
銀英伝二次創作小説 サイズ:A5 ページ数:92 沈黙提督アイゼナッハはいかにして現在の夫人を口説いたのか? いや、夫人の方から彼を口説いたのです(という田中先生のご説明です)。その夫人との出会いは、彼がまだ沈黙の士官候補生だった時代に遡ります 士官学校二年生徒の時、父の思惑と強制のもとクリスマス・イブの舞踏会に出席した彼の前に『婚約者』として現れたのは、「ビジネスを学びにフェザーンに留学したい」と熱っぽく語る一人の少女だった。むしろ積極的に彼女との婚約を承諾した沈黙の士官候補生だったが、その婚約はまったく予期しないような形で終わりを迎えてしまう……そして、その2年後、士官学校最終年度を迎えた沈黙の士官候補生の姿は、ふたたびクリスマス・イブの舞踏会にあった。 ……そういう、銀河英雄伝説の二次創作小説です P.S. 90ページって大したサイズでないと、本編を書いていた頃の感覚で書いてしまっていましたけれど、これが以外に分厚い代物になってしまったな、という素直な感想です。
プロローグ 母校
延々と続く木立の佇まいは遠い記憶からほとんど変わっていないように見えた。樹間を接して植栽された常緑樹の木々は、それ自体が深緑と焦げ茶の分厚い壁のような印象を与えた。 「変わってない、と言えば、変わってないな」 地上車をあえて正門に横付けさせなかったのは、この木立の風景をもう一度、我が目に収めておきたかった、というわけでは実はない。既に敵国ではないとは言え、わざわざ悪目立ちする必要もないし、この地に足を止めたのも感傷以上のものではなかった。 降車した位置から二、三〇〇歩ほども行くと、木立が切れ、アーチ型の正門がその姿を現した。大型の地上車が余裕を持ってすれ違えるほどの幅と高さを誇るが、ゴールデンバウム王朝時代の建築の悪癖たる過剰な装飾はなく、むしろ簡素な佇まいも、古い記憶そのままだった。 門前に立つ。見上げた先に、緑色に錆びくすんだ銅板に帝国公用語の古書体が浮き彫りにされている。 『晴眼帝記念女学院』 文字はそう読めた。 「まだ、名は変えていない……か」 ゴールデンバウム王朝の始祖が創建し、中興の祖・晴眼帝が再建したと伝えられる、帝国貴族の令嬢たちのみが入学を許された名門校。一〇歳の声を聞くまで、彼女自身も、この学院初等部の生徒名簿に名を連ねていた。ゴールデンバウム王朝の三〇〇〇余家を謳われた帝国貴族は、そのほとんどがリップシュタットの戦役と、戦後の苛烈な財政的弾圧……と称しても過激すぎる表現とは言えまい……時代の激浪に翻弄され、その姿を消した今、この学院の存在意義も過去のものとなった、とも言える。 ただ、ローエングラム王朝の統治者たちは、この学校を単なる過去の遺物として葬り去る意思は持たなかった。初代皇帝皇妃(カイザーリン)たるを予定されているヒルデガルト・フォン・マリーンドルフ。彼女もまた、この学院の出身者であり、教育機関としての学院の存続を支持している一人ではあったが、それは感傷のゆえではなかった。 「帝国で、多くの女性に最も優れた高等教育を受ける機会を与え、実際に、帝国社会に無数の人材を送り続けた、その実績こそ評価されるべきものです」 始祖ルドルフが、その生涯に於いて女性への蔑視・軽視に徹して固執したにもかかわらず、彼の創建になる学院は無数の優れた女性を帝国社会に送り込み続けた。晴眼帝皇后ジークリンデはこの学院の出身者でこそなかったが、その周囲には多くの卒業生が、あるいは友人として、側近として、時にはブレーンとして控えていたという。 今、その門は閉ざされ、出入りする生徒の姿もない。 五〇〇年に近い歴史を誇る学院は、存続を認められたものの、現在は在校生もほとんどなく、事実上の閉鎖状態にあると聞く。再開の時には、旧貴族のみならず、いわゆる平民の子女にも門戸を開くことになるだろうが、学院自体の性格は大きく変えられることになるだろう……と彼女は思っている。 