
伝説の落日(上)
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銀英伝(新帝国暦2年~3年、宇宙暦801年~802年) (『伝説の時代の終わり』シリーズ (4)) 第1章~第6章+Der Auftakt fuer den Sonnenuntergang サイズ:A5 ページ数:124+44(2分冊になります) 皇帝(カイザー)ラインハルトの病臥により、『回廊の戦い』は双方痛み分けの形で終止符を打つ。病床のラインハルトはキルヒアイスによる皇帝位の代行を望み、講和の実現に向けてヤンとの交渉着手をキルヒアイスに命じる。膨大な流血の果てに漸く和平と安定が兆すかに見える中、帝国の内外に囁かれる不満の声があった……曰く『皇帝(カイザー)は流血をのみ、お望みになるのか』。密かに底流する憤懣に乗じるように、ある陰謀が遂にその姿を現そうとしていた。 また、このエピソードに先だって、ラインハルトとヒルダの間のあるエピソード、グレーチェン・ヘルクスハイムの身の上の転変、回廊の戦いの間に同盟軍の宿将たちに起きたエピソードが別冊で語られる。
戦いの前
「……それで、陛下。あの、ご無礼をお許し下さい。そろそろ、お話をお聞かせいただけませんでしょうか?」 ヒルダがそう切り出したのは、ラインハルト自らが彼ら二人を招待した食事の席だった。場所は、この時期、仮の大本営が置かれている、フェザーン市内の高級ホテル『バルトアンデルス』。そのメイン・ダイニングの個室だった。 文理科大学で起きた爆弾テロ事件に対する親族の関与を疑われ、ヒルダと彼女の父マリーンドルフ伯は旧帝都<オーディン>の自邸での謹慎を命じられていた。その謹慎が解け、二人が新帝都たるフェザーンに到着した、まさにその日のことである。 「あ……ああ、そうだったな、話したいことがあるのだったな。話したいことがあるのは事実だ。予の、その、きわめて個人的なことについて……だ」 ラインハルトが落ち着かなげに視線を僅かにさまよわせるのに、ヒルダはあり得ないものを見てしまった驚きに二の句が継げずに絶句してしまう。 宇宙港に彼らを出迎え、『職務に就く前に話したいことがある』と彼らをここへ案内したのはラインハルト自身である。すでにメインの料理は下げられ、彼ら三人の前には食後の果物と氷菓、そしてコーヒーが供されていたが、それまでに三人がやりとりした話題は、皇帝<カイザー>と皇帝<カイザー>首席秘書官、そして国務尚書の間で交わされるべきものから一歩も離れるものではなかった。『回廊の戦い』はすでに必然の近未来の出来事となり、フェザーンに進出した帝国軍は、来たるべき出撃に備えた動きが慌ただしい。その一方で、皇帝<カイザー>の新たな居城の建設準備もまた急ピッチで進められており、フェザーンの地表と周辺宙域は沸き立つような活況の中にある。 とはいえ、帝国内外の状況に関する情報交換など、何も皇帝<カイザー>がわざわざ国務尚書と首席秘書官を、人払いしたレストランの一室に誘ってまでして行うような必要のあろうはずもなかった。 質問の接ぎ穂を失い、ヒルダは困惑して父に視線を走らせる。マリーンドルフ伯爵は娘に向かって小さく微笑むと、コーヒーのカップを取り上げ、ゆっくりとした動作で口元に運ぶ。ヒルダの見るところ、全く普段の通りの父の振る舞いだった。彼女と異なり、マリーンドルフ伯はコーヒーを喫するときにはクリームも砂糖も入れない。 最高級の素材と技術が投入されたに違いない黒褐色の液体の香りと熱さを堪能し、伯爵は受け皿にカップを戻した。 「陛下、以前にキルヒアイス大公に伺ったことがあります」 「……ん、キルヒアイスから? どのような?」 「つまり、大公が友人の結婚式に出席された時のことと伺っています」 『結婚』……その単語が伯爵の口から紡ぎ出された瞬間、再びヒルダは呆然として座席の中で硬直してしまった。ラインハルトが、その白晢をみるみる上気させ、頬一面に朱を走らせたのだ。 マリーンドルフ伯は、しかし、そんな主君の劇的な表情の変化など、まるで視界にも入れていないかのように落ち着き払った温顔を崩さなかった。もう一口、コーヒーを口に運ぶと、上体を動かしてラインハルトに正対する。 「さて、陛下。臣といたしましては、陛下を一発殴りつける権利を与えていただける。そう信じてよろしうございますな」 信じられない父の言葉に、今度こそヒルダは驚愕して腰を浮かせた。 「お、お父さま、何ということをおっしゃるの」 彼女を制したのはラインハルトだった。 