大人の事情
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サイズ:A5 ページ数:76ページ アンネローゼとキルヒアイスが結ばれる話。 それに伴う様々な事情、特にラインハルトにどう説明する? どうやって彼に気づかせる……というあたりの事情(まさに大人の事情)を解きほぐして下さい、というテーマの短中編集です。 猫屋自身はその辺を猫屋版本編で散々書いてしまったので、ネタに窮してちょっと違う方向へ逃げ出してしまっていますが…… ■ 構成 天田こね様:Boutonnierer de Annerose 軒しのぶ様:人生の真実 せりざわゆぅき:愛を請う人 猫屋真:最後のわがまま
最後のわがまま
「あれは誰の屋敷だ」 ラインハルト・フォン・ミューゼルが蒼氷色の瞳から勁烈な視線を突き刺したのは、冬景色の中にある帝都<オーディン>の中心、新<ノイ>無<エ・>憂<サンス>宮<ーシ>を遥かに望む一角だった。名の知れた門閥貴族の邸宅と覚しく、嫌みなほどに豪壮な意匠<デザイン>を細部までに施した居館が、これも不必要なほどの高さをもつ塀の上から突きだして見えた。 「あれは、ヘルクスハイマー伯爵の屋敷です、ラインハルトさま」 「ヘルクスハイマー……か」 秀麗なラインハルトの容貌があからさまなほどの嫌忌を示して歪んだ。 「お気になりますか?」 キルヒアイスもまた遠目に、つい最近に浅からぬ、それも歓迎されざる関わり合いを持つことになった大貴族の館を見はるかした。シャフハウゼン子爵家所有の流体金属鉱山を巡る争いに巻き込まれ、代理決闘者を買って出たラインハルトは、対するヘルクスハイマー伯爵の送り出した決闘者と闘う羽目となった。その結果として、おそらくは生まれて初めて、そして、この少年の華麗さを極めることになる経歴のなかでほぼ唯一、敗北と死を間近のものとして意識する経験をすることになったのだ。 「気にならないといえば嘘になるが……できれば、余り関わりたくはないな。特に、あの決闘者とかいう連中とはたびたび会いたいとは思わない」 もし、この場にラインハルトの生涯を一瞬に概観できる存在がいれば、おそらくはラインハルトに向かって皮肉の微笑を向けただろう――お気の毒に。そうは行きますまい……と。 そんな存在がいるわけもなく、ラインハルト自身は無論、赤毛の若者もまた自分たちの未来に対する視野については完全とはほど遠いことを認めるにやぶさかではなかった。 「地上車が沢山出入りしていますね」 「また、何かくだらない口実を設けてのパーティだろう」 ラインハルトは吐き捨てて、親友に向かって帰宅を促した。 「帰ろう。もうすぐ夕食時だ」 「ええ、今日はクーリヒ夫人が酢漬け牛肉のロースト<ザウアーブラーテン>を仕込んでおられましたよ」 「そいつは楽しみだ。急いで帰るとしよう」 一六歳の若者らしい食欲を他者への関心に優先させ、二人の少年はヘルクスハイマー伯爵邸を背にした。僅か数ヶ月後、この邸宅の所有者と、更にはその娘との間に再び浅からぬ関わり合いをもつことになろうなどとは夢にも思わない彼らだった。 ラインハルトの予想通り、邸内では盛大な晩餐会が催されていた。この時期、リッテンハイム侯爵の有力な側近だったヘルクスハイマー伯爵の勢威は辺りを払うほどのものであり、伯爵家の一族は無論のこと、招待を受けた客は喜々としてその門前に車を連ねたのである。 「一〇歳のお誕生日、おめでとうございます、フロイライン・ヘルクスハイマー」 「ようこそおいでになった、わざわざの来訪、いたみいる」 「いよいよ一〇歳になられましたか。まことにお美しくなられた。あと五年もすれば、楽しみでございますな」 「まあ、我が子ながらこれほどの美形は希であろうな。いずれ近いうちに宮中に伴うつもりだ」 「フロイラインであれば陛下のお目に止まるは必定。