下のゴールデンバウムの皇帝たちと同列に置くつもりなどない。我が皇帝<マイン・カイザー>を貶めれば、それは皇帝<カイザー>を我が盟主と仰いだ自らを愚物と罵るようなものだ。天に唾する愚かしさだけは御免被りたいからな」 既に空になっていたグラスを給仕に預け、新たな一杯を手に取ったロイエンタールは、グラス越しに祝賀の場を透かし見た。一瞬、黒みを帯びた紅の中に一切の光景が単色化される様子が、ロイエンタールにある種の夢を思い起こさせた。彼の右目をえぐり出そうと目許に擬された刃にも似ていたが、この時のロイエンタールの視界の中で、それは既に血濡れた紅い光を帯びていた。彼の母は、彼女が彼女の背徳の証と信じた我が子の右目を突き抉ることは叶わなかった。あのナイフはついに血を纏わなかった。 が、グラスの向こう、紅く黒く揺らめいて見える光は血のそれ以外ではあり得なかった。ナイフではなく、白刃と言って良い。視界一杯を斜めに縦断して伸びた刃の手許にそれを擬する手があった。 「ん……?」 見覚えるのある手。白く繊細な貴婦人の手指ではない。鍛えられた鋼の靱さと、幾度となく自ら他者の生命を断ち切り、あるいは人をして敵を葬らしめてきた者の手だった。閃紅の刃を高々と掲げ、まさに振り下ろそうとする切っ先を辿った視界の中に光があった。全てが個性を失い、紅の濃淡のみとなった視野の中、そこだけが正視しがたい黄金色の光に満ちて、彼の切っ先を拒むかに見えていた。 「拒む……のではないな。それは、許されていない」 ミッターマイヤーの不審の視線を頬に受けて、ロイエンタールは内心の呟きを、知らず言葉に変えていたことに気づいた。 「おい、ロイエンタール?」 「案じてくれる必要はないぞ、ミッターマイヤー。ちょっと考え事をしていただけだ」 「卿の夢にまで踏み込むつもりはないが……」 大きくため息をつき、ミッターマイヤーは小さく呟く。 「卿が血の色の夢をみているのではなければ、な」 「血の色の夢だなど、卿らしくもない言葉だな。さっきまで皇帝<カイザー>のご結婚のことを案じていたというのに」 「……帝国の双璧が、皇帝ラインハルト陛下即位の祝典において、そのご結婚、あるいはご婚約を語る場に居合わせるとは、これは運が良いと言うべきなのか悪いと言うべきなのか、いずれでありましょうかね」 「運の善し悪しはともかく、稀少な経験であることは確かだろうな、フェルナー」 声をかけた本人は、あるいは双璧の不意を打つつもりだったのかもしれないが、振り向いたロイエンタールの表情は襲撃者の期待を完全に裏切っていた。 氷点以下とは言わぬまでも、低温と言って良い口調を切り返されたフェルナーは苦笑を隠してグラスを掲げて見せた。 「いえ、つい先日、軍務省でも同じ話題が出まして……」 「卿の見立てでは、オーベルシュタインの名を出せば、私が話題に食いつくと、そういうわけか」 「事実ですよ、釣りじゃあありません。実際に軍務尚書が皇帝陛下に進言された……のか、これから進言するつもりなのかは分かりませんが、尚書の指示で軍務省ではお后候補の予備調査を始めています」 「な……」 「おい、ちょっと待て、ミッターマイヤー!」 ロイエンタールがその腕を取っていなかったら、ミッターマイヤーはその足でオーベルシュタインに駆け寄っていただろう。 「胡散臭い話だな。オーベルシュタインが実際にそんな指示をしたとしても、極秘事項だろう。こんな場で、それもミッターマイヤーや私に話すようなことでもあるまい。オーベルシュタインの指示か。与太話で、吾々の反応を覗ってこい、とでも言われたのか?」 「極秘でも何でもありません。尚書の指示は、一六歳から二五歳までの、自由惑星同盟在住の亡命貴族の女性、もしくはその娘を洗い出せというものです。ただし、亡命時期はリップシュタット戦役よりも前で、係累ができるだけ少ない者。可能なら家族が一人もいないこと……そういう条件です」 「なんだ、それは、一体?」 完全に不得要領の表情になったミッターマイヤーを尻目に、ロイエンタールの視線が一瞬白刃を思わせて、オーベルシュタインの後ろ姿を薙いだ。 