「あ、いや……その、よいのだ、フロイライン」 今や頬だけでなく、耳朶にまで血の気を差し昇らせたラインハルトは、あろうことかヒルダに向かってその黄金<こがね>色<いろ>の頭頂部を見せて謝意を示した。 「完全に順序が誤ってしまっている。本来なら、あなたの同意を先に得るべきものを、うかつにもこのような形での申し入れになってしまった。不意打ちをするつもりではなかったのだ。許してくれ、フロイライン」 「許す……許せ、とおっしゃっても、何をおっしゃっているのか、私<わたくし>にはさっぱり……お父さま?」 完全に混乱し、救いを求める眸になったヒルダに、マリーンドルフ伯は苦笑とも何ともつかない表情になってうなずくと、もう一度ラインハルトに視線を戻した。 「キルヒアイス大公は、父上からこう聞かされたと、そのように伺っています。つまり、花嫁の父は、娘を奪っていく男を一発殴りつける権利が与えられる……と」 この席についている三人の男女の中で、ヒルダが他の二人に対して理解力において一歩を譲っている、などということはなかった。知識においても、視野の広さにおいても、そして物事の把握と理解の能力においても、ヒルダのそれはラインハルトにも比肩する水準とされ、父マリーンドルフ伯をはるかに凌駕する。それが、同時代においても、後世においても揺るぐことのないヒルダに対する評価である。 しかし、この時、父の言葉を前にヒルダの表情は完全な空白だった。わかりやすく言えば、唖然としてきょとんとしていた、とさえ言ってよい。父の口にしたキルヒアイスと彼の父のエピソードと、この場の、先程来のラインハルトのあり得ない振る舞いや表情、物言いとの関連性をまったく見いだせず、その犀利極まる頭脳もただ空回りを続けるだけだったのだ。 だが、それも長いことではなかった。 不意にヒルダの顔色が変わった。頬から耳朶にかけて鮮やかなほどの血の色が上っていき、見る見るうちに髪の生え際まで真っ赤になったのだ。 「へ……へ……陛下……ま……まさ……まさか……」 いつもの、整理され秩序だった口調からは想像もつかない。口にすべき言葉が見つからず、うわごとのように同じ言葉を繰り返して、ヒルダはラインハルトを見つめる。父マリーンドルフ伯の『陛下を一発殴りつける権利』、ラインハルトの『不意打ちをするつもりはなかった』との言葉、そしてキルヒアイスの語ったというエピソード。それらが漸く理解を生み、一つの言葉となってその脳裏に浮かび上がったのだ。 「陛下……つまり、あの……まさか、つまり、陛下は……」 しどろもどろな有様になったヒルダに、マリーンドルフ伯泊地を挟もうとして、それから静かにかぶりを振ると、コーヒーの残りを咽喉に注いだ。彼とて見た目ほどに落ち着いていたわけではない。娘を持つ父親にとって、これは一生のうちに何度もない、いや、彼の場合、おそらくは一度きりしかない、避けがたい経験であり、試練であり、そして人生のうちで最大の喜びでもあるべきできごとだった。無論、『何も、よりによって銀河帝国皇帝<カイザー>でなくても……』というため息に似た愚痴を伴うのは事実だったが。 父が助け船を差し控えたせいで、ヒルダとしては狼狽と動揺と混乱、そして否定のしようのないことなのだが確かに身の浮き立つような歓喜の感情の大波の中から、必死に自らを浮き上がらせねばならなかったのだが、なかなかうまくいかず、ただ意味のない言葉を何とか紡ぎ合わせようとして、そんな自分にますます狼狽するという悪循環の渦の中からなかなか浮き上がることができなかった。 「一方的な申し入れであるとは承知している。しかし、予も予なりに熟慮した挙げ句のことなのだ……察してほしい、フロイライン」 ラインハルトもまた、まだ混乱から立ち直っていない様子だった。寧ろ、ヒルダよりも彼の方が狼狽の度は深かったかもしれない。そのように自身の事情をつまびらかに説明する前に言うべき相手に言うべきことがあるだろう。助け船を出すのもいいが、『一発殴りつける権利』を与えられるべき父親が、殴りつけるべき相手を助けるのもどういうものだろうか――と、これはマリーンドルフ伯のいささか意地の悪い観察である。 「陛下!」 立ち直りはやはりヒルダの方が早かったようだった。マリーンドルフ伯は安堵し、名残惜しげにコーヒー・カップの底に視線を落とす。お替わりを頼んでもいいが、今、この部屋に余人を招じ入れるのは、せっかく治まりかけた室内の空気が再びかき乱され、また果てしのない堂々巡りを招くことにもなりかねない。 