回廊の戦い
- 支払いから発送までの日数:14日以内物販商品(自宅から発送)¥ 1,600

銀英伝(新帝国暦1年~2年、宇宙暦800年~801年) (『伝説の時代の終わり』シリーズ (3)) サイズ:A5 ページ数:188 宇宙暦八〇一年、帝国暦二年二月。この月、ヤン率いる旧自由惑星同盟軍を掃滅すべく、皇帝ラインハルト、帝国大公キルヒアイスを初め、疾風ウォルフ、金銀妖瞳のロイエンタールら、その精髄ともいうべき将帥がイゼルローン回廊に参集する。彼らによって戦われた『回廊の戦い』は、皇帝ラインハルトとヤンの直接対決であることと、その激烈さに於いて史上特筆されることになるが、同時にラインハルトの身にあの病が初めてその姿を現し、ローエングラム王朝銀河帝国の創成期における巨大な曲がり角となった戦いとしても永く記憶される戦いとなるのである。 そして、あのグレーチェン・ヘルクスハイムもまた熟練士官の一人として巡航艦を指揮し、この戦いに臨むことになるのだが……
朔風
「やはり……予備役編入は免れませんか……」 ナイトハルト・ミュラー上級大将が視線を向けたのは、帝国軍宇宙艦隊司令長官たるウォルフガング・ミッターマイヤー元帥だった。 「戦い敗れての捕虜というわけではないからな」 「平時の任務に於いて、不慮の誘拐事件に巻き込まれ、人質にされただけではありますが、それでも?」 「やむを得まい」 ミッターマイヤーの口調は、同情を全く欠くものではなかったにせよ、苦々しさがそれを上回っていた。 「しかし……大将に降等の上というのは気の毒すぎませんか」 「まだ決まったわけではない。ただ、分かっている範囲では、一人ヤン・ウェンリーのみに今次の混乱の責任を負わせるわけにはいかないだろう。ヤンの責任は問うが、帝国軍も自らの身を正す。そうあらねば、帝国軍将兵のみならず、同盟市民の不信をも買うことになる」 「それは、その通りです」 ミュラーも、それ以上の反論、あるいは弁護を諦めて口を噤んだ。 この日、ミュラーは彼の新旗艦『パーツィヴァル』を駆って、はるばるフェザーンから帝都(オーディン)に到着したのだが、彼が携えてきた情報こそが先日来の自由惑星首都星ハイネセンでの動乱に関する詳報であった。在ハイネセン帝国高等弁務官たるヘルムート・レンネンカンプ上級大将が同盟政府に対して、ヤン・ウェンリー元同盟軍元帥の逮捕を勧告し、これに従おうとした同盟政府に対してヤン一派が反撃、レンネンカンプその人を人質として弁務官事務所から奪取するや、そのまま宇宙の深淵への逃亡を企てたというものである。 議場にはミュラーとミッターマイヤーだけでなく、統帥本部総長たるロイエンタール、オーベルシュタイン軍務尚書の両元帥の他、上級大将としてはケスラー、ビッテンフェルトとファーレンハイト、ルッツの四名の姿があった。地球教本部攻撃の際に受けた負傷の本格的な治療中であるワーレン、同盟領ガンダルヴァに留まるシュタインメッツ、そして艦隊演習中のルッツとアイゼナッハの姿はない。 文官としては例によって国務尚書マリーンドルフ伯爵を始めとして、各尚書と国務次官のファン・デル・ファール子爵が列席するほか、技術総監のシャフト技術大将の姿があるのが目に付いた。 「イゼルローンとガルミッシュの機動要塞化工事に関する中間報告があるのだろう」 ビヤ・ホールの親爺めいたシャフトの巨体に対して、一同の認識に大きな差異はなく、また彼らの認識に誤りはなかった。 それよりも、列席者の、どちらかと言えば懸念を帯びた関心を引き寄せていたのが、本来、この会議に必須であるべき人物の不在だった。一つは皇帝ラインハルトの座すべき首座であり、今ひとつは帝国大公として御前会議を主宰すべきジークフリード・キルヒアイスの席だった。 ラインハルトの欠席は会議の開始前に通告されており、『急なご発熱のため』という宮内尚書ベルンハイム男爵からの連絡が一同に眉を顰めさせた。