「……いかにもオーベルシュタインが考え出しそうなことだな」 「ロイエンタール?」 「知れたことだ」 皇帝の婚姻により、新王朝の継続と安定に保証を与える。オーベルシュタインの狙いはミッターマイヤーのそれと軌を一にする。ただ、ミッターマイヤーの想いが、自らの経験と重ね合わせての幾分かの甘さを帯びるのに対して、オーベルシュタインは全くの政治的イベントとしてのみ、皇帝の配偶者の決定を捉えている。 同盟居住者を対象とするのは同盟への懐柔策の一環であり、そこに亡命貴族の出身者という条件を加えるのは、亡命貴族であれば皇帝の後宮入りに対しても抵抗が少なかろうとする配慮がある。旧ゴールデンバウムの宮廷と相容れずに同盟に新天地を求めた者であれば、ゴールデンバウム王朝を過去に葬ったローエングラム王朝に対してはより寛容であり得るに違いなかった。何にしろ、亡命者にとって帝国は故郷に違いない。 「……では、係累の少なさとはなんだ?」 ロイエンタールの言葉を、嫌悪と忌避の苦汁を飲み下す口調でミッターマイヤーが問い返す。 「要するには外戚の排除だろう。奴の考えそうなことだ……」 半神的美貌に恵まれ、二二歳にして前王朝とフェザーン、自由惑星同盟を征し、新王朝の開祖となった青年皇帝。オーベルシュタインを待つまでもなく、早晩、その婚姻が群臣のみならず新帝国臣民全ての関心事となるのは間違いない。オーベルシュタインが、敢えて公然と皇后の候補者探しを始めたのも、ことが人々の私的な関心事から新帝国政府にとっての公事となったあかつきに、彼の提示した条件が万人にとっての最初の条件となるよう、予めの刷り込みを狙ってのこととも解釈できる。 かなりの偏見と嫌忌のバイアスを伴った解釈であることを、理解はしているが改める気にもならなかった。 「それは分かる……」 親友<ミッターマイヤー>の表情に、ロイエンタールは苦笑する。それは分かる、分かるが納得できない。ミッターマイヤーは表情筋の全てを使ってそう主張しているように、彼には思われたのだし、おそらく外れてはいまい。 「皇帝の婚姻が政治だと言うことは理解しているが、ラインハルト陛下ご自身のお気持ちはどうなのだ?」 だが、ミッターマイヤーの次の言葉は完全にロイエンタールの虚を突いた。精神的にたたらを踏む思いで、彼は親友を見直した。 「我が皇帝<マイン・カイザー>のお気持ち……だと?」 「そうだ。政治なのはやむを得ないが、それでは皇帝陛下のお気持ちはどこに行ってしまうのだ? 帝国の安定のためであれば、陛下にそのような婚姻を強いて良いというのか?」 「おい、ミッターマイヤー……」 要するに『愛のない結婚』とやらに反発しているのだろう。軍人としての才幹、人間としての器量において他に比する者は片手にすら足らぬ。ロイエンタールはこの親友をそう評価する。唯一の欠点があるとすれば、自ら進んで一人の女に人生を縛られ、縛られることを至上の幸福として主張する、『信じがたい自虐趣味』だ……ロイエンタールはそう思う。 「ですが、ミッターマイヤー提督。皇帝陛下が一夫一婦の制度をお守りになる必要もないでしょう」 「それではゴールデンバウムの皇帝どもと何も変わらないではないか」 決して大きくはないが、刃の烈しさを孕んだ口調に、フェルナーは甚だ鼻白んだ様子で口をつぐみ、ロイエンタールはゆっくりとかぶりを振った。これあるかな、我が親友よ。 「卿の言や良し、ミッターマイヤー。だが、一夫一婦制では万世一系の王朝は続かん。ルドルフの直系にしても、二代目で絶えているくらいだからな」 「……それで、ローエングラム王朝の皇統が後宮の裡で定められる。それを卿は容認するというのか、ロイエンタール」 「酔ったのか、ミッターマイヤー。ラインハルト陛下に配偶者をと言い出したのは卿だぞ。その口で、それはないだろう。だいたい、我が皇帝<マイン・カイザー>は吾らよりはるかに年下でおられる。順当に行けば、吾らの方が我が皇帝<マイン・カイザー>よりも先にヴァルハラへ赴くことになるのだ。次代の皇帝陛下の話など、気が早すぎるし、不敬に過ぎる」 「う……うむ。確かにそうだな。