伯爵家のますますのご繁栄は間違いなしでございますな。まことにめでたい。今日という日は、伯爵家が隆盛の坂道に最初の一歩を記した、その記念すべき第一日として、長く帝国の記憶にのこるでありましょう」 ラインハルトがその席にあれば、『右を向けば阿諛、左を向けば追従、正面には傲慢を描いて尊大の額縁まで着けたような男で、料理以外に視線を向ける先もない』などと評したかも知れなかった。次々に挨拶に現れる来訪者たちに、まさに『傲慢を描いて尊大の額縁まで着けた』応対を続ける当主の傍らに、その少女は座していた。挨拶に対しては柔らかく会釈を返し、祝いの声をかけられれば、言葉少なに感謝の意を示す。ビスクドールを思わせる端正な顔立ちには微笑が絶えることはなかったが、見るものが見れば、微かに緑彩を帯びた深い紫色の瞳が苛立ちを満たしていることが知れただろう。 宴も半ばを過ぎ、時計の指す時刻が二桁になった頃合い、少女は父親を見上げた。 「父上、席を外すお許しを。少し夜気にあたりとうございます」 「どうしたグレートヒェン、疲れたのか。もう引き取って休むか?」 ヘルクスハイマー伯が娘をその愛称で呼ぶ声を、ラインハルトが聞けば意外に思ったに違いない。娘に向けたヘルクスハイマー伯爵の声も表情も、娘を気遣う父親以外のなにものでもなかったのだから。 淡い金髪の少女……伯爵の一人娘マルガレータは、髪を揺らして父の言葉を否定した。 「大丈夫です、父上。皆様、妾<わらわ>の誕生日を祝しに参られたもの。その方々を置き捨てて一人寝所に引き取るような無礼は働けません」 「気丈だな、そなたは……誰かある、マルガレータをベランダへ案内せよ。少し人込みに当てられたようだ」 「お気遣いなく、父上。一人で参れます」 軽く頤<おとがい>を反らせるようにして席を離れ、マルガレータは一人、ベランダに出た。 「ふ~……」 さすがにため息が出た。一〇歳になったばかりの少女である。既に二時間を過ぎ、なお宴半ばの晩餐会に疲れが出ないはずもなかった。 「そなたがため息とは珍しいな。酒でも喫したのか、マルガレータ?」 明らかに揶揄と知れる声の主へ、物憂げな紫の瞳が横合いに視線を走らせた。 「一〇歳になったばかりの身で酒を嗜むような愚かなことはせぬ。妾<わらわ>をからかっているつもりだろうが、愚にも付かぬ言い回しは止めたが良い」 「相も変わらず可愛げの欠片もないこと。そのプライドの高さが、いずれ、後宮に入った時にそなたの命取りにもなろうに」 「忠告してもらう義理もないし、頼んだ覚えもない」 にべもなく応じ、マルガレータは金髪を翻して振り返った。 一〇歳のマルガレータよりも四、五歳の年長と見える、背の高い少女の姿がそこにあった。 「別にそなたと話すこともない。用もないのなら、お父上のもとへ戻るが良いぞ、フランツィスカ・ザーラ・フォン・アデナウアー」 フランツィスカ・ザーラはアデナウアー男爵家に連なる一家の娘であり、年齢はマルガレータより四歳年長の一四歳。来訪者たちが褒めそやしたように、マルガレータの容姿は充分以上に美少女の範疇に入るものだったが、その彼女でさえ、この少女の前ではひどく平凡な容貌にしか見えなかった。類い希なとは言い切れないだろうが、道行く人々一〇人の内、ほぼ全員が視線を引き寄せられるだろう。それほどにまで整った容姿が、この少女を淡く白い光に包んでいるようにさえ見えた。 「誰がそなたと話したいなどと言うた。私は後宮のことを話している。そなたとて縁のない場所ではなかろう」 明らかな敵意を示す相手に、マルガレータは小首をかしげた。自分よりも遥かに整った美貌の、同じ年頃の少女に対する敵意や嫉視を表す仕草はなかった。 「後宮、後宮とうるさいことじゃ。いい加減飽きが来る」 「不敬な……」 フランツィスカ・ザーラは眦を逆立てた。 「そなたは望まぬと申すのか?」 「何を?」 