「もう、今時、女子校でもあるまい。扉を開くなら、平民の娘だけではなく、男子(おのこ)どもに対しても開けば良いというものではないか」 いずれにしても、その判断は学芸尚書ゼーフェルト博士を始めとする学芸省、そして、現在の事実上の帝国統治者である帝国大公ジークフリード・キルヒアイスの手に委ねられている。すでに帝国の人間ですらない彼女がことさらに差し出口を叩くようなことでもない。記憶の底にすら微かにしか残っていない母校が、さらに思い出の中の姿をすら喪って過去のものとなる。僅かな感傷がないと言えば嘘になるにしても。 「……!」 耳元でPDA(ケータイ)への着信を告げる小さな電子音が響き、彼女は薄い金色の眉に秋の日差しを弾かせた。無意識のうちに、右手指が口元へ走り、指先に珊瑚色の、形の良い唇を撫でる。 「ヘルクスハイムだ。卿は?」 発信者は帝国大公閣下副官を名乗った。旧知の仲である。声を聞き間違えることもない。 「帝国大公閣下が話をしたいと仰有っている? 私(わたくし)にか? 今から? それは急なことだな。話があるなら、先ほどお目にかかった時でも……忘れていた? 帝国大公閣下にしては珍しいこともあるものだ。いや、時間はある。今日は休暇のようなものだ。帝国大公閣下が会って下さるというのなら、いつ何時でも馳せ参じるとお伝えしてくれ……冗談だが」 通話が切れ、彼女は肩まで伸びた髪を淡い色の金色に閃かせながら、踵を返す。律動的な歩調で地上車へと戻っていくその姿が、ごく疎らな通りすがりの人々の感嘆の視線を引き寄せていた。 「それは随分と筋違いの依頼ではないか、帝国大公?」 研ぎ上げた紫(アメ)水晶(シスト)の刃を思わせる目で、彼女は淡い色の金髪を左右に揺らした。 呼び出され、その日二度目の訪問となる新無憂宮(ノイエ・サンスーシ)。場所は変わって東(オスト・)苑(ガルテン)、帝国大公執務室。 執務室の主は、常の巨大な執務机から離れ、彼女の向かいのソファに席を移している。 「妾(わらわ)に、アンネローゼさまの付き人の人選をせよなどと。そなた、妾(わらわ)の今の身分を心得ておるのか?」 「イゼルローン共和国国防軍ヘルクスハイム少佐殿と」 「そなた、揶揄(からか)っておるだろう。似合わぬことはせぬが良い」 口調とは裏腹に白い頬を薄紅く染めて、グレーチェンは、従卒らしい少年が供してくれたコーヒーに視線を落とした。 「筋違いは弁えています。帝国人ではない、第三者の立場からの意見を頂きたい。それが希望です」 「それだけのために帝国大公自ら時間を割いて、妾(わらわ)を呼び戻したというのか」 僅かに呆れた口調をにじませたのは、あるいは演技だったかも知れない。 アンネローゼがキルヒアイスの正妃の座を占めるにあたって、公式に表明される反対の声はすでに影を潜めている。しかし、アンネローゼに対する帝国内からの風当たりがまったく穏やかなものとなった……わけではない。ゴールデンバウム王朝末期の皇帝、三〇余年もの在位期間を誇ったフリードリヒ四世。その最も寵愛された寵姫、皇后亡き後の事実上の正妻の立場にあったのがアンネローゼその人なのだから。 「大儀なことじゃな」 たかが婚礼の儀式とその準備の期間だけの、限定的な職務でしかない。特権と呼べるような権限は付属しない。無論、アンネローゼが皇姉たる立場に基づき、婚儀を理由に過大な金品の入手を要求したとすれば、付き人が正面から拒否することはあり得ないし、帝国政府はその指示に従うことになるだろう。しかし、アンネローゼその人がそのような恣意的な行為とは無縁の人柄であり、またキルヒアイスだけでなく、国務尚書他の文官たちも無能ではない。 「その程度の人事にもそこまで意を払わねばならぬとは、アンネローゼさまにもお気の毒ではないか……いっそ……」 言い止したグレーチェンの紫水晶の目に僅かに複雑な感情が渦巻いたように見えた。 