
血染めの宇宙
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銀英伝パロ(帝国暦489~490年) (グレーチェン・ヘルクスハイム・シリーズ(3)) サイズ:A5 ページ数:164 帝国暦四九〇年、宇宙暦七九九年。原作より半年ほど遅れる形で、『ねじれた協定』が公然のものとなり、同盟は『皇帝エルウィン・ヨーゼフ二世』の亡命を受け入れ、銀河帝国政党政府を亡命政権として承認する。一方、帝国側はキルヒアイスの主導下に同盟への和平折衝の動きを起こすが……既にフェザーンのコントール下に入ってしまっていた同盟政府はその動きを阻止するべく、ヤンを査問会に召喚する。 査問会でイゼルローン要塞を留守にしたヤンの隙を突くように、ロイエンタール麾下の帝国軍がイゼルローン要塞を衝く一方、『神々の黄昏』に先行する『恐るべき冬』作戦を開始した帝国軍は、グレーチェン・ヘルクスハイムが新任士官として赴任したJL二七基地の正面、フェザーン回廊に侵攻を開始する。グレーチェンは、懸命に歴史の激流と戦い始めねばならなくなった。
門出
巡航艦『レディング』の舷門からJL二七基地の宇宙港に足を踏み入れたグレーチェン・ヘルクスハイムは、淡い金色の眉を微かな嫌悪に顰めずにはいられなかった。 「随分と寂(さび)れてるな……」 思わず……という調子の呟きが、その唇から漏れる。眉と同じ淡い色調の金髪を短くカットしてベレーに押し込み、黒の上着にアイボリーのスラックスという同盟軍士官の制服に身を包んだ姿は、同盟軍の男性将兵たちと変わるところはない。端正な、鼻筋の通った顔立ちと、淡い珊瑚色の口許、きつい光を浮かべているが透き通った閃紫色の瞳、そして制服を通しても見て取れる身体のラインが、グレーチェンの性別を余り強くはないにしても明確に主張していた。 「そうだな。かつては、フェザーン方面軍の司令部も置かれていたはずだが、今は、駐留艦隊も三〇〇隻ほどだと聞いている」 生真面目な口調での応答に、グレーチェンは静かに振り向いた。彼女よりも頭半分以上も高い位置にあるクルーカットの髪、厳つい、筋肉質の青年の姿がそこにあった。 「配置したくても兵力がない……か」 「対帝国最前線はフェザーンではなくてイゼルローンだからな。フェザーン方面に配兵しても、遊兵になるだけだ」 「では、わたしたちは遊兵というわけか」 僅かな自嘲を含んだ口調が青年の神経に触れたのかも知れない。男性的に鋭角な角度を描いた眉が大きく動いた。 「ここも最前線だ」 「……相変わらずだな、ミスター・ブラントン」 なんて生真面目なやつ……そう呟きたいのを辛うじて抑え、グレーチェンは改めて宇宙港の内部に視線を走らせた。厚い耐圧テクタイト越しに見える宇宙港は、確かにわずか三〇〇隻の駐留艦隊を収容するには巨大すぎる。全体の三分の二くらいが活動を休止し、照明も落とされているのがなおのこと、うら寂れた印象を強調している。 前線基地JL二七はルエヴェト星系の外縁近く。第八番惑星の公転軌道のやや内側に位置する小惑星帯の外れ、直径六〇キロの小惑星上に築かれている。グレーチェンの知識が正確なら、宇宙港はこれ以外にも数カ所設けられており、加えてかつては現在のJL二七以外にも多数の基地が、この小惑星帯一帯に設けられていたという。 ミスター・ブラントン……グレーチェンと同期卒業の少尉候補生の言う通り、同盟軍の艦隊兵力が健常であった時代には、ルエヴェト星系を中心に複数の泊地が設置されて二個制式艦隊が常駐し、不定期にさらに一個艦隊が展開していたこともあるのだ。 宇宙暦七九六年のアスターテ会戦での二個制式艦隊の壊滅、そしてアムリッツア会戦で惨憺たる結末に終わった帝国領侵攻作戦。同盟軍は一三個制式艦隊の内、第一艦隊と第一一艦隊、そしてヤン艦隊こと第一三艦隊の三個艦隊を除いて全滅したのだ。現時点で第一四と第一五艦隊が編成途上だが、まだ戦力化できるに至っていない。 そうは言っても、いわゆるフェザーン回廊出口までは約六〇〇光年を隔てており、ルエヴェトよりもフェザーン回廊宙域寄りには同盟軍の基地はない。フェザーンと同盟領を行き来する民間船の数は多く、その誘導のために無人の航路標識衛星の敷設密度こそ高かったが、軍事的には文字通りに最前線である。 「こんなところに来るはずではなかったのではないのか、ミスター・ブラントン? 貴官の希望していたのは、もう一つの最前線だったはずだ」 最初の任地に赴任した少尉候補生は、通常ならば半年ほどを前線任務の中で実戦の苛烈さを学ばされる。この段階で戦死したり、戦傷で後送されたりするものも少なくなく、戦場(シェル)恐怖症(・ショック)に取り憑かれて軍務に耐えきれなくなる者も枚挙に暇がない。