どうもあのオーベルシュタインがからむと頭に血が上らぬようにするのが一苦労だな」 明らかに不満そうに話題の終了を宣言し、ミッターマイヤーは不穏な一瞥をフェルナーにくれる。 「愉快な話題をもたらしてくれたな、フェルナー。感謝するぞ」 ミッターマイヤーにしては珍しく、オーベルシュタインの腹心……本人は大いに異論があるはずだったが……に突き刺した言葉は辛辣な皮肉に満ちていた。無論、オーベルシュタインの許にあって胃腸炎も心因性ストレスにも無縁なフェルナーであってみれば、引き際は心得たものだった。 「失礼を致しました、ミッターマイヤー提督、ロイエンタール提督。条件が条件ですから、滅多なことでは該当者は見つからぬかと思います。軍務尚書も本気で候補者を探し出すつもりではおられぬのかも知れませんし……」 「どういう意味だ?」 視線と口調の双方に怒れる狼の剣呑さをはらませたミッターマイヤーに、フェルナーは慌てて一揖し、帝国軍の双璧に背を向けた。 フェルナーの後ろ姿に非好意的な視線を突き刺してから、ミッターマイヤーはグラスを大きく煽り、そして視線を転じる。その視線をたどり、ロイエンタールはため息と共に理解する。ミッターマイヤーは明らかに特定の女性を皇后候補に据えているに違いなかったし、実際のところロイエンタールも友人の選択に大きな異論はないと思っている。 マリーンドルフ伯爵令嬢ヒルデガルト。昨年のバーミリオン会戦の際、彼女はミッターマイヤーのもとへ駆けつけ、同盟首都の直撃による同盟政府の無条件降伏要求を提案してきた。なぜ、ロイエンタールではなくミッターマイヤーを最初に訪れたのか。ヒルダの選択に対して、女性に対して高い評価を与える習慣のないロイエンタールにして、『敵に回せば多少厄介そうだ』程度には彼女のことを認識すると同時に、自分が彼女に対して無条件の信頼を得てはいないことを察してもいる。別段、だからといって痛痒を感じるほどのものではなかったし、ラインハルトの周囲に、その皇后たるに相応しいだけの補佐能力のある女性が彼女以外にはいないことも認めるにやぶさかではない。 「ん……?」 ある違和感の存在にロイエンタールは気づいた。我が皇帝<マイン・カイザー>、皇帝ラインハルトの配偶者。それがマリーンドルフ伯爵令嬢ヒルデガルトであるか、それともオーベルシュタインの主張する亡命貴族の子女であるかは別にしても、いずれ近い将来、彼自身を含めた帝国の未来図に現れてくることになろう。そして、それに続くのは我が皇帝<マイン・カイザー>の後継者の誕生である。 『我、膝を屈する先は余人にあらず、我が皇帝<マイン・カイザー>のみ』 グラスの中の、ミッターマイヤーの言葉を借りれば『血の色の夢』。玉座に振り下ろした刃と、それを撥ね除けた黄金の光の中、誰の囁きとも知れず、しかし、ロイエンタールは幻聴とは思わなかった。 祝宴の光とさんざめき、交わされる会話とグラスの煌めき、一切が周囲から消え失せる違和感の中、ロイエンタールは自らの呟きを聞いていた。 「我が皇帝<マイン・カイザー>よ、ラインハルト陛下。我に隙を見せたもうな。我の光たり続けたまえ、誰が手にも不可侵の光であり続けたまえ。さなくば……」 その先の呟きを、ロイエンタールは心の裡深くに飲み込んだ。二度と心にのぼせることなからんことを祈りながら、である。無論、誰に祈るのか、と問われれば、ロイエンタールにも回答の持ちようのないことに違いはなかったが……
キュンメル事件
ラインハルトが、即位後最初の行幸先としてハインリヒ・フォン・キュンメル男爵邸を訪れたのは、当初予定されていた三月七日から遅れること二週間、三月二二日のことである。新皇帝の予定を大きく狂わせることになったのは、発足早々の新体制を襲った不協和音のゆえだった。 ラインハルトを大いに戸惑わせ、同時に憤激させたことには、不協和音の音源が、彼の最も信頼する国務尚書と首席秘書官……すなわち、マリーンドルフ伯爵父娘を中心としたものであったことだった。 「大変に申し上げにくいことでありますが……」 ブルックドルフ司法尚書の提出した書類を一瞥した瞬間、ラインハルトの眉宇に雷光が閃いたように見えた。 