「あなたを正妃に迎える、という話はなしです、グレートヒェン」 先手を打つようにキルヒアイスが左右に小さく首を振る。冗談めかした口調だったが、目は笑っていなかった。 一〇歳の時、マルガレータ・フォン・ヘルクスハイマーだったグレーチェンはラインハルトとキルヒアイスに巡り会い、そしてキルヒアイスへの淡い想いを抱きながら帝国から旧同盟への亡命行を辿った。間もなく彼女の伴侶となるべきヴェンツェル・ハインリッヒ・フォン・ベンドリングにその身を護られながら。 とは言え、少女時代を通じて抱き続けた想いの熾火は、まだグレーチェンの胸の裡深くに微かに燻っている。いずれ、遠からぬ未来に消え失せてしまうにしても。 「そうじゃな、冗談に時を移しているほど、そなたも暇ではあるまい。ここは帝国大公の許可を得て、提案をさせてもらおう」 「よろしくお願いします、少佐殿」 今度は本気で冗談めかした口調に、グレーチェンは小さく鼻を鳴らした。 「単純なこと。ローエングラム元帥府に列せられる七元帥中、ミッターマイヤー、アイゼナッハ両元帥は妻帯者と聞く。その夫人の双方、あるいは一方に依頼すれば良い。ミッターマイヤー夫人は平民の出身と聞くが、今の世に貴族の出身か否かなど、何の意味もなかろう」 「そうですね」 にこりとして頷くキルヒアイスに、グレーチェンは眉を顰める。 「そなた、既にその程度のことは考えておったであろう?」 「ええ」 「公式の文書に記す気であろう。イゼルローン共和国国防軍ヘルクスハイム少佐の献言により人選せり、とでも?」 「ことは私的なことであっても、行事そのものは公的なものに違いありませんから。これまでの関わりを考えれば、あなたが、わたしが意見を求める相手として十分に相応しい立場にある人物であることは分かるはずです」 「いろいろと七面倒なことを……だけど、まあ、良いか」 息を吐き、グレーチェンは間を置くためにコーヒーを口に運んだ。自分自身の婚礼に、そこまで気を回さなければならないキルヒアイスと、そしてアンネローゼの心労が思いやられたが、同時に羨ましくもある。出会った時、キルヒアイスは一〇歳、アンネローゼは一五歳。以来一〇数年を数え、彼らは遂に想いを遂げる時を迎えようとしている。普通、そんな年齢で覚えた初恋など、成人に達することには陽光に曝された初雪よろしく跡形もなく消え去っているのが普通だろうに……そう思って、グレーチェンは無意識に髪に手をやっている。一〇歳の時の想いを一〇年近く引きずった点で自分も同じようなものではないか、と。 「元帥夫人となるほどの女性ならば、夫たる男にそれだけの資質ありと見抜くだけの知見があったか、あるいは夫をそこまで育て上げるだけの見識に恵まれていたかのいずれかだろう。大公妃の婚儀付き人など、何の苦にもなるまいし、それに相応しい見識を期待して無理はなかろうと思う」 「ごもっともですね、グレートヒェン。で、あなたが推薦なさるのはいずれの夫人でしょうか?」 グレーチェンは回答の意思のない旨を、かぶりを振って示した。音もなくコーヒーカップを置き、しなやかな身ごなしで立ち上がると、辞去の意を口にした。 「そなたはすでに候補を定めておろう。望むなら妾(わらわ)がその女性を推したことにして、公文書には残すが良い。たとえ、それが妾(わらわ)の思いと異なっていても、異論を申し立てることはせぬゆえに……コーヒーの馳走を感謝する、妾(わらわ)の埒もない無駄話に貴重な時を費やしてくれたことにも、な」 「いいえ、感謝すべきはわたしと……です」 滅多に受けることのない、帝国大公からの敬礼を背に、続くべき『アンネローゼさま』の一言を彼が敢えて省略したのを、グレーチェンは察した。
第一章 入学