キルヒアイスは、この会議に対する皇帝の意向を確認してから遅れて列席する旨が連絡されていた。 男性ばかりの出席者の中に、帝国軍中将の軍服に身を包み、胸元のスカーフ以外には他の列席者と変わらぬ服装をした、ただ一人の女性の姿がある。短くしたくすんだ金髪のために美しい少年のようにも見えた。女性の身ながら幕僚総監と皇帝の首席秘書官を務めるマリーンドルフ伯爵令嬢ヒルデガルト、通称ヒルダである。 帝国軍において幕僚総監は『帷幄(いあく)にあり、軍務と政務の連携について皇帝の補佐と助言に任ずべし』とされている。ゴールデンバウム王朝では帝国軍三長官の一に数えられる顕官とされたが、実際には幕僚総監が皇帝の相談役として有効に機能した事例は少なく、名誉を伴うものの実権に薄い虚位とされてきた。 『神々の黄昏(ラグナロック)』作戦末期のヒルダの活躍や、それ以前、その後のラインハルトの治世に対する貢献の大きさから見て、彼女が史上初めての名実相伴った幕僚総監たるべき人物であろうというのが、衆目の一致するところだった。 だが、そのヒルダの表情も明るさと冴えを欠いていた。いつもなら精彩と光輝に満ちたブルー・グリーンの瞳もこの日は何かしらくすみ、灰色の靄(もや)を帯びているようにさえ見えた。美しく背筋を伸ばした、姿勢のよい姿も何かしら肩にかかる重荷を必死に堪えているような危うさすら見て取れるほどだった。 「帝国大公の来着を待つことはない。ミュラーからの報告をまず受けよう」 促したのはロイエンタールである。彼はキルヒアイスから一時的に議長の代行を委ねられていた。 指名を受けてミュラーは立ち上がる。ホロスクリーンが明るくなり、何点かの写真、そして報告書の要約が浮かび上がった。 「シュタインメッツ上級大将の調査結果要約です。レンネンカンプ上級大将の消息、および同上級大将の高等弁務官としての下僚であったラッツェル大佐、フンメル補佐官からの事情聴を含みます」 「これは……」 会議室に、複数小さな呻きに近い呟きが響いた。シュタインメッツの報告は、レンネンカンプが本来の任務を逸脱して同盟政府に対して『不当な』勧告を行った結果が、ヤン一派の窮鼠の反撃につながった事情を、まだ一部の欠落はあるもののほぼ明らかにしていた。 ヤンのハイネセン脱出後、レンネンカンプの行方はしばらくの間、不明だった。一部にはヤン一派に殺害された、あるいは責を負って自決したなどの噂も流れたが、ヤンが消息を絶って約半月後の新帝国暦一年五月一八日、シュタインメッツ艦隊の駆逐艦がバーラト宙域外縁部で帝国軍の救難信号を発していた救命ポッドを回収した。 『我、レンネンカンプ上級大将を発見せり。生命に別状なし』 レンネンカンプ発見の第一報に続き、その一週間後には、シュタインメッツ自らによるレンネンカンプに対する聴取報告がフェザーンのミュラーに達した。特に負傷は見られず、救命ポッド内での長期の疑似冬眠状態による脳への影響も見られない。普通であれば一、二ヶ月の療養の後、任務への復帰も可能なはずである。 帝国軍首脳が顔を見合わせさせたのは、レンネンカンプが明らかに精神の平衡を失った状態にあり、当分の間は軍務の継続は困難であろうとする、報告書に添えられた精神科医の診断結果だった。 「レンネンカンプは予備役編入は免れまい」 ミッターマイヤーが呻くように発言したのは、ミュラーの報告が終わってすぐのことだった。 「治に無用の乱を巻き起こして同盟に対する我が帝国の政策を大いに蹉跌させた上、心身ともに現役を続け得ぬ状態に陥った。そのような人物に現役の上級大将として枢要の地位を与え続けていては、士卒の軍上層部への信頼にも罅を入れることになりかねん。本来であれば、予備役編入どころか、不名誉除隊もあり得るところだ」 「不名誉除隊……ですか」 ミュラーは絶句する。『不名誉除隊』の一言に、ミッターマイヤーの深刻なまでの怒りをミュラーは察せずにはいられなかった。 