「これは何か、司法尚書。マリーンドルフ伯爵への告発状ではないか」 「左様でございます、陛下」 ラインハルトの眼光に射すくめられたとしても、ブルックドルフは新皇帝の最初の内閣の一員たるべき義務を放棄しなかった。昨年一〇月末に帝国の最高検察庁からの最初の報告があったこと。誣告や何らかの陰謀の疑いもあり得たためと、ちょうどバーミリオン会戦直前という時期であったことから、なお裏づけ調査を進めさせたこと。その結果として、やはり皇帝の判断に委ねざるを得ないと結論づけざるを得なかったこと。 ブルックドルフの説明が進むに連れ、ラインハルトの表情からは怒りは消えぬものの、困惑の色が広がり始めていた。 「バウアーシュミット医師のことは余もよく知っている」 帝国宰相府詰めの当直医を務めていたフランツペーター・ヨハンネス・バウアーシュミット医師が、宰相執務室で昏倒したラインハルトを診断したのは二年前の一〇月末のことになる。以来、バウアーシュミット医師の進言によって、ラインハルトだけでなく帝国政府と軍の高官は年に二回の定期精密検査の受診が義務づけられていた。自ら定めた義務に忠実であろうとするラインハルトであるから、戦場にあっても受診を欠かせたことはない。 オーディン文理科大学医学部の准教授でもあり、優秀な臨床医学者としての評価も受けている、そのバウアーシュミット医師が、ある新たな疾病の研究に取り組んでおり、その研究費をマリーンドルフ伯爵家の主宰する基金から受けている。これは、ラインハルトにとっては初耳だった。 「これは事実か」 とは、ラインハルトは問わない。ブルックドルフが虚言や讒言とはほど遠い為人<ひととなり>であることは、彼をその地位に就けたラインハルト自身が知悉している。ブルックドルフが事実と認める以上、事実であると判断されるに足りる裏付けがあると言うべきだった。 報告は言う、バウアーシュミット准教授は研究目的と称して、大量の個人情報……最も詳細なレベルでのDNA情報を含む病理学的情報を収集しており、その中にグリューネワルト伯爵夫人アンネローゼのものまで含まれているというのだ。特にアンネローゼに関する詳細な個人情報は厳しく規制されており、本来はバウアーシュミットが手にできるものではなかったはずである。 ただし、バウアーシュミット医師が完全に不正な手段によって情報を入手したわけではない。情報へのアクセスについては正規の申請書が出されており、マリーンドルフ国務尚書による許可が出されている。 「グリューネワルト伯爵夫人に関する情報へのアクセスについては、陛下ご自身のご命令で最高度の規制がなされております。本来は、国務尚書の判断で許可を出せるものではありません」 「む……」 ラインハルトの表情が苛立ちを浮かべ、執務デスクを叩く指先の動きが速くなった。 バウアーシュミット准教授への研究資金提供についても疑問がある……ブルックドルフはかまわず続ける。 「伯爵家の資産をもとにした基金であって、これ自体に問題はありません。同時に複数の研究テーマを募集し、その内の一つにバウアーシュミット准教授が応募し、伯爵家がこれを許可する形での資金提供ですから、不正と呼べるものではありません」 「……大量の情報収集と処理にかかる費用を提供し、姉上のものを含めて個人レベルの秘密情報を入手するための手段を提供した……卿はそう言いたいのか?」 「御意。それが、この報告の内容です」 ラインハルトは小さく唸って報告書に視線を戻した。 「他にバウアーシュミット医師が入手した情報はどのようなものがあるのか?」 「特にはございません。精密検診情報に限られますし、それで直ちにどうこうという問題になる類の情報ではありません……が、笑殺して看過するにはいささかことが大きうございます」 再びラインハルトは咽喉の奥でうなり声を飲み込んだ。遺伝を盲信したルドルフの時代ではない。アンネローゼやひいてはラインハルト自身に遺伝学的な問題があるとして、それが何らかの政争や混乱をもたらす恐れなどない。