単刀直入に、キルヒアイスとアンネローゼの結婚式のお話です。 猫屋版銀英伝に着手して以来の懸案事項だった、キルヒアイスとアンネローゼの結婚式を漸く書くことができました。ただし、幸せなゴールに向けての単純で一直線の物語にならないのはいつもの通り。帝国と旧同盟を飲み込むような巨大な陰謀の地下茎……ではありませんが、幸福なるべき婚儀の庭に生えだした陰謀の毒草、くらいのお話になります。ヤンの助けを借りて、キルヒアイスが毒草をどんな風に引っこ抜くでしょうか……?
プロローグ
プロローグ 新帝国暦三年、皇帝ラインハルト(カイザー・ラインハルト)の長期病臥を受けた帝国政府は、帝国大公ジークフリード・キルヒアイスによる皇帝位の代行を宣言し、帝国内外を驚かせた。 「なぜ、皇帝代行なのだ? いっそ帝国大公が第二代皇帝を襲えばいいではないか?」 その声も小さいものではなかったが、キルヒアイスは頑として第二代皇帝の玉座を拒否した。 「私はラインハルト陛下がご復座なさるまで、仮にその立場を代行するだけです。自ら玉座に就くに値する人間ではありません」 しかし……と、キルヒアイスが続けた言葉が、やはり周囲を驚きと、多くには喜びを、そして一部の者には疑問と怒りと憤りを招いたことは確かだった。 「私は皇姉グリューネワルト大公妃アンネローゼ殿下を、正式に大公妃として迎えることを、ここに宣言します」 正式の婚姻の儀は同年一〇月一日。この日を期して新帝都フェザーンへの正式の遷都を宣言すると共に、日を置かずして大公妃夫妻は新帝都へ遷座する。 「帝国本土と新領土の完全な安定、併せて皇帝ラインハルト(カイザー・ラインハルト)陛下を迎えるべき新都としてのフェザーンの完成、ラインハルト陛下を再び玉座に仰ぐまでに、私のなすべき最大の義務がそれである。私はそう考えます」 帝国大公夫妻の婚姻の儀は、新無憂宮(ノイエ・サンスーシ)の一角、黄水晶の間(ザール・デス・チートリン)にて行われることが決定された。 黄水晶の間(ザール・デス・チートリン)は、ゴールデンバウム王朝時代、クリスマス・イブの舞踏会(ハイリヒアーベント・バール)の会場として知られており、黒真珠の間ほどの豪壮さはないにしても、帝国の統治者の婚姻の場としてささやかすぎるとの誹りをうける気遣いは全くない。とは言え、もともと舞踏の間として造営された広間である。予定される儀式の規模を勘案すれば、その大きさと装飾、さらには警備の便において不足が指摘された。 式典会場の新設を提案したのは、ブルーノ・フォン・シルヴァーベルヒ工部尚書だった。 「折角です。一時的な会場を仮設するよりも、それなりに金と時間をかけて、その黄水晶の間(ザール・デス・チートリン)に、こうした男女の儀礼に必要な儀典場を整えればどうですか。帝国大公夫妻の式の後は、一般臣民にも金次第で公開と使用を許可すれば宜しい。帝国大公が結婚された式場であれば、臣民たちが争って顰(ひそみ)みに倣おうとするでしょう。別に儲けようとは思いませんが、ある程度の維持費も確保できましょうし、帝都の新しい名所にもなるでしょう。新王朝にとっても悪い評判を呼ぶ話でもない」 シルヴァーベルヒの提案は直ちにキルヒアイスの同意と裁可を得ることになった。結果、黄水晶の間(ザール・デス・チートリン)の広大な庭園の一角に式典会場……通称『聖堂(ディー・カテドラーレ)』が建設されることになった。 無用の浪費、国庫の規律なき濫費につながるのではないかとの声もあったが、シルヴァーベルヒは笑い飛ばした。これから衰退し、縮小していく国家ならともかく、ローエングラム王朝がこれから発展の礎を築いていこうとしているのだ。倹約ばかりが能ではあるまい。 「設計・工事は広く公募する。要は、遣った金が気前よく帝国全体に行き渡るようにすればいいんだ」 そういった経緯で、これまで帝国政府の仕事とは無縁だった、町の小さな工務店までが複数、工事に参加するに至っている。 