例外があるとすれば、士官学校の戦略研究科を首席、あるいは次席で卒業した候補生に限られ、彼らに限っては中央の統帥本部に優先的に配属されて、戦場の惨状とは無縁なままに超スピードで軍政、あるいは軍令の位階を駆け上がっていくのが常だった。 グレーチェンとブラントンもまた、それぞれ士官学校首都校の戦略研究科の首席と次席を分け合った存在であって、そうした例外に含まれても何の不思議もなかったのだが、二人とも自ら、自身を例外として扱われるのを無意識のうちに拒否してしまったようだった。 グレーチェンの場合は、卒業間際に慫慂された海(リーグ・ダ)鷹(ス・ゼーフ)会(ァルケン)なる組織への加入を拒否したことが、どうやらこの希少な『例外』に自らを置く機会の謝絶につながったようだった。ブラントンの方は、統帥本部付きを内示する軍当局に対して強硬に前線配備、相成るべくはイゼルローンの第一三艦隊配備を希望し続けたことが、あるいは軍の人事を左右する立場の人間の心証を損ねたのかも知れなかった。 ブラントンは、眉一筋動かすことなく、グレーチェンの言葉を受け流して見せた。 「何を言っているのか分からないな。いい加減、貴官らしくない言い方は止めたらどうだ、ミズ・ヘルクスハイム。そうでないと、俺は貴官と同期であるのを誇りと思うのを止めないといけなくなる」 「それは恐縮だな」 ブラントンは腕時計(クロノ・メータ)に視線を走らせ、微かに頬を動かした。 「こんなところで油を売っているわけにはいかん。一六〇〇時までに基地司令部に出頭せねばならんのだからな」 グレーチェンは小さく頷く。動作に微かな躊躇が混じっているのが、グレーチェンにしては珍しかった。基地司令部、すなわち彼女たちの直属上官となるべき人物に対する事前の知識。それが、彼女に僅かな怯みを覚えさせている。 その怯みが歩調に現れたのかも知れない。ブラントンが不審そうに振り返った。 「どうした、ミズ・ヘルクスハイム。どうも今日は貴官らしくないぞ」 「う……」 見抜かれたか……と思う。士官学校首都校の首席を争った同期として、そして一度は生死を共にした戦友でもある。余り弱気なところは見せたくないところだ。 「ちょっと疲れただけだ。気にしなくて良い」 「――なら、いい」 行くぞ、とも言わず、ブラントンはそのまま顔を前に向けてしまう。ちょっと肩を竦めて、グレーチェンはその後に続いた。 「参ったな、ホントに――」 その日遅く、漸く居住区に割り当てられた自室に戻ってきたグレーチェンは、言葉にこそ出さなかったが、内心に呻かずにはいられなかった。既に標準時二二時を大きく回り、あと一時間余りもすれば規定の就寝時間になる。 「最悪だ、ヴェンツェル・ハインリッヒ。本当に最悪だ」 思わず、ハイネセンに残してきた後見人の名を口に出してしまう。 司令部で交付された辞令曰く、JL二七駐留艦隊司令部付き参謀士官に任ず。直属上官は、艦隊参謀長ジョー・ゲニュタ・ヒラーデ大佐。アムリッツアの生き残りと言えば聞こえが良いが、指揮の失敗から艦を失い、部下のすべてを見捨てて一人脱出した結果、ルエヴェトなどという僻地へ左遷された。自らの不遇から、帝国、ひいては帝国からの亡命者を偏執的にまで憎悪するようになった人物。 事前にヴェンツェル・ハインリッヒから聞かされていたヒラーデ大佐のプロフィルは、さすがのグレーチェンですら頭上に厚い雨雲をかけられた気分に陥らせたのだ。 そして、実物のヒラーデ大佐は、そうした気分を一ミリも裏切ってはくれなかった。いや、期待以上と言うべきか、執務室に出頭したグレーチェンを無視して三時間あまりを待たせたあげくに、第一声が、『私は恥を知らない連中が嫌いだ』だった。彼の論理では、亡命者は祖国を捨てた裏切り者であり、恥を知らない連中だということになっているようだった。 その後も挨拶や復命の一言一言に難癖をつけられ、詰られ、罵声を浴びせられ続けること約一時間。司令室からの呼び出しがヒラーデ大佐の注意を反らせていなければ、あるいはまだまだ試練の時間は続いていたかも知れない。 「もう良い、屑でも頭数は頭数だ。今日は荷物を整理して来い」 指示された居住区画は単身者の下級士官用官舎の一画。最前線基地と雖も、もともとが制式艦隊も駐留可能だった基地の名残だけあって、下士官以上は一人住まい用の官舎が割り当てられていた。 新任士官や、単身の中尉クラスだと二人部屋や三人部屋という辺境基地も珍しくないのだから、これはある意味で優遇といえなくもない。事実、巡航艦『レディング』で彼女が割り当てられたのは、士官(ガン・)次室(ルーム)に隣接した二人部屋だった。 官舎は……あるいは部屋はと言うべきか、決して広くはない。幅は三メートルばかり、奥行きは五メートルもなさそうだ。