「陛下、陛下はお狡いですわ」 「な……」 ヒルダの放った言葉の槍が意外なほどの鋭利さで胸を貫いたらしい。蒼氷色の双眸が驚きに瞠られ、それから、あろうことかかすかな怯えにも似た色合いを浮かべて、ヒルダの姿をそのただ中に映し出した。 「予が狡いと?」 「そのように陛下の方のご事情ばかりご説明になって……陛下が私<わたくし>に何をお求めになっているのか、それをお話になってくださらないのを、狡いと申し上げたのです」 よく言った、娘よ――マリーンドルフ伯に芝居気があれば、そう言って横手を打ったかもしれない。謹直な伯がそのような行動に出るはずはなく、この時のマリーンドルフ伯が感じていたのは、これで娘を失うことを確信した父親の侘びしさに違いなかったのではあるが。 「そうだった、済まぬ……」 ラインハルトもまた、ヒルダの言葉に我を取り戻したようだった。上気した表情はそのままだったが、表情からは明らかに緊張が緩み、微笑からもこわばりが消えた。 不意に室内に息苦しいばかりの花の香りが満ち、ヒルダは無論のこと、マリーンドルフ伯もまた目を瞠った。個室の一角にしつらえられていたクローゼット。その中からラインハルトが取り出したのは、自身の上半身すら覆い隠してしまいそうなほどに大きな、赤と白と淡紅色の大輪の薔薇の花束だった。 「あなたに、これを差し上げたいと思って手配した。ミッターマイヤー元帥は、夫人に求婚するとき、薔薇の花束を持参したと聞いている。予も、元帥の顰<ひそみ>に倣いたいと思ったのだ」 ミッターマイヤーが持参したのは、こともあろうに黄色の花束だったと聞く。それに倣わなかったのはよいとしても、何もミッターマイヤーに師表を求める必要まではなかろうに、と伯は思わざるを得ない。しかし、翻って言えば、これば皇帝<カイザー>ラインハルトという人物の純粋さというべきであろうし、ヒルダもまた、彼にただ史上最大の覇王としての一面しか見ていないということもないはずだった。 「これをもって、予のフロイラインに対する求婚の証としたい。予の皇妃となってくれ、フロイライン・マリーンドルフ。それが、予がこの場であなたに求める唯一のことだ……そして、マリーンドルフ伯……」 言い止すラインハルトの言葉を、微笑を含んでかぶりを振ったマリーンドルフ伯の表情が封じた。 「ああ、そうだな、そうだった……フロイライン」 ラインハルトが花束を差し出す。鮮烈すぎる薔薇の香気の中、沈黙の天使が音もなく三人の周りを数周も経巡った時、花束が動いた。ラインハルトの手を離れた薔薇の花束はヒルダの手に移り、大きすぎる花束の中にヒルダの上半身はほぼ完全に隠れてしまった。 「ありがとうございます、陛下。私<わたくし>のような非才の身に、身に余る光栄にございます。陛下のお心の証として、ヒルデガルト・フォン・マリーンドルフ、この花束をありがたく頂戴いたします――そして、陛下のお心にお応えできるよう、これからも身を尽くす所存にございます」 花束を抱えたまま席を立ち、そのまま跪礼を取ろうとするヒルダを、ラインハルトは押しとどめた。 「ゴールデンバウム王朝は知らず、予にとって皇妃とは部下ではない。予の、生涯をともにする伴侶なのだ。その皇妃たるべきあなたに、そのような礼をとってもらいたくはない」 ラインハルトの差し出した両手を、ヒルダはひどく不器用な動きで右手で受けた。心理的な不安定さが、彼女の身動きから常のなめらかさを奪っていたこともあったが、受け取った花束が大きすぎて動きづらかったのだ。 遙か後、ラインハルトは無論、ヒルダも過去の人として語られるようになった頃、この時の二人をこう評する一文を著した史家がいる。曰く、『皇帝<カイザー>ラインハルトは、今少し、花束を小さめにすべきだった。また、可能なら薔薇以外を選択すべきだった』――と。何とならば、『その花束の巨大さと、そして花が薔薇であるという制約が、皇帝<カイザー>ラインハルトをして、未来の皇妃を抱きしめることも、接吻<くちづけ>することも叶わず、ただ不器用にその手を握りしめるだけで、稀少なるべき婚約成立の時を過ごす以外の選択肢をなからしめたのであるから』。無論、この史家はラインハルトのみならずヒルダの為人<ひととなり>も大いに誤解しており、その評論は多くの笑殺と、一部の嫌忌を以て読み捨てられるにとどまる。たとえ、花束の存在がなくとも、ラインハルトがこの史家の期待したような行動に出ることなど思いもよらないことだったからだ。 