「これは……随分と広壮、というか背の高い建物ですね」 一日、案内されてきた人物が、建設途上の『聖堂(ディー・カテドラーレ)』に感嘆の眼差しを注いでいた。かなりの長身にやや色の薄くなった茶色の髪、瞳に不思議な虹色の彩りを閃かせる青年である。 「ええ、これは大公妃殿下のご希望だそうです」 案内役の女性……余り癖のないアッシュ・ブロンドの髪の下で、細面にくっきりとした大きな目が意思の強さを感じさせる女性である。 『聖堂(ディー・カテドラーレ)』は、地球時代のゴシック様式を真似た、天を摩する高さを主題とした建造物として設計された。当初はキルヒアイスの『簡易に』との意向を受けて、取り壊し可能なプレハブで設計されたが、シルヴァーベルヒの手によって、費用の範囲内で可能な限り堅牢に、この後、少なくとも一〇〇年の使用に耐える設計に変更されている。 「意外ですね」 すでに見上げるのに首が痛くなるほどの高さにまで、ほぼ骨組みを組み上げられた『聖堂』に視線を送った青年が、僅かに眉を顰めているように見えた。 「グリューネワルト大公妃殿下は、このような仰々しい式場での式典を望まれる方だとは承知しておりませんでしたが?」 「ええ、その通りですわ、ヘル・ハーゼ」 アッシュ・ブロンドの髪の女性は唇を厳しく引き結んで首を左右に振る。 「アンネローゼさまは、一五歳の時に一〇歳のキルヒアイス帝国大公とお知り合いになられたと伺っています。言ってみれば、一五歳の少女と一〇歳の少年の初恋が、ここで結ばれる。そうであるべき場ではある筈なんですが、残念なことに、町の小さな教会で結婚式を挙げました……とは行かないのですね。それを、アンネローゼさまは……それに帝国大公も十分に心得ていらっしゃるのですわ」 私は結局、初恋を実らせた口ですが……と女性は僅かに頬を染めた。 「無礼を承知で伺います、フラウ・アイゼナッハ」 アイゼナッハ元帥夫人パトリツィア……彼女自身、コールシュライバー辺境伯の当主であり、パトリツィア・アイゼナッハ・コールシュライバー辺境伯爵夫人(マルクグラーフィン・フォン・コールシュライバー)を正式の称号とする。ただ、そんな長々とした名前を彼女自身も周囲も使うことはなく、元帥夫人パトリツィア・フォン・アイゼナッハとして知られている。モーリッツ・フォン・ハーゼは、そのコールシュライバー辺境伯家のビジネス・パートナーの一人、辺境宙域で鉱産資源の採掘と流通を主業務とする商社のオーナーである。 「キルヒアイス帝国大公とグリューネワルト大公妃……新帝国の未来を託するに足る人物だとお思いでしょうか?」 「無論です、ヘル・ハーゼ」 パトリツィアは即答した。 「ヘル・ハーゼ、アンネローゼさまは、確かにフリードリヒ四世陛下の寵姫でいっしゃいましたが、決してゴールデンバウム王朝の復活を望まれたり、陛下や帝国大公を我が意の儘に動かそうなどとなさったりする女性(かた)ではありません。私の名誉にかけて請け合いますわ」 数瞬の間。 眉を顰めた表情を変えぬままに、ハーゼは言葉と表情の選択に苦しむかのように目を閉ざして沈黙を先行させた。 「無用のお尋ねをしてしまい、申し訳ありません、パトリツィアさま。あなたにそう、仰有って頂ければ、これで迷うことはありません」 訝しげに、パトリツィアが銀灰色の瞳を曇らせる。その瞳を覗き込むようにして、ハーゼは口を切った。 「友人の一人が、帝都で工事建設の仕事をしていて、この『聖堂』の仕事にも加わっています。いえ、もう数年来の友人でして、信頼できる男です。ただ、ちょっと気になることがありまして……あるいは、これは、友人に対する誣告の罪を犯すことになるのではないか、そう思うと口に出すのもはばかられる思いでした……しかし、敢えてお話したいと思います。聞いて頂けますか、フラウ・アイゼナッハ?」 パトリツィアは僅かの逡巡もなく頷いた。 「喜んで伺いましょう、ヘル・ハーゼ」 「名は、アロイス・フォン・シュテーガー。さきほど申し上げたとおり、本来は建設業で身を立てている男ですが……」 ひとつ息をついて、ハーゼは辛うじてパトリツィアの耳に届くギリギリの声量で続けた。 「美術品の密輸・密売に関わっている……そういう噂があるのです」