いずれも難燃性の樹脂加工を施された金属壁とフロアはくすみ、新たな住民に不機嫌そうな表情を向けているようにも見えた。ハイネセンのダウンタウンの単身者用アパートメントの方が広さでも設備でも優っていること数倍に違いない。まして、ハイネセンのグレーチェンの自宅とは較べるべくもない。 「初めまして、グレーチェン・ヘルクスハイムです。よろしくね」 無機質な室内に向かって話しかける趣味は、少なくともグレーチェンにはない。とは言え、親友のロッティ・セーデルなら、あるいはそういうこともするかも知れない、と思うと殺風景きわまる室内を前にしても何となくくすぐったい笑みが浮かんでくるようだった。 イゼルローンのような大要塞や制式艦隊の泊地であればともかく、JLナンバーで呼ばれる前線基地の居住区画にはほとんど外食の施設はない。三食を士官用食堂で摂るのが普通だから、宿舎にも調理施設は設けられていない。 味音痴というわけではないグレーチェンだが、三年間の士官学校と、その入学準備の段階で味覚にわがままを言わせないだけの訓練は積んだ自信がある。加えて、士官には食費は給与とは別に支給されるのだ。食事の味で文句を言うのは、喩えは変だけれど天に向かってつばを吐くようなものだ。 二四時間開いている士官用食堂で夕食は済ませてきたが、まだ知り合いとておらず、ブラントンはとっくに着任申告を終えて居住区に戻ったらしく姿がない。一人で食べる食事は、決して不味くはなかったが、美味くもなかった。亡命の時は、審問のために一週間近く帰らないヴェンツェル・ハインリッヒを案じ、孤独に耐えかねて食事を摂れないままに倒れかけた経験のあるグレーチェンだが、とにもかくにもカロリーと栄養を補給するのが士官学校でたたき込まれた本能のようになっている。文字通りに『腹が減っては戦ができぬ』だった。 細長い廊下の奥が、ベッドとロッカーが作り付けになった居室。廊下の左右の小さなドアを開けてみると、洗面室とトイレ、さらにシャワーブース。一人で使うのがぎりぎりの広さだが、いずれ一人暮らしであれば文句を言えるようなしろものではない。 ベッドの足許には、これも作り付けのコンソール。さすがに情報端末は更新されているらしく、古ぼけた印象の室内で浮き上がったように白い、金属的な光沢を放っていた。 ロッカーの中に荷物を入れた大型のキャリング・ケースが既に収まっているのを確認して、グレーチェンはとりあえず、弾みをつけてベッドに腰を下ろした。 「――」 固い―― スプリングは固いが、士官学校寮のそれと大差はない。野外教練や、巡航艦『レディング』の寝台に比べれば、これなら天国のようだと言ってもいいくらいだ。実際には、卒業式と同時に搭乗した『レディング』では、寝る時間もないくらいの猛烈な訓練でしごき抜かれたから、寝台の固さを比較するのは難しいのだが。 思い、今度はグレーチェンは苦笑する形に頬を歪めた。もし、父や母、あるいは執事の誰かが生きていて、今の自分を見たら何と言うだろう。余りにもひどい環境と、それに笑って慣れていこうとしている自分を、マルガレータ・フォン・ヘルクスハイマー伯爵令嬢にあるまじき態度として嘆くだろうか。 グレーチェンは首を大きく振る。短くした淡い色の金髪が、急な首の動きにふわっと揺れて、白っぽく照明を弾いた。 「選んだのはわたしだ(イッツ・マイ・チョイス)」 グレーチェンの唇をこぼれ落ちた言葉の響きは強かった。 キャリング・ケースを引っ張り出し、赴任地に着いたら開けるように、後見人(ベンドリング)から言われていた金属ケースを開いた――と、その唇が苦笑する形に動いた。 「相変わらずだな、ヴェンツェル・ハインリッヒ。こんな基地で大金を持っていても、使い道はないくらいのこと、分かりそうなものなのに」 食費以外に、最前線基地だけに任地手当の名目で住居費、軍服を調達するための被服費や赴任地手当、危険宙域手当などが加算されて、新米の少尉としては結構暖かな懐を保証してもらってさえいる。ただ、心配性の後見人(ベンドリング)は、それでもこの被保護者にできる限りの経済的安全保障をかけたかったらしい。彼がケースの中に滑り込ませたらしい数枚のカードを見つけ出してため息をついたグレーチェンである。いずれもフェザーン有数の銀行のカードで、ヘルクスハイマー伯爵家の資産の一部が現金化されて入金されているのは間違いない。 が、入れられていたのは預金カードだけではなかった。 「――ん?」 グレーチェンが手にしたのは、軍で標準的に使われている大容量の記憶モジュールだった。 「こんなものを……?」 いずれにしても、入れたのがヴェンツェル・ハインリッヒであることは間違いない。伝言とか、餞別の言葉ならM(マイクロ・)O(オプティカル)D(・ディスク)で十分だろうに……呟きながら、記憶モジュールを再生させたグレーチェンの手が止まる。