「もう制服(ウニフォーム)はないんだから、どんな服装でもいいでしょう?」 先代から仕えてくれている老執事のハンスは断固として首を振った。 中等部には定められた制服(ウニフォーム)があり、毛筋ほどの違反も厳しくとがめられた。『帝国の藩屏たる貴族の子女にして、心の乱れを服装に表すなどあり得ない不見識』という理由だ。 「高等部の規定だと、『当校生徒たるにふさわしい、帝国貴族の矜恃にもとらぬ装いを心がけること』としか書いていないわ」 一六歳になったばかりの少女の反論を、ハンスは数十年の歴史を刻み込んだ温顔と笑顔で、しかし、にべもなくはねつけた。 「とんでもないことです、お嬢様。恐れ多くも学院は大帝陛下自らのお声掛かりで設立され、晴眼帝陛下の御名を冠した名門でございます。装いには自ら不文律というものがございます」 「そんな……なにも、ジャケットとジーンズで登校したいなんて言っていません。第一、こんな、いかにも良家のお姫様でございますなんて服、私に似合うとでも思うの?」 「似合う、似合わないという問題ではない」 鋼鉄の塊をそのまま声にしたのか、との錯覚を覚えさせられるほどの重い声が、不意に割り込んできて、彼女のエメラルド・グリーンの目を瞠らせた。 「兄様?」 いつの間にか、その顔を見るには長身の彼女ですら顎を水平にして見上げねばならぬほどの上背の男性の姿が傍らにあった。 「お前が服に着られようと、木の棒に服が引っかかっているように見えようと、それは本質ではない……違いますか、母上?」 「喩えが酷すぎます、ヨハン・クレメンツ。ゲルタほどの容姿の娘はそうはいるものではありませんよ。でも、あなたの言うとおりです。似合うとか似合わないとかの問題ではありませんよ、ゲルタ」 柔らかな、しかし、抵抗しがたい硬質な響きを含んだ女性の声が応じ、少女は肩を落とした。この二人の反対を押し切って、自儘を通す習慣は彼女にはなかった。 「お母様……」 「『不文律』というのは厄介ですけれど、逆らえばいろいろと厄介な摩擦をおこしてしまうのです。あなたなら、そんな摩擦など簡単に片付けていけるでしょうけれど、それに力を取られてしまっていては、あなたが行きたい世界に行く準備がおろそかになってしまう。そうは思えないかしら?」 帝国は民主主義国家ではないが、三対一では勝ち目はなかったし、そもそも母の言葉に抗弁不能な理を見いだしてしまっては、頷くしかない。 かつて母がこの学院の門をくぐったときと同じ、襟元に愛らしい()大きな飾りリボンをあしらったドレスシャツ、華やかにデザインされた上着とスカートという服装に身を包み、母と兄、老執事のハンスとその妻女に見送られて家を出たのはほんの一時間ほど前のことだ。 門前には、在校生や新入生たる『お嬢様』方を送ってきた地上車が列をなしていたが、彼女は最寄りの駅まで地下鉄(ウンターバーン)に乗り、あとは徒歩だった。郊外線になると一〇代の娘が一人で乗るには決して安全とは言えない地下鉄(ウンターバーン)だが、帝都の中心ともなればその心配はほとんどない。 ただ、有名な女学院の生徒であることを示す服装と、鮮やかな金茶色の髪、エルフを思わせる細面の端整な容貌は、他の乗客の好奇の視線を引き寄せた。好奇だけでなく、好色、さらには嗜虐に分類すべき複数の目も意識したが、敢えて無視した。一度だけ、至近に嫌な気配の接近を感じたが、横目に視線を流しただけで消えた。ばかりか、彼女の目にとまらぬよう乗客の全員が一斉に視線をあらぬ方向に向けたのが見て取れた。 「……」 思わず、喉の奥だけで笑ってしまう。これで、明日からは彼女に無用のちょっかいをかけようなどという命知らずは大きく減るだろう。 兄からは何度も言われた。 「その目はやめろ」 ――と。だが、通学初日、早速やってしまったということになる。 何度か意識して目を瞬(しばた)き、少女……ゲルタは、そのエメラルド・グリーンの眸に湛えた危険すぎる金色の光を消した。一六歳の無垢な乙女の目にはあり得ない。