エーリヒ二世記念棟
「ヤン元帥」 肩を叩かれてから、現在の時間軸を正しく選択し終わるまでに時の天使が何人か、虚空を飛び去っていったようだった。時間と同時に、地理……つまり、今、自分がどこにいるのかについての知識もようようのことで蘇ってくる。 「あ、ああ、これは、どうも……」 意味不明な言葉を口の中で転がしながら、ヤンは未練たらたらに目の前の分厚い書籍に視線を落とした。 一瞬前まで、彼は帝国暦三三〇年代の銀河帝国首都(オーディン)にあり、まさに宮廷陰謀のさなかに立ち会っていたのだ。 「ご執心ですわね、帝国中史にそれほど興味がおありですか?」 声をかけてきたのは、一人の老婦人だった。既にかなりの老齢には見えるが、背筋は伸び、綺麗に結い上げた髪にも乱れはない。背はヤンと同じくらいで、体の幅は……約一・五倍というところだろうか。 老婦人……ローザ・フォン・ローゼンマイヤー帝立大学教授。学芸省の銀河帝国史編纂委員会の主査を務める、帝国でも屈指の帝国史研究家として知られる。学界の重鎮らしい重厚な雰囲気と穏やかな温顔の持ち主である。 「そうですね、ここは宝庫です。よく、これだけの文献が残されていましたね、ローゼンマイヤー教授(プロフェソール・ローゼンマイヤー)」 「ええ、奇跡であることは事実ですわ、元帥」 そのローゼンマイヤー教授の視線の先には、室内の壁面一面を占有して並べられている、膨大な量の古書類があった。 「『帝国中史』時代がいわゆる『陰謀時代』と呼ばれていることは無論、ご存じですね?」 無断で資料室に入り込んでいたことを咎められるかと思ったヤンだったが、ローゼンマイヤー教授にはその意思はなさそうだった。 「ええ、宮廷内外で混乱が続いたことや、そうですね、同盟との本格的な戦いが始まったこともあって、文献類が極端に少ない。ちょっとした推論とか憶測でも本が一冊書けるくらいの大混乱の時代だった。そういう風に聞いています」 もっとも、同盟では帝国に関する文献や情報は更に少ない。『帝国中史』という用語、文献の少なさなども、帝都に駐在するようになって初めて聞いたことだ。 「……それなのに、これだけの文献や資料が新たに発見されて、それも、まだほとんど研究が手つかずというのは驚きです」 「歴史のお話になると、まるで子供のようでいらっしゃる」 ローゼンマイヤー教授は微笑んだわけではなかったが、その表情は、この『いつまでたっても芽の出ない若手の研究者』のような外見の青年への好意を示すものだった。 「旧帝国史だけでも五〇〇年近くありますし、大帝即位前の時代も四〇年ばかりありますからね。皇帝陛下と帝国大公のお声掛かりですから、資金に不足はありませんけれど、研究者となると直ぐに数を揃えるというわけにはいきません。中史は私の専門でもありますから、できるだけ早く手を着けたいところですけれどねぇ……」 自分で文献・資料の研究の現場に立ちたいが、編纂委員会の主査ともなると、研究の時間よりも会議や書類を書いている時間の方がはるかに長くなってしまうのはやむを得ない。と言っても、研究を任せきれるほど、この時代に精通した若手の研究者となると…… 「昔、帝立大学で帝国中史をテーマにしたオープン講座を開いていたことがあります」 「教授自らが講師をなさるのですか?」 それなら自分も是非受けてみたい……ヤンは思わず椅子から腰を浮かせた。 「もう、その講座は開いておられないのでしょうか?」 「おやおや、そんな風に詰め寄らないでくださいな、元帥。残念ながら、数年前までで講座は閉じております」 決して多数では無かったにしても、講座には優れた研究者となり得る受講生が何人も名を連ねてくれた。彼らの名を講座の名簿に記すことができた、そのことが自分の研究が無駄ではなかったことの一つの証拠となってくれるかもしれない……ローゼンマイヤーの視線は、書架を貫き通して遠かった。 