紫水晶の光を帯びた目が大きく見開かれた。 「ヴェンツェル・ハインリッヒ……こんなものを……」 情報端末に映し出されたのは、まさに七年前、彼女を追ってイゼルローン回廊から同盟領に入り込んだ当時の帝国軍巡航艦『ヘーシュリッヒ・エンチェン』の詳細な航路記録に他ならなかった。 「……七年か」 これも思わず知らずの呟きは口の中で消える。七年前、グレーチェン……マルガレータ・フォン・ヘルクスハイマーの一族が亡命を試みたとき、これを追撃してきた帝国軍の巡航艦が、ラインハルト・フォン・ミューゼル中佐率いる『ヘーシュリッヒ・エンチェン』。その『ヘーシュリッヒ・エンチェン』の捕捉迎撃を試み、ラインハルトに強かな反撃を受けたのが、JL二七の駐留艦隊だった。 この時、ラインハルトは巡航艦三隻を含む、二〇隻近い同盟軍艦艇を撃沈破しており、JL二七の戦闘日誌にも『帝国軍艦艇約一〇隻、ヘルクスハイマー伯爵追撃のため、同盟領深部に侵入』との記録が残されていた。JL二七が『ヘーシュリッヒ・エンチェン』の単独行に気づいていて、ただ、あまりの損失の大きさを取り繕う目的で『一〇隻』としたのか、単純に気づいておらず、彼我の損失から適当に数字を見繕ったのか、その点は不明である。いずれにしても、僻地、あるいは長閑(のどか)なとも評し得るこの細やかな軍事基地にとっては驚くべきできごとに違いなかった。 士官学校の書庫で、戦闘記録の中からこの日誌を見つけ出したグレーチェンもさすがに複雑な思いを隠せなかった。 「相手が一隻だと気づいていようといようまいと、この日誌は頂けないな。どっちだとしても、無能をさらけ出しているようなものだ」 身も蓋もないグレーチェンの感想である。想いが苦笑ではなくて、微かな眉間の皺となって表れたのは、この日誌が彼女の親族すべての死の思い出につながるものだったからだ。父ヘルクスハイマー伯をはじめ、伯爵家のすべての人間が減圧事故で死亡し、彼女一人偶然の計らいで生命長らえた。そして、あの赤毛の少年と、金髪の野心家との出会い。後見人となってくれたヴェンツェル・ハインリッヒとの邂逅。多くの偶然が彼女の背を押すようにして、そして彼女は今、この場所にいる。 無論、あの時、ヴェンツェル・ハインリッヒ・フォン・ベンドリングは彼女の後見人として往路だけで艦を離れている。その時に航路情報を持ち出しているはずはない。おそらくは同盟軍の情報部での勤務の傍ら、周辺宙域の情報をも合わせて『ヘーシュリッヒ・エンチェン』の航路を調べ上げたに違いない。 「何のためにこんなことをしたのだ、ヴェンツェル・ハインリッヒ?」 意図は分からない。あるいはヴェンツェル・ハインリッヒ自身にも分かっていないのかも知れない。ただ、七年前、グレーチェンが同盟領に足を踏み入れた、その同じ宙域に同盟軍士官として赴任する。ヴェンツェル・ハインリッヒの心配性が、万一の可能性を慮って、このような情報をグレーチェンに持たせたのかも知れない。 こんな情報が役に立つ日が来るのかどうか分からない。しかし、ヴェンツェル・ハインリッヒにしてみれば、これは明らかに軍の機密情報の私的な流用である。同盟軍にばれれば、処罰は免れないはずだ。その危険を敢えて冒したのも、一にかかってグレーチェンのために違いない。 「一応、ありがとうと言っておくべきだな、ヴェンツェル・ハインリッヒ。そなたがわたしにしてくれたことで、わたしにとって悪かったことは一つもなかったから」 遠く三〇〇〇光年以上の彼方にいる後見人に頭を下げておいて、グレーチェンは、端末から外した記憶モジュールに視線を落とした。『最前線』――その言葉を脳裏に反芻する。 「帝国――か」 帝国との距離を思った。ハイネセンにいた時は、帝都オーディンまでは約一万光年。両国を繋ぐただ二つの通路である、イゼルローン回廊とフェザーン回廊、いずれの出口からも四〇〇〇光年を隔てていた。それが今は、数百光年の距離にフェザーン回廊があり、いわゆる『サルガッソ宙域(スペース)』を隔てた彼方は既に帝国領なのだ。高速の巡航艦であれば、JL二七を出てから帝国領に達するまで一週間を要するまい。 思い、グレーチェンは、この宙域のすぐ近くで別れを告げた二人の若者のことを思い出す。燃えるような赤毛の、感じの良い青い目をした長身のジークフリード・キルヒアイス。そして彼を『かけがえのない親友(とも)』と呼んだ、凍てつかせた超高温の焔を思わせる蒼氷色の瞳に、目を奪われるほどの鮮やかな黄金色(こがねいろ)の髪を戴いた美貌はラインハルト・フォン・ミューゼル。現在の、ラインハルト・フォン・ローエングラム。公爵にして元帥。帝国と帝国軍の全てを統べる若き最高権力者である。 