人殺し、言い換えれば、既に人の血の味を知った肉食獣の眸は、大方の人々に怖気を震わせるに十分だった。 少女の名は、コルネリア・ゲルトルーデ・フォン・シュミットバウアー……そのミドルネームから、近親者やごく少数の友人からはゲルタと呼ばれる。かつては、ルドルフ大帝その人から侯爵を授爵し、『帝室の意見番』とまで呼ばれた家柄だったが、今はその栄光も見る影はない。先代まで辛うじて男爵の地位を保っていたものの、先代当主が亡くなって後、当主たるべき兄はまだ、その男爵を継ぐために典礼省の役人に掴ませる袖の下すら都合できない貧乏貴族に過ぎない。 「あなたが行きたい世界に行く準備……」 母はそう言うが、そんなことができる日が本当に来るかどうか。ゲルタ自身まったく自信の持てないところだった。 新たな通学先、晴眼帝記念女学院高等部の門をくぐったゲルタは足を止めて大きく息を吐いた。やや鬱陶しそうにドレス・ブラウスの襟元の飾りリボンに手をやり、ぐいと引っ張る。至近での観察者がいれば、ほっそりとはしていても、浮かび上がった筋肉が深く陰影を刻み、肩口の縫い目が悲鳴を上げるほどの力が、その手指に込められているのを見て取って驚きを隠せなかったに違いない。 『木の棒に服が引っかかっているよう』な姿だとは思わないが『服に着られている』のは確かだと思う。この制服(ウニフォーム)自体が、もっと小柄な、いかにも貴族の令嬢らしく『高貴で可愛らしい』少女達を念頭にデザインされているのだと思う。 晴眼帝記念女学院……大帝ルドルフが開校し、その後一時的に閉鎖された時期もあったが、晴眼帝マクシミリアン二世の皇后ジークリンデが皇帝の名において再建。優に四〇〇年以上もの歴史を誇る。そして、現皇帝フリードリヒ四世の『シュミットバウアー家の娘であるなら、しかるべき教育機関に進ませてやるが良い』とのお声掛かり。その結果としてゲルタは、貴族とは名ばかりの彼女が学院への入学を許可された。本来、学費だけでも没落寸前のシュミットバウアー家が賄いきれるものではなかったというのに。 とは言え、入学してしまった以上、当面はこのお嬢様学校の生徒の一人として、『不文律』や『常識』の中で息を潜めて生息していくしかないのだ。 思い極めれば、学院の敷地内に視線を向ける余裕も生じた。 広大な敷地を囲むのは、ルドルフ時代に植樹されたと伝えられる幅の広い並木である。大帝自らが植樹の鍬を振るったなどというのは単なる伝説に過ぎないにしろ、最低でも数十年、多くが一〇〇年を越える樹齢を数える木々の密度はすでに並木ではなく密林に近い。ほとんど日の差し込むことのない木立の奥は、下手なフェンスや塀よりも遙かに不審な侵入者を防ぐ効果の高さを思わせて、昼間でも暗く深い。 そうした木立に囲まれた高等部のキャンパスは、公園でなければ美術館などの文化施設、ごく古い時代に設計された大学を思わせた。 そして、今。帝都(オーデ)星(ィン)の北半球、やや高緯度とも言える位置にある帝都の九月は、残暑の暑熱には余り縁がない。 幼稚舎から大学までの建物が散在する敷地の一角、高等部の学舎が集中する一帯も、計算された緩やかな曲線を描く舗道に街路樹が木陰を差し掛け、その下を、それぞれに華やかな制服に身を包んだ生徒たちがゆっくりと行き交っている。それぞれに二人、あるいは三人、時には数人のグループになっているが、誰一人として靴音高く走り去ったり、あるいは声高に嬌声を上げる、ということもない。 ただ、意外に生徒の姿は少ない。 現皇帝フリードリヒ四世は、四〇代半ば過ぎから女性への嗜好を一変させ、『一〇代の少女を漁り始めた』。その後、約二〇年、『宮廷や門閥貴族で無数の花が手折られ尽く』した。そう、ゲルタ自身も、ほんの一年余り前に、もう少しで皇帝の手で手折られるところだったのだ。