不名誉除隊とは、有り体に言えば馘首(くび)である。単なる惨敗ではなく、要すれば軍法会議に相当し、銃殺にまでは値しないものの、それに殉じるほどの重罪判決の結果としてのみ、この処分があり得る。レンネンカンプは、戦場での敗北を平時における職権の濫用によってヤンに償わしめようとした。この廉潔な軍人がそう考えていることは自明だった。 ロイエンタールは、その金銀(ヘテロ)妖瞳(クロミア)から一切の感情を消したまま、オーベルシュタインは、義眼に冷然たる光を浮かべてミュラーの視線を受け止めた。他の上級大将、尚書からもレンネンカンプへの弁護が聞かれることはなく、ミュラーはため息をついた。戦場ではなく、平時の任務に於いての虜囚たる屈辱が、レンネンカンプ自身が招き寄せたものであるとすれば、帝国軍の軍法は彼に対して厳格たらざるを得なかったのだ。 「……にしても、同盟政府の当事者能力のなさはどうだ」 ビッテンフェルトの声が、ひときわ力強く室内の空気を圧した。 「確かにレンネンカンプは愚かだった。だが、同盟政府の奴らがまともだったら、レンネンカンプもこんな馬鹿な目は見ずに済んだのだ。違うか?」 敢えて問いかけで言葉を切ったのは、あるいは反論を期待したのかもしれない。 彼の視線は、しかし、同意の沈黙を以て迎えられた。ビッテンフェルトは不満気に唸り、さらに声を荒げた。 「同盟政府はレンネンカンプの馬鹿げた勧告なぞ無視して、ヤンの身柄をこそ保護すべきだったのだ。大体、考えても見ろ、ヤン・ウェンリーは同盟を何度も救った。同盟に対する最大の功労者ではないか。帝国と事を構えている間はちやほやして、いざ戦いに敗れたとなれば、昨日までの英雄も塵芥(ちりあくた)のように使い捨てる。これが国家の、指導者のやることか」 叩きつけるように自説を開陳すると、オレンジ色の髪の猛将は露骨なまでの批難の視線を義眼の軍務尚書に向けた。 「ビッテンフェルト提督が何を批難されているのかは分からぬが……」 ビッテンフェルトらしい正面からの皮肉は、絶対零度、氷のカミソリと評されるオーベルシュタインの表情筋一筋を動かすほどの影響も与えなかったようだった。義眼が小さく動き、霜を帯びたかにも見える光が小さく閃いて列席者の視野に白い帯を引いた。 「私は別にレンネンカンプを弁護する意思はないし、同盟政府を擁護しようとも思わない。ビッテンフェルト提督の言のごとく、同盟政府は恥ずべき事を為したのであり、その責は問われねばなるまい」 「言葉というのは便利だな」 冷嘲に近い呟きが以外な音量を伴って列席者の息を呑ませ、発言者に視線を集めさせた。計算しての発言と言うよりも無意識の応答と言うべきでもあり、それが一同に一層の驚きを誘った。 「後付けでどのようにでも言いくるめられるからな」 「……やめんか、卿らは!」 たまりかねてミッターマイヤーがテーブルを叩き、さしもの猛将が思わず首を竦めて絶句する。オーベルシュタインは特に何の反応も示さなかったが、沈黙が帝国軍の誇る双璧の一人、ローエングラム王朝の重鎮に対する敬意を示していた。 「皮肉と当てこすりの応酬は何ものをも生み出しはしないし、列席者にとっては時間の無駄、それを言葉として聞く者にとっては苦痛でしかない! 帝国軍に於いて元帥たり、上級大将たる卿らがその程度のことすら弁えず、この場にあるとは思わないが、いかがか?」 ロイエンタールは我に返ったように右掌で顎を撫でると、長年の僚友に向けて軽く一礼する。 「済まぬ、議するべきは、ビッテンフェルトの言う通りに同盟政府の当事者能力であって、無用の雑談に時を費やすことではなかったな……無論、レンネンカンプには今次の事態について責の一端を負うてもらうしかないが、同盟政府を不問に付すのでは片手落ちと言うべきだろう」 「その同盟ですが……」 ミュラーが説明を引き取る。レンネンカンプの失踪が知られるとほとんど同時に、シュタインメッツは同盟政府に対して事態の説明を要求した。