同盟に属するものとして、なかんずく同盟軍の士官として絶対に忘れてはならないはずの金髪の独裁者よりも、グレーチェンが鮮明にその面影を思い出せるのは、赤毛の若者の方だった。 ジークフリードたちは任務として自分たちを追ってきた。追い詰められて脱出しようとし、減圧事故を起こしたのは父たちの責任である。一〇歳だった当時ですら、それは分かっていた。分かっていたが、一族全てを失った怒りと悲しみ、そして恐ろしさに耐えるには、誰かに憎悪を向ける以外になかった。それゆえに、父から預けられた、帝国軍の秘密兵器の開錠コードを差し出して、彼らの哀れみを請うことなどできることではなかった。 「妾(わらわ)はヘルクスハイマー伯爵家の娘、父亡き後は、妾(わらわ)こそが伯爵家の当主たるべき者。ヘルクスハイマー伯爵家の誇りに賭けて、父の仇どもに膝は屈せぬ」 自分を突き動かしていた想いの激しさも、昨日のことのように思い出すことができる。 同時に、そうした怒りと矜持が、時として自らの生命を代償として要求されることを、グレーチェンは一〇歳にして十分に心得ていた。周囲から密かに眉を顰められつつも、読みふけっていた各種の書物。その中には、帝国宮廷を巡る様々な醜聞、暗闘、暗殺や拷問の歴史も含まれていた。 「拷問にかけるが良い、薬で妾(わらわ)から秘密を奪うが良い。そんなことは覚悟の上じゃ」 ジークフリードたちが、そうした手段を躊躇う理由のないことも分かっていた。それが、どれほどの苦痛を伴うのかは分からなかったが、恐ろしくなかったと言えば嘘になる。だが、実際にその時が来たとしても、泣き叫んで助命を請うたりはしなかっただろう。 彼らがそうした強制的な手段を採らず、あくまで彼女を説得しようという態度を続けたこと。最終的には彼女の同盟への亡命、それも父が帝国から持ち出した資産を没収することなく、亡命を黙認しようとの条件での取り引きを申し出てきたこと。いずれもが、彼女の予想を完全に裏切るものだった。 「あの時、妾(わらわ)から開錠コードさえ聞き出せれば、所詮は一〇歳の子供との口約束に過ぎない。あとは思うがままだ……そんな話も出たのではないのか?」 一度、ヴェンツェル・ハインリッヒにそう訊いたことがあった。あれは、確か同盟への亡命が認められ、ハイネセンに入った直後だったように思う。 もともと、これでよく情報部員が務まっているなと思うほど、感情がそのまま顔に出てしまうヴェンツェル・ハインリッヒである。この時も、一瞬蒼くなって言葉に詰まってしまい、グレーチェンは事実を見抜いてしまったのだ。 「……その顔色だと、そういう話も出たのだな?」 「――お話しにくいことですが、私が提案しました」 「そなたが……か、ヴェンツェル・ハインリッヒ?」 「ええ。開錠コードを手に入れたら、あなたを帝国に連れ帰って司直の手に委ね、しかるべき後見人を立ててはどうか、と」 悪気があったわけではありません。なんだか必死に弁解しているヴェンツェル・ハインリッヒが気の毒になり、グレーチェンはそれ以上の追求を止めてしまった。 「責めるつもりはないのだぞ、ヴェンツェル・ハインリッヒ。そなたの判断の方が普通だろう。子供一人、同盟へ放り出そうなどと言うよりは……な」 あなたを連れ帰るのは、あなたをみすみす暗殺させるようなものだ……ジークフリード・キルヒアイスがそう反対したのだ――聞かされ、グレーチェンは目を丸くすると同時に、あの赤毛の少年を信用した自分の直感の正しさを思った。 ジークフリードとラインハルト・フォン・ミューゼル、そしてヴェンツェル・ハインリッヒ・フォン・ベンドリング。いずれの三人も信を置けるとは思った。ただ、ジークフリードには、その行動に裏表のない、彼女を案じる真摯さを感じたのは事実だった。 ゆえに、ジークフリードに後見人として来て欲しかった。決してヴェンツェル・ハインリッヒを信用しなかったわけではない。『ジークフリードより、気は利かなさそうじゃ』……あとから思えば随分無礼なことを言った記憶があるが、嘘を言ったつもりもない。能力はともあれ、彼女への気遣いの真摯さでヴェンツェル・ハインリッヒがジークフリードに劣るとは思わなかった。 「私の親友(とも)です、かけがえのない」 ジークフリードはお前にとって何者なのか、そう問うた時、ラインハルトはそう答えた。その答えを聞いた時、グレーチェンは自分がジークフリードにとって、ラインハルト以上のかけがえのない存在とはなれないことを察したのだ。 そうして、同盟へ亡命して七年。自分はこうして、同盟へ足を踏み入れた、最初の宙域のすぐ傍へ戻ってきている。 同盟というところは身分の違いはなく、対等な友人を持てるところだ――それゆえに、ヴェンツェル・ハインリッヒには友人となってくれるかと問うた。そして、彼は彼女にとってかけがえのない存在となってくれた。