「ただ、残念なことに彼らが私のもとで研究者となり、『陰謀の時代』をつまびらかにしてくれることはありませんでした」 重いものが胃の底に沈み込んでくる感覚に、ヤンは立ち上がりかけた姿勢のまま硬直する。 戦争である。優れた歴史研究者たるべき若者は、しかし、戦争の主催者たる帝国政府、そして自由惑星同盟政府、いずれの視野にも『無用の学問にうつつを抜かし、国家に対する貢献をなさない惰弱者』としてしか映らない。そうした一方的判断の下に『惰弱者』と断じられた若者達は志望を絶たれ、『消費』を前提に戦場へと投げ込まれるのだ。一方で、必然的に研究機関は閉鎖、さなきだに縮小の運命を余儀なくされるのだ。 ヤン自身、父の奇禍で大学進学の道を絶たれた。士官学校戦史研究科は、志望を辛うじて満たす路というべきだったが、これも廃止の憂き目を見た。任官後に配属された記録統計室では、古資料の調査整理を通じて多くの史実に触れることができたが、そこからも結局は追い出されてしまった。 その結果が、『エル・ファシルの英雄』であり、果ては『英雄の時代』の『不敗の魔術師』というのだから、神がサイコロを弄んだ挙げ句の、でたらめな運命ゲーム……いや『銀河のチェスゲーム』とでも言うべきかもしれない。残酷極まるゲームの中で、一体どれだけの人命が失われたか、もはや想像もつかなかった。 「……戦争について、何もあなたの責任を問おうというのではありませんよ、ヤン元帥。それに、研究者にはなってくれませんでしたけれど、それ以上になってくれた、それ以上の恩恵をもたらしてくれた子たちにも出会えたのですからね。決して無駄ではなかったと思います」 「それ以上になってくれた?」 「おや、知りたいですか?」 ローゼンマイヤーは目をいたずらっぽく細めて、ヤンの表情を覗き込んだ。 「差し支えなければ……」 「一人はいずれ、この国の皇妃(カイザーリン)になるべき女性です。あなたもお会いになったことはおありでしょう?」 「え……は、はあ?」 皇妃(カイザーリン)という、やや聞き慣れない単語が頭の中で理解を生じ、それが皇帝ラインハルト(カイザー・ラインハルト)につながり、そしてその配偶者たるを宣言された一人の女性に結びつくまでに数秒を要した。くすんだ金髪に青緑(ブルー・グリーン)の印象的な瞳の、マリーンドルフ伯爵令嬢(フロイライン・マリーンドルフ)ヒルデガルト。 「……もう一人は……そうですね、ここにある資料を今の世の中に残してくれました」 「教授の教え子が、この文献類を保管していたと仰有(おっしゃ)るのですか?」 不得要領を絵に描いたような顔になったヤンに、ローゼンマイヤーは悪戯っぽい表情のままに頷いた。 「ああ、そうでした。元帥はご存じなかったのですね。ええ、これらの資料は『シュミットバウアー文書』と呼ばれています。それがヒントですわ。詳しいことをお知りになりたければ、帝国大公から直接伺えば宜しいでしょう。ところで、元帥……」 「は?」 「その帝国大公がもうすぐこちらへ来られます。元帥に直接、お願いなさりたいことがあるそうですから。一五分……あら、もうあと五分になってしまいましたね。第一応接室でお待ちくださいな」 「あ……」 ヤンは思わず頭をかいた。 帝国大公(グロスヘルツォーク・デス・インペリウムス)キルヒアイスが自ら訪ねてくる。それも、正式な許可もなく銀河帝国史編纂室の資料館に潜り込んでいるヤンを名指ししてまで。携えてくるのは、『帝国』の名を冠したやっかいな申し入れに違いない。 ヤンはキルヒアイスが、無理と危険と難問の三題噺を持ち込んでくるような人柄でないことは知っている。キルヒアイスにとってはそうではないはずだが、ヤンにとっては堅苦しさと息苦しさが手に手を取ってやってくるような話題に違いないのだ。 「参ったな……」 歴史家は歴史好きを知る、というべきか。ローゼンマイヤーは、ヤンが興味を示すと十分承知して、敢えて帝国中史の雑談を始めたのだ。まんまと引っかかり、逃亡に使えたはずの一五分を、逃げ出しようのない五分に縮められてしまった、ということになる。