「……ありがとう、フロイライン・マリーンドルフ」 「それは……私<わたくし>の言葉でございます、陛下……ありがとうございます」 そこは『フロイライン・マリーンドルフ』ではなく『ヒルダ』と呼びかけるべきだろう……とマリーンドルフ伯が内心に突っ込みを入れる……はずはなく、この時、伯の胸裏を占めたのは全く別、我が身が国務尚書の印綬を帯び続けるのも、そう長いことはないであろうとの感懐だった。ただ、史実が語るように、伯の国務尚書辞任は、彼自身が予想したのよりも遙かに未来のできごととなるのだが。 ローエングラム王朝初代皇帝<カイザー>ラインハルトの皇妃が、こうして定められた。新帝国暦一年一一月一日夜、『回廊の戦い』に向けて歴史が巨大な動きを見せ始めた、まさにその日のことだった。
グレーチェン・捕虜となる
「『パトロクロス』より入電、目標方位一三度、俯角二二度方向の帝国軍艦隊主力側面。全艦、最大戦速。突撃に移れ」 感情を一切交えぬ、淡々とした声は電子戦先任士官のヴィラルドゥアン中尉だった。 頷き、グレーチェンは軽く右手を挙げ、声を張った。 「突撃用意。中和磁場出力、前方に対して最大となせ。火力を艦首正面に集中」 「五、四、三……」 機関士のカウントダウンが彼女の声に被った。 「二、一、〇」 同時にグレーチェンは右手を振り下ろす。慣性中和機構の限界を超えた凄まじい加速が身体を後方に蹴り飛ばし、シートに深々とめり込ませる。悲鳴を上げたくなるほどのGに顔を歪めながらも、視線は戦闘情報スクリーンと有視界<ビュー>スクリーンを離れない。帝国軍の駆逐艦や単座戦闘艇ワルキューレが流星のように後方に流れすぎていく一方、前方には無数とも言える光点が一瞬ごとにその輝きを増しつつ、急速にその姿を拡大してくる。帝国軍艦隊の主力、疾風<ウォルフ・デア・>ウォルフ<シュトルム>、ウォルフガング・ミッターマイヤー元帥率いる大艦隊の、長蛇のように延びた側背を目にしているのだ。 同盟軍の新手の突撃に早くも気づいたらしい。帝国軍艦隊の大群から数千隻の大部隊が分離し、進路を変えたのが見えた。 途端に前方視界スクリーンが虹色から銀白色の閃光を放ち、一瞬でブラックアウトする。 「損傷知らせ!」 「巡航艦主砲、中和磁場に直撃。被害はありませんが、出力一〇パーセント低下。復旧までに五分かかります」 「敵宙雷、来ます。方位三度、俯角七・五度」 「艦首対空砲群、迎撃ミサイル射撃開始。囮<デコイ>ユニット、一番から一〇番まで射出せよ」 複数の爆発が同時に起こり、火球が『ハリファックス』を覆い尽くす。蹴り飛ばされたような衝撃が艦を上下左右に揺さぶり、軋ませるが、『ハリファックス』の突進は停まらない。戦艦の放った中性子ビームに艦体を串刺しにされ、複数方向から襲いかかった宙雷や磁力砲弾の直撃を受け、熱しすぎた缶詰のように内側から白熱の閃光を放って爆発四散する不幸な僚艦が続出するが、すでにグレーチェンにもそれらを一々気にかけている余裕はなかった。 『艦長!』 先任下士官からの通話ランプが点灯した。 「スパルタニアンは出さない。この乱戦では収容を望めない。ダメコン班の指揮を頼む」 『了解。よろしく頼みます、艦長』 先任下士官のコティ曹長とも長いつきあいになる。長々とした説明は不要だった。 「砲撃準備!」 目標選定は艦長の任務だ。コンソール上の照準サブスクリーン上に視線を素早く滑らせる。視線に反応し、スクリーン上の画像が目まぐるしく変わり、やがて固定した。 「『人狼<ベイオウルフ>』型戦艦です!」 驚くべき偶然と言えた。『ハリファックス』と、その一〇〇隻ほどの僚艦が前方に見出したのは、乱戦の中で直衛艦の厚い防禦陣形が崩れ、その姿を彼らの視線に露出したミッターマイヤーその人の旗艦『人狼<ベイオウルフ>』だったのだ。無論、グレーチェンらが知るよしもなかったが。 「あれを狙う。悪くとも、あれは分艦隊以上の戦闘集団の旗艦だ。あれを沈めれば、『ブリュンヒルト』への道が開くぞ」 花束を用意しろ、野郎ども<ボーイズ>。皇帝<カイザー>陛下の御前だっ……叫ぼうとして、グレーチェンはちょっと躊躇い、苦笑すると言い直した。 「花束を用意しなさい、皇帝<カイザー>ラインハルトの御前はもう間もなくよっ!」 電子の目と人間の目、双方の視界の中、目標の戦艦の姿が急速に拡大し、スクリーンから溢れ出す。狙点固定を示す電子音が響いた。 「発射」 『ハリファックス』の艦首主砲が、花束ならぬ白熱した中性子ビームの束を迸らせる。僚艦も次々に『ハリファックス』に倣う。ビームを追うようにして超高速の磁力砲弾が戦場を切り裂いて飛翔し、おびただしい数の宙雷がオレンジ色の航跡を引いてその後を追う。 