いつまで経っても、自分が彼にばかり負担をかけているような気がしないでもないが…… ヴェンツェル・ハインリッヒだけではない。同盟は、最初に聞いていたほど、身分のない、自由な国ではなかった。グレーチェンの知性と直感は、間違いなく同盟国内に漂う沈滞と閉塞、そして腐敗の臭気を感じ取っている。とは言え、友人を得られる国であることに違いはなかった。士官学校の級友、同期の航法部門首席だったシャルロッタ・ゼーダーシュトレーム……ロッティ・セーデル……や、直ちに友人と呼んで良いのかどうか留保は付くが、同じJL二七に共に赴任してきたジェフリー・ブラントン。その他、ハイネセンの赤鼻亭の主人や、そのウェイターたち……など、多くはないにしても、とにかく友人と呼べる人々との巡り会いを得られたのも事実だ。 そして、帝国とは一衣帯水と言っていい辺境宙域に新任の少尉候補生として着任した今、自分の胸の中には、まだあの赤毛の少年への想いが、なお消しがたく灯り続けているのをグレーチェンは感じている。あの時、後見人として我が身の傍らに得られなかったがゆえに、なお、その想いは強くなる一方だった。 「ジークフリード……」 そっと口に出して呼んでみる。会いたい。もう一度会って、今度はゆっくりと話をしたい。一〇歳の子供と、すでに一人前の帝国軍士官としてではなく、自分もとにかくも一定の立場を得た大人として、ジークフリード・キルヒアイスと会いたいのだ。 とは言え、たとえば基地の巡航艦を強奪して帝国へ再亡命するとか、万一の帝国軍との交戦時にいきなり白旗を掲げて降伏するとか、そんな手段を採って帝国へ戻るつもりはない。帝国との戦いの場に出れば、今持てる力の全てを振り絞って、戦いに勝とうとする。ヴェンツェル・ハインリッヒを初めとして、自分にとって最も大事な人々の住むのは自由惑星同盟。それが彼女の、今の祖国だったのだから。 この先、どうやってジークフリード・キルヒアイスと再会しようというのか。具体的なプランなど、今のグレーチェンには何もない。つまらない辺境紛争や国境紛争……フェザーン回廊宙域ではまずあり得ないが……に生き残り、あるいは将来、イゼルローン回廊方面に異動することがあったとして、帝国軍との直接の戦いにも生き延びて、同盟軍士官として階梯を上って行けたとして、その先、ジークフリード・キルヒアイスと再会し得る機会が得られるのかどうか。グレーチェンには確信はなかった。ただ、ジークフリードへの想いを捨てるつもりはなかった。少なくとも、今は。 「帝国との和平の可能性だって?」 ブラントンとの会話の中で、その話題が出たのは一度だけだった。もし、近い将来にジークフリード・キルヒアイスとの再会の機会を得られるとすれば、同盟と帝国の間に何らかの和平状態が成立し、相互に人の行き来が可能になること。ブラントンに向かっては、ジークフリード・キルヒアイス云々のことは言葉にはしないで、ただ、『帝国と和平状態が成立するとしたら、どんな形が考えられるか』と言っただけである。 巡航艦『レディング』での練習航海のさなか。少尉候補生は眠る暇も、食事をする時間も、ひどくなると洗面所に行くチャンスすらないほどに追い使われまくる。私語を交わす機会は、それこそ宝石のように稀少だった。 このくそ忙しい時に何を考えている……普通ならそう反応するところだが、グレーチェンに言わせれば『なんて生真面目なやつ』であるブラントンの応答は違っていた。 「現実にあるかどうかは別にして、同盟が帝国を降伏させる。その逆。この二つはまずあり得ない」 「なぜ?」 「前者は現在の同盟の国力・軍事力からは不可能だ。俺たちが生きている間には、まず無理だ」 これはグレーチェンも同意だった。やっとのことで四個制式艦隊を保持しているに過ぎない今の同盟が、八個艦隊を投入しても大失敗した帝国領侵攻作戦を再興し、帝国を降伏させることなどあり得ない。 「後者は、まだここ五年ほどは帝国軍も再建ができないと予想されるから、帝国軍が大規模な軍事作戦で攻勢をかけてくるとは思われない」 「プラス、たとえ攻勢をかけてきてもイゼルローン回廊は抜けない。イゼルローン要塞と、そこにヤン・ウェンリー大将がいる限りは」 内乱で大きな傷を負った帝国軍は、現在、軍備を再建中だが、帝国の最高権力を握ったローエングラム公爵は、帝国臣民の人気取りを優先している。軍事力整備の優先事項は下げられ、旧貴族の弾圧と民政の充実が優先されているために、帝国軍が内乱前の実力を取り戻すのは早くとも五年後以降になる。これが同盟軍統帥本部、および国防委員会が出した公式見解である。 グレーチェン自身、帝国の軍事力に関する結論には首をかしげる部分が少なくないのだが、一介の士官候補生が、同盟軍の情報収集能力に疑義を呈せるだけの根拠の持ち合わせがあるわけでもない。 