「知れたこと、後宮入りのことじゃ」 少女……フランツィスカ・ザーラは周囲を見回して声を低めた。辛うじてマルガレータの耳にだけ届くような小声で囁く。目がまるで挑むように細く鋭い光でマルガレータを刺し貫いた。 再び、マルガレータは首をかしげる。しばらく眉間に皺を寄せて考え込み、ややあって言い放った。 「顔を見れば陛下とか後宮とか言う。そんなに良いところなら、そなたがさっさと行けば良いじゃろう。そなたほどの美貌なら、噂にきくグリューネワルト伯爵夫人など敵ではあるまいに」 マルガレータの言葉に、少女の美貌が叢雲に覆われたかのように急に翳った。 六年前にアンネローゼ・フォン・ミューゼルなる市井の少女が後宮入りした。それ以来、現皇帝フリードリヒ四世の漁色、特に一〇代の少女に対するそれはそのさらに数年前にくらべて絶無と言えぬまでも影を潜め始めているという噂はすでにマルガレータやフランツィスカ・ザーラの耳にも届いている。 しかし―― 「直ぐにお飽きになる。近いうちに新たな寵姫をお求めになるに違いない」 その思いの元に、第二、第三のグリューネワルト伯爵夫人の座に娘を押し込むべく、なお、一〇代の半ばに達した娘たちを連れて皇帝の前に伺候する貴族たちはいっかな数を減らしていない。フランツィスカ・ザーラほどの美貌を誇る娘の父親なら、まず間違いなく、今年か来年には彼女を伴って皇帝の御前に伺候するに違いなかった。 しばらく不審気にフランツィスカ・ザーラを見つめていたマルガレータは、不意に何か気づいたかのように目を見開いた。 「フランツィスカ・ザーラ、まさか、そなた……」 明らかな狼狽がフランツィスカ・ザーラの表情を覆うのをマルガレータは見た。 「お黙り、マルガレータ・フォン・ヘルクスハイマー。それ以上を口にすると不敬罪の故をもって告発されるに値すると思い知るが良い」 「……皇帝陛下が妾<わらわ>を見出され、お側に置こうとなさるならそれも良いかと思う。そなたがそれを好まぬなら、外には、ここではない、別の世界があると聞いておる。それはそなたの選ぶこと。妾の口を出せることではない」 「外の世界……じゃと? いい気なことを申すな、マルガレータ。相も変わらず、生意気に物知りの振りをして、私を馬鹿にして!!」 柳眉を逆立てたフランツィスカ・ザーラに、マルガレータは面白くもなさそうな様子でふいと顔を背け、独り言のように呟く。 「嫌なら、顔を変えるという手段もあると聞いている」 「な……んですって? 顔を変える……ですって?」 フランツィスカ・ザーラは、相変わらず無表情に近いマルガレータの顔をのぞき込んだ。その目が、驚愕と唖然、そしてある種の喜びに似た色合いを綯い交ぜに、俄に明るく光って見えた。 「そなたの家ほどの財力があれば、お好みではない顔立ちに変え、興味を失われる年頃になれば元の容貌を取り戻すようにすれば良いではないか。長いことではない。数年のことだ。怪我したとして顔を変えてしまうことはよくあることだと、我が家の使用人たちが噂していたし、昔の書物にもいくつも例がある。ただし、妾<わらわ>には興味がない。この顔は父上と母上が下さったものだ。妾一人の思いで変えるつもりはない」 フランツィスカ・ザーラはその場に立ち尽くして、じっとこの風変わりな金髪の少女に視線を据えたまま、もうそれ以上、口を開こうとはしなかった。一方のマルガレータの方は、さして仲の良いわけでもなく……むしろ、好意とは縁遠い感情を抱いているに過ぎないフランツィスカ・ザーラへの興味を直ぐに失った。 フランツィスカ・ザーラが事故で重傷を負い、以来、人目を避け、人前に出るのも避けるようになったのはそれから間もなくのことである。ただ、その時既にマルガレータは一族共々に帝都を脱出し、遠くフェザーン回廊へ向かう宇宙船の中にいた。フランツィスカ・ザーラの消息がマルガレータの許に達することは遂になかったのである。