早い話、ラインハルト自身の父セバスティアンは酒浸りとなって生活に窮し、娘を売り飛ばして生活を保障された挙げ句に、アルコール性の障害によって急逝した。言ってみれば性格破綻者である。今、玉座に就いているのは、その性格破綻者の息子なのである。 遺伝への盲信……その一言がラインハルトの記憶をさらに遡らせた。中佐時代、巡航艦『へーシュリッヒ・エンチェン』を駆って同盟領に侵入したあの作戦にも、愚かしい遺伝への盲信が絡んでいなかったか。ラインハルトが情報を握りつぶしたこともあり、ことが公になることはなかった。そう言えば…… 「バウアーシュミットが正規の許可を経ずに、最高レベルを指定された情報を入手できたことが問題ということか」 軽く首を振りやって、ラインハルトは埒もない追憶を脳裡から追い払うが、不愉快さは隠しようもなかった。フロイデンに隠棲した彼女に、第三者が接触する手掛かりを全て封じようとして、アンネローゼに関する情報を最高レベルの機密になど指定してしまったのは、行き過ぎだったかもしれないとも思う。バウアーシュミットは単に研究テーマである疾病に関する情報を少しでも多く得たかっただけであろうし、マリーンドルフ伯爵もまた、バウアーシュミットの医師としての情熱を認めて便宜を図っただけのことに違いない。ブルックドルフが問題にしているのは、帝国が最高機密と定めた情報に、著名な臨床医とはいえ、民間人に過ぎないバウアーシュミットがいとも簡単にアクセスしてしまったという、情報管理の欠陥だった。 「ブルックドルフ、バウアーシュミットの研究している病<やまい>とは何だ?」 「はて……」 さすがに虚を突かれたのか、ブルックドルフが目を瞠ってから慌てて手許の端末を操作しようとするのをラインハルトは止めた。 「分からなければ後で良い。なぜ、彼が姉上の情報を得ようとしたのかを知りたかっただけだ」 「……であれば、バウアーシュミット准教授を直に審問なされば宜しいかと。憶測はあらぬ噂、流言飛語の火元となるかと存じます」 「卿の言う通りだな。だが、一医師の研究テーマについてまで一々直に審問していたのでは、幾ら時間があっても足りぬ。余が直に話を聞くなら、もっと相応しい人物がいるではないか」 「では、早速にマリーンドルフ伯を……」 「良い、この件は余が預かる。伯には余が直接に話をする。卿は、バウアーシュミットに意図を確認して余に報告せよ。彼への措置は追って指示するが、取りあえずは行動の軽率さを譴責する旨を申し伝えよ。良いな」 「御意」 「余り重々しくするな」 悪戯を咎める程度のことにせよ、というラインハルトにブルックドルフも強ばった表情を和らげた。 「御意」 退出するブルックドルフの背を苦い顔で見送ったラインハルトは、スクリーンに別の書類を浮かび上がらせた。人類の歴史を通じて、軋轢も摩擦もない組織は皆無だが、ローエングラム朝銀河帝国もまた稀少な例外では有り得ない、その証左がスクリーンの中にあった。 無論、新皇帝ラインハルトの元、新帝国政府は、ゴールデンバウム王朝下でのそれが惰眠……ある人物の評言を借りれば冬眠状態……に見えるほどの活発さで、内政の整備にすべてのエネルギーを傾注している。 大小無数の貴族領での内戦や海賊の跳梁で荒廃の進んだ帝国領内の再整備、特にリップシュタット戦役で主を失った旧貴族領の再編成には、まず旧帝国と旧貴族領の間に関わる各種の有形無形の法律や契約のしがらみを解きほぐさねばならず、それだけでも気の遠くなるような作業量が予想された。三三歳で尚書の席を得たブルーノ・フォン・シルヴァーベルヒの主導下、新設の工部省には多数の若手官僚が抜擢を受け、これらの膨大な業務に精力的に取り組んでいた。これまで、帝国政府の直轄領と貴族領とに分断され、それぞれで独自の整備や開発の行われていたあらゆる社会インフラの統一と全体最適による再編成、加えるにラインハルトの密かな構想であるフェザーンへの遷都もまたシルヴァーベルヒの手腕のもと、急速に実現に向けての歩みを速めつつあった。 