ただ、別れ際、ヴェンツェル・ハインリッヒは彼女に告げたのだ。今のまま、同盟が帝国と対峠し得る期間は長くてあと二年だろうと。その数字の方が、ラインハルトやジークフリード・キルヒアイスの能力に対する、グレーチェンの評価とは一致する。 「あと、あり得るのは……」 時間を気にしつつも、グレーチェンは暖めていた考えを示して見せた。帝国軍がイゼルローン回廊に大攻勢を企て、これをヤン艦隊と同盟軍が撃破。損害に驚いた帝国が一時的な戦闘の凍結を求めてくる……あり得そうで、ローエングラム公爵の為人に鑑みればあり得ない。あり得るとすれば、互いに人類社会の一部を支配する国家として正式に認め合う条件の下での軍事行動の凍結交渉ではないか。 「馬鹿な――!」 しかし、それがブラントンの身も蓋もない反応だった。 「一六〇年だぞ、ミズ・ヘルクスハイム。一六〇年、帝国は我が同盟の抹殺を謳って来た。奴らの皇帝が『人類社会を統べる唯一の最高権力者』だと言ってだ」 「同盟は、かつての銀河連邦を纂奪したまがい物国家など国家として認められないとして、帝国の存在を認めていない」 「そうだ。それをいきなり、互いの存在を認めて外交関係を立てようなどと言い出す奴が帝国にいるとは思われない。それに、そんな申し入れをされても、吾々も簡単に受け入れられるとは思えない」 同盟もまた、一六〇年にわたって帝国を敵だとして国民を教育し、軍備を整え、実際に戦ってきた。毎年何百万者戦死者を出し、同盟市民は過去数十年にさかのぼれば、家族・親族の誰かを戦場で失っている。おいそれと、帝国との和平交渉などに応じる空気が生まれ出てくるとはとても思われない。 「では、ミスター・ブラントン。こういうのはどうだ。帝国はイゼルローン回廊への軍事行動を停止し、イゼルローン回廊の同盟側出口宙域にある有人惑星と、個別に和平と通商のための交渉を持つ用意があるという申し入れをしてくる場合だ。エル・ファシルやシヴァ、ドーリアなど、ハイネセンよりもイゼルローン回廊が近いのだ。帝国との直接通商ができるとなれば、フェザーンよりも有利な立場になるし、イゼルローン回廊方面からの帝国軍の侵攻もなくなれば、バーラト宙域よりも有利な立場になる……そう判断する政治家がいないとは限らないだろう」 確かに盲点を突いていたのかも知れない。ブラントンは一瞬絶句し、それから顔に血の気を上らせて大きく首を左右に動かしたのだ。 「可能性を論じるのは自由だが、今の吾々の立場でそんな可能性を議論するのは危険すぎるぞ、ミズ・ヘルクスハイム。それに、その可能性が成立するとすれば、イゼルローン要塞のヤン司令官が何らかの形で、帝国軍と辺境宙域政府との直接交渉を認めたということになる。ヤン司令官に限って、そんな国家に対する反逆行為を働くはずはないし、そんな前提での議論をするなど、ヤン提督に対して礼を失しすぎる」 その議論はそこまでだった。ブラントンはそれ以上の議論をする意思を示さなかったし、何しろほんの僅かの就寝時間の直前だった。グレーチェンも、これ以上、仮定の議論を重ねて、極度の睡眠不足を僅かでも解消する機会を逃すつもりはなかったのだ。 そうだとしても……グレーチェンは再び、帝国との和平の可能性に思いを巡らしてみる。自分が生きてジークフリード・キルヒアイスと再会できるとすれば、帝国との間に何らかの平和状態が成立した場合に限るだろう。ブラントンに向けて問うてみたような働きかけが、本当に帝国からあり得るかどうかは分からない。しかし、ローエングラム公爵の傍らに立っているのがあのジークフリード・キルヒアイスであり、今もなお、ラインハルト・フォン・ローエングラムがジークフリードを『かけがえのない親友(とも)』と考えているとするならば――あのジークフリードが、あくまで同盟を軍事的に降伏させる、かつてのゴールデンバウムの皇帝たちの踏んできた轍をそのまま辿るようなことを、彼の親友にさせ続けるだろうか。 ふと思い出して、グレーチェンはもう一度端末に向かう。『レディング』では、彼女の唯一の家族にメール一本送る暇もなかったのだ。 『ヴェンツェル・ハインリッヒ、赴任地に着いた。そなたが案じてくれた通りに前途多難だが、何とかやっていけると思う。いや、やっていかなければならないと自分に言い聞かせているところだ……』 ヴェンツェル・ハインリッヒへのメールを書き終えると、急速に睡魔が全身を捉え始めるのを感じた。既に規定の就寝時間を大きく回っている。明日も早い。さらにはあの司令官を相手にこれから先、何年も耐えなければならないのだ。休息をとれる時にはできるだけ取っておくのが新任少尉候補生としての心得であるべきだろう。 固いベッドに身を横たえると、あっという間に眠り(ヒュ)の(プ)神(ノス)が全身を攫っていく。 夢を見た。 