シェーンコップあたりなら『まだまだ修行が足りませんな、元帥』などと評してくれるところだろう。 「やはり、逃げ出しておいた方が良かったかな、と思いますね」 キルヒアイスがもたらした『依頼』にヤンは憮然と困惑を綯い交ぜた表情を隠さなかった。 「イゼルローン共和国政府主席に対して、帝国大公の名で正式な依頼を出した方が宜しかったでしょうか、元帥?」 「それは……」 ヤンの表情が、冷蔵庫や戸棚のアルコール類がすべてノンアルコール・タイプに変えられていたことに気づいた時のようになった。 「最近はノンアルコールでも十分美味しいですよ」 その前日も深酒で二日酔い気味だった保護者に向かって、まだ一〇代前半だった被保護者は得意然として胸を張って見せたのだ。結局、その日は何ヶ月ぶりかでアルコール抜きの夕食を囲むことになったが、それ以来、ヤンは寝室のベッドの下にブランデーのボトルを退避させておくようになった。もっとも、数ヶ月後にはユリアンに発見され、没収の憂き目を見ることになったが…… 「いずれ、逃れられない、ということですね」 「おわかりと思いますが、これは政治ですから」 『感じの良い』青い目が透き通り、氷片の光を帯びたように見えた。 「私がグリューネワルト大公妃と婚姻を結び、大公妃に帝国大公妃となって頂く。ご病臥中の皇帝陛下の御復座がなり、マリーンドルフ伯爵令嬢(フロイライン・マリーンドルフ)が皇妃(カイザーリン)としてその傍らに侍されるようになるまで、私が皇帝陛下の代理人として帝国を統治する。その意思表示として皇帝陛下の姉上を娶る……そういう行事です。これは政治であって、個人の祝賀やイベントではありません」 「そして、イゼルローン共和国政府は、帝国と帝国大公に対する支持表明として、お二方の婚姻に至るすべての公式行事に同政府の代表者として参列する」 「無論、ヤン元帥夫人もイゼルローン共和国政府主席にしてヤン元帥夫人としての出席をお願いします」 「……」 それは理解できる。しかし、公式行事に政府代表者として出席となると……つまりは堅苦しい礼服の着用を初めとしてのがんじがらめの礼式の強要を伴う。その窮屈さと拘束時間、さらには折角目にすることのできる帝国史の資料からも遠ざけられると思うと、その政治的意義は理解できるとしても、できれば誰か『もっと相応しい人』に変わってはもらえないかと思ってしまうのがヤンのヤンたる所以でもある。 「新領土の方はどうなるのです?」 新領土……ラインハルトの大親征により城下の誓いを強いられた旧自由惑星同盟は、現在、ホワン・ルイの主導に再建の道を歩み出している。無論、ミュラー元帥の監視下ではあるにしても、各有人惑星区には自治組織が作られ、再建自体はある程度の成果を上げ始めているという。 「旧自由惑星同盟代表として、ルイ氏の出席を求める、というわけにはいきませんか?」 予期していたらしい。キルヒアイスは微笑みと共に、ヤンの異論を却下する。自治領とは言え、新領土は帝国の一部に過ぎません……と。 「今、帝国の他に独立した国家組織があるとすれば、それはイゼルローン共和国政府しかない。そうした政治形態の並立を望まれたのは、ヤン・元帥ご自身ではありませんか」 「いや、それは、そうですが……では、今のイゼルローン共和国の代表者は確かにフレデリカ……ですが、軍事面の代表者はユリアン……ええと、ミンツ中佐です。彼に軍事代表者としての出席を求めれば宜しいか、と」 「ユリアンくんのことは私もよく知っています。優れた軍人であり、それ以前にこの先に大きな可能性を持った青年だと言うことも」 鮮やかな赤毛が大きく左右に揺れ、その青い目に真っ正面から見据えられて、ヤンはたじろいだ。ヤンを神格化する歴史家や伝記作家なら『滅多にないことに』との形容を付しただろうが、残念なことにヤンはキルヒアイスには人として抗し得ないものを感じることがしばしばなのだ。人としての『格』の違いというものではない。