当初、同盟政府は『国内の事件』に対する不当な干渉であるとして説明を拒否したが、シュタインメッツは歯牙にもかけなかった。 「では、訊く。我が帝国の高等弁務官たるレンネンカンプ上級大将と直ちに連絡を取らせよ。また、ヤン・ウェンリー元帥の所在を知らせよ。これらはバーラトの和約によって保証された正当な要求である。それだけに応じてもらえれば、あとは貴国の国内でいかようの事情が生じようと、それは帝国の関知するところではない」 同盟政府は『それだけ』のことに応じることはできなかった。同盟政府は沈黙を以て応じ、痺れを切らしたシュタインメッツが艦隊をバーラト星系に入れると、数日の猶予を請い、さらにその期限も切れ、シュタインメッツの旗艦『フォンケル』を衛星軌道上に見出すに及んで、ついに一連の騒動の経緯とレンネンカンプの失踪、ヤンのハイネセン脱出をしぶしぶながら説明し始めたのだ。 「右往左往、これに尽きます」 それがミュラーの報告の要諦だった。同盟政府はその場限りの言い逃れと言い訳を繰り返し、説明の矛盾を指摘されるとさらに説明を翻し、さらに矛盾を突かれて説明に窮する。その間に、レンネンカンプが発見され、高等弁務官事務所のスタッフに対する事情聴取を重ねたシュタインメッツとミュラーは、ほぼ事態の背景を突き止めるに至っていた。同盟政府元首である最高評議会議長ジョアン・レベロまでがヤン一党に誘拐され、その身柄と引き替えに、同盟政府がヤン一派のレンネンカンプの誘拐を黙認したという、おそらくは同盟政府が絶対に帝国に知られたくない裏事情まで、彼らの調査の手は及んでいた。 「呆れた連中だ。信ずるに足らん。区々たる外交など不要、直ちに同盟の不正を鳴らし、討伐の兵を起こすべし!」 再びビッテンフェルトの声が周囲を圧する。空気がかすかに揺らぎ、同意を示す呟きが潮騒のように室内に満ちた。 「……今次の事態をしてバーラトの和約に対する同盟政府の違反行為であるとして、和約を廃し、同盟に対する完全併呑の動員を行う……軍事的にもヤン・ウェンリーを欠き、先般の戦役での被害を回復していない同盟軍の抗堪力は『神々の黄昏(ラグナロック)』作戦前よりも遥かに低下している。一度、我が皇帝(マイン・カイザー)のもと、我が軍が発てば同盟など鎧袖の一触に違いあるまい……」 一同、特に前線部隊を担う上級大将たちの意見を代弁し、ロイエンタールは左右、色の異なる視線を一点に向けた。視線の先に、ちょうど会議室に入ってきた赤毛の青年の姿があった。 「それで、我が皇帝(マイン・カイザー)のご意向はどうなのだ……というより、なぜ、我が皇帝(マイン・カイザー)はご臨席にならぬ」 「陛下は体調がすぐれられず、臨席は見合わす。そうお伝えしたはずですが」 「それは聞いている。だが、わざわざミュラーが、現地の情報とともにフェザーンから駆けつけてくれた。それをもとに、同盟に対する今後の方針を定めるべき場であったはずだ。その場に対して、陛下が何らのご意向をも示されぬというのは納得しがたい」 「陛下は本当に過労だけでいらっしゃるのでしょうか?」 メックリンガー上級大将の口調が気遣わしげに響くのも当然だった。レンネンカンプの失踪が告げられた四月初旬、諸将を召集し、同盟領への出兵を前提とした動員準備を発令して衰えぬ覇気を見せたラインハルトだったが、その病臥の知らせが帝国政府首脳を驚かせたのはその直後だった。それまでの発熱同様に一週間あまりで病床を払い、玉座にもどったラインハルトだったが、その後もしばしば発熱が伝えられた。この日も早朝になって皇帝の発熱と会議への欠席を伝えられ、諸将の見交わす視線にうそ寒い不安が漂い始めていたのも事実だった。メックリンガーが、日記にラインハルトの病臥に関する記載が急激にその数を増やし始めているのに気づいたのは、この僅かに後の時期である。 