その直前、宮内省の職員の一人が帝都の下町で、奇跡のような透明感と清楚さを併せ持った一人の少女を見いだす、という偶然がなければ…… 現皇帝のそうした嗜好のゆえに、本来、一学年に数百人の生徒を抱えるはずの、この学院高等部において、各学年の定数は半数も満たされていない。ゲルタの目の当たりにしている学院敷地内の人影の薄さの所以だった。 「道に迷いでもしたのかしら?」 声が飛んでくる前に、ゲルタはその長身を翻していた。左右に振り分け、ワイア・ポニーで筒状に束ねた髪が宙を舞い、金茶色の光の粒をその痩身に纏いつかせたように見えた。 「誰っ」 思わず飛び出した詰問の言葉を、途中で慌てて飲み込む。 「……あ、いえ、どなた?」 そこに一人の少女が……女学院である以上、生徒は全員が少女と呼ばれる年代の女性である……あるかなきかの微風に長いアッシュ・ブロンドの髪をそよがせて立っていた。 切れの長い大きな銀灰色の目と、歯並びの良い綺麗な歯列を見せる唇がまっさきに視界に入った。 微笑む形に柔らかく形を変えたその唇は、左右の切れが大きすぎる。こちらも大きすぎる目と相俟って顔の造作のバランスをややというだけでは不十分なほどに崩している。現皇帝の好みに準じて、楚々たる儚げな佇まいの顔立ちを理想とする現在の基準からは大きく外れているだろう。 それでも、文句のつけようのない端麗な色合の唇から覗く、綺麗に整った歯並びが、その笑顔を華やかに彩って見せていた。 それよりもゲルタを驚かせ、視線を吸い寄せたのは、彼女の身ごなしに驚いている様子もなく穏やかな微笑みに和んでいる、その表情だった。 ゲルタは、次の瞬間の撃発に備えていた力を、相手に気づかれぬように、そっと抜いた。 警戒を要すべき相手には見えなかった。他者にはひどく狷介なゲルタだが、この少女に対して敵意を持つ理由を見いだせなかったのだ。 「……あ、私はコルネリア・フォン・シュミットバウアーです。今日から、この学院にお世話になる新入生です」 「シュミットバウアー……?」 年齢は定かではなかったが、どう見ても同級生には見えなかった。上背は、すでに一七〇センチを優に超えているゲルタに遙かに及ばないとしても、女性としては長身の、すらりと姿勢の良い身体のライン。装飾過剰にさえ見えかねない上着も、彼女が身に纏うと、落ち着いて柔らかに、この人のためにデザインされたのだという印象に変わる。ゲルタのように束ねることなく肩に流した長い髪も、彼女にこの上もなく似つかわしい髪型に見えた。 「あら、シュミットバウアー家の方が新入生になって下さるなんて、この学院の名誉ですね。入学して下さって、ありがとう。フロイライン・シュミットバウアー」 「シュミットバウアー……の名をご存じなのですか?」 「知らない人間が、少なくとも帝国貴族を名乗る者の中にいるのかしら。シュミットバウアー家の人と同窓になれるなんて、それだけで名誉だと思うのだけれど、違う?」 「あ、いえ……あの、私、中等部からの内部進学なので……」 「でも、内部進学が認められたということは、それだけ優秀な方だと学院も認めたと言うことだし、それだけ優秀な方なら外部の学校へ進学することもできたのでしょう? なら、卑下する理由なんて何もないわ」 柔らかく、さらりとした口調は、内心に反して心にもない賞賛で言葉を飾っているようには聞こえなかった。 いつ以来だろうか、相手の言葉の孕んだ裏の意思、動作に隠された意図、差し出された右手と左手に隠した短剣を常に警戒し続けるようになったのは。 思っている内に、手を取られた。反射的に振りほどこうとして辛うじて思いとどまる。それが相手への大変な侮辱につながることを直感的に察してのことだった。彼女を侮辱してはならない。なぜか、そう思った。 「どうか、これからもよろしくお願いしますね、フロイライン・シュミットバウアー……あ」 突然、彼女は大きく目を瞠り、それからきゅっと額にしわを寄せた。 「ごめんなさい、自己紹介がまだだったわ……私はパトリツィア・フォン・コールシュライバー。