一方、長年の門閥貴族支配と、一五〇年にも及ぶ自由惑星同盟の戦いから来る、帝国社会の歪み、ことに、長年の門閥貴族支配の下でやせ細ってしまった中間階層の再建が喫緊の課題だった。旧帝国では富が門閥貴族とその関係者にのみ集まる一方で、彼らの不公正な特権……納税他の義務からの免除……と相俟って、一般民衆の、特に中間階層と呼ばれる人々に負担が集中する傾向が極めて強かった。その一例が兵役義務であり、同盟との戦いを通じて、最も危険な前線へ投入される兵士の大半が、この中間階層出身者だったと言われるほどである。 一方的な負担を強いられた人々は、やがて負担に耐えきれずに没落し、社会の最下層への転落を余儀なくされる。すでにゴールデンバウム王朝第三〇代皇帝コルネリアス二世の時代、帝国の民衆の過半がいわゆる最下層と呼ばれる生活状態に陥っており、納税者の急減による国庫の枯渇と共に、教育を受けた人的リソースの窮迫が現実の問題として浮上してきていた。貴族への課税と義務負担の公平化、民衆への救済措置の拡大が唯一の解決策として論じられ始めたのもこの時期だが、門閥貴族からの反発が大きく、さらに決定的だったのはコルネリアス二世自身が極端に固陋な保守主義者であったことだろう。 「貴族に課税するなどならぬ。それは大帝陛下のお定めになった帝国の祖法に反する」 政府と宮廷を揺るがせた議論と、最後には一〇数件ものテロ事件をまで招いた結果、辛うじて皇帝への上奏に付された貴族への課税案……実際には甚だ不満足な内容であり、オイゲン・リヒターの言葉に拠れば『焼け石に水どころか水滴一滴』でしかなかったが……ですら、コルネリアス二世は一顧だにしなかった。 コルネリアス二世時代の財務官僚が密かに恐れた『帝国の破産』は、第三五代皇帝オトフリート五世……史家の中には彼を『吝嗇帝』と呼ぶ者も少なくないが……吝嗇ぶりによって辛うじて回避された。オトフリート五世と並んで帝国財政の破綻回避に一役買ったのが、強精帝オトフリート四世だったとされるのは歴史の皮肉と呼んで良いのかどうか。オトフリート四世の皇女の多くがオトフリート五世の時代に成人したが、オトフリート五世は彼女らを貴族に降嫁させる際に多額の結納金を納めさせた。さらに、多くの貴族がオトフリート四世の皇子を養子に迎えさせられたが、これを歓迎したのは辺境領を領する辺境<マルク>伯<グラーフ>と呼ばれる貴族たちだった。彼らは皇帝の子弟を養子に迎え入れ、新たな爵位を得て宮廷への足がかりを得たが、彼らの開拓してきた領地は皇帝直轄領に組み込まれ、国庫の収支バランスの改善に大きく寄与したのである。 オトフリート五世は、積極的な政治的識見によって『吝嗇帝』たり得たわけではなく、その蓄財はまったくの『個人的趣味』と酷評される。とは言え、彼が国庫に積み上げた資産が、その後の半世紀のゴールデンバウム王朝の継続をもたらしたと言えなくもないのである。ただ、そうして蓄えられた資金はフリードリヒ四世による濫費と、同盟との戦費で霧消し、旧帝国は再び急速な財政悪化の泥沼の中に沈み込みつつあった。ラインハルトが歴史に名を刻み始めた時期の、それが帝国の一般的な状況でもあった。 ラインハルト自身は、民衆による政府……自由惑星同盟が標榜する議会制民主主義というものに興味はなかったし、近い将来に帝国で選挙を実施したり、議会を開く考えもなかった。ラインハルトの政治家として有能さは、自ら一定の資産を持ち、良く教育されて、社会の維持に理解を持つことで、社会の安定に資する……そうした意味でのいわゆる中間階層の育成についての重要性を十分以上に理解していたことだろう。理解していただけでなく、それがゆえに民政省を設立し、信頼する閣僚であるカール・ブラッケに尚書の任を委ねたことは事実だった。 ブラッケもまた、彼の僚友であるリヒターに言わせると『突進する猛牛の勢い』で民政の改革にいそしんでいる。既にかつて晴眼帝マクシミリアン・ヨーゼフ二世時代に開設され、その後、閉鎖された教育訓練学校の再開と増設が決まっており、帝国臣民の六〇パーセントを超えると言われる貧困層への救済と再教育のプロジェクトが急ピッチで進められていた。 