背の高い、赤毛の若者が笑っている。なぜか、ニュースや新聞で見知っている、今のキルヒアイス上級大将ではなく、七年前の、まだ一六歳だった少年中尉の姿のままだった。そして、その隣で硬い表情で敬礼しているのは、やはり七年前、彼女に『友人(とも)となってくれようや?』と問われ、深々と跪礼したヴェンツェル・ハインリッヒの姿だった。 宇宙暦七九九年二月一五日、グレーチェン・ヘルクスハイム少尉候補生、JL二七へ着任。まもなく襲い来る、恐るべき時代の波濤を前にした中での多難な門出だった ★☆★ 帝国暦四九一年、宇宙暦八〇〇年。いわゆる宇宙世紀七世紀最後の年という節目の時点で過去を俯瞰する時、人類社会が再び一つの政体に統合されるべき機会がそれまでに二度あったと言われる。 宇宙暦六四〇年七月に戦われたダゴン宙域会戦で、帝国軍は遠征兵力のほぼ全てを失って敗退した。この大敗北の余波が遠く帝都オーディンの新無憂宮を揺り動かし、いわゆる『暗赤色の六年間』と呼ばれる凄絶な宮廷陰謀の時代を招いたことはよく知られている。 ダゴンでの帝国軍大敗と、それに引き続く『暗赤色の六年間』は、同時に帝国全域での治安の崩壊を招き、膨大な人口が帝国から同盟へ流れ込むきっかけを作った。自由惑星同盟が量的に飛躍的な拡大を遂げると同時に、これまで帝国が独占してきた数々の人類社会の遺産に対して、同盟が人類の末裔としての継承を果たすきっかけともなったのである。遺産の中には、たとえば地球時代の美術品や歴史的文献のほか、家禽の類から果ては犬や猫と言った愛玩用動物までが含まれていた。 マクシミリアン・ヨーゼフ二世が即位し、ミュンツアー司法尚書とジークリンデ皇后の補佐の下、帝国を再建していなければ、あるいはゴールデンバウム朝銀河帝国はこの時点で崩壊に瀕していたかも知れなかった。皮肉な味方をするならば、マクシミリアン・ヨーゼフ二世は、その後一六〇年にわたって続き、数億以上もの死者を算することになる帝国と同盟の戦いの幕を開くことになった張本人の一人と糾弾されるべきなのかも知れない。 この時、自由惑星同盟軍が大挙して帝国領へ侵攻していれば、マクシミリアン・ヨーゼフ二世が帝国を立て直す余裕もなく、同盟は銀河連邦の簒奪者、彼らの父祖の仇敵に城下の誓いを強いることも叶ったかも知れない。そんな、歴史上のifを提示する史家や歴史作家も皆無ではない。無論、机上の空論という以上の評価を受けることはなかったが。 ダゴン宙域の戦いは、まだ数的な膨張の段階に達し得ていなかった同盟の国力にとって、すでにその限界に対する試練だった。この時点で、リン・パオやトパロゥルを初めとする軍事的才能が同盟軍を指揮していたとしても、帝国への遠征など痴人の夢という以上の意味を持たなかっただろう。 その後、大勝に驕った自由惑星同盟は、リン・パオらダゴンの立役者たちを軍の中枢から逐い、さらには帝国の情勢に対する情報収集を怠った。さらにはグエン・キム・ホアの唱えた『距離の防壁』を金科玉条のごとく墨守するの余り、帝国との境界宙域、イゼルローンとフェザーンの両回廊宙域の防禦の強化をすら等閑視する愚を重ねてしまう。 コルネリアス一世の大親政は、まさにこうした同盟の油断を見澄ましてのことであり、帝国軍の鋭鋒は今一歩のところで、バーラトを中心とする同盟の中枢領域にまで達しかけたのである。帝都でのクーデター勃発と、それに引き続いた門閥貴族の叛乱の連鎖がなければ、崩壊するのは同盟の番であったかも知れないのだ。 この二度の機会が去って後、体制を立て直した帝国、帝国からの膨大な亡命人口を受け入れて量的に跳躍した同盟。両国は文字通りに人類社会を二分しての、終わりのないかに見える戦いに身を投じていくのである。 途中、同盟軍の七三〇年マフィアの出現によって、同盟が一方的とも言える戦術的優勢を確保した時代や、帝国が要塞によってイゼルローン回廊の制圧に成功し、戦略的な優勢を手にした時代、そのイゼルローン要塞陥落で同盟が再び優位に立つかと思われた時期などが訪れる。しかし、それらはいずれも、ダゴンや大親政に匹敵するだけの、決定的な歴史の転機……潜在的な意味での……とはなり得なかった。帝国と同盟は、なおも延々と、何の展望も転機の兆しも見られない、不毛な戦いを続けていくかに見えていた。 ――が、確実に時代は動き始めていた。それも急速な勢いで。深い澱みの中で、ひたすらに停滞しているものと思われた時の流れは、突如としてその流れを速め、人類社会全体を飲み込む濁流に一変しようとしていた。 波打ち始めた歴史の、最初の飛沫の一滴は、噂、あるいは情報のリークという形で同盟に達している。 「帝国が移動式宇宙要塞の開発に成功したらしい」 最初にその情報を捉えたのは、例によってヤン艦隊が帝国領域方面に派遣していた情報収集部隊である。