今は高等部二年生です」 「コールシュライバー(マルクグラーフ・フォン)辺境(・コールシュラ)伯(イバー)?」 帝国領の宙域図のほとんどはゲルタの記憶の中に収まっている。可能であるか否かを問わず、未来の士官学校生徒、さらには帝国軍士官たる自分を夢見る身としては当然の知識だった。 「ええ、そのコールシュライバーよ」 「確か、ブラウンシュヴァイク公領の近くにある星系でしたよね」 現在の門閥貴族は二派に分かれている。ブラウンシュヴァイク公とリッテンハイム侯である。 コールシュライバー辺境伯領は、そのブラウンシュヴァイク公領の外れに位置する辺境星系だった。ただし、統治者であるコールシュライバー辺境伯家は、ブラウンシュヴァイク公との縁戚関係はない。独立した細やかな有人星系であるに過ぎず、鉱山惑星でいくつかの希少鉱物を産するほかは目立った産品はない。 「ええ、よくご存じね、光栄だわ。あんな辺境星系の名前まで知っていて下さるなんて」 「いえ、たまたま知っていただけです」 「それでも嬉しいわ。同窓の方々で、コールシュライバー星系なんて知っている方は一人もいないの。あなたが初めて。知っていると言ってくれた方は」 それを言うなら、シュミットバウアー星系など帝国宙域のどこを探しても存在しない……初代ヨーゼフの時代はともかく、今時、シュミットバウアーの人間と縁を結んだところで得るものは何もない。一体、何が目的で、この上級生は自分に声をかけてきたのか? だが、パトリツィアの次の一言は、ゲルタの想像を完全に裏切るものだった。 「こうしてお会いできたのだから、一つ、お願いしても宜しいかしら?」 「え、な、なんでしょうか?」 「私とお友達になって下さる、フロイライン・シュミットバウアー?」 「は?」 一瞬、ゲルタは相手の言葉の意味を見失った。 「と、もだち、ですか、フロイライン・コールシュライバー?」 驚かなかったと言えば嘘になる。 「本気でおっしゃってるの?」 銀灰色の眸に、それとはっきり分かる真摯の彩りを浮かべて、パトリツィアは大きく頷いた。さっきまでのおっとりした挙措が嘘のような大きな動きに、アッシュ・ブロンドの前髪が勢いよく揺れた。その仕草に嘘があるようには見えなかった。 「……え、は、はぁっ?」 「そう、お友達よ……ああ、そうそう、知ってるわね、姉妹(シュベシュテー)制度(ルンシャフト)のこと?」 「姉妹(シュベシュテー)制度(ルンシャフト)ですか?」 解けかけた感情が一瞬に冷えるのを感じた。 無論知っている。晴眼帝記念女学院では常識以前の制度と言っていい。要するには特定の上級生と下級生が一種のパートナー(パルトネル)シップ(シャフト)を結び、上級生がパートナーの下級生を指導・教育し、下級生は上級生からの教示をさらに下級生に伝えていく。そうして晴眼帝記念女学院の伝統が上級生から下級生へと延々と受け継がれていく……と謳われているが、ゲルタ自身は中等部以来、姉妹(シュベシュテー)制度(ルンシャフト)を『学院の伝統という鋳型に下級生を押し込み、機械的に鋳造する制度』でしかないと思っている。無論、一〇代前半の少女としては狷介すぎる彼女にパートナー(パルトネル)シップ(シャフト)を申し出る上級生など、これまで一人としていない。 「姉妹(シュベシュテー)制度(ルンシャフト)のパートナー(パルトネル)シップ(シャフト)を結ぶ、という意味でしょうか?」 それならお断りです。言外の拒否の意思表示を込めた口調に、パトリツィアは微笑ってあっさりと首を振った。 「そんな意味ではないわ。単なるお友達。普通に互いを友達だと思い合える間柄。毎日、何もなくて普通の会話ができる間柄。それだけ。私も姉妹(シュベシュテー)制度(ルンシャフト)なんかに興味はないの」 ゲルタは首をかしげた。