「主砲、引き続いて斉射三連! コースこのまま、敵艦隊のコースを横断しつつ、戦場を突っ切る」 『ハリファックス』の主砲が立て続けに咆吼し、射出される宙雷の航跡が艦腹を明々と照らし上げる。直撃を受けた帝国軍の巡航艦が一瞬に白光で艦体を縫い貫かれ、複数の宙雷を食らった帝国軍戦艦が舷側から鮮血のような爆焔を噴き上げながら艦列から脱落していく。 帝国軍もやられっぱなしではない。僚艦の爆発光が閃々として戦場に閃き、『ハリファックス』の装甲を白々と照らし上げる。『ハリファックス』の防禦磁場もひっきりなしに虹色の閃光を放ち、間一髪で迎撃された宙雷や磁力砲弾の炸裂が舷側を蹴り飛ばし、艦体を揺さぶり上げる。時に過負荷を示す銀白の閃光が中和磁場を覆い、グレーチェンの背に冷たい汗を浮かばせる。それでも『ハリファックス』が致命傷を受けなかったのはグレーチェンの卓越した操艦技術もあっただろうが、それ以上に運の要素が大きかった。 『幸運の女神』 搭乗員から呼ばれている、その呼び名の通り、グレーチェンの頭上に幸運の女神が降臨したかのような光景だった。 「艦長!」 ヴィラルドゥアン中尉の歓声がブリッジを貫いた。 「命中。『人狼<ベイオウルフ>』型戦艦に主砲四射線、宙雷一、磁力砲弾一、それぞれ命中。主砲一射線の中和磁場貫通を確認。宙雷と磁力砲弾は至近弾となった模様。『人狼<ベイオウルフ>』型戦艦右舷上部に誘爆を確認……少なくとも中破以上の損害確実です」 撃沈できれば文句なしだったが、帝国軍の反撃も激烈を極めている。同盟軍に対して数層倍の厚みを持つ帝国軍が、その主力中央に突入しているのだ。グレーチェンの『ハリファックス』と共に突入した巡航艦部隊の半数はすでに姿を消し、残る半数の半ばもまた大なり小なりの損傷を受けている。これ以上、攻撃に固執すれば命取りだった。 「まだだ、喜ぶのは、この戦場から無事に離脱できてからだ。機関全力、このまま敵艦隊を航過し、味方主力……マリノ分艦隊に合流するっ」 叫ぶように命じ、グレーチェンは再び複数のスクリーンに視線を走らせる。 「崩れてる。大丈夫だ」 旗艦に一撃を食らったためだろう。帝国軍艦隊の戦列は明らかに乱れている。反撃も密度が下がり、『ハリファックス』に同航する僚艦の航跡も少しずつ増えてきているようだ。 ヴィラルドゥアン中尉の報告が『ハリファックス』のブリッジを驚愕の沈黙に突き落としたのはその時だった。 「艦長、帝国軍の通信を傍受しました……ミッターマイヤー元帥、戦死! とあります」 「……」 「あの『人狼<ベイオウルフ>』型戦艦は『人狼<ベイオウルフ>』そのものだったのかも知れません」 「平文<ひらぶん> (暗号化されていない、普通の通信)か、中尉?」 辛うじてグレーチェンは平静さを取り戻した。帝国軍の双璧、帝国軍の至宝、帝国政府、特にローエングラム王朝の重鎮。そのミッターマイヤー元帥の戦死が平文で伝えられるはずはないが、ヤン艦隊を初めとする同盟軍は、まだローエングラム王朝帝国軍の暗号を完全には解読できていないはずだった。 「平文です……残念ながら」 グレーチェンの指摘はヴィラルドゥアン中尉の興奮……仮に彼が興奮していたとして……を一瞬に醒ます効果があった。 グレーチェンは、はっきりと苦笑と分かる表情でブリッジを見回した。 「デマだな。帝国軍の誰かが、そうね、ミッターマイヤー元帥の負傷か、彼の部将の戦死を誤って伝えた。そんなところね……あれは、『人狼<ベイオウルフ>』だったかも知れないし、私たちが一蹴り、蹴りを入れられたかもしれないけれど、残念ながら、帝国軍の一璧を砕くには至らなかった。そう思うべきね」 表情を改め、グレーチェンは指示を下す。敵の中枢に一撃は入れ、その指揮系統を大きく混乱させるに至った。任務は果たした。まず、戦場を離脱し、次の任務に…… 言い止したとき、グレーチェンは不意に前方に身体を投げ出される感覚を味わった。シートベルトが上体に食い込み、肺の中の空気を叩き出され、悲鳴に似た呻きになって咽喉の奥から吹き出すのを止めようがなかった。 「機関、どうした」 加速の消滅……一瞬に悟ったグレーチェンは、全身から血の気が引くのを感じる。エンジンに敵ビーム砲の貫通、あるいは磁力砲弾や宙雷の直撃を受け、加速能力を奪われれば、いかな快速を誇る巡航艦といえども座り込んだアヒルに変わらない。敵の砲火を躱す術も、ワルキューレの肉薄攻撃を避ける手段もなく、ただ次の瞬間の轟沈を待つしかなくなるのだ。 