キルヒアイスの人としての歩む道と、ヤンの立つ位置、その違いが、こうした場で意識の表層に浮かび上がり、それがヤンをして何かしらたじろぎに似た感情を覚えさせるのかもしれなかった。 「……ですが、ユリアンくんを面に立たせて、彼が帝国に対抗するすべての軍事的な成功を収めたのです……と、そう私に紹介させるおつもりですか、元帥? それで帝国側が納得する、と?」 「あ……いや、しかし、私は今、何の地位も肩書きもない立場ですし……」 「身分とか、地位とか、肩書きとか、そんなものが人にとって最も重要なものだと、そう仰有(おっしゃ)る?」 嘘を吐(つ)かないでくださいね……キルヒアイスの顔は微笑っていたが、目は研ぎ上げた鋼のサーベルの輝きに青く研ぎ澄まされていた。これ以上の逃げ口上や韜晦は、咽喉元に差しつけられる真物の刃を招き寄せかねないことを、ヤンは正確に察している。もとより、こうして応接室で差し向かいになった瞬間から、逃れられるとは思っていなかったのだが。 「では、出席にあたって、条件を出しましょう」 「条件?」 「たとえば、ですね」 キルヒアイスの表情が、ほんの一〇数分ほど前の記憶を呼び覚ました。 「銀河帝国史編纂委員会の資料室すべてに自由な出入りを許可する、というのではいかがでしょうか?」 「あ……」 やられた、とヤンは天を仰ぐ。これが戦場であれば、正面の敵をようやく引き離して退路に入った瞬間、目の前にタッチダウンしてくる帝国軍の大艦隊を目の当たりにした、という状況だろう。 ヤンは両手を小さく挙げ、ゆっくりと左右に首を振った。 「これが戦場でなくて良かったですよ、帝国大公」 「最初から、この条件を出しておけば良かったのですが。どうも正面攻撃にこだわりすぎたようですね。どうか、帝国の『政治』にご協力を、ヤン・元帥」 「ええ、まあ、その、喜んで、と申し上げるべきところでしょうね」 今時、まだこんな形式が必要なのもおかしなものですが、と前置きしてキルヒアイスが差し出したのが、公式行事出席に関する同意書。キルヒアイスは、銀河帝国史編纂委員会の資料室に関する条件を余白に書き込んだ上で、ヤンにサインを求め、ヤンがそれに応じると微笑って書類の一点を指し示した。 「……これは最初に申し上げておくべきでしたけれど、もう一つ、依頼事項があります」 「は……?」 ろくに目も通していなかった書類に視線を走らせ、ヤンは苦笑して収まりの悪い黒い髪をかき回した。 「こんなものが必要なんですか?」 『洗練の度を超して頽廃し堕落した不健全な』生活様式や娯楽を忌避し、徹底的な弾圧を行ったルドルフの治政の中で、多くの娯楽映像が禁止の対象になった。『名作』と呼ばれ『人類の遺産』とまで称された作品までも、ルドルフの目には『若者を堕落させ、頽廃の因をなしている』と映ったもののようだった。 弾圧が偏見と一方的な基準によるものであることは明白であった上に、ルドルフが自身の嗜好に基づくままに、当局が禁圧を判断した美術工芸品から映像作品などを自らの蒐集の中に加えたことは公然の秘密だった。 あからさますぎるほどの二重規範(ダブルスタンダード)を顧みて恥じぬ『帝国の至高者』への密やかな反発は、夥しい数の文化的遺産の隠匿を生んだ。皮肉なことに、ルドルフの二重規範(ダブルスタンダード)が、無数の人類の遺産を後世に引き継ぐ役割を果たしたのである。 記されていた依頼事項は、そうした古い……それも地球時代の映像。記録映像ではなく、いわゆる『娯楽映画』と称され、ルドルフの弾圧を逃れて自由惑星同盟へ渡った可能性のある映像ファイルの収集だった。 「帝国内にはもう断片しか残っていないのです。同盟の古いアーカイブなら、あるいは完全なものが残っているのではないでしょうか?」 まさか、これを婚姻の儀式で用いるつもりなのか……問う『黒髪の魔術師』に、赤毛の若者はこともなげに頷く。自分一人の意思ではない。今一人、グリューネワルト大公妃とも合意の上でのことなのだ、と。 苦笑しつつ、ヤンは応諾の応諾のしるしに改めて大きく頷いて見せた。 「ご期待に添えるかどうかまでは請け合いかねますが、承知しました」