『普通に互いを友達だと思い合える間柄』というのがどういうものなのかを、明確なイメージとして脳裏に思い浮かべるだけの経験が彼女にはなかったのだ。 これまで『友達』と呼び得る他者はおらず……そこまで思いを巡らしたとき、不意にゲルタは首筋に血が上るのを感じた。 「どうしたの?」 「あ、いいえ、な、なんでもありません」 兄ヨハン・クレメンツの親友。兄と彼がいてくれれば、他に誰も必要としない。そう思うようになったのはいつからだっただろう。皇帝フリードリヒ四世の後宮への誘(いざな)い……いや、皇帝への不敬を敢えて犯すのであれば『強制』に対して。これで、もう彼に手を取ってもらえることはないのだと絶望の思いに駆られたのは。でも、あれはパトリツィアの言う『友達』ではない。あれは…… 考えれば考えるほど、ますます頭と頬に血が上ってくる。混乱する思いを整合できないまま、しかし、パトリツィアに向かってゲルタははっきりと頤を引いて見せた。それはそれ、これはこれ。この上級生は、彼女にとっては未知の『友人』と呼べる関係を結ぶに値する人かも知れないではないか。 「私が、あなたのお友達に本当に相応しいのかどうか分かりませんけれど、あなたがそれで良いとおっしゃって下さるなら、お友達にならせて下さい、フロイライン・コールシュライバー」 「本当に」 再びゲルタは予想を裏切られた。パトリツィアが彼女の手を取ったまま、この学院生徒にあるまじきことにぴょんぴょんと飛び跳ね、長いアッシュ・ブロンドを四方八方に舞わせるという光景をゲルタに見せてくれたのだ。 「あ、あの、フロイライン・コールシュライバー?」 「だから、ありがとう。それに、もうフロイライン・コールシュライバーは止めて下さらない? パトリツィア、いいえ、トリツィアと呼んでもらえると嬉しいわ」 「ト、トリツィア……ですか?」 それがパトリツィアの愛称であることは説明を求めるまでもなかった。 「じゃあ、あなたのことはコルネリアと呼んでも宜しいかしら? それともネリの方が良い?」 「あ……」 「どうしたの?」 一瞬、パトリツィアがいぶかしげに表情を曇らせる。ゲルタは胸の裡に痛みを覚える自分に気づいていた。 コルネリアはゲルタのファースト・ネーム。そしてネリはその愛称。そう呼ばれるのに不自然さは感じない。実際、そのように彼女を呼ぶ人もいる。 だが、どうだろう。自分との交友を求め、それを許容されたことを、これほどに開けっぴろげに満面の笑みで歓迎している、この上級生に、その呼び方を許すだけなのは自分に対して真に友人たるを求めているこの人に対して余りに不誠実なのではないだろうか。 一瞬目を閉ざしてから、ゲルタはその決断をした。 「いえ、ゲルタとお呼び下さい」 「ゲルタ?」 苦手な微笑を、それも無理をした様子を見せずに……浮かべるのは中々の難行だったが、ゲルタはなんとかやってのけた。 「私のミドルネーム、ゲルトルーデは母からもらったものです。その愛称がゲルタです。家族と、本当に親しい人にしか、この名では呼んでもらっていません」 「そうなの?」 銀灰色の眸が一層喜色に染まったように見えた。 たかが自分の愛称でしかない。それを知り、呼ぶ。ただ、それだけのことを、これほどの喜びを持って迎えてくれる人がいるなど、想像もしたことがない。ゲルタは一瞬、呼吸の困難を覚え、喘ぐような自分の吐息を意識した。 「喜んで呼ばせていただくわ、その、ゲルタ」 「ええ、よろしくおねがいします、その、え、と、ト、トリツィア」 その時、入学式の開始一〇分前を告げる鐘の音が、二人の会話に終止符を打った。 「明日はお昼をご一緒しましょう、ゲルタ。きっとよ」 艶(あで)やかに……ゲルタにはそう見えた……制服(ウニフォーム)を翻すパトリツィアの姿が、ひどく眩しかった。 帝国暦四七八年九月、コルネリア・ゲルトルーデ・フォン・シュミットバウアーはこうして晴眼帝記念女学院高等部の生徒の一人となった。