『機関停止……故障の模様です』 悲鳴に似た報告は安堵を誘わなかった。 「こんな時に」 グレーチェンは歯噛みして唸った。先のパルメレンド宙域会戦から間がない。十分な整備が行われたはずだが、整備要員も施設も十分とは言えなかった。これまで彼女を守ってくれていた幸運の女神も、ここでどうやら彼女の頭上から天上へ居を移してしまったように、グレーチェンには思われたのだ。 「修理の見込みは?」 『メイン・ジェネレータからの動力伝導管に異常が生じていて交換が必要な状況です。これは……応急修理ではどうしようもありません。設備のある軍港に戻らねば、修理の見込みは立ちません』 「……分かった」 艦橋要員全員の視線を額に感じながら、瞬時目を閉ざす。長く迷っている時間はなかった。慣性航行しかできなくなった『ハリファックス』は、今にも、帝国軍の艦艇から直撃弾、あるいはワルキューレの至近距離からの狙撃を浴びて火球に変わるかも知れないのだ。いや、この瞬間にも『ハリファックス』を包む中和磁場の閃光は光度を増し、一瞬ごとに限界に近づきつつある。 「機関停止、降伏信号発信、総員退去準備」 「か、艦長……ヘルクスハイム大尉。それは……!」 「議論している間にやられるぞ、ヴィラルドゥアン中尉。命令だ。命令した以上、全責任は私が取る……先任曹長!」 『……総員退去準備……了解<アイ・マム>』 いつになくコティ曹長の応答に間が空いて聞こえた。 「幸運の女神もここまでだったらしい、悪いね、曹長」 『いえ、まだ吾々は生きておりますので』 それ以上の応答はない。ヴィラルドゥアン中尉も敬礼して命令を肯い、降伏信号を発信。同時に機関が停止する。全搭乗員が、それぞれの持ち場の装備に破壊指示のパスワードを入力し、脱出カプセルのある格納庫甲板に退去を開始した旨が報告されたのは、その二分後。 「敵艦、至近です。降伏信号を受信。銀河帝国皇帝<カイザー>ラインハルト・フォン・ローエングラムと、帝国元帥ウォルフガング・ミッターマイヤーの名において、吾らの捕虜としての生命を保証する旨を返信してきています」 グレーチェンは視線を有視界<ビュー>スクリーンに向けた。厚く、戦艦と重巡航艦に守られた中に、先ほど彼女と彼女の艦が一撃を食らわせた大型戦艦の姿があった。右舷上部から艦腹にかけて、巨大なサーベルで薙ぎ払われたかのように装甲鈑が捲れ上がり、一部は深く主艦体構造の内側にまで達しているのが確認できた。あと一撃、中性子ビームか宙雷が直撃していれば、破孔は機関部に達していただろう。 「艦名は?」 たかが一軽巡航艦の降伏に大げさなこと……とグレーチェンは僅かに呆れた。まあ、相手がそれなりにものの分かった指揮官らしいことに安堵を覚えたのは事実だったが、事態は彼女の予想を超えていた。 「『人狼<ベイオウルフ>』です」 ヴィラルドゥアン中尉にとっても、これは明らかに予測を超えた事態だったのだろう。いつもの完璧な冷静さを完全には保てなかったかのように、口調が不安定に揺れた。 「ミッターマイヤー元帥その人からの返信です。我が方の指揮官の官姓名の提示を求めてきています」 グレーチェンは肩から力を抜き、シートに沈み込んだ。捨ててきた祖国だった。こんな形で帰国することになるとは思ってもみなかった。 「返信して下さい、中尉。グレーチェン・ヘルクスハイム、同盟軍大尉。巡航艦『ハリファックス』艦長。所属はヤン艦隊」 さて、これからどうなるのだろう……巨大な『ロ』の形をした収容所の広大な中庭を眼下に見下ろしながらグレーチェンは考えている。戦場の後方、フォーゲン星域にの捕虜収容所。かつての帝国では、同盟軍の捕虜は思想犯として扱われ、しばしば奴隷まがいの虐待も受けたと言うが、どうやらローエングラム王朝では旧帝国時代とは完全に捕虜への待遇は改められたらしい。 捕虜に対しては日に七時間の労役が課せられるが、士官として鍛えられた身には重労働と言うには遠い。食事も悪くなく、建物そのものも極く普通のビジネス・ホテルといったレベルであり、設備も整っていた。 捕虜となって以降、『回廊の戦い』の帰趨については何らの情報も与えられていない。普通に考えれば兵力に勝る帝国軍が凱歌を上げていて何の不思議もないはずだが、グレーチェン自身、ヤンがラインハルトの軍門に屈したとはどうしても思えなかった。どのような絶体絶命の窮地に陥っても、ヤン提督なら何とかしてしまうのではないだろうか。そう思ってしまうのだ。 『お待たせした』 不意に背後から声が聞こえた。 「面会だと言って呼び出されたのに、来てみたら誰もいない。