「こうもご病臥が多くなるというのは単なる過労や風邪とは思われません。この際、徹底的な精密検査をお受け頂くこともお考え頂きたい」 「それは了解しております、メックリンガー提督」 キルヒアイスの表情にも翳りが濃かった。 「それは既に何度もお勧めしていますが、あのご気性ですから、素直に吾々の申し上げることにお従いにはならないのが悩みの種です」 「そう呑気に構えている場合ですか、帝国大公。確かに陛下はお若く、覇気に溢れておられる。しかし、若さや覇気の強さが無病や長寿を保証するものではないことは、人の歴史に鑑みれば自明でありましょう。重い病でなくとも、今、帝国は困難とは言わぬまでも難しい局面に立っており、陛下のご判断を待つこと大であることはご了解願いたい」 「それも了解しております」 「……帝国大公のご指示を受け、文理科大学医学部のフランツペーター・バウアーシュミット准教授に対して復職の手続きをとっております」 ゼーフェルト学芸尚書の言葉に、列席者の過半が顔を見合わせた。 「バウアーシュミットだと……誰だ?」 「お忘れですか、ビッテンフェルト提督。提督方に義務づけられた定期精密検診のことを?」 「ん……」 しばらく考え込み、やがてビッテンフェルトは大仰すぎるほどの身振りで手を打った。 「そうか、あいつか」 もう一昨年前になる。ラインハルトが初めて高熱を発した時の宰相府当直医師を務めていた文理科大学の医師であり、彼の進言で帝国軍の全提督に対して定期的な精密検診が義務づけられるようになった。ビッテンフェルトなどは『俺の身体のことは俺が一番よく知っている。精密検診など不要だ』などと決定に反発していた。『俺の身体に何の問題があるっていうんだ』とばかりに自信満々に望んだ検診で、『将来、癌化する恐れのある病変の前兆があります』との診断を受け、目を白黒したのが『大親征』の直後である。その後、治療を受けて完治すると、今では部下の高級士官たちに積極的に受診を勧めて回っている。 「医者というのは偉いものだ。自分では分からんような問題も見つけてくれて治療してくれるんだからな。いずれ戦場で死ぬにしても、身体の不調のせいで判断を誤ったなどと後世に伝えられたら末代までの恥だからな」 医者嫌いの部下に対しては、ビッテンフェルト自身がそう説得したとかしないとかの噂が流れ、同僚達の苦笑を誘ったものである。 「バウアーシュミット医師は、今、故郷のランメルスベルグ星系にて謹慎中ですが、既に学芸尚書命令で謹慎を解除し、一ヶ月以内には文理科大学に復職します。その後、皇帝陛下には同医師のもとで精密検診を受診して頂く予定になっております」 「なぜ、そのバウアーシュミット……か、バウアーシュミットでなければ陛下の精密検診が叶わんのか。他にいくらも優秀な医師はいるだろうに」 ロイエンタールの反問に、キルヒアイスの眉が再び曇る。沈黙を守ったまま、ヒルダが、気遣わしげな眼差しでキルヒアイスとロイエンタールを交互に見交わした。 「それは……今の時点では明確にお答えできませんが、一昨年一〇月以来、バウアーシュミット医師は継続的にラインハルト陛下の健康維持に携わってきております。継続性という意味で、彼の手を煩わせるのが最も効果的と、この件については陛下ご自身のご了解を得ております」 「一昨年一〇月……か」 ロイエンタールの眉が微妙な角度に動くのに、ヒルダが再びはっとしたように身じろぎする。 「では卿は、こう考えているといことだな、帝国大公。我が皇帝の病は一過性ではないかも知れない。一昨年一〇月以来、何らかの病を陛下が患っておられる可能性がある、と」 「……否定はしません、ロイエンタール提督」 やや苦しげにキルヒアイスは頷く。バウアーシュミット医師の復職には、彼が提出し、今もなおその所在が明らかになっていない『変異性劇症膠原病とローエングラム公の病状の関連性に関する詳細報告』なるレポートの存在がある。