ともかく草創期の国家特有の活気と進取の意欲に溢れた新銀河帝国ではあったが、既に述べたように軋轢と摩擦から無縁の組織はあり得ず、新帝国もまた例外ではない。ラインハルトの眉を顰めさせている一つの事例、今、執務机のコンソールに表示されているのが、それだった。 外交である。 ラインハルトは典礼省を廃し、工部省と民政省を新設して帝国の内政に意を払ったが、外交を司る部署は設けなかった。旧帝国時代から、帝国は自由惑星同盟を対等の国家として認めていない。『神々の黄昏<ラグナロック>』作戦の結果、帝国と同盟はバーラトの和約を結んだが、帝国が同盟を独立した主権国家として認めたか否かは曖昧なままとされた。 「相手が国家であろうとなかろうと、バーラトの和約を履行させる上での障碍は何もない」 それが帝国首脳の一般的な認識であったし、ラインハルトの考えも大きく外れるところはない。バーラトの和約では、同盟<ハイネ>首都<セン>に帝国の高等弁務官事務所が置かれることになり、現実にレンネンカンプ上級大将がその任についているが、実のところ高等弁務官が帝国のいずれの省の管轄下となるかは曖昧なままだった。ラインハルトも、あるいはジークフリード・キルヒアイスでさえ、数年を経ずして同盟が国家としての体裁を喪い、辺境宙域として帝国の吸収併呑するところとなると考えていた以上、その数年のために専管の省庁を設けるのはいかにも非効率と思われたからでもある。 高等弁務官事務所に対する指揮系統の件は、間もなく現実の問題としてラインハルトの前に現れてくるのだが、現時点でラインハルトを悩ませているのはバーミリオン会戦末期に、マリーンドルフ伯爵令嬢ヒルデガルトことヒルダが取った行動に対する帝国政府と帝国軍からの反発だった。 同盟政府に無条件降伏を受諾させるについて、ヒルダは同盟政府高官の生命と財産の保全を約束している。ヒルダがこの条件を出していなければ、トリューニヒトが同盟政府を『裏切』って無条件降伏することはなかった。後世の史家の評価の一致するところである。ヒルダは、この時期の同盟政府高官が公人としての立場よりも私欲を優先させる傾向の強いことを見て取っており、一度ならずラインハルトにも進言している。艦隊決戦の成果に拠らず、一片の通告を以て同盟政府を屈服せしめよ、と。ヒルダの識見は見事に正鵠を得て、トリューニヒトの『裏切り』を引き出し、ラインハルトを窮地から救った。彼女の功績を、誰一人否定し得るものではなかった。まして、ラインハルト自身が『余はフロイライン・マリーンドルフに生命を救われた』と公言している以上、表立ってヒルダを非難するのは難しい。 にもかかわらず、帝国政府内には不協和音と呼ぶべきか、ヒルダの行動とその結果としてのバーラトの和約に対する密やかな不満と反感とが底流している。 「問題は叛徒に対する扱いの決定であり、叛徒の主魁に対する交渉権限は内務省に属する。フロイライン・マリーンドルフは、幕僚総監代行の地位にあったとしても、同盟政府高官の生命と財産を保全するとまでの保証する権限はなかったはずである」 「ことは国家と国家相当の組織間での条約、あるいは契約事項に属する以上、幕僚総監代行の権限が、国家間条約・契約事項に及ぶとするのは無理がありすぎる。降伏条件については司法省の専管事項であるべきだ」 ことは、人類が官僚組織を採用して以来、数千年にも及ぶ歴史を持つ、『官僚同士の縄張り争い』だった。ローエングラム王朝下の帝国政府官僚は、人類史上でも類を見ないほどの効率と清廉さを併せ持った組織として知られることになるが、それでも官僚組織としての本性からは自由にはなれなかった。 まずは、『同盟との外交』に関して内務省と司法省、さらには国務省が縄張り争いにも似た暗闘を始めたようだが、経緯の詳細については膨大な記録の中に埋没したか、まったく記録に残されなかったか、後世においても判然としない。ただ、ヒルダへの非難が内務省系の官僚から出始めたのは確かなようで、これは国務省を『外交』の舞台から引きずり下ろすための口実だったのは確実である。何しろ国務尚書マリーンドルフ伯爵がヒルダの父なのである。