あげくに映像ごしでの面会とは、これなら別に面会室に来る必要などなかったのではありませんか」 ゆっくり振り返りながら、グレーチェンは壁面のスクリーンに視線を向ける。 「帝国軍務尚書パウル・フォン・オーベルシュタイン元帥」 『無礼の断は容赦願う、グレーチェン・ヘルクスハイム大尉。卿が我が軍の捕虜となったと聞き、連絡をさせてもらった』 「一介の大尉ごときに光栄なことです、元帥」 グレーチェンは微笑ってみせた。絶対零度・帝国印のカミソリ、ドライアイスの剱と呼ばれる人物を目の当たりにしても、恐れの表情はない。 「ご用を伺います、元帥」 『女官として、皇帝<カイザー>陛下のお側についてもらいたい』 「はぁ……?」 グレーチェンの眉間に深い皺が刻まれた。これはさすがに意表を突かれたというべきだった。 「それは、皇帝<カイザー>ラインハルトの後宮に入れという要求ですか。驚いたな、帝国軍はいつから皇帝<カイザー>の側室探しの範囲を捕虜にまで広げたというのです? これではうっかり捕虜にもなれない」 驚きながらも投げつけた皮肉の矢は、しかし完璧な無表情の盾に弾き返された。 『女官と呼んだのは卿が女性だからに過ぎない。もっとも男性であれば、このような依頼はせぬだろう』 「……悪いが、そなたの言うことが理解できぬ」 まどろこしくなり、グレーチェンは帝国公用語に切り替えた。自然に口調がグレーチェンではなく、マルガレータ・フォン・ヘルクスハイマーのものになる。 「ここは誤解をしたくないゆえ、敢えて元帥に対しての非礼を許して貰う。妾<わらわ>が身の上、当然調査の上のことと思うが?」 『誤解はない。優れた軍人であるとともに、一人の女性としても皇帝<カイザー>陛下の傍らに座を占めて不自然ならざる人物と、小官は判断した』 「それではやはり、そなたに皇帝<カイザー>が側室たれと命じられているようにしか聞こえぬ。はっきり言っておく。妾<わらわ>には想い人がいる。その者の腕の中に戻るまで、他の男に身を許すつもりはない。たとえ、皇帝<カイザー>ラインハルトが妾を寝所に誘<いざな>おうとても、拒絶以外の選択肢を妾は持たぬ。時に、妾が拒絶は皇帝<カイザー>の身命を危うからしめる結果につながるやも知れぬ。それでも良いのか」 口調はともかく、罵声と言うべき内容にも、半白の眉が一筋たりとも動くことはなかった。 『それは皇帝<カイザー>と卿の間のことだ。小官の関与すべきことではない……それに皇帝<カイザー>陛下の皇妃<カイザーリン>たる人物はもう既に決している。ほぼ……という意味だが。皇帝<カイザー>陛下が、至近の未来における皇妃以外の人物を軽々に後宮に入れるとは、小官は信じていない』 「至近の未来における皇妃じゃと……」 薄い金色の眉を思わず大きく跳ね上げて、グレーチェンはスクリーンを凝視した。一体、このドライアイスの剱は何を口にしようとしているのか、さすがに追い切れない。 皇帝<カイザー>ラインハルトの皇妃がすでに内定しているというのか。銀河帝国皇帝<カイザー>に向かってはおよそ考えられる限りの罵詈雑言を投げつけていた同盟のメディアである。グレーチェン言うところの『超絶美形』であるにもかかわらず、彼らは皇帝<カイザー>ラインハルトの女性関係に対してだけはなぜか批難の矢を向けることは少なかった。後見人<ベンドリング>から聞かされた話でも、皇帝<カイザー>の周辺に女性の影が薄いことは事実であるらしかった。その皇帝<カイザー>が俄に皇妃を迎えると聞かされても、よくて半信半疑というところだった。 「それは誰だ?」 『ことは皇帝<カイザー>陛下の私生活に関する。卿に話す謂われはない。皇妃の席が卿に対して用意されていることだけはない。そういうことだ。それに、卿がこの申し出を受ければ、自然に卿は事実を知ることになる』 「では、妾<わらわ>になにを望む?」 『卿は保険のようなものだ。皇帝<カイザー>陛下が皇妃を娶られる。必然的に皇妃の存在は、皇帝<カイザー>陛下にとっての一種の弱みともなり得る。ちょうど、グリューネワルト大公妃がそうであるように……卿には、その弱みに対する保険としての存在を期待する。何をしろと命じるつもりもない。卿の、優れた軍人としての資質、独りよく同盟に亡命し、成人たり得た、一人の女性としての才質。期待するのはそれだけだ。皇帝<カイザー>陛下が卿をなお後宮の住人たるべき女性として認識されるや否やは、小官の視野の外にある』 「卿になど、妾<わらわ>が人としての資質を論じて貰う必要などないが、後宮入りを前提とした話でないことだけはわかった」 オーベルシュタインの表情は、やはり毛筋ほども変わらなかった。