レポートの存在とその表題がキルヒアイスの知るところとなったのはまだ一ヶ月余り前のことで、彼と情報を共有しているのは今のところはヒルダ一人であり、ラインハルト本人にもまだレポートのことは伝えていない。表題だけでは、『変異性劇症膠原病』なる疾病がどのような病であるのか、致命的なものなのか、そもそもラインハルトが罹患しているのかすら不明である。それらをまず確認し、治療が必要ならば可能な限り早く着手する。その一方で、あるいは一定期間にわたって皇帝不在の事態も予想しなければならない。 皇帝の不在までを予期したわけではないが、キルヒアイスはかねてから帝国の統治機関についての研究を進めている。数ヶ月前、フェール星系という辺境星系で『亡命帝』ことマンフレート二世の側近の蔵書が発見され、帝国大公府にもたらされている。蔵書の大半が、自由惑星同盟から持ち帰られた民主共和政体に関する研究書だった。キルヒアイスとしては帝国に直ちに共和政体を持ち込む意思はなかったものの、皇帝親政体制によるラインハルトへの極度の負荷集中を緩和する手段としての、皇帝権力の執行機関の構想を固めつつあるところだった。 キルヒアイスの意思は、無論、一切が集中することで、ラインハルトが統治に疲労してしまう事態の回避だった。暴君として即位する帝王も皆無ではない。かの『流血帝』アウグスト二世のように。しかし、賢帝・名君たろうとして挫折し、統治の義務を放棄した皇帝こそが、帝国と帝国の住民にとってより大きな害毒の源となり得るのだ。ラインハルトと、そしてアンネローゼとともに、一五年近く前のあの『黄金の時』を再び迎えるために、これはやらねばならぬことだった。 同時に、皇帝ラインハルトという巨大で偉大な個性のみに依存している現在の新帝国は、極めて危険で脆弱でもある。キルヒアイスの構想する権力執行機関は、そうした一極集中のリスクに対しても効果的な対策となり得るはずだった。 ただ、研究の完成にはまだ数ヶ月以上を要する見込みであり、公開と実施についても帝国内部で十分な検討と同意が不可欠だった。中途半端に研究内容が公となった場合、見ようによれば、これは『帝国大公による纂奪』とすら見えかねないのだ。更には、皇帝ラインハルト個人に対してのみ、その剱を捧げているような元帥・上級大将クラスもまた、彼らの忠誠に対する冒涜として、キルヒアイスの考えを受け止める可能性も小さくなかった。キルヒアイスの見るに、最も危険なのがロイエンタールであり、ロイエンタールが異議を申し立て、上級大将クラスではビッテンフェルトやファーレンハイト、場合によりシュタインメッツら『武断派』と称すべき面々が同調して反発した場合、キルヒアイスといえども容易ならざる立場に立たざるを得ないだろう。 「可能性はゼロではない。というよりも、可能性をゼロにすべく、最善の策を採りたいというのが私の立場です」 あるいははぐらかされたとロイエンタールは思ったかも知れない。秀麗な眉目の間に不快さと苛立ちを示す影が過ぎった。直ぐに統帥本部総長としての表情が取って代わりはしたが…… 「よろしい。我が皇帝のご病気に対する措置は理解した。同盟に対して、吾らがどう動くべきか、この点について陛下の御意が得られているのか、その話題だったはずだが?」 「既に動員準備令が下されています。ラインハルト陛下は、同盟に対して期限を切って今次の騒乱の説明を要求することと、これが容れられぬ場合、あるいは陛下が納得される説明が同盟政府より提示されない場合、和約の破棄と、同盟領に対する再度の出兵をご指示なさいました」 「勅令は出るのか。いや、卿を疑うわけではないし、我が皇帝なれば、さてしもあるべき御意であるとは思うが、吾らは人づてに陛下の御意を得るに馴れていない」 言葉は穏やかだったが、口調は白刃の鋭利さを孕んでいた。 キルヒアイスの口調もまた、内心に一瞬走った緊張の片鱗すら見せることなく、あくまで穏やかだった。