両の義眼は、薄く靄を帯びたような白い光を漂わせ、硬質な氷の彫像を思わせて完全な無表情を保っていた。 『答を頂こう、ヘルクスハイム大尉。卿にとっても皇帝<カイザー>ラインハルトという偉大な個性の傍らに侍す機会を得ることになる。卿にとって、それが必ずしも忌避すべきできごとではないと思うが?』 さすがに帝国軍のドライアイスの剱。完全にこちらの心象を読まれている。皇帝<カイザー>の寝所に侍するなど、たとえ『超絶美形』が相手であっても絶対にご免だが、皇帝<カイザー>ラインハルトという個性に興味がないわけではない。これがジークフリード・キルヒアイスへの寝所への誘いというのなら、また話は別だが……そこまで考えてグレーチェンは耳まで真っ赤になった。さっき、『妾<わらわ>には想い人がいる』などと偉そうに言い切ったばかりなのに、なんてことを…… 「何を戯けたことを、ジークフリードではない!」 口に出してしまってから慌てて口を押さえる。 普通なら『何の話だ』とでも反問するところだろうが、オーベルシュタインはわずかに義眼を閃かせただけで何も問おうとはしなかった。 「分かった。卿の依頼を受ける。いつからだ?」 『明日の昼、そちらへ迎えの船が着く。出発の準備を整えておいて頂こう。卿の部下たちのことは心配するには及ばない。帝国軍の名誉にかけて彼らは公正に扱われる。そう遠くない内に戦いが止めば、祖国に帰ることも叶うだろう』 「戦いが間もなく止むというのか」 『答える義務はない』 儀礼的な別れの挨拶すらなかった。おざなりな敬礼さえなく、不意に暗転したスクリーンをグレーチェンは唇を噛んで見詰めるしかなかった。 士官学校卒業直後にベンドリングと交わした冗談口を思いだし、グレーチェンは泣き笑いに近い表情に顔を歪めた。同盟が滅び、同盟軍軍人としての職を失い、資産の一切もなくして無一文の身の上になったら、『その時は、あの<ライ>者<ンハルト>に頭を下げて、宮廷の侍女にでも使ってもらうとしよう』。そう言って、ベンドリングと笑い合ったのが、もう何年の昔のようだった。 「まさか……本当になってしまうとは……ヴェンツェル・ハインリッヒ、笑ってくれて良いぞ」 心配しているだろうな……心配性の後見人の顔を思い出し、グレーチェンは頬に流れるものを止めようがなかった。 ふと、あることに気づいてグレーチェンは愕然として頬を拭う。あの帝国印・絶対零度のカミソリ男は言わなかったか。皇帝<カイザー>ラインハルトが皇妃を娶ることが、皇姉アンネローゼに加えて彼の身に新たな弱みを抱かせることになる、と。それは皇妃たるべき女性、あるいはアンネローゼ大公妃の身を狙う現実的な脅威が存在する、と告げたに等しくはないか。 『卿は保険だ』 つまり、皇妃と大公妃、さらには皇帝<カイザー>その人の護衛としての役割をグレーチェンに期待する。そういうことではないのか。だから、『卿の優れた軍人として資質に期待する』、言い換えれば、『腕っ節に期待する』という意味だろう。 「要するに用心棒たれということか、あの男。しれっとした顔で言い難いことを……」 グレーチェンはオーベルシュタインの為人には通じていない。たとえばフェルナーなどが、この場のやりとりを耳にしていれば、さらに別な感懐を付け加えたことだろう。 「フロイライン・ヘルクスハイムが、何かしらの変事に於いて皇姉や皇妃の身辺を守り抜いたとして、皇帝<カイザー>が彼女の存在に気付かぬはずはない。彼女らが、フロイライン・ヘルクスハイムの『腕っ節』を要するような危地に陥るということは、皇帝<カイザー>自身の身もまた危殆に晒されるということだ。生死の境を共にした男女の間に、普段の彼らの為人からは思いも付かぬような心理的交流が生じる。一枚のカードで何枚分もの効果を狙う人物であってみれば、軍務尚書がそこまで期待してこの人事を取りはからった……としても驚くには当たらないだろう。軍務尚書が皇妃の座につくべき人物を忌むべきナンバー2と見做していたとすれば、フロイライン・ヘルクスハイムを指して保険と称したのは中々に意味深いものと捉えるべきだろう」 無論、グレーチェンはフェルナーと視野を共にする術もない。ただ、自分が見事にオーベルシュタインの術中に陥ったことだけは悟らずにはいられなかったのだ。 ただ、そうであったとしても今更踏み出した足を止めようなどと思わないのがグレーチェンのグレーチェンたる所以なのも確かだった。